薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

令和4年の3か月間が終わる

0、はじめに

 令和4年も3か月が終了した。

 そこで、この3か月を振り返っておく。

 

1、生活記録がもたらしたもの

 令和3年から私は生活に関する記録を取ることにした

 最初は、一定の活動(資格取得やプログラミングの勉強や事務処理など・読書・ブログの作成)の活動時間の記録のみ。

 また、昔、スマートフォンに万歩計アプリを入れていて、歩数の記録をが勝手に記録されていたので、取っていたので歩数についても記録に追加。

 その後、睡眠時間と食事の内容も記録対象に加えた。

 また、体重については令和3年以前から記録を録り続けている。

 

 フォーマットが固まったのは令和3年の7月。

 それ以降、そのフォーマットで記録を録り続けている。

 なお、記録の内容についてはどんなにあれでも文句は言わないようにする。

 記録を取っていて不快感やストレスを惹起し、記録をストップしたらそっちの方がまずいからである。

 

 ところで、今年の3月でこの記録は39週間分になった

 それを見ることによって、私の生活のパターンが見えてきた。

 これをどう活用するかは今後次第だろう。

 

 この点、「記録に評価を持ち込まないよう」にしようとしても評価してしまう。

 しかし、「ストレスを惹起しない範囲」という制約が効果があったのか、(一見)記録を録っているだけなのに生活の質が多少改善した。

 これはいいことなのかもしれない。

 もちろん、改善した生活も「理想状態」から見ればゴミであるが。

 

2 読書とブログについて

「令和3年から始めたこと」にこのメモブログと読書がある。

 

 この点、ブログについてみると、最初の16週間は週に3つの記事、残りの36週間は週に2つの記事を書く(年間の記事数の合計120個)予定でいる。

 現在、この予定通りに進んでいる。

 

 次に、読書についてみると、3か月間で約30冊の本を読んだ。

 この点、令和3年に読んだ本は135冊。

 この30冊や135冊の中にはキンドルや図書館から借りた本も含まれる。

 しかし、プログラミングのための専門書・資格を取るための学習書・漫画は含まない(もっとも、私は漫画はネカフェでしか読まないためほとんど読んでいないが)。

 

 この点、読書については「ちょっと量が多くないか」と思う次第。

 当初、週1.5冊、年間約80冊を想定していたのだから「多い」と考えるのはもっともなことである。

 もちろん、散歩の際にはキンドルを読みながら散歩しているので多くなるとしても。

 

3 資格について

 令和元年から令和3年までの間に6つの資格を取った。

 そして、令和4年も2つの資格を取りに行く予定であり、その第一段階として数学検定1級の申し込みをした。

 

 ただ、資格取得の主目的は「学習の習慣化」にある。

 資格それ自体にはない。

 そして、現時点で「学習の習慣化」が実現できているかは微妙である。

 とすれば、「学習の習慣化」という目的から見直した方がいいのかもしれない。

 

 つまり、一般に「学習」と呼ばれる行為として、私は資格取得以外にも「読書をして、重要なものについては読んだ結果をメモブログにまとめる」ということをしている。

 また、プログラミングについても写経その他をしていた(最近は疎遠になっているが、詳細は後述)。

 ならば、「そもそも『学習』とは何か」、「『学習が習慣化している』というのはいかなる状態を想定しているのか」といったことを問い直してもいいのかもしれない

 

 まあ、資格取得それ自体は習得したい内容があって、その内容習得の確認用アウトプットとして適切である限りにおいて継続する予定でいるが。

 

4 体重について

 体重については変化があった。

 

 つまり、令和3年の1年間は体重はほとんど変わっていなかった。

「増えなかった」と言うこともできるが、逆に言えば、減ってもいなかった。

 

 しかし、令和4年の2月に入り、体重が少しずつ下がりだした。

 一気に体重を減らさなくてもいいので、「微減」というこの傾向を維持していこうと考えている。

 

5 プログラミングについて

 色々と手を広げ過ぎたためかプログラミングに関してはほとんど手をつけなくなってしまった。

 この点が非常によろしくないことである。

 時間配分のバランスを適宜変更して、プログラミングにも時間が回るようにしたい。

 

 それから、具体的なアウトプットを行っていきたい。

 プログラミングは手段なのだから、アウトプットを実行しなければ、学んだ意味がない。

 インプットしないといけないこともなくはないが、アウトプットを軸に移していきたいと考えている。

 

 

 以上、この3か月間を振り返ればこんな感じになる。

 もちろん、ここで書けない重要な出来事もあったが(書けない事情の方がここで書いたことよりも重要だったりもする)。

 

 そして、4月から6月にかけて、ここで書けないことで「しなければならないこと」が増える。

 となると、健康を維持してストレスをためないこと、また、生活記録と現状の維持をもってよしとしておくべきかな。

「Python3エンジニア認定基礎試験」を受験する

0 宣言

 2022年8月末までにPython3エンジニア認定基礎試験を受験します!

