薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す7 その1

 この「旧司法試験・二次試験・論文式試験憲法第1問の見直し」シリーズ、現時点で6問目の検討が完了していない。

 しかし、6問目の検討も最終回を残すのみであることから、次の問題をみていくことにする。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 具体的にみるのは、平成14年の憲法第1問である

 この過去問のテーマは「知る権利」である。

 

1 旧司法試験・論文試験・憲法・平成14年第1問

 まず、問題文を確認する。

 なお、過去問は法務省のサイト、具体的には、次のリンク先にあるものをお借りしている。

 

www.moj.go.jp

 

 問題文と出題趣旨は以下のとおりである。

 

(以下、平成14年度の司法試験・二次試験・論述式試験・憲法第1問の問題文)

 A市の市民であるBは,A市立図書館で雑誌を借り出そうとした。

 ところが,図書館長Cは 「閲覧用の雑誌,新聞等の定期刊行物について,少年法第61条に違反すると判断したとき,図書館長は,閲覧禁止にすることができる。」と定めるA市の図書館運営規則に基づき,同雑誌の閲覧を認めなかった。

 これに対し,Bは,その措置が憲法に違反するとして提訴した。

 この事例に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(問題文終了)

 

(以下、平成14年度の司法試験・二次試験・論述式試験・憲法第1問の出題趣旨)

 本問は,市民が,公立図書館において,その所蔵する雑誌を閲覧する権利は,憲法上保障されているか,保障されるとして,それを憲法上どのように位置付けるか,また,その市民の権利を制約することが正当化される事情はどのようなものかを問うとともに設例の状況において,具体的にどのような方法によって解決が図られるべきかを問うものである。

(出題趣旨終了)

 

 まず、関連条文と関連すると考えられる最高裁判所判例を確認する。

 

憲法21条1項

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

憲法12条後段

 国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

憲法13条後段

 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

平成16年(受)930号損害賠償請求事件

平成17年7月14日最高裁判所第一小法廷判決

(いわゆる「船橋市立図書館事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/410/052410_hanrei.pdf

 

昭和52年(オ)927号損害賠償請求事件

昭和58年6月22日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「よど号ハイジャック新聞記事抹消事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/137/052137_hanrei.pdf

 

 昭和57号(行ツ)156号輸入禁制品該当通知処分等取消

 昭和59年12月12日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「札幌税関検査事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/690/052690_hanrei.pdf

 

 この点、船橋市立図書館事件については最高裁判所が市立図書館の性格について詳細に述べているので取り上げることにした。

 また、高等裁判所の判決まで考慮すれば取り上げるべき判例は複数あるのだが、ネット上からはアクセスできないようなので、割愛する。

 

 

 本問は出題趣旨を見ることで何を検討すべきかについて具体的にわかる。

 具体的に列挙すると次の通りになる。

 

1、市民が公立図書館においてその所蔵する雑誌を閲覧する権利は憲法上保障されているか

2、保障される場合、それを憲法上どのように位置付けるか

3、その市民の権利を制約することが正当化される事情はどのようなものか

4、設例の状況において,具体的にどのような方法によって解決が図られるべきか

 

 以下、憲法上の権利が制限された場合の処理手順に従い、あるいは、出題趣旨に従い、本問についてみていくことにする。

 

2 「知る権利」と憲法上の権利

 本問で制限されている自由は「公立図書館の所蔵する雑誌の閲覧の自由」である。

 この行為を抽象化すると「情報を受領する自由」になり、憲法上の用語に変換すると「知る権利」になる。

 

 この点、憲法の条文には「知る権利」について記されていない。

 そこで、「知る権利」が憲法上の保護を受けうるのか、ということが問題となる。

 もちろん、最高裁判所は「知る権利」に属する「閲読の自由」や「知る自由」を憲法上の権利として認めている。

 このことは次の判決からも明らかである。

 

(以下、「よど号ハイジャック新聞記事抹消事件」判決から引用)

えられる。

 およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである。

 それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法一九条の規定や、表現の自由を保障した憲法二一条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法一三条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる。

(引用終了)

 

(以下、「札幌税関検査事件」判決から引用)

 また、表現の自由の保障は、他面において、これを受ける者の側の知る自由の保障をも伴うものと解すべきところ、

(引用終了)

 

 とはいえ、「最高裁が認めたから」は理由にならない。

 そこで、「知る権利」の憲法上の実質的根拠が問題となる

 

 この点、憲法21条1項は「表現の自由」、つまり、発表の自由のみを保障しているように見える。

 しかし、現代社会ではマス・メディアが情報発信者としての地位を独占するようになった結果、国民は情報の受信者としての地位が固定化されてしまった。

 また、現代において情報の価値は飛躍に高まっている。

 そこで、表現の自由」を受け手の地位から再構成することにより、知る権利も憲法21条1項によって保障されるべきものと考える。

 

 

 以上により、「知る権利」自体が憲法上保障されうることを確認した。

 ただ、「知る権利」と「公立図書館の所蔵する雑誌を閲覧する自由」とは距離があるようにみえる。

 そこで、「知る権利」には「公立図書館の所蔵する雑誌を閲覧する自由」が含まれるのかを具体的に確認しておく必要がある。

 

 この点、表現の自由によって保障される「知る権利」は自由権であることから、「個人が情報を受領することを妨げられない権利」が含まれるのは当然である。

 そして、自由権は請求権的性格を有するわけではないことが原則であることを考慮すると、「知る権利」に「公立図書館の所蔵している情報・資料を閲覧できるよう要求する権利」のような請求権的な性格までは含まれないとも考えられる。

 しかし、現代社会においては国家・地方自治体が大量の情報を持っていることを考慮すれば、知る権利を実質化すべく、自治体などの情報の閲覧を求める自由をも保障していると考えるべきである。

 よって、「公立図書館の所蔵する雑誌を閲覧する自由」も「知る権利」の一内容として保障されているものと考える。

 

 

 ・・・少し細かめに検討した。

 本番でどこまで書くかはさておき、「憲法上の権利として保障されること」の認定はある程度具体的かつ詳細に認定した方がいいように思われる。

 ことはそれほど単純な話ではないので。

 

 以上、Bの自由が憲法上の権利として保障されうる点を確認した。

 もちろん、かかる自由は絶対無制限なものではなく、「公共の福祉」(憲法12条後段・13条後段)による制約を受けることは当然である。

 では、本問の図書館長Cの行為が「公共の福祉」による制約と言いうるか、という検討に移るわけだが、ここからは次回に。

司法試験の過去問を見直す6 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成18年度の憲法第1問についてみる。

 なお、前回までで問題に関する検討はひと段落した。

 今回は「答案を作る」という観点から離れて問題について考えてみる。

 そして、次回、本問を前提に考えたことをみていく。

 

5 違憲審査基準再考

 前々回、違憲審査基準を定立する際、「放送」の特殊性を考慮しなかった。

 ただ、出題趣旨を見ると、司法試験委員会は「放送」の特殊性に配慮した上で違憲審査基準を立てることを想定していたようである。

 では、「放送」の特殊性を違憲審査基準に反映させるとどうなるだろうか。

 

 前々回、違憲審査基準の定立に考慮した要素は次の3点であった。

 

1、「表現の自由に対する規制」

→「(民主制の過程での自己回復が困難である関係で)裁判所が国会の判断を尊重する必要がない」

2、「営利的言論に対する規制」

→「自己統治の価値が希薄であり、権利の重要性・要保護性がやや下がる」

3、「内容中立規制」

→「表現内容に介入する規制ではないため、制限の態様が弱い」

 

 ここに、「放送」の特殊性を加えると、次のようになる。

 

4、「(電波の希少性・お茶の間効果・放送の公共性という特徴のある)放送に対する規制」

→「特殊な人間のみが行使できる権利であって、公共性が強い」

→「権利の重要性・要保護性が低下する」

 

 つまり、「放送に対する規制」は「営利的言論に対する規制」同様、違憲審査基準を緩める方向に作用することになる。

 

 では、違憲審査基準を具体的に変えるべきであろうか

 この点、4以外の3つの要素を考慮した場合の違憲審査基準はいわゆる「厳格な合理性の基準」であった。

 ならば、これに4を加えた場合、権利の重要性がより低下することを考慮して、違憲審査基準をさらに緩くする方向で変化させる必要があるとも言える。

 というのも、違憲審査基準が変化しないならば4の要素を追加した意味がないから。

 この場合、採用する違憲審査基準は猿払事件の「合理的関連性の基準」まで緩めることになる。

 

 一方、権利の要保護性・重要性を下げる要素の「個数」と違憲審査基準に対する緩和の「程度」が比例・線形の関係なければならない、ということはない。

 そのため、要素が1個から2個に増えたことで、直ちに違憲審査基準を緩めなければならないことはない、と言うこともできる。

 

 この辺は正直よくわからないし、また、どちらでもいい気がする。

「司法試験で求められていることは判断要素の列挙までで足り、判断要素と違憲審査の密度の定量的関係まで示す必要はない」ということはできるので。

 

6 猿払事件の「合理的関連性の基準」によるあてはめ

 では、違憲審査基準を緩めて合理的関連性の基準に変更した場合、本件法律あてはめはどうなるだろうか。

 合理的関連性の基準の場合、①目的が正当(重要でなくてもよい)であり、②手段が目的との間で合理的(抽象的・形式的・観念的)関連性があり(実質的関連性は不要)、かつ、③得られる利益と失われる利益の均衡が失していなければいい、と考える。

 

 そして、前回のあてはめで「目的が重要性である」と言えたので、①目的が正当であることは明白である。

 よって、この要件は充足している。

 

 では、②規制手段の合理的関連性があると言えるだろうか

 ここで、立法目的と規制手段との間の「合理的関連性」を否定した事件に森林法違憲判決がある。

 

 昭和59年(オ)805号・共有物分割等事件

 昭和62年4月22日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる森林法違憲判決)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/203/055203_hanrei.pdf

 

 この判決における規制手段の合理的関連性の有無を検討している部分を見てみる。

 

(以下、上記判決から引用、セッション番号は省略、強調は私の手による)

  森林が共有となることによつて、当然に、その共有者間に森林経営のための目的的団体が形成されることになるわけではなく、また、共有者が当該森林の経営につき相互に協力すべき権利義務を負うに至るものではないから、森林が共有であることと森林の共同経営とは直接関連するものとはいえない。したがつて、共有森林の共有者間の権利義務についての規制は、森林経営の安定を直接的目的とする前示の森林法一八六条の立法目的と関連性が全くないとはいえないまでも、合理的関連性があるとはいえない。

 森林法は、共有森林の保存、管理又は変更について、持分価額二分の一以下の共有者からの分割請求を許さないとの限度で民法第三章第三節共有の規定の適用を排除しているが、そのほかは右共有の規定に従うものとしていることが明らかであるところ、共有者間、ことに持分の価額が相等しい二名の共有者間において、共有物の管理又は変更等をめぐつて意見の対立、紛争が生ずるに至つたときは、各共有者は、共有森林につき、同法二五二条但し書に基づき保存行為をなしうるにとどまり、管理又は変更の行為を適法にすることができないこととなり、ひいては当該森林の荒廃という事態を招来することとなる。同法二五六条一項は、かかる事態を解決するために設けられた規定であることは前示のとおりであるが、森林法一八六条が共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に民法の右規定の適用を排除した結果は、右のような事態の永続化を招くだけであつて、当該森林の経営の安定化に資することにはならず、森林法一八六条の立法目的と同条が共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に分割請求権を否定したこととの間に合理的関連性のないことは、これを見ても明らかであるというべきである。

(引用終了)

 

 なお、これまで何度も引用している猿払事件最高裁判決の合理的関連性に関する言及部分も確認しておく。

 

昭和44年(あ)1501号国家公務員法違反被告事件

昭和49年11月6日最高裁判所大法廷判決(いわゆる「猿払事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/800/051800_hanrei.pdf

 

(以下、いわゆる猿払事件最高裁判決から引用)

 右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。

(引用終了)

 

 森林法違憲判決を見ると、規制目的と直接関連しない規制手段は合理的関連性がないと述べている。

 これに対して、猿払事件判決を見ると、直接関連しない手段に限定されていなくても合理的関連性が失われない(ある)と述べている。

 最高裁判所大法廷判決という重要な文章でこんなニュアンスの違いがあるとは・・・。

 

 この点、これを正当化する説明はある。

 つまり、森林法違憲判決で制限されているのは財産権であり、財産権の場合は目的との直接関連しない手段を規制することは合理的関連性がないが、猿払事件で制限されているのは表現の自由であり、表現の自由について目的と直接関連しない手段を規制しても合理的関連性がある、と考えればすっきりいく。

