薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す1 前編

1 はじめに

 少し前、メモにしていた裏紙の裏側に私が勉強していた旧司法試験の過去問がプリントされており、それを見た私は過去を思い出し、かつ、色々考えた。

 そのことは前回のブログに書いた通り。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今日はその続き。

 ただ、1回のブログに書く内容としてはちょっと長いので分けて書く。

 あと、憲法学に関する前提知識がないとピンとこないと思うので、その辺の説明もしたい。

 

2 旧司法試験・論文試験・憲法・平成3年第1問

 前回は昭和58年度の旧司法試験の論文試験の憲法第1問について言及した。

 今回は平成3年度の旧司法試験の論文試験の憲法第1問について言及する。

 具体的な問題は次のとおり。

 なお、過去問は昔使っていた『司法試験対策講座5・憲法・第2版』(伊藤真著・弘文堂・1998)から転記する。

 

(以下、司法試験の過去問を転記)

「市の繁華街に国政に関する講演会の立看板を掲示した行為が、屋外広告物法及びそれに基づく条例に違反するとして有罪とされても、表現内容にかかわらないこの種の規制は、立法目的が正当で立法目的と規制手段との間に合理的な関連性があれば違憲ではないからやむを得ない。」との見解について論評せよ。

 なお、「小中学校の周辺では煽情的な広告物の掲示はできない」との規制の当否についても論ぜよ。 

 (引用終了)

 

 前回と同じ見解論評問題である。

 テーマを専門用語で書くならば「表現の自由に対する内容中立規制」について。

 

 試験勉強当時に作った私の答案の骨子はこんな感じである。

 

① 講演会の立看板を掲示する行為は憲法21条1項前段の「表現の自由」によって保障されるので、これをすることは有罪にすることは「表現の自由」に対する制限にあたる。

② (①を前提に)内容中立規制は「立法目的が正当であり、かつ、規制手段がそれ以外のより緩やかな規制手段では立法目的が達成できない場合に限り合憲になる」と考えるべきであり、「立法目的が正当で立法目的と規制手段との間に合理的な関連性があれば違憲ではない」との見解には同意できない。

③ ②を前提に立つので、法律・条例がもし具体的な事情を一切考慮せず有罪にしているならば、結論には同意できない。

(「なお、~」以下の答案骨子は省略)

 

 この問題について考える前に、前提知識について説明する。

 以下は、所謂教科書的な説明である。

 

3 表現の自由の重要性について

 最高裁すら言及しているが、民主主義において表現の自由は極めて重要である。

 何故なら、政府・議会が間違ったことをした場合、それを修正する方法として、「その間違いを指摘し、周囲にそれの意見を伝えて説得し、投票・議会の議論(立法)・議会による行政(政府)の監視によって是正する」という方法があるが、これが民主主義における正当な方法だからである。

 そして、この正当な方法は「表現の自由」がなければ到底機能しえない。

 つまり、単に表現の自由は「個人の(人格的)利益」を確保する手段だけではなく、民主主義を機能するための手段としても機能しているのである。

 

4 表現の自由の限界について、表現はどこまで規制できるかについて

 とはいえ、表現の自由にも限界はある。

 例えば、虚偽の事実(でたらめ)を並べ立てて他人を貶める発言をすれば、その人の名誉(名誉権、憲法13条の解釈により保証)は害されるだろうし、言論活動によって営業活動を妨害すれば、妨害された人の経済活動の自由(憲法22条により保証)が害される。

 こういうことも考えればわかる通り、あらゆる表現を無制限に許すわけにはいかない。

 よって、そのような事態を防止するための手段として法律の制定・執行、条例の制定等があり、それらに基づく制限は「公共の福祉」による調整として憲法上正当化される。

 

 問題は具体的にどこまで許されるかである。

「規制は一切許されない」というのは当たり前だが、「憲法上の根拠があるので、いかなる規制も許される」ということもないのは当然である。

 

 この点について、教科書に書かれていることをまとめると次のようになる。

 

 表現の自由によって保障される表現活動(その裏返しとしての情報受領活動)は個人の利益(人格)の向上に役に立つだけではなく、前述のとおり民主政治を正当に機能させるための担保としても働いている。

 また、多数派を代表する議会・議会の信任を受けて構成している政府からすれば、自分たちが間違っていることが少数者から指摘されれば、自分たちの正当性や権益がおびやかされるため、少数者の口をふさぐという誘惑にかかられやすい(現実に規制するか否かはさておき、誘惑にかられることは否定できないだろう、事実、歴史を見れば誘惑にかられてために様々な事件が起きている)。

 という事情を踏まえ、表現の自由に対する規制に対して、裁判所は慎重に考えなければならない、そのための違憲審査基準は厳格に判断されなければならないとされている。

 例えば、憲法21条2項は「検閲」を禁止しているが、この条文は以上の考えが結晶化されたものと言ってもよい(つまり、ここまで書いた内容は単なる私の妄想ではない)。

 

 そのため、内容に着目した規制(「内容規制」と言われる、例えば、「マルクス思想に関する発表することやマルクス思想に関する書籍の輸入を禁止する」というもの、現実にこんな規制はあり得ないが、例として出した)に対しては、最高裁でさえ一般論としては厳しい基準で臨んでいることが多い(もちろん、その基準ですら生ぬるいという批判があるとしても)。

 

 問題は、「内容に着目していない規制」(これを「内容中立規制」という)に対してはどう考えればいいか、という問題である。

 

 これについて考えよ、というのがこの過去問なのである。

 ただ、時間と文字数が来てしまったので、この話題は次回で。