(具体的な受験日程は5月下旬、詳細は後述)

 

www.pythonic-exam.com

 

1 受験の背景

 受験の目的は次の3点である。

 

1、「一年に資格を2つずつ取り、勉強の習慣を継続する」というノルマのため

2、最近遠くなっていたプログラミングとの距離を一気に縮めるため

3、機械学習に関する技術の習得のため

 

 

 先日、数学検定1級に挑んで撃沈したことをブログにした。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 この点、数学検定1級に合格していれば、「11月に統計検定1級の資格を取ってノルマ達成」となる予定であった。

 しかし、数学検定1級に不合格になったため、別の資格を取る必要が出てきた。

 なぜなら、私が令和元年に決めた基準は「一年に二つの資格を取ること」だからである。

 不合格ではノルマを果たしたことにならない。

 

 この点、次の数学検定は7月24日にある。

 よって、7月に数学検定1級に受け直せばいいとも考えられる。

 しかし、「想像していたよりも難しくない」との手ごたえを得たとはいえ、数学検定1級が難関試験であることに変わりはない。

 さらに、統計検定1級も相応に難しい試験のはずである。

 ならば、この二つの試験を約半年間で突破するのは難しいかもしれない。

 ということで、別の資格を受けたほうがいいような気がしてきた。

 

 次に、最近、プログラミングから遠くなっている。

 今年に入ってから、プログラミング関係・機械学習関係でやったことと言えば、機械学習の入門書(具体的な教科書は次の通り)を勉強したときに教科書に書いてあったプログラムを実装した(写経した)ときだけである。

 他はほとんど何もしていない。

 

 

 例えば、あるデータを分析する際であってもエクセルで済ましてしまっていた。

 よって、このプログラミングから遠くなっている現状を変える必要がある。

 この資格を取りにいけば、この距離に変化が生じるかもしれない。

 

 さらに、機械学習を利用する観点から見ればpythonは必須の技術である

 つまり、pythonを学ぶことは決して無駄にはならない。

 

 以上、ノルマとの関係、プログラミングとの距離の関係、機械学習との関係をを考慮して、「python3エンジニア認定基礎試験」を受験することにした。

 

2 資格を取るだけで終わらせないために

 とはいえ、この資格を取るために半年間も足踏みしていたら何をやっているか分からない。

 よって、直ちに受験する。

 具体的には、来月、つまり、5月までに受験する。

 

 

 また、別の資格試験から得た実感を考慮すれば、「『資格が取れないようでは話にならない』としても『資格を取れればオッケー』とは到底言えない」ことが推測される。

 よって、資格を取るだけで終わらせず「pythonを用いた具体的なプログラム」を作っていく必要がある(これは割とまじめにそう考えている)。

 例えば、私は自分の興味のある分野について「エクセルを用いたデータ解析」を行っていた。

 また、これまでは「初期の段階」だったため、マクロなしのエクセルでも調べられた。

 しかし、マクロなしのエクセルでできることには限界がある。

 そこで、エクセルからpythonに移行していくことが必要だろう。

 

 さらに、「何かをします」と宣言するだけでは実効性に疑問がある。

 そこで、社会科学について学んだことをこのメモブログで記事にしたように、作ったプログラムその他をアウトプットしていくことを考えていく必要がある。

 このブログ(「薫のメモ帳」)は社会科学と学習それ自体がメインなので、プログラムその他を公開するなら別の場所を予定しているが。

 

3 受験までの準備について

「5月下旬にPython3エンジニア認定基礎試験を受ける」と決めたといえ、具体的な計画を立てるのはこれからである。

 現在、対策として考えていることは次の3点である。

 

 まず、かつて学んだ教科書(具体的には次のリンクの書籍)の練習問題をざっと解き直してみようと考えている。

 この点、前回読んだときからある程度期間が経過しているため、教科書全部を読み直すことになるかもしれない(ただし、前回やった写経自体をやる予定はない)。

 

 

 次に、試験の範囲その他を確認する必要がある

 試験それ自体について全く準備をしないわけにはいかないだろうから。

 