 もっとも、この説明によれば「財産権の制限を表現の自由に対する制限よりも厳格に判断する」ことを意味するので、「それでいいのか?」ということになるのかもしれないが。

 ただ、当時の最高裁判所のスタンスはそうだったのではないか、とは言えるけど。

 

 

 では、この森林法違憲判決に用いられた「合理的関連性」を用いてあてはめをしたらどうなるだろうか

「広告放送の割合が増えることで番組の時間が減ること」が必ずしも「放送の質・多様性を確保することにつながらない」ことは前回のあてはめなどで示した。

 とすれば、「直接関連しない」ということになる。

 よって、この場合は「合理的関連性がない」ということになりそうである。

 まあ、財産権に対する規制の合理的関連性と表現の自由に対する規制の合理的関連性を同一視していいのか、という問題はあるとしても。

 

 では、猿払事件判決で用いた「合理的関連性」を用いるとどうなるか。

 この場合、「19時から23時までの広告放送を1時間あたり5分以上とすることで放送の質と多様性を損なうおそれがある」と言うことができれば、合理的関連性が認められることになる。

 どうなのだろう。

 正直、「関係なくね?」という気がするが。

 

 この点、猿払事件のケースでは、「勤務外の公務員の政治活動」と「行政の政治的中立性に対する国民の信頼」はある種ストレートな関係がある。

 もちろん、行政の政治的中立性それ自体とはストレートに関連しないかもしれないし、また、勤務外の活動である以上、信頼を損なう具体的な危険がないと言いうるとしても。

 これに対して、放送時間と放送の質・多様性は猿払事件のケースほど直接的な関連性がない

 ならば、猿払事件の基準で考えた場合も②合理的関連性がないということができるのかもしれない。

 

 この辺はよくわからない。

 言葉の定義の揺らぎ(妥当性の範囲)を見るならば、どちらの結論を採用してもいい気がする。

 

 

 なお、③利益の均衡については前回述べた損害の大きさ、規制手段の関連性の弱さ、違反に対する制裁の強さなどを考慮すれば、否定することができるだろう

 とすれば、猿払事件の合理的関連性の基準を用いても違憲の結論は出せそうである。

 つまり、最高裁判所の宣言した合理的関連性の基準に固執したからといって結論がひっくり返るわけではないようだ。

 

 

 以上、色々と突っ込んで考えてみた。

 次回は「問題を解くこと」から離れて考えたことについてみていく。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 22

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

19 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第1節を読む」(完結編)

 前回までで、イスラム教社会がキリスト教社会を圧倒してきた約1000年間の歴史についてみてきた。

 つまり、イスラム教社会の黄金時代についてみてきたことになる。

 もっとも、ここから話の向きは変わる。

 

 

 まず、本書では話の向きを変えるため、「ある歴史的シミュレーションをすること」から話が始まる。

 つまり、「8世紀にイベリア半島を征服したイスラム帝国ゲルマン人が跋扈していたヨーロッパを征していたらどうなるか」を考えてみる。

 

 なお、歴史に対して科学的な分析・考察をするのであれば、実験、つまり、シミュレーションという作業は必須である

 もし、歴史に対してシミュレーションを許さないのであれば、歴史から科学的考察を引き出すことは不可能である。

 このような発言をする輩は、「『科学とは何か』について無知である」、または、「歴史に対する科学的考察・分析を妨害する目的がある」と判断しても大きな間違いはないだろう。

 

 

 この点、イスラム教社会がヨーロッパ社会に併呑される可能性は大きく見て2回あった。

 1つがオスマン帝国によるウィーン攻略。

 そして、もう1つが八世紀である。

 

 この点、イスラム教団(イスラム帝国)は発足直後に大きく膨張した。

 つまり、ビザンティン帝国をエジプトやシリアから追い出した。

 また、ササン朝ペルシャ帝国を滅ぼして、ペルシャメソポタミアを手に入れた。

 さらに、地中海沿岸に沿って北アフリカを制圧し、ジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島を征服した。

 そして、イベリア半島を制したイスラム帝国ピレネー山脈を越え、現在のフランスに雪崩れ込んだ。

 しかし、当時のフランク王国の宰相だったカール・マルテルカール大帝の祖父)がこのイスラム帝国の軍団をトゥール・ポワティエで迎撃、イスラム軍の主将を討ち取る。

 この戦いにより、また、この直後の750年にアッバース革命が起こったことなどからヨーロッパはイスラム帝国からの侵攻を抑えることになる。

 

 では、ここでイスラム帝国がヨーロッパ地方にこだわったらどうなるか

 つまり、アッバース朝ウマイヤ朝の一族を根絶やしにすべく、イベリア半島に興ったコルドバウマイヤ朝を滅ぼし、その勢いでヨーロッパに雪崩れ込んで占領していたらどうなったか。

 あるいは、そもそもトゥール・ポワティエでイスラム帝国軍がフランク王国軍を破っていたらどうなるか。

 以下、イスラム帝国がヨーロッパを占領した場合についてシミュレーションしていく。

 

 

 まず、ローマのカトリック教会はなんとか存続できたであろう、という。

 この点はコプト教会が存続できたこと、また、コンスタンティノープル陥落後も正教会が存続できたことからも想像できる。

 

 もっとも、アラブ人のイスラム教社会には高度な技術・文明があり、それがヨーロッパに流入する結果、ヨーロッパ人はアッラーを拝むようになっていたとは考えられる

 特に重要なのが、農業技術、特に、灌漑技術と中近東と中国の農作物の種子である。

 これらがヨーロッパに流入する結果、ヨーロッパでも多種多様な農業が栄える。

 その結果、ヨーロッパ人がたらふく食えるようになれば、キリスト教徒もイスラム教に宗旨替えするであろう、というわけである。

 

 また、都市も発展すると考えられる。

 この点、ローマ帝国の崩壊でヨーロッパの都市は衰退していた。

 しかし、ヨーロッパに交易が得意なアラビア人が流入すれば、都市は復興、様々な文化が花開いたであろう、という。

 

 つまり、8世紀にイスラム帝国がヨーロッパを席巻してたら、ヨーロッパには「中世の暗黒時代」はなかっただろう、ということになる。

 ここまで見れば、いいことづくめに見える。

 

 しかし、本書では、こう続ける。

 この場合、得られなかったものが二つある、と。

 一つが現代に発展した(高度な)近代科学、もう一つが近代資本主義と近代民主主義である、と

 そして、この二つを手に入れたヨーロッパは18世紀ころからイスラム教社会に対して大規模な反撃を始めることになる。

 

 

 前回述べたとおり、1683年のオスマン帝国によるウィーン攻略の失敗により、オスマン帝国の圧倒的優勢は崩れ始めた。

 そして、18世紀にはこの傾向が加速し、19世紀になると完全に攻守が入れ替わることになる。

 つまり、19世紀にはヨーロッパの列強はイスラム社会に侵食し始めることになる

 北アフリカはヨーロッパの列強の植民地になり、インドのムガル帝国はイギリスの植民地となる。

 また、オランダはインドネシアを植民地にした。

 

 もちろん、オスマン帝国をはじめとするイスラム教社会は反撃を試みたが、うまくいかなかった。

 例えば、オスマン帝国バルカン半島を失い、その勢力を縮小させていくことになる。

 また、ロシア帝国もトルコの領土を奪いつつ南下していった。

 最終的に、オスマン帝国第一次世界大戦でドイツ・オーストリア側で参戦し、敗戦とともに解体されることになる。

 

 この点、ヨーロッパ社会の反撃の秘訣は何か。

 本書に記載がないが、ヨーロッパ社会がいわゆる新大陸のアメリカその他で略奪の限りを尽くし、資本(具体的には「金」)を集めることができた、という点もあるだろう。

 元手がなければ何もできないから。

 しかし、極めて重要である点はヨーロッパが「近代の扉」を開いた点である。

 つまり、カルヴァン宗教改革以降、ヨーロッパでは近代資本主義・近代民主主義が生まれる。

 また、数学・物理学といった抽象的、かつ、高度な近代科学を産み出したのもヨーロッパである。

 近代科学を前提とした高度な技術、これらの技術は近代資本主義によって具体的な武器に転化し、また、大量生産されることになる。

 また、近代民主主義によって国民軍、つまり、常備軍が生まれる。

 このように武器を携帯したヨーロッパの常備軍がヨーロッパ社会とイスラム教社会のパワーバランスを完全にひっくり返した。

 つまり、1000年間にわたって培ったイスラム教社会の華やかな文化は近代ヨーロッパの技術(科学)と資本(資本主義と民主主義)によって吹き飛ばされることになる

 

 

 イスラム教徒にとってこの結果は信じがたいショックな出来事であったと思われる。

 そして、近代ヨーロッパの飛躍的発展からイスラム教社会でも「ヨーロッパに学べ」という機運が興ることになる。

 イスラム教社会から学んだヨーロッパのように。

 明治維新直後の日本のように。

 

 イスラム教社会でこの先駆けになったがトルコ共和国であり、その政策を推進したのが初代大統領のケマル・アタテュルクである。

 ケマル・アタテュルクの脳裏には日本の明治維新があったと考えられる。

 この点、日本は不平等条約を結ばされたものの、そこから100年も経過せぬうちに爆発的な発展を遂げ、不平等条約を解消して列強の仲間入りを果たした。

 東洋の一小国に過ぎない日本が近代システムの導入によって列強の仲間入りを果たせたならば、大国だったトルコも近代システムの導入により列強の仲間入りができるに違いない。

 中国の清王朝も同様のことを考えた(洋務運動・戊戌の変法・光緒新政など)のだから、トルコがそう思うのも無理もない。

 かくして、ケマル・アタテュルクは次々と近代化政策を打ち出すことになる。 

 具体的には、近代法体系の導入・イスラム教を国教とすることの中止・民族資本の保護・育成などである。

 

 

 この点、トルコの近代化は一定程度成功した。

 もっとも、トルコが列強の仲間入りができたかと言えば、歴史が示すとおりである

 もちろん、トルコは決して貧乏な国ではなく、食料が豊かな国である。

 しかし、資本主義になったかと言うと怪しい。

 また、NATOには入ったがイギリスやドイツと渡り合えているわけではない。

 

 もちろん、これはトルコに限った話ではない。

 例えば、サウジアラビアでは第二世界大戦前夜、巨大な油田が発見された。

 この油田による恩恵の多くが欧米の石油資本に渡ったとはいえ、それを差し引いてもかなりの量になった。

 とはいえ、サウジアラビア王国が近代化できたかと言われれば怪しいと言わざるを得ない。

 

 さらに、アラビア社会にはいわゆる「香港」や「台湾」のようなものがない

 例えば、「BRICs」に該当する国(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)を見ても、イスラム教社会に属する国家は入っていない。

 また、いわゆる「G20」(日本、アメリカ、カナダ、EU、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、オーストラリア、インド、メキシコ、ブラジル、サウジアラビア、トルコ、アルゼンチン、インドネシア南アフリカ、中国、ロシア、韓国)を見ても、イスラム教社会に属する国はサウジアラビアとトルコだけである。

 中南米についてはアルゼンチン・メキシコ・ブラジルが属しているし、アジアについても日本・韓国・中国・インドが名を連ねている。

 

 この点、アラビア商人と言えば世界的に大活躍していた

 ならば、資本主義を体得するのは簡単であるようにもみえる。

 しかし、その気配はない。

 

 というのも、イスラム教から見て近代との相性は極めて悪いからである

 その理由を次節で、、、というところで本節は終わる。

 

 

 以上が本セッションのお話。

 少し前の話だが、私自身が「世界の歴史を知りたい」と考えたとき、「高校の世界史ってイスラム教社会の歴史に対する言及が少ないなあ」と考え、図書館にあったイスラム教社会の歴史についての本を借りて読んだことがあった。

 

 

 この本の内容はほとんど覚えていない(5年以上昔に借りた本なのでそりゃそうだ)が、非常に役に立ったのを覚えている。

 その観点から見ると、「高校で学ぶ世界史って偏っているなあ」とは考える。

 もちろん、ある程度やむを得ない面があるとしても。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 21

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

21 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第1節を読む」(後編)

 前回と前々回で、イスラム教社会がユーラシア大陸に長い間大勢力を築いていたこと、その一大勢力を築いていた間にもたらした壮大な文化・学問・経済についてみてきた。

 そして、これらのイスラム教社会の文化と学問なくして、イタリアのルネッサンスもなければ、ヨーロッパの近代化もなかった、と。

 今回はイスラム教社会が持つ「十字軍コンプレックス」についてみていく。

 

 

 ここで、イスラム教誕生から十字軍までのイスラム教社会とキリスト教社会の状況を確認する。

 なお、以下の部分は本書の記載がない。

 

 前回、イスラム教社会がキリスト教社会を圧倒していたと書いた。

 とはいえ、その差が常に一定だった、というわけではない。

 

