今回はこのシリーズの続き。
旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成18年度の憲法第1問についてみる。
なお、前回までで問題に関する検討はひと段落した。
今回は「答案を作る」という観点から離れて問題について考えてみる。
そして、次回、本問を前提に考えたことをみていく。
5 違憲審査基準再考
前々回、違憲審査基準を定立する際、「放送」の特殊性を考慮しなかった。
ただ、出題趣旨を見ると、司法試験委員会は「放送」の特殊性に配慮した上で違憲審査基準を立てることを想定していたようである。
では、「放送」の特殊性を違憲審査基準に反映させるとどうなるだろうか。
前々回、違憲審査基準の定立に考慮した要素は次の3点であった。
1、「表現の自由に対する規制」
→「(民主制の過程での自己回復が困難である関係で)裁判所が国会の判断を尊重する必要がない」
2、「営利的言論に対する規制」
→「自己統治の価値が希薄であり、権利の重要性・要保護性がやや下がる」
3、「内容中立規制」
→「表現内容に介入する規制ではないため、制限の態様が弱い」
ここに、「放送」の特殊性を加えると、次のようになる。
4、「(電波の希少性・お茶の間効果・放送の公共性という特徴のある)放送に対する規制」
→「特殊な人間のみが行使できる権利であって、公共性が強い」
→「権利の重要性・要保護性が低下する」
つまり、「放送に対する規制」は「営利的言論に対する規制」同様、違憲審査基準を緩める方向に作用することになる。
では、違憲審査基準を具体的に変えるべきであろうか。
この点、4以外の3つの要素を考慮した場合の違憲審査基準はいわゆる「厳格な合理性の基準」であった。
ならば、これに4を加えた場合、権利の重要性がより低下することを考慮して、違憲審査基準をさらに緩くする方向で変化させる必要があるとも言える。
というのも、違憲審査基準が変化しないならば4の要素を追加した意味がないから。
この場合、採用する違憲審査基準は猿払事件の「合理的関連性の基準」まで緩めることになる。
一方、権利の要保護性・重要性を下げる要素の「個数」と違憲審査基準に対する緩和の「程度」が比例・線形の関係なければならない、ということはない。
そのため、要素が1個から2個に増えたことで、直ちに違憲審査基準を緩めなければならないことはない、と言うこともできる。
この辺は正直よくわからないし、また、どちらでもいい気がする。
「司法試験で求められていることは判断要素の列挙までで足り、判断要素と違憲審査の密度の定量的関係まで示す必要はない」ということはできるので。
6 猿払事件の「合理的関連性の基準」によるあてはめ
では、違憲審査基準を緩めて合理的関連性の基準に変更した場合、本件法律あてはめはどうなるだろうか。
合理的関連性の基準の場合、①目的が正当(重要でなくてもよい)であり、②手段が目的との間で合理的(抽象的・形式的・観念的)関連性があり(実質的関連性は不要)、かつ、③得られる利益と失われる利益の均衡が失していなければいい、と考える。
そして、前回のあてはめで「目的が重要性である」と言えたので、①目的が正当であることは明白である。
よって、この要件は充足している。
では、②規制手段の合理的関連性があると言えるだろうか。
ここで、立法目的と規制手段との間の「合理的関連性」を否定した事件に森林法違憲判決がある。
昭和59年(オ)805号・共有物分割等事件
昭和62年4月22日最高裁判所大法廷判決
(いわゆる森林法違憲判決)
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/203/055203_hanrei.pdf
この判決における規制手段の合理的関連性の有無を検討している部分を見てみる。
(以下、上記判決から引用、セッション番号は省略、強調は私の手による)
森林が共有となることによつて、当然に、その共有者間に森林経営のための目的的団体が形成されることになるわけではなく、また、共有者が当該森林の経営につき相互に協力すべき権利義務を負うに至るものではないから、森林が共有であることと森林の共同経営とは直接関連するものとはいえない。したがつて、共有森林の共有者間の権利義務についての規制は、森林経営の安定を直接的目的とする前示の森林法一八六条の立法目的と関連性が全くないとはいえないまでも、合理的関連性があるとはいえない。