 さらに、プログラムを作る(ソースコードを書く)問題をひたすら解いていく必要がありそうである。

 私自身、「ひたすらソースを書く」といった経験がほとんどないし。

 また、上の教科書にたくさんの問題があるわけでもないし。

 

 以上、この3点を中心に進めていけば大丈夫だろう。

 試験まで約1か月間、やれることはそれほど多くはないし。

 

 

 以上、数学検定1級の合格通知が来る前に、次の資格試験に向けて動き出すことにした。

 さてさて、どうなることやら。

『日本人と組織』を読む 16(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人と組織』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

16 感想

 去年から今年にかけて、故・山本七平と故・小室直樹の書籍をたくさん読んだ。

 このブログでメモにした本もあれば、図書館で借りた本もあれば、キンドルで読んだけの本もある。

 これらの本を読んだことによって得られた「知識と快楽」は膨大であった。

 

 ただ、快楽を得ただけで満足してしまうのはもったいない。

 得た知識・知恵については私の分析その他のために利用するつもりである。

 

 もっとも、対外的な何かのために利用する予定は今のところない。

 やれるに越したことはないにせよ、そこまでやるのは手を広げすぎの感じが否めないので。

 

 

 この本を読んで得られた知識・知恵はたくさんあった。

 ざっと列挙していけばこんな感じである。

 

ユダヤ教キリスト教と契約の関係について

・上下契約と相互契約について

・上下契約(神への誓約)と上下支配関係(権力者への忠誠)について

古代イスラエルと日本の共通性について

・マニュアルとミューステリオンについて

・日本とアメリカ・ヨーロッパの「秩序と組織を維持している背景」の違いについて

・日本とアメリカに「刻印されているもの」の違いについて

・日本と古代イスラエルの共通項について

・モノティズムとパンティズムについて

・モノティズムとパンティズムにおける誓約方式の違いについて

・空間的把握と時間的把握について

・ヨーロッパにおける空間的把握と時間的把握の調整について

・宣誓拒否から見える日本とアメリカの規範意識の違いについて

フランシスコ会イエズス会について

キブツ(生活と生産の一体化)と株式会社(生活と生産の分離)について

・神聖組織と世俗組織について

・神聖組織と世俗組織の調整方法に関する分離型と一体型について

・知の要素と信の要素について

・知の要素と信の要素を調整する方法について

キリスト教に由来する二尊主義と日本的儒教に由来する一尊主義について

ユダヤキリスト教に由来するトサフィストという発想について

・本文を尊重する権利と本文にコメントをする権利の両立性について

 

 

 この点、本書に書かれていることを大雑把に把握する(あくまで大雑把である、ある種の極論になっていることに注意)と、ユダヤキリスト教の伝統と日本の伝統というのは対極的だなあ」という感想を持つ。

 そして、「キリスト教的伝統を持たない日本が近代化と高度経済成長を成し遂げた」という事実は「奇跡中の奇跡」と感じざるを得ない。

 さらに、某首相の「日本は神の国である」という言葉にある種の信ぴょう性を感じざるを得なくなる。

 それが錯覚である可能性があるとしても。

 

 

 両者の伝統の違いを「秩序」の観点から言葉にするならば、アメリカ・ヨーロッパの「二尊主義」と日本の「一尊主義」になりそうである。

 ただ、一尊主義といっても日本は何から何まで融合させているわけではない。

 例えば、日本は「八百万の神々」という言葉があるとおり、多神教であって一神教ではない。

 逆に、アメリカ・ヨーロッパは二尊主義だが、信仰する神は一つ(イエス・キリスト)である。

 この対照的な比較結果は面白いものがある。

 

 さらに言うと、世界に覇を唱えたイギリスとアメリカは一尊主義ではないか、という疑問が頭に浮かぶ。

 特に、アメリカの民主主義・自由主義の布教の熱心さは「果たしてこれは二尊主義なりや」という気がしないでもない。

 また、多神教だから一尊主義、一神教だから二尊主義というわけでもないようだ。

 例えば、私の知識の範囲でイスラム教や儒教を見ると一神教・一尊主義」に見える。

 もちろん、私の知識が曖昧ゆえにこの辺の疑問が生じている可能性は十分ある。

 よって、この辺はもう少し整理したいと考えている。

 

 