 この点、イスラム帝国正統カリフの時代からウマイヤ朝の時代にかけて、その領土を大きく拡大した。

 そして、750年のアッバース革命によりウマイヤ朝が崩壊して、アッバース朝になった。

 このアッバース朝の政権下でイスラム文化が大いに爛熟した点は前回見たとおりである。

 

 ただ、時が経るにつれて、アッバース朝も衰退する。

 まず、9世紀後半、多くの地方政権が成立し、アッバース朝のカリフの権威によって緩やかに統一されるといった状態になる。

 そして、10世紀にファーティマ朝が建国され、北アフリカで大勢力を築くことになる。

 このファーティマ朝の君主は「カリフ」を自称したため、アッバース朝から独立したようなものである。

 また、ペルシャ地方ではブワイフ朝が興る。

 こうして、イスラム教社会は分裂の時代に入った。

 そして、11世紀のころ、セルジューク朝がアラビア・ペルシャを制し、ファーティマ朝がエジプトやシリアを制しており、アッバース朝は権威だけを維持していた状態であった。

 ただ、十字軍前夜、セルジューク朝では内部分裂が起きていた。

 

 他方のヨーロッパ。

 8世紀に西ヨーロッパに大勢力を築いたカール大帝フランク王国カール大帝の死後に分裂して、混乱の時代を迎える。

 しかし、マジャール人と北方のバイキングのキリスト教化によって西ヨーロッパのカトリック教社会は安定の時代に入る。

 そして、そのころのいわゆる中世の温暖期の効果もあって、農業生産力が増加し、出生数も増加した。

 その結果、11世紀のキリスト社会のエネルギーはヨーロッパ社会の外側、つまり、これまで押されていたイスラム教社会に向けられることになる

 例えば、イベリア半島アッバース革命の後、コルトバのウマイヤ朝(いわゆる後ウマイヤ朝)が統治していたが、1031年にコルトバのウマイヤ朝が滅亡すると、ヨーロッパのキリスト教徒は反撃に転じることになる。

 このような過程で、キリスト教社会はイスラム教社会を侵略することによる経済的利益に注目するようになる

 

 そのような状況で、カトリック教会のクレルモン公会議ローマ教皇ウルバヌス二世がエルサレム奪還を呼び掛けたことで、十字軍が始まる。

 つまり、「ヨーロッパのキリスト教社会によるイスラム教社会への反撃の兆しは十字軍以前にあり、教皇の呼びかけで一気に燃え上がった」と言えばいいだろうか。

 

 

 以上は中立、いや、日本のような「余所者」から見た場合のものである。

 ここから本書の記載に戻る。

 

 前回までに見たように、イスラム教社会がヨーロッパ社会にもたらした恩恵は少なくない。

 その結果、イスラム教社会の人間たちが「ヨーロッパ社会にとってイスラム社会は『恩師』である」という意識を持つことは不思議ではない。

 また、「その『恩恵』に対するヨーロッパ人の返答が『聖地奪還のための十字軍』という『忘恩』の挙である」とも。

 

 この点、ヨーロッパ社会は混乱が収まって生産力が向上した、とはいえ、戦争ばっかりやっていた連中である。

 イスラム教社会から見た場合、ヨーロッパのキリスト教徒は戦争に強い野蛮人といったところであろうか。

 

 ユダヤ教キリスト教イスラム教にとっての聖地であるエルサレム

 このエルサレムは、イスラム帝国ができた直後にイスラム帝国東ローマ帝国から奪取し、その後、イスラム教社会が支配下に置いていた。

 もっとも、イスラム教の教義もあって、ユダヤ教徒キリスト教徒は迫害されていなかった。

 しかし、キリスト教徒の野蛮人たち(!)はこの聖地の奪還をもくろんだ。

 そして、1099年の第一次十字軍の折、キリスト教徒は聖地エルサレムイスラム教徒から奪い返す。

 さらに、このエルサレムの陥落のとき、エルサレムに住んでいたユダヤ教徒イスラム教徒は皆殺しの憂き目にあった。

 また、一説によると正教会の信者も同様の憂き目にあった、とか。

 その様は、「カナンにあるエリコの先住民が皆殺しになった」という旧約聖書の逸話と瓜二つといってもいいかもしれない。

 

 さすがに、このような挙に対して怒らない人間はいない。

 また、クルアーンとて一方的に挑まれた人間に対する戦争さえ否定するといった愚かな考えはない。

 

(以下、クルアーンの第2章190節~193節の日本語訳を掲載、節番号は省略し、節ごとに改行、引用元のリンクは次の通り)

 あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない。

 かれらに会えば、何処でもこれを殺しなさい。あなたがたを追放したところから、かれらを追放しなさい。本当に迫害は殺害より、もっと悪い。だが聖なるマスジドの近くでは、かれらが戦わない限り戦ってはならない。もし戦うならばこれを殺しなさい。これは不信心者ヘの応報である。

 だがかれらが(戦いを)止めたならば、本当にアッラーは、寛容にして慈悲深くあられる。

 迫害がなくなって、この教義がアッラーのため(最も有力なもの)になるまでかれらに対して戦え。だがもしかれらが(戦いを)止めたならば、悪を行う者以外に対し、敵意を持つべきではない。

(引用終了)

 

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 かくして、「十字軍」という侵略とエルサレムの虐殺を起点として、イスラム教徒たちはクルアーンの教えに従って行動することが求められることとなった。

 つまり、聖戦の完遂である

 

 

 現代におけるイスラム教徒のキリスト教徒に対するイメージはこの十字軍の経験が大きく影響しており、今なお中心的な地位を占めている。

 では、この「十字軍コンプレックス」というべきものはなんであろうか。

 その十字軍コンプレックスを見るために、十字軍の歴史を確認する。

 

 キリスト教徒による聖地奪還作戦は1096年の第1回十字軍に始まる。

 そして、1099年にキリスト教徒がエルサレムを奪還した。

 このときに、ユダヤ教徒イスラム教徒が大量虐殺の憂き目にあったことは前述の通り。

 

 もっとも、当時のセルジューク朝は分裂状態にあり、十字軍に対して直ちに有効な手が打てなかった。

 イスラム教社会が反撃に出るのは、エルサレムが陥落して数十年が経過してからである。

 これに対して、1147年、キリスト教社会は第2回十字軍を送り込むことになるが、この十字軍は「ローマ教皇が主導した十字軍のなかで最も成果のない十字軍」だったらしい。

 

 その後、イスラム教社会は着実に勢力を盛り返す。

 そして、アイユーブ朝サラディンは1187年に「ジハード」を宣言、10月にエルサレムの奪回に成功する。

 これに対して、キリスト教徒は奪還された聖都を取り返すべく、第3回十字軍を派遣する。

 この第3回十字軍でサラディンと相まみえたのがイギリスのライオン・ハートことリチャード一世である。

 リチャード一世エルサレムの奪回はできなかったが、非武装キリスト教徒の聖地巡礼という条件を認めさせることになる。

 なお、このリチャード一世には弟のジョン王がおり、このジョン王はマグナ・カルタを押し付けられたことで有名である。

 

 このように、イスラム教徒は約90年かけて聖地を奪還したわけだが、十字軍は第3回で終わったわけではない。

 その後もキリスト教社会による波状攻撃は続き、1229年にはエルサレムキリスト教社会側に奪われてしまう。

 これをイスラム教徒が取り返すのが1244年。

 つまり、イスラム教徒は十字軍の戦いに約150年もの間費やされることになる。

 そして、疲弊したイスラム教社会はモンゴル帝国による侵略により不可逆的な大ダメージを被ることになる。

 

 

 さて、結果だけを見れば、イスラム教社会はヨーロッパの十字軍による侵略を跳ね返した。

 事実、エルサレムイスラエルが建国される20世紀までイスラム教社会が支配することになる。

 にもかかわらず、十字軍の記憶が「十字軍コンプレックス」となるほど生々しいのはなぜか。

 逆に、アッバース朝を滅ぼしてアラビア地方に「イル・ハーン」国を打ち立てたモンゴル人に対してコンプレックスを持たなかったのはなぜか

 

 この点、13世紀の初め、アジア地方ではモンゴル帝国が大勢力を築いていた。

 そして、このモンゴル帝国はアラビア社会に雪崩れ込んできた。

 1219年にはペルシャ地方に君臨していたホラズム朝が崩壊した。

 その後、1258年、バグダッドが陥落し、アッバース朝は滅亡する。

 このとき、バグダットは第1回十字軍によるエルサレムと同様の憂き目にあった

 アッバース朝のカリフは処刑され、多数のイスラム教徒が虐殺される。

 バグダッドは廃墟と化し、繁栄を極めたアラビア文化も崩壊した。

 

 ところで、モンゴル人はこの地に「イル・ハン」国を建てた。

 君主になったのは当然モンゴル人である。

 もっとも、時間が経過するにつれ、モンゴル人もイスラム文化に感化され、自らもイスラム教徒となってしまう。

 例えば、イル・ハンを建てたフラグ(モンゴル帝国の建国者チンギス・ハンの孫)の孫である第7代国王ことガザン・ハンはイスラム教徒であることを告白して即位することになる。

 この意味でモンゴル帝国の武力もイスラム教に降った、ということになる。

 

 

 この点、イスラム教には国境はないし、人種の壁もない。

 確かに、正統カリフ時代の次に興ったウマイヤ朝はアラビア人のイスラム帝国という面がなくはなかった。

 しかし、アッバース朝はアラブ人の特権を廃止していったので、そのようなこともなくなった。

 つまり、アッラーを信じ、クルアーンを信じ、六信五行を実践すればイスラム教徒として扱われることになる。

 

 このイスラム教社会のセンスは中国にもある。

 何故なら、中国人の条件も「中華文明を受容する」点にあるからである

 この点、中国は何度か異民族による支配を受けている。

 例えば、モンゴルの元、女真族の清などがこの例である。

 もっとも、中国人たちはこのような異民族を教化して(中華文明を受容する)中国人にしてしまった。

 これが最もうまくいったのが清朝である。

 このように教化してしまえば、異民族の征服王朝といってもどっちが支配者でどっちが被支配者か分からなくなってしまう。

 現実において清朝を動かしていたのは科挙に合格した中国人官僚であり、女真族はお飾りに過ぎなくなっていたのだから。

 

 イスラム教のセンスも中国のそれに準じて考えることができる。

 つまり、支配者が他所の民族であっても、その民族がイスラム教徒になってしまえば、それほど深刻なダメージは受けない。

 また、イスラム教の場合、イスラム教によって社会生活が規律されているために、権力者が変わっても、権力者がイスラム教に容喙しなければ社会生活が変わらない。

 したがって、モンゴル人の支配を受けたことについてイスラム教徒はそれほどのダメージをもたらさなかった。

 

 これに対して、キリスト教徒は聖地奪取に失敗してもキリスト教という信仰を捨てなかった。

 これに、イスラム教社会がキリスト教社会に与えてきた恩恵が加わる。

 その結果、キリスト教徒はなんと救われない輩であろうか」という感想を持ってもいたしかたないものと考えられる

 これが十字軍コンプレックスの根底にあるものと言える。

 

 

 このように、モンゴル人はイスラム教に帰依させ、キリスト教徒の聖地奪還を阻止したイスラム教社会。

 その後も、イスラム教社会はキリスト教社会を圧倒していた。

 例えば、インドではムガル帝国が大勢力を築いていた。

 また、アラビアとバルカン半島ではオスマン帝国が大勢力を築いていた。

 

 この点、18世紀までオスマン帝国の軍隊は最強の軍隊と言われていた

 その中核を占めていたのがトルコ皇帝の親衛隊の「イエニチェリ」である。

 

 このイエニチェリの強さの秘訣は何か。

 強さの秘密はたくさんの要素があるだろうが、重要なものの一つに「イエニチェリが常備軍だった」ということがある。

 この点、オスマン帝国でイエニチェリが結成されたのは15世紀と言われているが、当時のヨーロッパには常備軍がなかった。

 つまり、当時のヨーロッパでは、国内の領主が自分の家臣を率いて戦場に向かっていた。

 また、絶対王権の時代になると国王は自前の軍隊を持つようになったが、その主力は金で雇った傭兵に過ぎなかった。

 ヨーロッパで本格的な常備軍が作られるのはフランス革命の後の国民軍である。

 

 ところで、常備軍は普段からトレーニングを行っており、また、組織としても統制がとれている。

 よって、常備軍の前には寄せ集めの軍隊や傭兵では話にならないことになる。

 このことはナポレオンが国民軍という常備軍を駆使してヨーロッパ全体を敵に回せたことからも理解できる

 もっとも、ヨーロッパで常備軍が生まれる以前にオスマン帝国ではイエニチェリという常備軍を作っていたのである。

 

