今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
19 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第1節を読む」(前編)
今回から第3章についてみていく。
第3章の内容は「ヨーロッパ社会とイスラム社会の抗争の歴史」と「イスラム社会における近代化の可能性」の二本立てである。
この点、前者は第1節の「『十字軍コンプレックス』を解剖する_現代世界にクサビ刺す『1000年来の恩讐』」で触れられている。
また、後者は第2節の「苦悩する現代イスラム_なぜイスラムは近代化できないのか」で触れられている。
まずは、第1節からみていく。
この章は、2001年のセプテンバー・イレブンから話が始まる。
この事件はイスラム教社会のアメリカを含む西側諸国への憎悪の大きさを満天下に示した。
このことは、イスラム教徒の中にあの事件を「快挙」と見る向きがあること、また、その後のアメリカの軍事作戦(アフガン侵攻)に対して、各地のイスラム教徒が反米デモを行ったことから示されている。
この憎悪はどこから来るのか。
あるいは、アメリカの政治施設たる大使館やペンタゴンを襲撃するのではなく、世界貿易センタービルで働いていた一般人を殺傷することが、何故、ジハードになるのか。
まず、この憎悪は単なる国家や民族への憎悪ではない。
イスラム教徒のキリスト教徒全体に対する憎悪と考えるべきである、というのが著者(小室直樹先生)の主張である。
でなければ、「権力者でない一般人を狙い撃ちすることがジハードになる」と主張することに対することの説明がつかない。
そこで、イスラム教徒のキリスト教徒に対する反感についてみていくことがカギになる、という。
ところで、日本にだって反米感情が存在しないわけではない。
しかし、この反米感情とイスラム教徒の反キリスト教感情を一緒くたにすることは妥当ではない。
それはとんでもない誤解と判断ミスを招くことになる。
というのも、日本人がヨーロッパと本格的に接触したのは19世紀半ばであり、まだ200年も経過していないのに対して、キリスト教とイスラム教の関係ははるかに長いからである。
そこで、キリスト教とイスラム教の歴史を知ることから始めていく。
ここで、まず、日本人が認識している世界史の範囲についてみてみる。
一般に、日本人が高校などで学ぶ世界史の範囲は次の範囲であろう。
これらに限定して文部科学省は「世界史」などと称しているわけである。
しかし、ここには大事なものが二つ抜けているように見える。
その一つが本書で触れている「アラビア社会=イスラム社会」の歴史、そして、本書で触れられていないもう一つの抜けている歴史がインド史である。
この点、中国は長きにわたって見事な文明を作ってきた。
しかし、イスラム社会も中国に負けない文化を築いていた。
イスラム社会の隆盛を細かく見ると、イスラム社会の全盛期は三度ある。
一つ目は正統カリフの時代、二つ目はアッバース朝の時代、三つ目がオスマン帝国とサファビー朝とムガル帝国の時代である。
さらに付け加えれば、ティムール帝国の時代もある。
まずは、正統カリフの時代。
前書きで少しふれたが、アラブ人たちはがクルアーンを手にするや否や、中東で争っていた二大帝国たるビザンティン帝国とササン朝ペルシャを蹴散らしてしまう。
そして、100年も経たぬ間に(イスラム帝国は正統カリフの時代からウマイヤ朝に移る)、西はイベリア半島、東は中央アジアまで征服してしまった。
マホメットは生前、奇蹟を起こさなかったと言われているが、マホメットが広めた教えは世界史に奇蹟をもたらしたと言える。
イスラム帝国は正統カリフの時代からウマイヤ朝に代わり、続いて、アッバース朝の時代になった。
時代はおよそ8世紀である。
このアッバース朝は首都をバグダードに置いた(ウマイヤ朝の首都はシリアのダマスカス)。
このバグダードに帝国の富と知識が集まった。
また、アッバース朝は武力においても同時代の中国王朝たる唐に引けをとらなかった。
ちなみに、唐との戦いで中国で作られていた紙と製紙技術がアラビア世界に伝わったと言われているのは有名な話である。
この紙の伝来なくしてイスラム文化の発展は考えられない。
もちろん、ヨーロッパにもイスラム社会を通じて紙が伝わることになる。
ヨーロッパも紙の普及があってキリスト教が広がることになる。
その後、十字軍やモンゴル軍の襲来があってドタバタするが、イスラム教徒たちは勢力を盛り返すことになる。
まずは、ティムール帝国、そして、オスマン帝国・サファヴィー朝・ムガル帝国の隆盛時代の到来である。
オスマン帝国はビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、1000年続いたビザンティン帝国を滅ぼし、バルカン半島・エジプト・アラビアに一大勢力を築いた。
このイスラム帝国の進出・拡大。
現代を除けば、これに匹敵するのはモンゴル帝国の世界征服であろうか。
この点、モンゴル帝国はユーラシア帝国の大半を席巻したが、期間が短かった。
これに対して、アッバース朝は750年から1258年までの約500年間続いた。
また、オスマン帝国も1299年から1922年まで約600年続いている。
さらに、ムガル帝国は1522年から1858年まで約300年続いている。
もちろん、この期間には衰退した期間も含まれるが、それにつけても長い。
中国の王朝で約500年続いた王朝は・・・かなり昔にさかのぼる必要があるだろう。
このように、中国と比較した場合、イスラム社会は安定している。
もちろん、この背後にはイスラム教があることが大きいのだが。
また、これだけの領土を拡大したのであれば、それを実現した英雄もいる。
本書では、ティムール帝国の建国者のティムール、若干二十一歳でコンスタンティノープルを征服してビザンティン帝国を滅ぼしたオスマン帝国のメフメット2世、ムガル帝国の三代目の皇帝のアクバル大帝が取り上げられている。
著者によると、この三人に比較すれば、「フランス・イタリア・オーストリアしか押さえられなかったフランス皇帝ナポレオンなど大したことがない。彼らと肩を並べたければ、冬将軍が来る前にロシアを叩き潰し、取って返してドーバー海峡を渡ってイギリス王の首をはねるくらいしなければ」とのことである。
さらに言うと、ここで書いたことを先進各国の一般人が知らないこと自体がイスラム教徒にとって気に入らない、らしい。
ただ、そこまで言うと、、、という感じがしないではないが。
もちろん、イスラム教徒は戦争だけが得意だったわけではない。
前述のバグダートは世界の都として文化の中心となった。
その辺はかの『千夜一夜物語』を考慮すれば十分であろう。
この点について、著者は「九世紀のバグダードには150万人の住民がおり、また、数万の公衆浴場があった」というエピソードを取り上げている。
150万人という人口自体もすごい話だが、数万の公衆浴場というのもすごい。
もちろん、これだけ公衆浴場が多い理由はイスラム教が礼拝の際に体を清浄にすることを規範としていることも関係している。
このきれい好きは日本をほうふつさせるかもしれない。
ちなみに、この点について対称的なのが近代以前のヨーロッパである。
近代以前のヨーロッパでは1年に数回しか風呂に入らない人間が貴族や王族の中にもいた。
そこで、体臭をごまかすために香水が使われた、というのは有名な話である。
以上、イスラム教社会の歴史の壮大さについて触れてきた。
ここから、イスラム教の文化が世界に果たした役割について見ていくわけだが、きりがいいので、今回はこの辺で。