 なお、本書に書かれている日本への処方箋として「トサフィスト」という案があった。

 トサフィストという手法を見て頭に浮かんだのがニコニコ動画の「動画とコメントの関係」である。

 もっとも、両者は似ているように見えて、何かが違うような気もする。

 この辺もいろいろ考えたら理解が深まるかもしれない。

 

 また、この処方箋は「一神教・二尊主義」だから有効に活用できるような気がする。

多神教かつ一尊主義」の日本に可能なのかどうか。

 この点、困難なルールが「履歴消去の禁止」であり、心理的に置き換えれば「ミスに関する寛容さ」になる。

 この背景には「絶対教に対する信仰とそれによる安心感」があるような気がする。

 ただ、はっきりしたことはわからない。

 

 もちろん、私が取り入れる分には問題ないので積極的に導入しようと考えているが。

 

 

 最後に、多神教かつ一尊主義」と『危機の構造』で見てきた「盲目的予定調和説」・「機能体と共同体化現象」・「(日本の)社会科学的実践の欠落」・「(日本の)アノミー」は相互に関連しているような気がする

 もし、余力と時間があればこの辺の関係も見てみたい。

 すぐには困難であろうが。

 

 

 以上、本書を読んで、その内容をメモにした。

 この辺でこのメモは終わる。

 

 なお、現在、「『痩せ我慢の説』の意訳」が中途半端になっているところ、本書と最近読んだ『危機の構造』は『痩せ我慢の説』を考える際の有益な補助線になりそうな気がする。

 是非、これらの補助線を活用したい。

『危機の構造』を読む 17(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

25 第7章「社会科学の解体」をまとめる

 まず、前章の内容を箇条書きにまとめる。

 

・「社会科学的思考法」の対極の具体例となる「苦労人の説教話」には「現状の社会の状態は苦労人の認識した内容と同一であり、かつ、その認識した社会の状態は『善』である」という前提がある

・苦労人の説教話の背景にある「社会を(自然のような)所与とみる心的傾向」は前近代的社会に住む人間にも存在するところ、このような心的傾向でいる限り社会科学的思考法を行使する意思は生じえない

・社会科学的思考法を選択するためには、「社会組織や社会構造は、過去の所属集団の構成員たちの行為による結果であり、かつ、社会組織や社会構造も所属集団の構成員たちの意図に応じて改変・制御することができる」と考えることが必要になる

・社会科学的思考法によって社会を変化させる手段は「人間・集団の行動法則(社会科学的法則)を解明とその解明したルールを足掛かりにした社会の変革」という形をとる

・「人間には自由意志があるので、人々の集団たる社会には法則が存在しないのではないか?」という疑問に対する完全な回答はないが、経済学者と心理学者の研究によって「社会においても法則が存在すること」と「自由意志と我々が認識しているものの正体」についてある程度判明した

・社会科学的思考法・実践において重要なことの1つは「社会に対して個人は極めて弱い存在である」ということを踏まえることである

マルクスは「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」と述べ、デュルケームは「社会的事実」という概念を設定・活用することで社会学を確実な方法論的基礎のある学問に発展させた

・「社会的事実」とは、人間の外部にあって人間の行動を規定する一方、人間の行動によって規定されない事実をいう

・社会的事実が社会において大きな意味を持つと「仮定」するのであれば、社会現象・社会科学的法則の研究において重要なものは人間の行動・目的や自由意志ではなく社会的事実になる

・社会分析の重要な役割・目的は「スケープゴート主義からの脱却」である

・社会科学的分析において相互連関分析といった手段が重要になる

・相互連関分析による具体的な成果の第一号が経済学の一般均衡理論である

・他の社会科学においても一般均衡理論のような分析が必要であるが、それだけでは足らず、社会構造と社会における機能体の連関分析(相互作用の分析)が重要になる

・日本では社会科学的思考法の前提を踏まえていない政策が行われることが少なくなく、改善策によって改革目的を達成できないことが極めて多い

・日本の改革が失敗の原因は社会科学的思考の大前提の認識の欠落にある

・社会問題は政治問題・経済問題・教育問題・社会問題といった多面的な要素を併せ持つので、社会構造や構造機能の相互連関分析を欠いた制度改革は無意味である

・社会問題を適切に解決するためには、①単一の制度の変更のみにとどめないで関連する制度の変更をも行うこと、②制度変更による日本の社会構造の変化・日本の社会構造と社会組織の相互作用に対する分析を行うこと、③制度変更による副作用についても分析して適切な手当てを行うことの3点が重要になる