 なお、このイエニチェリ軍団の主力を務めたのが、戦争で捕虜になったバルカン人などである。

 イスラム教徒はクリスチャンと異なり、問答無用で捕虜を皆殺しにすることはしない。

 その代わりに、捕虜にトルコ語イスラム教の教えを説く。

 そして、捕虜が改宗してイスラム教徒になるとイエニチェリに入隊させ、普段から猛特訓して兵士にしたのである。

 これがイエニチェリの強さの秘訣となった。

 

 

 さて、このイエニチェリが東ヨーロッパを暴れまわっていたのが15世紀から16世紀である。

 オスマン帝国は15世紀にバルカン半島を抑えた。

 ちなみに、ビザンティン帝国の首都たるコンスタンティノープルが陥落したのは1453年である。

 その後、16世紀になるとオスマン帝国は東ヨーロッパにも駒を進めた。

 そして、オスマン帝国オーストリア帝国の首都たるウィーンを包囲することになる。

 オスマン帝国のウィーンの包囲は2回ある。

 1529年と1683年の2回で、特に深刻だったのが後者である。

 そこで、オスマン帝国軍の撃退の為に前例のないヨーロッパ連合軍が編成された。

 この連合軍で活躍したのが、ポーランド国王ソビエスキー、オーストリアの名称プリンツ・オイゲン、ハノーヴァー選帝侯ゲオルグ・ルートヴィヒにして後のイギリス国王ジョージ一世である。

 この三人の活躍もあって、ウィーンからオスマン帝国軍を撃退することができた。

 そして、この戦いでオスマン帝国軍を撃退したことでパワーバランスがオスマン帝国からキリスト教社会に移り始めることになる。

 

 

 ところで、1683年のウィーン攻防戦によってヨーロッパにもたらされたものが二つある。

 一つが「カフェ文化」、もう一つが「行進曲」である。

 つまり、豊かなトルコでは既にコーヒーを飲む習慣があった。

 それゆえ、オスマン帝国軍の撤退後、撤退したオスマン帝国軍のテントにコーヒーの粉が残されており、これがウィンナ・コーヒーの起源になる。

 また、オスマン帝国では既に軍楽隊があり、ヨーロッパにはそれがなかった。

 それを見たヨーロッパ人たちは行進曲を作り始めることになる。

 このことはモーツァルトやベートーベンが「トルコ行進曲」というタイトルの曲を作ったことからも見ることができる。

 このように、当時のオスマン帝国(トルコ)とヨーロッパとの間には嗜好品や音楽などの文化において大きな差があったと言える。

 

 

 以上、十字軍以後のイスラム教社会とキリスト教社会について確認した。

 次回は、「イスラム教社会がヨーロッパ社会を席巻していたら」という仮定から、ヨーロッパ側が反撃するために開いた「近代」という扉についてみていくことにする。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 20

 今回はこのシリーズの続き。

 

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『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

20 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第1節を読む」(中編)

 前回はイスラム教社会の勢力圏の広さについてみてきた。

 今回はイスラム教社会が世界もたらした文化的遺産についてみていく。

 

 

 まず、本書では、ギリシャ文明とローマ文明の遺産の保護に関するイスラム教社会の功績について触れられている。

 つまり、イタリアのルネッサンスは散逸していたギリシャの古典を収集したイスラム教社会のおかげである、と。

 以下、イタリアのルネッサンスに至るまでのギリシャ文化の保護についてみていく。

 

 まず、ギリシャが衰退した後、ギリシャの文化的遺産を引き継いだのはローマ帝国であった。

 この点、ローマ帝国公用語ラテン語ではなくギリシャ語であった。

 ローマの上流階級ではその子弟にギリシャ語を叩き込んでいたし、ギリシャ語の読み書きができなければ、まともなインテリとはみなされなかった。

 そのため、古代ローマではギリシャの古典は盛んに研究された。

 

 もっとも、西ローマ帝国が滅んだ後、ギリシャ文化の遺産はローマからイスラム帝国に移る。

 その理由は、西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人たちがギリシャ文化にあまり価値を見出さなかったこと、また、西ヨーロッパに君臨したカトリック教会もギリシャ文化にさほど関心を払わなったことにある。

 この点、ヨーロッパ文明はヘレニズム(ギリシャ文明)とヘブライズム(ユダヤ教キリスト教)が組み合わさったもの、と言われている。

 しかし、初期のキリスト教ギリシャ思想の関係は薄かった

 例えば、ギリシャの「霊肉二元論」はキリスト教ユダヤ教とは無縁であり、キリスト教流入してきて力を持つのは何世紀も経過してからである。

 

 

 ところで、ローマ帝国という強大な保護者を失ったギリシャの文化。

 このギリシャの文化・思想を保護したのが、アッバース朝のカリフたちである

ギリシャ語は知恵の言葉である」というスローガンを打ち立て、散逸していたギリシャ文化の古典の収集と研究を行っていった。

 この点に熱心だったカリフが、第五代カリフのアル・ラシードと第七代アル・マームーンであった。

 特に、マームーンは「知恵の館」というギリシャ文化の研究施設を作り、組織的にギリシャの古典をアラビア語に編訳していった。

 この点、ギリシャ文化の熱心な研究の背景にはイスラム教がある

 というのも、預言者マホメットは学問の重要性を認識しており、イスラム教徒に対して学問を奨励していたからである。

 

 かくして、ギリシャの医学・哲学・天文学・地理学・数学の書物が「知恵の館」に集められ、アラビア語に翻訳された。

 そして、アリストテレスプラトンプトレマイオスユークリッドアルキメデスなどの書物が読めるようになった。

 それに伴い、アラブの学問のレベルがアップし、多数の優れた学者を生み出すことになる。

 

 このことは、現代我々が用いているアラビア数字、「代数学」という表現などに現れている。

 また、天文学も高度に発展し、イスラム教の学者たちは実測その他を通じて地球が自転する球体であることを知っていた。

 例えば、14世紀の自然哲学者コル・オレームは地球回転説を受け容れて地球の回転運動を計算しているし、15世紀の歴史家・哲学者のイブン・ハルドゥーンは「地球は球形である」と述べている。

 このような地動説が自由に語ることができるのもイスラム教ならではである。

 というのも、イスラム教ではクルアーンその他を否定しない限りは学問の自由があった。

 そして、クルアーンには地動説や天動説に関する言及がない。

 それゆえ、観測の結果、地球が丸いといったことが判明しても何ら不都合がないわけである。

 このことは、カトリック教会のガリレオ・ガリレイに対する異端審問とは対照的である。

 

 さらに、医学の発達も目を見張るものがあった。

 当時のアラビアの医術はあまりに高度だったので、ヨーロッパ人をして「これは魔術ではないか」と思わしめた、と言われている。

 

 これらの文化の発展の背後にギリシャ・ラテンの文化遺産の収集・保護があったことは言うまでもない。

 

 

 また、イスラム教社会では聖書の研究が行われ、そのレベルは当時のキリスト教社会のそれを圧倒していた。

 この点、新約聖書の原著はギリシャ語で書かれている

 このことは、キリスト教が興った当時、この地を支配していたローマ帝国公用語ギリシャ語であったことからみれば、当然である。

 また、旧約聖書の方も「七十人訳」と呼ばれるギリシャ語聖書が編纂されていた

 しかし、時代が経るにつれてヨーロッパではギリシャ語が廃れていき、教養人であってもラテン語を読むのがせいぜいになり、聖書を原典で読む人間がめっきり減っていった。

 これに対して、イスラム教社会はギリシャ語を読める人間は大量にいる。

 また、イスラム教の最高啓典は「クルアーン」である一方、福音書・トーラーも以前の啓示として尊重されている

 さらに、クルアーンでは福音書・トーラーがしばしば引用されて、それらに対する「解釈」が述べられている。

 つまり、クルアーンは最後の啓示であり、そこで述べられた聖書に対する解釈は「最終解釈」になるわけである

 

 

 例えば、パウロは「旧約聖書の楽園追放のエピソードを『人間の原罪の始まりにして根拠』と考え、それゆえに、神の救済を祈る(待つ)しかない」と考えた

 それに対して、クルアーンを下したアッラーは次のように述べている。

 

(以下、クルアーン第2章第35節から第39節までを引用、引用元は次のリンクの通り、節番号は省略し、各節ごとに改行する)

 われは言った。「アーダムよ、あなたとあなたの妻とはこの園に住み、何処でも望む所で、思う存分食べなさい。だが、この木に近付いてはならない。不義を働く者となるであろうから。」

 ところが悪魔〔シャイターン〕は、2人を躓かせ、かれらが置かれていた(幸福な)場所から離れさせた。われは、「あなたがたは落ちて行け。あなたがたは、互いに敵である。地上には、あなたがたのために住まいと、仮初の生活の生計があろう。」と言った。

 その後、アーダムは、主から御言葉を授かり、主はかれの悔悟を許された。本当にかれは、寛大に許される慈悲深い御方であられる。

 われは言った。「あなたがたは皆ここから落ちて行け。やがてあなたがたに必ずわれの導きが恵まれよう。そしてわれの導きに従う者は、恐れもなく憂いもないであろう。

 だが信仰を拒否し、われの印を嘘呼ばわりする者は、業火の住人であって、永遠にその中に住むであろう。」

(引用終了)

 

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 つまり、アダムとイブは、悪魔(蛇)の唆しに乗せられて楽園から追放された(第2章の第35節と36節)。

 しかし、クルアーンにはその後のエピソードがある(第2章の第37節以降)。

 つまり、アダムは後悔し、悔悟の言葉を神に届けた。

 それに対して、神はアダムらを楽園から追放したが、見放すことはしないことにした、という

 その証がクルアーンである、と。

 そのため、イスラム教では「パウロの考えた原罪は存在しない」ということになる

 

 この点、キリスト教のような原罪を想定した場合、アダムを追放した後の神が人間を放置することなく、アブラハムモーセ・イエスといった預言者を地上に派遣して啓示を与えた理由が説明できないが、このように考えれば話が通る。

 このように、クルアーンには「聖書の読み方」に対する指示が述べられており、この読み方こそ聖書の最終解釈であると強調されている。

 その結果、イスラム教社会の文化人も聖書を読み、研究する人も現れた。

 そして、その見識・知識は当時のヨーロッパ人を凌いでいたと言える。

 

 

 また、文化や武力の背後にあって、かつ、忘れていけないのがイスラム教社会の経済力である。

 これまでのメモで述べた通り、当時のカトリック教会は「サクラメント」がまかり通る社会であった。

 また、僧侶でもギリシャ語やラテン語が読めない人間がいた。

 これに対して、イスラム教ではギリシャ文化遺産を収集・研究していた。

 また、「マクタブ」という初等教育機関や「マドラサ」といった教育機関の普及があり、中世イスラム教社会の識字率の向上に大きく貢献した。

 

 これでは、オリエントを擁するイスラム教社会から見れば東ローマ帝国の向こうにあったヨーロッパ社会を未開人とみられてもやむないところがあった。

 逆に、ヨーロッパ人から見ると、イスラム教社会は圧倒的な豊かさを誇る別世界であった。

 東方からもたされた珍品、例えば、織物・金属細工はガラス製品や紙と共に珍重された。

 また、当方のアラブ商人がインドの香辛料をもたらしたことも言うまでもない。

 

 この点、イスラム教社会は長年の繁栄の歴史があり、カリフやスルタンは贅沢を追求してきたのである。

 ヨーロッパ人がこれを見てイスラム教社会の文物に目の色を変えたのは想像に難くない。

 

 なお、ヨーロッパの「贅沢」と言えば、太陽王ルイ十四世の時代がある。

 しかし、ルイ十四世の治世の後、ヨーロッパは近代革命の嵐が吹き荒れることになる。

 これでは、19世紀までヨーロッパの贅沢は量も期間もイスラム教社会に及ばなかった、ということになる。

 

 さらに、本書では、ベルサイユ宮殿における逸話が紹介されている。

 フランス・ブルボン王朝の絶頂期を象徴するベルサイユ宮殿、この宮殿が完成されたころ、オスマン帝国の大使(イスラム教徒)が招かれた。

 ところが、この大使、紹介された宮殿を案内された最後に「え、たったこれだけ?」と言ったそうである。

 ベルサイユ宮殿が当時のヨーロッパで一大センセーションをわき起こしたことは間違いない。

 もっとも、オリエントで覇を唱えていたオスマン帝国トプカプ宮殿には負けてしまう。

 それくらいオリエントを抑えていたイスラム教社会には富があったわけである。

 

 そのことを示しているのが「オリエント急行」である。

 この急行列車ができたのは1883年であり、ヨーロッパが世界に覇を唱えており、イスラム教社会とキリスト教社会のパワーバランスは傾いていた。

 しかし、それでもオリエントに行くために、ヨーロッパの富豪たちはこのオリエント急行のチケットを買った。

 このことは「オリエントに行く」ということに特別な意味があったことを示している。

  