森林法は、共有森林の保存、管理又は変更について、持分価額二分の一以下の共有者からの分割請求を許さないとの限度で民法第三章第三節共有の規定の適用を排除しているが、そのほかは右共有の規定に従うものとしていることが明らかであるところ、共有者間、ことに持分の価額が相等しい二名の共有者間において、共有物の管理又は変更等をめぐつて意見の対立、紛争が生ずるに至つたときは、各共有者は、共有森林につき、同法二五二条但し書に基づき保存行為をなしうるにとどまり、管理又は変更の行為を適法にすることができないこととなり、ひいては当該森林の荒廃という事態を招来することとなる。同法二五六条一項は、かかる事態を解決するために設けられた規定であることは前示のとおりであるが、森林法一八六条が共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に民法の右規定の適用を排除した結果は、右のような事態の永続化を招くだけであつて、当該森林の経営の安定化に資することにはならず、森林法一八六条の立法目的と同条が共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に分割請求権を否定したこととの間に合理的関連性のないことは、これを見ても明らかであるというべきである。
(引用終了)
なお、これまで何度も引用している猿払事件最高裁判決の合理的関連性に関する言及部分も確認しておく。
昭和44年(あ)1501号国家公務員法違反被告事件
昭和49年11月6日最高裁判所大法廷判決(いわゆる「猿払事件」)
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/800/051800_hanrei.pdf
右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。
(引用終了)
森林法違憲判決を見ると、規制目的と直接関連しない規制手段は合理的関連性がないと述べている。
これに対して、猿払事件判決を見ると、直接関連しない手段に限定されていなくても合理的関連性が失われない(ある)と述べている。
最高裁判所大法廷判決という重要な文章でこんなニュアンスの違いがあるとは・・・。
この点、これを正当化する説明はある。
つまり、森林法違憲判決で制限されているのは財産権であり、財産権の場合は目的との直接関連しない手段を規制することは合理的関連性がないが、猿払事件で制限されているのは表現の自由であり、表現の自由について目的と直接関連しない手段を規制しても合理的関連性がある、と考えればすっきりいく。
もっとも、この説明によれば「財産権の制限を表現の自由に対する制限よりも厳格に判断する」ことを意味するので、「それでいいのか?」ということになるのかもしれないが。
ただ、当時の最高裁判所のスタンスはそうだったのではないか、とは言えるけど。
では、この森林法違憲判決に用いられた「合理的関連性」を用いてあてはめをしたらどうなるだろうか。
「広告放送の割合が増えることで番組の時間が減ること」が必ずしも「放送の質・多様性を確保することにつながらない」ことは前回のあてはめなどで示した。
とすれば、「直接関連しない」ということになる。
よって、この場合は「合理的関連性がない」ということになりそうである。
まあ、財産権に対する規制の合理的関連性と表現の自由に対する規制の合理的関連性を同一視していいのか、という問題はあるとしても。
では、猿払事件判決で用いた「合理的関連性」を用いるとどうなるか。
この場合、「19時から23時までの広告放送を1時間あたり5分以上とすることで放送の質と多様性を損なうおそれがある」と言うことができれば、合理的関連性が認められることになる。
どうなのだろう。
正直、「関係なくね?」という気がするが。
この点、猿払事件のケースでは、「勤務外の公務員の政治活動」と「行政の政治的中立性に対する国民の信頼」はある種ストレートな関係がある。
もちろん、行政の政治的中立性それ自体とはストレートに関連しないかもしれないし、また、勤務外の活動である以上、信頼を損なう具体的な危険がないと言いうるとしても。
これに対して、放送時間と放送の質・多様性は猿払事件のケースほど直接的な関連性がない。
ならば、猿払事件の基準で考えた場合も②合理的関連性がないということができるのかもしれない。
この辺はよくわからない。
言葉の定義の揺らぎ(妥当性の範囲)を見るならば、どちらの結論を採用してもいい気がする。
なお、③利益の均衡については前回述べた損害の大きさ、規制手段の関連性の弱さ、違反に対する制裁の強さなどを考慮すれば、否定することができるだろう。
とすれば、猿払事件の合理的関連性の基準を用いても違憲の結論は出せそうである。
つまり、最高裁判所の宣言した合理的関連性の基準に固執したからといって結論がひっくり返るわけではないようだ。
以上、色々と突っ込んで考えてみた。
次回は「問題を解くこと」から離れて考えたことについてみていく。