・(当時の)当時の日本の社会科学は破産寸前で崩壊の危機にさらされていた

・(当時の)経済学自体が解体の傾向を示していた

マルクスブルジョワ社会科学(この中には古典派経済学も含まれる)を学び、吸収し、その上で批判を展開したのだが、このような努力は日本のマルキストに見られなかった

・19世紀以前の近代資本主義社会と異なり、現代社会は「政治経済学」という形で政治と経済をセットにして分析しなければならない時代になっている

・(当時の段階において)日本の政治学は既に消滅したとも言いうる状態にあった

・現代において各学問(自然科学も含まれる)が各学部・学科に閉じこもっている場合ではない状況にある

・現代において「学際協力」の重要性が認識されているが、この学際協力は容易ではない

・現代の学問・科学の理想状態は①理論の構築と②実験と実証(実地調査)の相互循環を継続させることにある

・現代においては「理論構築」も「実証」も容易ではないため、①理論なき実証、②実証なき理論、③実証と理論の分離といった不完全な状態のものが少なくない

・学問分野によって理論に特化したり、実証に特化したりするといったことが生じるため、「不完全な状態」といってもその状態は学問によってバラバラである

・学際協力を困難にしている心理的背景は、どの学問も「学問の理想状態」(理論と実証の相互循環)から乖離しているにもかかわらず、研究者たちが「その学問の不完全な状態」をもって現状の理想状態(準理想状態)と考えていることにある

・学問の発展経緯に影響されるところもあり、また、大雑把に見た場合という留保が付くが、経済学は理論に特化し、心理学は実証に特化しているため、偏向の向き(不完全な状態)が大きく異なる

・心理学にも理論があるし、経済学にも実験・実証があるが、二つの学問の間には自然科学でいうところの「理論研究室」と「実験研究室」の不協和音がある

・学問の偏向性の結果、各学問の実験計画法や方法論においても大きな違いを生んでいる

・(当時の)政治学は理論も実証も操作(理論による実証の予測)も存在していないようなものだった

・社会科学や学際協力を実効化させるためのキーワードは、「科学的方法論に対する真の理解」・「科学的方法論を理解した上での相互承認」・「過度の単純化という犠牲を代償にした学問の発展の存在の承認」・「未開発分野に対する研究において(他の学問から見て)単純な手法を用いることに対する寛容性」になる

 

26 感想

 以上、本文を読んできた。

 最後に私の感想(感想以上の何者でもない)を述べてこのメモを終える。

 

 

 最も重要な感想は「50年前も今も大差ないな」ということであった。

 この点は、社会構造の核心部分に触れないで社会問題に対して対処療法を繰り返している以上は当然の結果なのかもしれない。

 

 ただ、巷でよく言われるような「50年間でよりひどくなった」という点についての判断は留保したいと考えている。

 安易に「悪くなった」と考えるのもあれだし、社会的事実を調べてから結論を出しても遅くないと考えるので。

 その関係で、「50年間の社会の変化をちゃんと見ないといけない」という感想をもった。

 社会の深層部分(構造)は変わらなくても社会の表面は変化し続けている。

 平成以降、「失われた30年」などと言われ続けているが、この30年間を見ても技術の変化は目覚ましいものがあったし、民法と刑法はカタカナから平仮名に変わり、商法から会社法に関連する部分が分離した。

 よって、「社会構造が変わってないとしても社会組織は変わっている」ということは十分あり得る。

 それから、日本の社会科学の状態が50年前と現在とで同じと考える必然性はない。

「50年前と今の社会は同一」と社会構造と社会組織を混同することせず、最新の社会状況を確認したい。

 

 

 次に重要な感想は、「学問ってすごいな」ということであった。

 この点、これまでの私が社会科学それ自体に触れる機会が極めて少なかったせいか、社会科学の有効性について認識したことはなかった。

 最近の読書で「宗教スゲー」という感想を持ったが、今回は社会科学という学問のすごさが知った。

 そして、それを活かしきれないのはもったいないというべきか。

 

 それと関連してではあるが、「単純化(モデル化)の威力」を見せつけられた気がした。

 この分析に使われたモデルはそれほど複雑ではない。

 それで、後述するようなものが得られたのであれば、私にとって学問の威力を見るに十分である。

 もちろん、「モデルが単純であること」と「モデル作りのコストが小さい(簡単)」ということは混同しないようにしたい。

 

 