 

 さて、このような文化的差があれば、ヨーロッパ人のなかにもイスラム教社会で本物の学問を学ぼうと志す人間が出てくる。

 その結果、10世紀ごろからイスラム留学を志願する僧侶たちが現れた

 その人たちが留学先に選んだのがイベリア半島にあるコルトバへの留学である。

 というのも、アッバース朝の首都のバグダッドは遠いが、スペインなら近いからである。

 そして、キリスト教カトリック)の僧侶たちもコルドバにあった大学に留学し、ギリシャ哲学その他を学んだのである。

 また、北アフリカイスラム圏に留学する人間もいた。

 これらがルネッサンスへの導火線になったことは言うまでもない。

 というのも、ギリシャの古典を入手しようとしてもヨーロッパ社会にはなく、アラブ社会へ行ってアラブ語訳のそれ、または、ギリシャ語の原典を入手することから始めなければならなかったからである

 また、原典があっても、学問それ自体が廃れてしまった以上、学問の復興にも時間がかかった

 例えば、アリストテレスの原著をラテン語に訳すだけでも大変な時間がかかった、と言われている。

 ちなみに、このアリストテレス翻訳の作業を行った人にトマス・アクィナスがいる。

 トマス・アクィナスの神学は二十世紀になるまでカトリック教会の支柱となった。

 その背景にアリストテレスがある。

 

 このようにイスラム教社会の豊かさから生まれたものはキリスト教社会にも波及していった。

 まあ、中国と日本、明治維新以降の欧米と日本の関係を考えれば、当然とも言いうるが。

 

 

 さらに、本書ではヴァスコ・ダ・ガマの冒険についても紹介されている。

 オスマン帝国コンスタンティノープルを陥落させてから、ヨーロッパには東方の物産が入手できなくなった。

 そこで、レコンキスタによってイベリア半島からイスラム教徒を追い出したポルトガルやスペインは「陸伝いではなく、海上貿易によってインドと交易できるようにしよう」と考えて、大航海時代が始まる。

 そして、ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカを経由してインドに行こうとした。

 もっとも、インド洋はアラビア商人が盛んに交易をおこなっていた。

 そこで、ヴァスコ・ダ・ガマは自分たちがキリスト教徒であることを隠して、イスラム教徒の案内人を雇ってインドに行った、それゆえ、大したことがない、と本書では書かれている。

 この点、アラビア人はインド洋を使ってインドや中国と交易を行っていた。

 また、中国でもヨーロッパの大航海時代以前の明の時代に鄭和が大艦隊を率いてアフリカに達する旅行を行っている。

 つまり、インド洋における海上インフラは整っていたわけである。

 これに対して、「イスラム教社会の下地を利用してインドに行ったのだから大したことがない」などと言い出すとキリがないように見えるが。

 

 なお、本書では、アラビア社会のイブン・バトュータという大冒険家が紹介されている。

 彼は、モロッコからエジプト・シリア・デリーを経由して、当時の大都(北京)まで言ってきた。

 さらに、彼は故郷に戻るや否や、スペインのグラナダを訪問したり、サハラ砂漠の横断・ニジェール川上流域の探検も行っている。

 これはヨーロッパのマルコ・ポーロを圧倒していると言える。

 

 

 と、本書ではイスラムのすごさをこれでもかというばかりに紹介している。

 そして、このようなことを理解しないとイスラム教徒のクリスチャンに対する優越感ともいえる感情、劣等感の小ささの背景が理解できない、という。

 

 まあ、事実はそうであり、また、当時のイスラム教社会はすごかった。

 ただ、これを基軸にして優越感だのなんだの、と言われると、これはいわゆる「老害」のそれと同種ではないか、という感想を持たざるを得ない。

 もちろん、「老害」であることと「過去の栄光」は両立する。

 また、仕方のない面があることはあるとしても。

 

 

 今回はこの辺で。

 次回は、これに対するキリスト教徒の行為とその結果生じた「十字軍コンプレックス」についてみていく。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 19

 今回はこのシリーズの続き。

 

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『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

19 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第1節を読む」(前編)

 今回から第3章についてみていく。

 第3章の内容は「ヨーロッパ社会とイスラム社会の抗争の歴史」と「イスラム社会における近代化の可能性」の二本立てである。

 この点、前者は第1節の「『十字軍コンプレックス』を解剖する_現代世界にクサビ刺す『1000年来の恩讐』」で触れられている。

 また、後者は第2節の「苦悩する現代イスラム_なぜイスラムは近代化できないのか」で触れられている。

 まずは、第1節からみていく。

 

 

 この章は、2001年のセプテンバー・イレブンから話が始まる。

 この事件はイスラム教社会のアメリカを含む西側諸国への憎悪の大きさを満天下に示した。

 このことは、イスラム教徒の中にあの事件を「快挙」と見る向きがあること、また、その後のアメリカの軍事作戦(アフガン侵攻)に対して、各地のイスラム教徒が反米デモを行ったことから示されている。

 

 このイスラム教徒のアメリカをはじめとする西側諸国への憎悪。

 この憎悪はどこから来るのか。

 あるいは、アメリカの政治施設たる大使館やペンタゴンを襲撃するのではなく、世界貿易センタービルで働いていた一般人を殺傷することが、何故、ジハードになるのか。

 

 まず、この憎悪は単なる国家や民族への憎悪ではない。

 イスラム教徒のキリスト教徒全体に対する憎悪と考えるべきである、というのが著者(小室直樹先生)の主張である。

 でなければ、「権力者でない一般人を狙い撃ちすることがジハードになる」と主張することに対することの説明がつかない。

 そこで、イスラム教徒のキリスト教徒に対する反感についてみていくことがカギになる、という。

 

 ところで、日本にだって反米感情が存在しないわけではない。

 しかし、この反米感情イスラム教徒の反キリスト教感情を一緒くたにすることは妥当ではない。

 それはとんでもない誤解と判断ミスを招くことになる。

 というのも、日本人がヨーロッパと本格的に接触したのは19世紀半ばであり、まだ200年も経過していないのに対して、キリスト教イスラム教の関係ははるかに長いからである。

 そこで、キリスト教イスラム教の歴史を知ることから始めていく。

 

 

 ここで、まず、日本人が認識している世界史の範囲についてみてみる。

 一般に、日本人が高校などで学ぶ世界史の範囲は次の範囲であろう。

 

 古代文明史・ヨーロッパ史・中国史・近代以降のアメリカ史

 

 これらに限定して文部科学省は「世界史」などと称しているわけである。

 しかし、ここには大事なものが二つ抜けているように見える。

 その一つが本書で触れている「アラビア社会=イスラム社会」の歴史、そして、本書で触れられていないもう一つの抜けている歴史がインド史である。

 

 この点、中国は長きにわたって見事な文明を作ってきた。

 しかし、イスラム社会も中国に負けない文化を築いていた。

 イスラム社会の隆盛を細かく見ると、イスラム社会の全盛期は三度ある。

 一つ目は正統カリフの時代、二つ目はアッバース朝の時代、三つ目がオスマン帝国とサファビー朝とムガル帝国の時代である。

 さらに付け加えれば、ティムール帝国の時代もある。

 

 まずは、正統カリフの時代。

 前書きで少しふれたが、アラブ人たちはがクルアーンを手にするや否や、中東で争っていた二大帝国たるビザンティン帝国ササン朝ペルシャを蹴散らしてしまう。

 そして、100年も経たぬ間に(イスラム帝国正統カリフの時代からウマイヤ朝に移る)、西はイベリア半島、東は中央アジアまで征服してしまった。

 マホメットは生前、奇蹟を起こさなかったと言われているが、マホメットが広めた教えは世界史に奇蹟をもたらしたと言える。

 

 

 イスラム帝国正統カリフの時代からウマイヤ朝に代わり、続いて、アッバース朝の時代になった。

 時代はおよそ8世紀である。

 このアッバース朝は首都をバグダードに置いた(ウマイヤ朝の首都はシリアのダマスカス)。

 このバグダードに帝国の富と知識が集まった。

 また、アッバース朝は武力においても同時代の中国王朝たる唐に引けをとらなかった。

 ちなみに、唐との戦いで中国で作られていた紙と製紙技術がアラビア世界に伝わったと言われているのは有名な話である。

 この紙の伝来なくしてイスラム文化の発展は考えられない。

 もちろん、ヨーロッパにもイスラム社会を通じて紙が伝わることになる。

 ヨーロッパも紙の普及があってキリスト教が広がることになる。

 

 その後、十字軍やモンゴル軍の襲来があってドタバタするが、イスラム教徒たちは勢力を盛り返すことになる。

 まずは、ティムール帝国、そして、オスマン帝国サファヴィー朝ムガル帝国の隆盛時代の到来である。

 オスマン帝国ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、1000年続いたビザンティン帝国を滅ぼし、バルカン半島・エジプト・アラビアに一大勢力を築いた。

 また、東ではムガル帝国インド大陸を席巻する

 

 

 このイスラム帝国の進出・拡大。

 現代を除けば、これに匹敵するのはモンゴル帝国の世界征服であろうか。

 この点、モンゴル帝国はユーラシア帝国の大半を席巻したが、期間が短かった。

 これに対して、アッバース朝は750年から1258年までの約500年間続いた

 また、オスマン帝国も1299年から1922年まで約600年続いている

 さらに、ムガル帝国は1522年から1858年まで約300年続いている

 もちろん、この期間には衰退した期間も含まれるが、それにつけても長い。

 中国の王朝で約500年続いた王朝は・・・かなり昔にさかのぼる必要があるだろう。

 

 このように、中国と比較した場合、イスラム社会は安定している。

 もちろん、この背後にはイスラム教があることが大きいのだが。

 

 また、これだけの領土を拡大したのであれば、それを実現した英雄もいる。

 本書では、ティムール帝国の建国者のティムール、若干二十一歳でコンスタンティノープルを征服してビザンティン帝国を滅ぼしたオスマン帝国のメフメット2世、ムガル帝国の三代目の皇帝のアクバル大帝が取り上げられている。

 著者によると、この三人に比較すれば、「フランス・イタリア・オーストリアしか押さえられなかったフランス皇帝ナポレオンなど大したことがない。彼らと肩を並べたければ、冬将軍が来る前にロシアを叩き潰し、取って返してドーバー海峡を渡ってイギリス王の首をはねるくらいしなければ」とのことである。

 

 さらに言うと、ここで書いたことを先進各国の一般人が知らないこと自体がイスラム教徒にとって気に入らない、らしい。

 ただ、そこまで言うと、、、という感じがしないではないが。

 

 

 もちろん、イスラム教徒は戦争だけが得意だったわけではない。

 前述のバグダートは世界の都として文化の中心となった。

 その辺はかの『千夜一夜物語』を考慮すれば十分であろう。

 

 この点について、著者は「九世紀のバグダードには150万人の住民がおり、また、数万の公衆浴場があった」というエピソードを取り上げている。

 150万人という人口自体もすごい話だが、数万の公衆浴場というのもすごい。

 もちろん、これだけ公衆浴場が多い理由はイスラム教が礼拝の際に体を清浄にすることを規範としていることも関係している。

 このきれい好きは日本をほうふつさせるかもしれない。

 

 ちなみに、この点について対称的なのが近代以前のヨーロッパである。

 近代以前のヨーロッパでは1年に数回しか風呂に入らない人間が貴族や王族の中にもいた。

 そこで、体臭をごまかすために香水が使われた、というのは有名な話である。

 

 

 以上、イスラム教社会の歴史の壮大さについて触れてきた。

 ここから、イスラム教の文化が世界に果たした役割について見ていくわけだが、きりがいいので、今回はこの辺で。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 18

 今回はこのシリーズの続き。

 

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『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

18 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第3節」を読む(最終編)

 ここまで、中国の「刺客」とアメリカ・ヨーロッパの「暗殺者」についてみてきた。

 次に、中国とアメリカ・ヨーロッパの「歴史観」についてみてきた。

 その上で、キリスト教ユダヤ教における「預言者」についてみてきた。

 これらを補助線にして、イスラム教社会における「暗殺者」についてみていく。

 

 

 まず、ユダヤ教キリスト教と異なり、イスラム教ではマホメットが「最後の預言者」になっている。

 つまり、新たな「預言者」が現れることはなく、また、新たな「啓典」が現れることもないと考えることになる。

 その結果、イスラム教では「最後の審判がやってくるまで、この世の秩序(法則)は変わらない」という歴史観を持つことになった。

 以上より、イスラム教の歴史観は中国の歴史観に類似することになる。

 

 このことから、世の中が乱れてきた場合、イスラム教では「現在の社会の状態が『(クルアーンマホメットが示した)正しい状態』から逸脱している」と考えることになる。

 これは、「皇帝が天命を忘れている」と考える中国の発想に類似する。

 そのため、イスラム教社会の革命は、ヨーロッパの近代革命ではなく中国の易姓革命の方に類似することになる。

 

 

 例えば、1979年のイラン・イスラム革命についてみてみる。

 イラン・イスラム革命前夜、イランを統治していたのはパーレビ政権(パーレビ朝)であった。

 アメリカなどの西側の支援を受けていたパーレビ政権は60年代、「白色革命」という近代化政策を行う。

 具体的な政策を見ると、農地改革・婦人参政権・工業化・労働者の待遇改善・教育の向上による西欧化、となる。

 これらを見ると、いいことではないのかと思うかもしれないが、さにあらず。

 イスラム教徒から見れば、これらは近代化という名の世俗化、脱イスラム化である

 

 当時、パーレビ政権はアメリカの支援を受けていた。

 そのことから、イスラム教徒(シーア派)はこの政権をアメリカの傀儡と見る者もいた。

 そのパーレビ政権が「近代化といわれる西欧化政策」を行った。

 イランのイスラム教徒たちはこの白色革命に伴う一連の政策が「『クルアーン』をゆがめるもの」と評価したことで、イラン革命を誘発することになる。

 

 まず、1978年1月、イランから追放されていたホメイニーを中傷する記事をめぐって、ゴム(コム)という都市で暴動がおこる。

 これが発火点になり、反政府デモ運動は全国に拡大する。

 また、1978年9月、テヘランでは治安部隊がデモ隊に発砲、いわゆる「ブラックフライデー」という事件が起きる。

 この事件で多くのムスリムが命を落とした。

 もっとも、イランのイスラム教徒はこのような弾圧をはねのけ、結果、パーレビ政権は崩壊、イラン・イスラム共和国が成立する。

 このように、イラン・イスラム革命イスラム教徒による革命であり、その運動はイスラム教における原点回帰運動である。

 また、イラン・イスラム共和国イスラム教(アッラーの教え)による国家である。

 易姓革命の言葉を借りれば、「イラン・イスラム革命によって、天命(ここでは「イスラム教」)を忘れた国王は排除され、再びアッラーに基づく政治が行われるようになった」ということになる。

 

 

 このイラン・イスラム革命で見られたイスラムの教えを蹂躙されたら、イスラム教徒は命を捨てることを惜しまない」という姿勢

 この姿は中国の刺客と瓜二つである。

 つまり、刺客においては「歴史」という普遍(不変)の存在を信じ、これに殉じた。

 これに対して、イスラム教徒はアッラークルアーンいう普遍(不変)の存在を信じ、これに殉じた。

 また、中国で刺客が永遠に讃えられるように、イスラム教社会ではクルアーンイスラムの教え)に殉じた者たちは永遠に讃えられる。

 共通性の確認はこれで十分であろう。

 

 また、クルアーンは次のように述べている。

 

(以下、「クルアーン」の第2章第154節から引用、引用元のリンクは後述)

アッラーの道のために殺害された者を、「(かれらは)死んだ。」と言ってはならない。いや、(かれらは)生きている。只あなたがたが知らないだけである。

(引用終了)

 

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 イスラム教やアッラーのための戦い、つまり、聖戦(ジハード)で倒れたものは死んでおらず、生きている。

 少なくても、「ジハードで倒れた者は緑園(イスラム教のいう「天国」)に行けること」は確定している。

 よって、ジハードで倒れた者はイスラム教社会の歴史に名を刻むのみならず、救済まで確定している。

 

 この点、本来のイスラム教は昔のキリスト教と比較すれば、寛容性の高い宗教である。

 とはいえ、アッラーの教えを蹂躙されたり、異教徒から侵略されたりしても寛容というわけではない。

 そのような場合、イスラム教徒は死を惜しまず戦うことになる。

 その姿は『史記』で示されている刺客たちに決して劣らない。

 

 

 また、2001年のセプテンバーイレブンなどにおいてテロを敢行したと考えられる人間たちは高等教育を受けた者、欧米に留学した者が少なくないと言われている。

 これを見て、「このような教育を受けた、知的水準の人間の高い人間たちが、なぜテロという狂気の行為に出たのか」という疑問を持つかもしれない。

 この点、真面目なプロテスタントが不安から逃れるためにひたすら労働(による救済)に邁進したように、クルアーンを信じる敬虔なイスラム教徒もジハードに傾斜することになる。

 何故なら、「最終的に自分が救済されるかわからない」という点においてはキリスト教徒もイスラム教徒も究極的には変わらないからである

 確かに、キリスト教の予定説と異なり、イスラム教の場合、「善行を行えば行うほど緑園(天国)が近くなる」と述べており、キリスト教よりは安心できる。

 しかし、人間である以上、善行を積む一方で悪行もたくさん行っている。

 そのため、自分に関しては最後の審判で緑園に行ける保障はない。

 このようにして、真面目な人間ほど不安になる。

 これはどの宗教でも同様である。

 

 しかし、ここに大きな特例として「ジハード」が用意されていたら、不安に陥っていた真面目なイスラム教徒がそれに飛びつくことは十分考えられるであろう

 これに対して、「いささか安易ではないか」という疑問が頭に浮かばないとは言わないとしても。

 

 また、「暗殺者やテロリストが異常な精神の持ち主である」という発想が常識となっている社会は欧米の社会のみである

 このことは、前述する中国の『刺客列伝』を見ればわかる。

 刺客となった豫譲、聶政、荊軻に「狂気」を見出すことは可能であろうか。

 

 

 ここから、イスラム教社会における暗殺者(刺客)についてみていく。

 

 この点、イスラム教には暗殺やテロを実践する「過激派」のようなものを産み出す土壌がある。

 なぜなら、「『マホメットが最終預言者であり、クルアーンが最後の啓典である』と考えた場合、理想の社会の状態はマホメットの生きた時代であるから、その理想を固守するのがイスラム教徒の責務である」と考えられる一方で、現実の社会は否応なくにも変化せざるを得なくなるからである。

 よって、イスラム教の教えに忠実になればなるほど社会の変化に対して抵抗するということになる。

 また、その中には「社会の変化を阻止して、マホメットの時代の社会を維持するためには手段を選んでいられない」と考える人間が出てくる。

 これが「過激派」になる。

 だから、このような「過激派」はイスラム教が始まった当初から存在することになる。

 

 

 このことをイスラム教社会の歴史から見て取れる。

 まず、このような過激派はイスラム帝国発生直後の正統カリフの時代から存在する。

 つまり、632年、預言者マホメットがこの世を去り、イスラム教共同体は後継者に関して深刻な問題に直面した。

 というのも、マホメットは後継者について何も指示を遺さなかったからである。

 そこで、残された信徒は当時のアラブ社会の伝統に従い、「カリフ」としての後継者を選んでいった。

 このようにしてカリフが選ばれた時代のことを「正統カリフの時代」と言われている。

 

 この正統カリフの時代に4人のカリフが選ばれたが、4人のうち3人が暗殺されることになる。

 では、何故、選ばれたカリフたちが次々暗殺されていったのか。

 これは「イスラム教の教え」ゆえであったと言うことができる。

 つまり、正統カリフの時代、イスラム帝国は急速に拡大した。

 具体的には、シリア・エルサレムメソポタミア・エジプトを手中に収めていったのである。

 その結果、カリフの権力は高まり、また、カリフの財産も増加した。

 このことが純粋なイスラム教徒にとって容認しがたいことになった。

 というのも、イスラム教において人間は平等であり、また、豊かな人間は貧しい人間に喜捨する義務もあると考える一方、カリフは預言者ですらない一般人に過ぎないにもかかわらず富貴を極めていると考えることになるからである。

 もちろん、現実のカリフたちが蓄財を重ねたか、喜捨を惜しんだかどうかは別として。

 

 

 なお、こうした土壌からかの「暗殺教団」が生まれることになる

 中世のヨーロッパ人が「アサシン」と呼んで恐れたこの教団は、イスラム教イスマイール派から生まれた集団で「ニザール派」と言うべき一派である。

 ニザール派は11世紀ころに成立したと言われ、イスラムの教えに対して厳格な集団であった。

 また、「暗殺教団」と言われたことから、彼らを狂信者の集団と考えるかもしれないが、そんなことはない。

 というのも、ニザール派から著名な学者・思想家が出ているのだから。

 もっとも、ニザール派イスラム教の教えに背くイスラム教徒や権力者には容赦がなかったと言われている。

 また、ニザール派イスラム教に敵対する異教徒に対しても激しく抵抗している。

 そのため、モンゴル帝国の攻撃にさらされることとなるわけだが。

 

 

 話はここでイスラム教の分派について移る。

 イスラム教ではキリスト教と異なり、教義上の対立は起こりにくいとされている。

 なぜなら、コーランによって確定されている部分が少なくないからである。

 それゆえ、イスラム教におけるスンニ派シーア派の違いもそれほど大きくないと言われている。

 では、スンニ派シーア派の違いは何か

 簡単に言えば、これは跡目問題である

 つまり、四代目正統カリフであり、マホメットにつらなるアリーの子孫がカリフになるべきだと主張するのがシーア派、それに対して、預言者マホメットであって血筋は関係ないと考えたのがスンニ派である

 

 

 以上、イスラム教において色々とみてきた。

 具体的には、イスラム教が異教徒に寛容であること、その寛容さとジハードが矛盾しないこと。

 また、イスラム教には既に内部から過激派を産み出す土壌があること。

 

 ところで、イスラム教の「ジハード」の教義

 この「ジハード」の認定もイスラム法による。

 つまり、個々のイスラム教徒が「ジハード」と思えば、自動的に「ジハード」になるようなものではない。

 イスラム法学者クルアーンやスンナなどに照らし合わせ、ジハードの宣告をする必要がある。

 だから、勝手に命を投げ出しても緑園に行ける保障はない。

 そして、「過激派」が少数派にとどまっているのはそこに原因がある

 つまり、「過激派」である彼らが勝手にジハードを宣言しているだけに過ぎないから、多数のイスラム教徒はそれに与していないわけである。

 

 もっとも、このことは、一方でとんでもない事態を引き起こす可能性があることを示唆している。

 つまり、イスラム法学者たちがクルアーン・スンナと照合して「欧米との戦いは『ジハード』である」と宣言したらどうなるか、ということである。

 現実に考えた場合、この可能性は絶無でないほど、キリスト教イスラム教の対立は根深い。

 さらに、アメリカの対応はこの対立をさらに悪化させている。

 そこで、第3章でキリスト教イスラム教の歴史についてみていく。

 

 

 以上が第2章のお話である。

 イスラム教について見ているはずが、中国の儒教や歴史教へ行ったり、ユダヤ教へ行ったりキリスト教に行ったり。

 比較することでいろいろなことが学べて十分参考になった。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 17

 今回はこのシリーズの続き。

 

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『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

17 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第3節」を読む(後編)

 前回と前々回で中国における刺客と「歴史教」についてみてきた。

 ここから話はアメリカ・ヨーロッパのキリスト教社会に移る。

 

 これまで見てきたように、中国人は歴史は普遍かつ不変のものとしてとらえる。

 だから、中国人は歴史を重視し、史官たちは真実を後世に語り継ごうとした。

 これに対して、キリスト教社会は歴史をどう見るか。

 中国人と異なり、アメリカ・ヨーロッパ人は歴史は発展・変転するものと考える。

 

 このことを示しているのが、カール・マルクスの発想である。

 マルクスは「人間の社会は『原始共産制奴隷制封建制→資本主義→社会主義共産主義』というように発展していく」と考えた。

 もちろん、それぞれの社会に成立する歴史法則・社会法則は異なると考える

 この場合、例えば、奴隷制で成立する社会法則が資本主義でも成立するとは考えない。

 よって、この発想では「古をもって鏡となす」という発想は出てこないことになる

 

 

 では、この「歴史・社会は発展・変化する」と考える歴史観を産み出したものは何か。

 それはキリスト教の前身たるユダヤ教である。

 ユダヤ教は人格を持つ絶対神ヤハウェ)を信仰する。

 神は万能であり、創造神(クリエーター)である。

 だから、この世の出来事は神の定めたとおりに起こる。

 また、社会法則・歴史法則などの法則も神が定めたと考える。

 この点は自然科学法則でさえ例外ではない。

 

 この発想を前提とすると、神のさじ加減によって法則を含めたあらゆることの変化が可能となる

 よって、歴史は不変・普遍であるといった発想は出てこない

 

 このことを示しているのが、古代イスラエルの民が考えた救済である。

 彼らは救済について、「律法を守り続けていれば、神は我々を救済する。その結果、我々は世界の主人になる」と考える。

 では、神が彼らを救済した後、社会法則はどうなるだろうか。

 「わからない」と言えばより正確であろうが、もし、社会法則が同じであれば彼らは救済されない状態のままになりかねない。

 よって、「救済によって社会法則は変わる」と考えることになる。

 つまり、「新しい時代には新しい法則が妥当する」と考えることになる。

  