 3つ目に重要な感想は「自分の分析に役に立った」ということであった。

 この点、「自分がよくわからない何かに拘束されている」という感覚は生まれて間もないころから最近までの長い間ずっとあった。

 また、「その拘束しているものが仮に私を破滅に追いやろうとしているとしても、私はその拘束から逃れることができない。その場合、破滅するよりほかはない」という感覚も。

 しかし、「盲目的予定調和説」という言葉によって自分を拘束している者の正体がある程度具体的に分かった。

 その意味で、本書の価値は大である。

 

 なお、盲目的予定調和説の恩恵もあった事実は忘れるべきではないであろう。

 盲目的予定調和説による拘束がなければ、私の大失敗もない反面、私のささやかな成功もなかっただろう。

 よって、この拘束には感謝もしなければならない。

 感謝するとともにお祓いをすべきであろう。

 

 さらに、この盲目的予定調和説は広く日本に蔓延されていると考える次第である。

 例えば、某所で教えられた言葉に「やればできる、必ずできる」というものがあった(気になる方はグーグルで調べればいい、私がこれに触れていたのは10年以上前のことではあるが、たぶんヒットする)。

 これは本書でいうところのイデオロギー・アニマルの世界の入り口で言われていた言葉であった。

 この言葉をつぶやく背景に明確なエリート意識があるとは考えない。

 しかし、「目の前の目的に対して努力し続ければ、(他の条件は何もしなくても)うまくいく」というのであれば、これも盲目的予定調和説である。

 もちろん、「努力のみに全力投球していい」という環境設定が相当程度客観的に存在するので、盲目的予定調和説に陥ってもその時点では問題がないとしても

 

 

 他方、本書の事実認定・評価・結論について疑問を抱く部分もある。

 具体的には、機能体の共同体化現象が現代的な現象としている点について。

 次に、エリートやエリート集団の目的意識について。

 これらについては、他の研究結果などを踏まえつつ慎重に判断したいと考えている。

 

 

 以上で本読書メモは終了である。

 この本は図書館で借りた本であり、かつ、巷に出回ってない本でもあるが、非常に参考になった。

 ただ、最近の私は色々と手を広げ過ぎている。

 そのため、今回学んだことは自己分析と環境適応以上に使おうという考えはない。

 しかし、今回得た知識はストックしておいて、必要と判断したときに使えるようにしたい。

実用数学技能検定1級に挑戦して撃沈する

0 はじめに

 2022年4月10日、私は実用数学技能検定1級、いわゆる、数検1級にチャレンジした。

 

www.su-gaku.net

 

 この点、受験直後の自己採点(あくまで主観)は1次試験が約65%、2次試験が約55%。

 一次試験も二次試験もぎりぎり不合格しないという(試験それ自体に対して)最も無残な結果となった。

 

 もちろん、この結果は主観的なものに過ぎず、結果はまだわからない。

 しかし、数検1級にチャレンジしたことは事実であるので、試験を受けるまでの一連のことについて備忘のためにブログにメモにしておく。

 合格体験談よりも不合格体験談の方が役に立つだろうから。

 

1 受験の動機について

 最初に、数検1級の資格取得の目的について。

 受験の目的は機械学習の前提になる数学について一通り学ぶことであった。

 

 私自身、機械学習を使ってあることを研究したいと考えていた。

 しかし、そのためには機械学習それ自体についてそこそこ理解しなければならない。

「どこまで理解を深めるか」はさておき、表面的に学んだだけでは前提が変わったときに自分のやった研究がスクラップになってしまう。

 このことはいわゆる「敗因21か条」で学んだとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 そして、ある機械学習の入門書を見た際、機械学習に必要な数学は次の3つであることが分かった。

 

微分積分

線形代数

・確率・統計

 

 この3つを見ていて、「これって数学検定1級の範囲と似ていなくね?」という考えが頭に浮かんだ。

 そして、次のサイトを見て確認したところ、ある程度符合することが判明した。

 

www.su-gaku.net

 

(以下、上のURLより「1級の検定の内容」の部分を引用)

【解析】 微分法、積分法、基本的な微分方程式、多変数関数(偏微分・重積分)、基本的な複素解析
線形代数】 線形方程式、行列、行列式、線形変換、線形空間、計量線形空間、曲線と曲面、線形計画法、二次形式、固有値多項式、代数方程式、初等整数論
【確率統計】 確率、確率分布、回帰分析、相関係数
【コンピュータ】 数値解析、アルゴリズムの基礎
【その他】 自然科学への数学の応用 など

(引用終了)

 

 また、数検1級は昔に受験しようとして挫折した過去もある

 そこで、「じゃあ、数学の勉強のついでに数検1級もゲットしよう」と考えた。

 