 この点、中国人だけではなく、ユダヤ人たちも歴史を尊重する

 そのことは、旧約聖書に記されている古代イスラエル人の記録が示している。

 古代イスラエル人は苦難の中、自分たちの先祖の記録を語り継ぎ、それを旧約聖書の形にまとめた。

 苦難の中、こんなことをするのは歴史を尊重しているからに他ならない

(たとえるなら、貧窮にあえいでいる一族がひたすら先祖が書き続けた日記帳などの記録を保管し続けるようなものである)。

 しかし、彼らが歴史を尊重するのは「古をもって鏡とする」ためではない。

 歴史は神から賜ったものだから、その記録を遺すのである。

 それが苦難であれ、救済であれ。

 

 

 以上の思想は、キリスト教にも引き継がれている。

 そのことを示すのがヨーロッパの革命思想である

 

 キリスト教でも、神は人格を持つ万能の絶対神であり、創造神でもある。

 そのため、この絶対神が歴史や社会科学法則・自然科学法則を作ったものと考える。

 また、最後の審判によって「神の国」が生まれ、キリスト教徒は救済されると考える。

 そこで、この「神の国」では従前の社会法則は成立しないだろうと考える。

 というのも、皇帝・貴族がいばっていた従前の社会(「地の国」)と「神の国」が同じであるはずがないので。

 

 キリスト教では以上の発想が革命思想に発展する。

 つまり、最後の審判によって「神の国」が来ると確信・信仰しているクリスチャンから見れば、現世のことなどかりそめに過ぎず、色あせて見える。

 だって、最後の審判がくれば、現世の秩序など全部消し飛んでしまうのだから。

 この場合、「いっそ最後の審判の前に『神の国』を現世に打ち立てて何の不都合があろう」と考えることになる。

 つまり、「現世の腐った秩序を転覆して、『神の国』にふさわしい新時代の秩序を産み出すことは神の御心に沿うだろう」と考える。

 かくして、革命を肯定する思想をキリスト教徒(特に、新教徒)は抱くことになる。

 

 この辺については、従前の読書メモでも触れている(各メモへのリンクは次の通り)。

 

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  さて、このヨーロッパ人の革命思想。

 この革命思想は中国の易姓革命と異なる点がある。

 

 この点、ヨーロッパの近代革命と中国の易姓革命はともに「革命」という言葉を用いる。

 しかし、ヨーロッパの革命では革命前と革命後には大きな断絶がある

 例えば、フランス革命絶対王政たるアンシャン・レジームの破壊が目的であった。

 また、ロシア革命が目指したのは、皇帝独裁体制の転覆と社会主義に基づく新生ロシアの創造にあった。

 どちらも、革命前の社会と革命後の社会との間には大きな断絶がある。

 この点は、第一次世界大戦末期のドイツ革命、イギリスのピューリタン革命・名誉革命も例外ではない。

 名誉革命を除けば、革命の結果、君主制が(いったん)廃止されている。

 名誉革命君主制自体は存続したが、新しいイギリス国王は「権利の章典」という枷をはめられ、議会と君主のパワーバランスは大きく議会に傾いた。

 

 

 これに対して、中国の易姓革命はどうか。

 確かに、中国の易姓革命では皇帝の姓が変更される。

 しかし、体制、つまり、システムは大きく変わらない。

 このことは易姓革命のプロセスを考えることで理解できる。

 

 つまり、中国では「天」が天下を統治させるための任務を「皇帝」に与える

 そして、皇帝は地上において絶対的権力を持ち、中国を統治する。

 しかし、皇帝によっては天から与えられた任務を忘れて、自分の栄華を求めることがある。

 そこで、その天命から逸脱した皇帝を排除し、新たに天命が与えられたものを皇帝に入れ替えるための一連の行為、これが易姓革命になる

 よって、易姓革命によって皇帝の姓が変わっても、従前の社会システムに変化は生じない。

 つまり、革命前後で体制は連続しており、また、社会は連続していることになる

 

 この革命によっても体制が変わらない中国。

 ヘーゲルはこれを「持続の帝国」と名付けることになる。

 

 

 以上のように、ヨーロッパ(アメリカ)では歴史や社会は進化すると考える。

 他方、中国では歴史や社会は普遍・不変と考える。

 このことが刺客や暗殺者に対する評価を分けることになる。

 

 つまり、中国の刺客たちは「士は己を知る者のために死す」という理想に殉じたわけであるが、この理想も不変・普遍のものと考える。

 これが中国において刺客が高く評価される理由となる。

 もし、理想が普遍のものではなく、ころころ変わるものと考えていたら、理想に殉じる意味はないから(将来、理想が変わってしまうから)。

 その場合、おいそれと歴史に殉じることはできないだろう。

 

 この点については、刺客のみならず、文天祥においても同様である。

 文天祥南宋のため立ち上がったが、文天祥自身が南宋に勝算があったと考えていなかったであろう。

 しかし、「忠臣としての生涯を全うできれば、自分の行為は未来永劫評価される」と確信できたから、文天祥フビライの勧誘を蹴ることができたし、また、元を敵に回すことができたと言える。

 これをヨーロッパの価値観で見たら、文天祥の行いをヨーロッパで行ったらどうなるか。

 それは、酷評の一言に尽きる。

 つまり、「文天祥は時流が見えていなかった無能な人間である」か「文天祥は時流が見えていながらも過去の遺物に固執した守旧派の人間であった」のいずれかになる。

 こうならざるを得ない。

 これでは、ヨーロッパでは暗殺者は評価されなくて当然、ということになる。

 プロの殺し屋を除けば、ヨーロッパとアメリカでは、暗殺者は歴史の変化に抵抗する時代錯誤者であり、抵抗勢力と考えることになるのだから。

 これでは暗殺者を褒めるはずがない。

 

 

 以上のように、中国とアメリカ・ヨーロッパでは、刺客・暗殺者に対する評価に天地の開きがある。

 では、アラビア社会、つまり、イスラム社会は中国とヨーロッパのいずれに似ているか。

 同じ啓典宗教だからキリスト教社会ことヨーロッパに近くなるか。

 そんなことはない。

 イスラム教徒は中国寄りである。

 というのも、中国と同様、イスラム社会も変化を否定する社会だからである

 

 この点、イスラム教では絶対神アッラー)が世界を統べていると考える。

 また、「最後の審判」も存在する。

 ならば、キリスト教などのように「法則は神のさじ加減で変転しうる」と考えるようにみえる。

 しかし、キリスト教ユダヤ教と異なり、イスラム教は「マホメットが最後の預言者である」としている。

 このことが大きな違いを生むことなる。

 

 

 どういうことか。

 イスラム教の六信の一つ、「預言者」。

 つまり、イスラム教徒は預言者の実在を信じなければならないことになる。

 では、これは具体的に何を信じることを意味するのか。

 本書によると、イスラム教における重要な預言者は「アーダム(アダム)」・「ヌーフ(ノア)」・「イブラーヒーム(アブラハム)」・「ムーサー(モーセ)」・「イーサー(イエス)」、そして、「マホメット」の6人である。

 もちろん、一番重要なのがマホメットである。

 そして、クルアーンにはマホメットアッラー使徒であり、最後の預言者である」という趣旨の記載がある。

 

(以下、和訳されたクルアーンの第33章の第40節より引用、引用元は次のリンク参照)

 ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。

 しかし、アッラー使徒であり、また預言者たちの封緘である。

 本当にアッラーは全知であられる

(引用終了)

 

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 つまり、マホメットが最後の預言者であり、コーランは神から与えられた最後の啓示である。

 よって、マホメットの後に預言者が現れることはない

 この事実を信じることは「預言者を信じる」ことの一部である。

 

 この「預言者はもう現れない」という考えは、ユダヤ教キリスト教にはない。

 例えば、ユダヤ教において神は必要に応じて預言者をこの世界に送り込む。

 だから、エジプトのイスラエルの民を救うために、神はモーセを派遣した。

 古代イスラエル王国を救うために、神はエレミヤを預言者として派遣した。

 それから、イエスが現れたときも、ユダヤ教徒は「イエス預言者かもしれない」と考えた。

 もっとも、イエスは律法を無視して、律法学者を誹謗した。

 そのため、ユダヤ教徒はイエスを偽預言者として排撃したわけである。

 

 

 では、キリスト教の場合はどうか。

 聖書には「今後、預言者が現れることはない」とは書いていない。

 よって、「今後、預言者が登場するかもしれないし、しないかもしれない」ということになる。

 

 この点、その預言者が現れたと考えるキリスト教の一派がモルモン教である。

 モルモン教は19世紀に興ったキリスト教の一派なのだが、大きな特徴として「モルモン経」という聖書以外の啓典を持つ点にある。

「モルモン経」は、「西暦5世紀ころ、モルモンという預言者によって書かれたものであり、その後、1823年に天使によって創始者ジョセフ・スミスに引き渡された」と言われている。

 この点、聖書を見る限り「(モルモンという)預言者が現れない」とか「今後、新しい啓典が下されることがない」と書かれていない以上、聖書とモルモン教は矛盾しない。

 まあ、正統なキリスト教から見ればどうなるかはさておくとしても。

 

 ところで、本書によると、この「モルモン経」には面白い逸話があるらしい。

 スミスの発見したこの「モルモン経」は英語で書かれており、さらには、英語の欽定訳聖書から引用されている(文言が使われている)こともわかった。

 英語の欽定訳聖書が作られたのは17世紀のジェームズ一世(ピューリタン革命で処刑されたイギリス国王チャールズ1世の父親)の時代である。

 欽定訳聖書は別名「キング・ジェームズ・バイブル」とも呼ばれ、英語訳聖書のなかで最も格式が高いものと言われている。

 一方、スミスの主張によると、モルモン経を書いたモルモンという預言者が存在したのは5世紀である。

 はてはて、5世紀ころの時代の人間に17世紀の言葉が用いることができようか。

 こはいかに。

 このような当然、かつ、常識的な突込みに対して、スミスは次のように即答したそうである。

「神は万能であって、将来、どのような聖書が作られるか・訳されるかも神がお定めになっております。その数ある聖書のうち欽定訳聖書が優れている聖書になるというご判断から、それを見越して『モルモン経』に欽定訳聖書の言葉をお使いになったのでしょう。神の全能性がまた一つ証明されました」と。

 もちろん、つじつまがあわないわけではない。

 また、これを即座に切り返したのであれば、論戦として見た場合、スミスはすごいと言える。

 もっとも、それをどう評価するかは、、、さておいて。

 

 

 話はここからイスラム教の視点に戻る。

 ただ、きりがいいので、今回はこの辺で。

司法試験の過去問を見直す6 その3

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成18年度の憲法第1問についてみていく。

 

4 「公共の福祉」による制約_あてはめ

 まず、前回までの流れを確認する。

 

・広告放送の自由が憲法上の権利として保障される根拠条文は21条1項

・「公共の福祉」による制約として正当化される基準はいわゆる厳格な合理性の基準(目的が重要、手段と目的との間に実質的関連性がある場合に合憲)による

・規範定立においては営利的言論である点には言及したが、放送の特殊性には言及していない

(よって、あてはめにおいて「放送の特殊性」に言及する必要がある)

 

 また、過去問の問題文を今一度確認する。

 

(以下、問題文を引用・掲載、引用元は法務省のサイトから)

 国会は,主に午後6時から同11時までの時間帯における広告放送時間の拡大が,多様で質の高い放送番組への視聴者のアクセスを阻害する効果を及ぼしているとの理由から,この時間帯における広告放送を1時間ごとに5分以内に制限するとともに,この制限に違反して広告放送を行った場合には当該放送事業者の放送免許を取り消す旨の法律を制定した。この結果,放送事業者としては,東京キー局の場合,1社平均で数十億円の減収が見込まれている。この法律に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(問題文終了)

 

 

 まず、規制目的の合理性(重要性)をみてみる

 本問法律による規制目的は「多様で質の高い放送番組への視聴者のアクセス」を実現することにある。

「多様で質の高い放送番組を視聴者に提供し、そのアクセスを実現すること」は憲法21条によって保障される国民の知る権利の実効化に寄与する。

 ならば、規制目的は公共の利益の実現にとって重要であると言える。

 

 目的と憲法上の利益をリンクさせれば、規制目的の正当化は容易であろう。

 大展開する必要はないが、押さえるべきところ、例えば、「事実を認定し、事実を評価し、要件へあてはめる」といったことはちゃんと押さえる必要がある。

 

 この点、「多様で質の高い放送番組への視聴者のアクセス」、これ自体を国家の責務に含めていいのか、という疑問はなくはない。

 というのも、思想言論の自由市場に対する介入という要素を含まざるを得ないからである。

 しかし、「国民の知る権利へ寄与すること」が国民の人権とリンクすることは間違いない。

 その点を考慮するならば、目的の重要性を否定するのは苦しいと考えられる。

 

 

 では、規制手段の相当性(実質的関連性)についてはどうだろうか

 まず、肯定的な事情に目を向けてみる。

 

 この点、テレビ放送は放送事業者が国民に一方的に情報を提供するという特徴がある(いわゆる「お茶の間効果」)ところ、放送の質・多様性の低下は国民の情報アクセスに対して重大な悪影響を及ぼす。

 そのため、放送の質の向上・多様化の必要性は高い。

 次に、広告放送の時間に上限を作れば、放送事業者は番組時間を増やさなければならなくなる。

 番組時間が増えることで、放送内容の多様性や質の向上に寄与する可能性がある。

 また、1時間に5分以内であれば、一般に使われている15秒間の広告を1時間に20個流すことができる。

 30秒間のCMであっても1時間に10個流すことができる。

 そして、広告放送の時間の上限設定は午後6時から午後11時までの5時間だけであり、他の19時間については上限の制約がない。

 また、広告の内容に対する制約があるわけではない。

 とすれば、他の時間帯に広告放送を増やすこと、または、広告の内容を改良することで、従前の損害をフォローしながら、番組の質・多様性を確保していくといったことができないとは言えない。

 これらの点を考慮すると、規制手段に一定の合理性があること自体を否定することはできないことになる。

 

 

 ここから一気にひっくり返す。

 本問規制に対する最大の疑問は、「広告放送時間の上限設定」によって「多様で質の高い放送番組への視聴者のアクセス」が実現できるのか、という疑問である。

 確かに、広告時間の上限を設定すれば、番組の放送時間が増える。

 しかし、時間が増えた分、中身が薄くなってしまえば、または、間延びしてしまえば質の向上にはつながらないし、同じ放送を繰り返すようであれば、これまた、多様性の向上にはつながらない。

 そして、本問規制によっていわゆる東京キー局によって数十億の減収が見込まれている。

 一般に、収入が減少すれば制作費用を削ることになることは容易に想定され、その結果、本放送の質は下がる可能性が高くなる。

 また、減収と時間の増加が重なった結果、同様の放送が繰り返される・間延びするといった可能性が高まり、結果、多様性の向上の可能性も減少することになる。

 このように、「減収とセット」で考えた場合、広告時間の上限設定という手段は質・多様性の高い番組へのアクセスという目的を達成する手段として現実的に有効とは言えない。

 

 また、放送事業者の広告放送の時間の上限を制限するということは単に放送事業者の放送の自由を制約するという意味にとどまらない

 何故ならば、広告放送で放送されるCMは放送事業者から放送枠を購入した私企業のコマーシャルだからである。

 そして、前述の通り、広告放送の上限枠の設定により東京キー局クラスの放送事業者で数十億の減収が見込まれている。

 さらに、規制がかけられている時間帯の午後6時から午後11時はいわゆるゴールデンタイムやプライムタイムを含んでおり、この時間にテレビを視聴する人の割合が増えるのだから、この時間の広告放送を制限させれば、他の時間で挽回するのは難しいことになる。

 そのため、放送事業者はこの減収をカバーするため、放送枠の単価を増やすことで対応せざるを得ない。

 その結果、お金のない中小企業は本件規制により放送のCMから締め出されることになり、これらの企業の営業の自由を制限することになる。

 さらに、お金のない企業を広告放送のCMから締め出した結果、放送事業者はお金のある小数の企業のCMに頼ることになり、その結果、放送事業者は小数となったスポンサーの意向に引きずられ、結果的に、情報の多様性を損なうといったことにもなりかねないことになる

 とすれば、当該規制手段は情報の偏りをもたらすおそれがあるという意味において有効性に疑義があり、加えて、放送という表現媒体の公共性に照らして考えれば、手段として適切であるとも言い難いことになる。

 

 さらに、広告時間の制限に違反して広告放送を行った場合の制裁は免許取消であるから、将来の放送自体が全面的に不可能になる強力な規制である。

 そして、金銭的な不利益処分で目的が十分達成できないといった事情が見受けられない本問においては過剰な規制と言え、手段として適切とは言い難いことになる。

 

 以上を考慮すると、本問の規制目的は重要であるとはいえるもの、その手段の実効性に疑問があるのみならず、重大な副作用があると考えられ、手段と目的との間に実質的関連性があるとは言えない。

 よって、本問規制は「公共の福祉」による制約として正当化できない。

 以上より、本問法律は違憲である。

 

 

 こんなところであろうか。

 ここでは、「手段の実効性に疑問があるため違憲という考えでいるため、代替手段の検討は特に考えていない。

 なぜなら、代替手段を吟味する価値があるのは、「実効性があるが、副作用が大きい」という場合だからである(この場合、代替手段があれば違憲、なければ合憲になる)。

 

 ただ、「多様性あふれた、しかも、質の高い放送番組へのアクセスの実現」を達成するための具体的な手段ってあるのだろうか?

 確かに、広告放送の時間の上限設定が安易であるとは言いやすい。

 しかし、他の適切な手段があるのかどうか、と考えるとよくわからない。

 一案として、国が情報の偏りを是正するような番組に対するスポンサーになる、つまり、そのような番組を作るために補助金を出すという手段が考えられる。

 しかし、これはこれで別の重大な問題を引き起こしそうな気がする。

 

 

 以上、過去問の検討を行った。

 次回は、本問を通じて考えたことについて述べていきたい。

司法試験の過去問を見直す6 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成18年度の憲法第1問についてみていく。

 

3 公共の福祉による制約_違憲審査基準の定立

 前回、広告放送、つまり、営利的言論の自由が21条1項によって憲法上の権利として保障されうることを確認した。

 そのため、本問法律が「公共の福祉」(憲法12条後段・13条後段)による制限として正当化されなければ違憲となる。

 

 では、本問法律は「公共の福祉」による制限といえるか。

「営利的言論に対する違憲審査基準」が問題となる。

 

 

 まず、原則論として表現の自由の崇高さを高らかに謳いあげるのはありである(論文試験で「謳いあげる」というのもあれだが)。

 どうせ後ほどひっくり返すのだから不要だと言えなくもないが、一応、言っておこう。

 つまり、表現の自由には、言論活動を通じて自己の人格を発展させるという自己実現の価値と言論活動を通じて国家の意思形成に参加するという自己統治の価値があるところ、表現の自由を不当に制限すると民主制の過程における自己回復が困難であるから、表現の自由の制限に対する審査基準は厳格な審査基準を用いるのが原則である、と。

 

 この表現の自由の制約に関する原則論はこちらで既に述べたとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 しかし、本問法律で規制されているのは営利的言論である。

 そして、コマーシャルのような営利的言論は営業・宣伝のために行うのであって、国家の意思形成に参加するために行われるわけではない。

 このことを考慮すると、営利的言論において自己統治の価値が希薄になる。

 その結果、権利の重要性・要保護性は他の精神的自由と比較すれば、やや低下することになる。

 

 また、発表時間の割合に上限を設けるといった制限は、営利言論の内容とは関係ない制限、つまり、内容中立規制に該当する。

 つまり、内容中立規制の場合、言論内容それ自体に制限がかかるわけではない。

 そのため、言論の内容に対する規制、いわゆる内容規制と比較して制限の程度は強くない。

 

 以上を考慮すると、本問法律に対する審査基準に厳格審査基準それ自体を用いるのは妥当ではなく、やや緩和された基準を用いるべきであると考える

 具体的には、規制目的が重要な公共の利益の実現にあり、規制手段が規制目的と実質的関連性を有する場合に合憲と考える、いわゆる「厳格な合理性の基準」を用いるべきであると考える。

 

 この答案の流れも平成18年に書いた答案と同様である(内容中立規制である点に言及したかは忘れたが)。

 あてはめの部分でここで触れていなかった問題文の事情に触れ、その検討が詳細であれば大丈夫だろう、とは考えられる。

 

 

 ところで、出題趣旨を見ると、次のようなことが書かれている。

 

(以下、出題趣旨を引用、強調は私の手による)

 本問は,放送事業者の広告放送の自由を制約する法律が制定されたという仮定の事案について,営利的表現の自由の保障根拠や放送という媒体の特性を踏まえて,その合憲性審査基準を検討し,当該事案に適用するとともに,放送事業者に生じうる損害に対する賠償ないし補償の可能性をも検討し,これらを論理的に記述できるかどうかを問うものである。

(引用終了)

 

 出題趣旨を見ると、審査基準の検討の際、「営利的言論」であることだけではなく「放送」であることをも考慮して検討せよ、と記載されている。

 この発想は当時の私にはなかった。

 さらに言えば、試験本番、私は「放送である点」は完全にスキップしたような気さえする。

 

 この点、憲法表現の自由を学んだ際、「放送の自由」については「デモ行進の自由」と同様、個別に学んでいる。

 とすれば、「放送」である点を審査基準に反映させることは十分可能であったことになる。

 

 これはどういうことなのだろう。

 私が気付かなった原因として次の2つが考えられる。

 

1、一般に、「違憲審査基準を立てる際には、本問の具体的事情を書き込んではならない」と考えていたため、「放送」の要素を入れることに考慮が及ばなかった

2、いわゆる論証パターンに引きずられた

 

 まず、1から。

 一般に、「規範定立部分で『問題文に書かれた具体的事情(固有名詞)』を用いてはならない」と言われている。

 規範の一般性が失われてしまうからである。

 本問で考えるなら、「東京キー局」・「午後6時から午後11時まで」・具体的な放送事業者(テレビ朝日など)を規範定立の根拠に利用するのはまずいことになる。

 しかし、本問の具体的事情それ自体ではなく、具体的事情を含む上位概念・抽象的な概念を用いることは問題ない。

 そうしないと、本問事情に対応した具体的な基準が立てられないからである

 本問で考えるなら、「広告放送」(本問の事情)を含む「営利的言論」について言及すること、「上限枠の規制」(本問の事情)を含む「内容中立規制」について言及するのは問題ない。

 ならば、「放送」一般について論じても問題ないことになる。

 この辺は一般性の要請を重視しすぎた、ということなのかもしれない。

 

 なお、教科書(基本書)などで「放送の自由」を学ぶ際、「放送に対する特殊な規制(中立性の要求その他、新聞にはこのような規制はない)は許されるか(結論は許される)」という問題意識で学ぶ。

 また、放送に対する特殊な規制が許される根拠は、放送の公共性・希少性・浸透性の強さ(いわゆる「お茶の間効果」)と言われている。

 その結果、放送という特殊性に言及すれば、権利の要保護性の減少と規制の必要性を主張することになり、違憲審査基準は緩やかにする方向に働くことになる。

 

 ただ、2も重要かもしれない。

 というのも、司法試験(当時も今も)は本当に時間がなく、時間短縮の要請の観点から、規範定立の部分はコピペで済ませることが多かったからである。

 その結果、営利的言論に関する論証パターン(規範定立の根拠と規範の部分をまとめてある一連の文章であり、各自試験前に覚えておくべきもの)を書くことに焦点がいきすぎ、広告放送である点を見過ごしてしまった、ということができる。

 

 この点、「放送」である点はあてはめで詳細に言及するということができる。

 というのも、「放送の特殊性」は表現の浸透性の強さと希少性・公共性にあり、「放送」であることによって自己実現の価値や自己統治の価値が緩和される、というわけではないからである。

 この点は、自己統治の価値が希薄になるという営利的言論とは異なる。

 その意味で規範部分で言及しなくてもダメージは小さいのではないかと考えられる。

 

 

 また、上ではいわゆる「厳格な合理性の基準」という審査基準を立てた

 ただ、平成18年当時の本番において、私はいわゆる「合理的関連性の基準」によるべきか、それともいわゆる「厳格な合理性の基準(実質的関連性の基準)」によるべきか少し悩んだ。

 結局、後者を選んだわけだが。

 

 両者の違いは、審査の密度である。

 つまり、いわゆる合理的関連性の基準では、目的と手段が抽象的・観念的・形式的に関連していれば関連性を認めるのに対して、いわゆる実質的関連性の基準では、目的と手段が具体的・実質的に関連している必要がある。

 だから、前者の方が違憲審査基準が緩やかになる。

 

 この点、本問の規制は表現の自由に対する規制である。

 だから、経済的自由の制約と異なり、立法裁量を認める必要がない関係で、裁判所は具体的な比較衡量ができる。

 よって、具体的に審査する厳格な合理性の基準を用いてもいいし、あるいは、用いるべきということもできる。

 猿払事件で用いられた基準が合理的関連性の基準である以上、合理的関連性の基準にこだわるべきではないか、そんな疑問もちらつくけれども。

 

 

 以上、違憲審査基準まで考えた。

 次回はこの基準を用いてあてはめを行う予定である。