 もっとも、令和に入って得てきたこれまでの資格と数検1級とは性質が異なる。

 まず、数学検定1級の合格率は低い。

 2019年以降の合格率は10~15%であり、これは簿記2級と同程度、または、少し低いレベルである。

 また、数検1級は東大入試の理系数学と比較されるものらしい。

(例えば、「東大 数検1級」という言葉で検索すると、次のサイトみたいなものがいくつか出てくる)。

 

pentatonn.com

 

 この点、むかしむかし、私は東大に合格しており、(理系の)数学を受験している。

 しかし、あのレベルと比較されるとなると少々不安になる。

(重要なのは両者の比較が話題になる事実それ自体である、いずれが難しいかという評価には意味がない、この部分は上のブログの結論と同意見である)。

 東大数学の受験対策と同等のコストを払わなければならないのか、と。

 これまでの資格の勉強において「勉強の習慣の確立」に失敗している以上、今回は失敗するのではないか、と。

 

2 事前準備について

 この点、数学の勉強については持っていた教科書などを再利用することにした。

(以下、具体的に使った教科書を列挙するが、アマゾンへのリンクは最新版のものにしている、私が使ったのは買った当時の版であり古いものもある)。

 

 まず、確率・統計については、統計検定2級で利用した次の教科書を復習した。

 

 

 これは統計検定2級で得た知識の再確認である。

 感想としては少し足りなかったかもしれない、というのがある。

 数学の部分の補強として次の教科書を併用したほうがよかったかもしれない。

 

 

 次に、線形代数については、入門書として次の教科書を読んで問題演習を行った。

 

 

 この点、線形代数は大学時代にやっただけであり、かつ、当時もちんぷんかんぷんだったのだが、この本を読んで線形代数の概形を把握することができた。

 その意味でこの教科書はよかった。

 もちろん、買った当時、買うだけで終わらせず、ちゃんと読んでいればもっとよかっただろうが。

 

 さらに、微分積分については、大学時代の教科書を再利用することにした。

 

 

 ただ、これが失敗だった。

 この教科書は理論面に特化しており、最後まで読めずに挫折してしまった。

 そのため解析学については不十分になり、本番ではこの不十分さが敗因となる。

 

 最後に、数学検定1級は時間が足りないらしく、問題演習もしっかりやる必要があると判断したため、次の問題集を購入して問題演習を行った。

 

 

 もっとも、微分積分の教科書でとまどっているうちに時間に押されてしまい、全体の6割しか解けなかった。

 

 

 というわけで、準備は不十分としか言いようがなかった。

 東大を受験した時と比較したら、当時の20%といったところではないか。

 事実、数検1級のために投入した時間(勉強時間ではない)は約70時間(4月10日まで)。

 これは去年の基本情報技術者のために投入した時間と同程度である。

 そのため、本番直前において合格できるとは到底考えられなかった。

 

3 試験について

 さて、試験当日。

 私は地元の受験会場に赴いた。

 意外だったことは、試験会場が県庁所在地ではなく、地元だったこと。

 遠方まで赴く必要がなく、大変ありがたかった。

 ただ、数検は1級から8級まであるのだから、全部あわせれば試験を受ける人が相当いる。

 実際、会場にいた受験者は全階級あわせて100人はいたようだし。

 

 そして、一次試験。

 なんと基本公式を忘れるという大失態を演じる。

 その結果、一次試験終了時の実感では7問中4問半しか正解できなかった。

 合格ライン7割に対して6割半程度しか正解できなかったのだから合格できたとは到底言えないだろう。

 一次試験終了直後、「2時間座っているだけでいいから二次試験を受けよう」と考えるだけで精いっぱいであった。

 

 その後、二次試験を受ける。

 こちらも超基本的な解法を度忘れする。

 その結果、二次試験終了時の実感では2問完答、1問白紙、1問誤答という感じ。

 最後の1問でどこまで部分点を得るかが問題となるが、部分点を2~3割と考慮すると、合格ライン6割に対してこちらは5割半から5割7分。

 こちらも合格ラインにギリギリ足りない。

 

 というわけで、今回はともにギリギリ不合格という一番効率の悪い結果となったと考えられる。

 まあ、簿記2級のときのようなこともあるので、究極的にはわからないが。

 

4 反省と今後について

 今回の試験は資格が必要だから受けたわけではない(もちろん、これは他の資格にも言えることだが)。

 だから、不合格それ自体はどーでもいいことである。

 

 ただ、微積関係の教科書を間違え、その結果、演習時間が足らなくなったことが重要な敗因となった。

 また、合理的な計画を事前に立てなかったこともいけなかった。

 この2点は反省しないといけないように思われる。

 

 他方、確率・統計の知識のブラッシュアップに成功し、また、線形代数の概念を把握できたことは今回の結果から得られた良い収穫であった。

 個人的には、機械学習の前提の構築という目的はそこそこ達成できたように考えられる。

 機械学習の式を理解するためには行列を扱う必要がある以上、それらを見て手間取っているようでは話にならないから。

 

 再チャレンジについてはわからない(まだ、結果が確定しているわけでもないし)。

 他にすべきこととしてプログラミングその他があり、数学にかかりっきりになることはできないから。

 ただ、一次試験と二次試験のいずれかに合格しており、かつ、微分積分の勉強をやり直そうと判断したときは、数検1級に再チャレンジしようと考えている。

 

 

 最後に、巷にある「試験時間が短い、一次試験は特に時間がない」という意見は妥当であった。

 事実、一次試験は時間がなくて2問ほど最後までいかなかった。

 また、二次試験も一問は白紙で終わった。

 だから、問題演習をおろそかにしない方がいいとは言えそうである。

 もっとも、「東大入試の数学よりも難しい」点と合格率が低い点はあまり気にする必要がないと考えられる。

 所詮試験に過ぎないし、受けた感じとしてもめっちゃハードルが高いと感じさせるものでもなかった。

 無論、準備が必要であることに間違いがないとしても。

『日本人と組織』を読む 15

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人と組織』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

15 各章のまとめ(後編)

 今回は第9章から第12章までを箇条書きでまとめる。

 

(第9章)

・神聖組織には「現実の聖職者集団」と「理想の模型」という二重の意味がある

・神聖組織は「その理想の模型の実現化に向けて努力する」と構成員が信仰することによって成立する集団であり、「信にかかわる集団」である

・「信にかかわる要素」(信の要素)の対極には「知にかかわる要素」(知の要素)がある

・神聖組織において、組織の存立理由となる「信の要素」は重要である

・神聖組織において、組織を運営していく上で「知の要素」が重要になる

・「信の要素」と「知の要素」はしばしば重要かつ深刻な対立をもたらすが、「知の要素」と「信の要素」の矛盾・衝突をうまく調整できればその組織は単純な世俗組織とは比較にならぬスピードで成長し、二つの要素の矛盾・衝突を調整できなければ一気に組織は壊滅する

・世俗組織であれば「知の要素」と「信の要素」の対立といった問題は存在しない

・世俗組織において「信にかかわる要素」は個人の問題であり、組織の「知にかかわる要素」と衝突しない限り不問となる

・「信の要素」と「知の要素」の衝突例として「地動説の問題」や「信教の自由と表現の自由の問題」がある

・「信の要素」が肥大化すると、知的議論の拒否といった問題が生じうる

・「知の要素」が肥大化すると、信仰の問題が世俗の問題となって「棄教の強制」といった問題が生じうる

・日本の組織の特徴は神聖組織と世俗組織の中間型にあるため、「『信の要素』と『知の要素』の境界をあいまいにして分離しない」という特徴がある

・「信の要素」と「知の要素」の境界をあいまいにして分離しない結果、本来ならば科学・社会政策のような「知の要素」に属する事項が「信の要素」に属する事項として争点化するといった珍現象が生じる

・珍現象が生じる結果、「一定の社会政策の推進」が一種の宗教になり、社会政策の是非が一種の宗教戦争になり、知的議論が一切不可能になって改宗や転向の強制による解決が不可避となるといった、「信の肥大化」がもたらす悲劇が生じた

・「神聖組織と世俗組織の二重性」・「『信の要素』と『知の要素』の未分離」といった特徴は日本のあらゆるところに見られる

・世界の脱宗教化・世俗化現象によって日本人や日本の組織も世俗化を免れることができないところ、日本人が日本の組織を「知の要素」の対象としてしか見ず、「信の要素」を組織以外の別に求めるようになった

 従前の日本の組織は「日本人が『信の要素』を『信の肥大化させた何か』に預けることの危険性」を承知していたためか、組織内に「知の要素」と矛盾しない「信の要素」にかかわる対象を設置させてきた

・世俗性と神聖性を通じて日本の課題を具体化すると、「今後、企業が持っていた神聖組織としての要素が抜けて世俗化した際、構成員は『信の要素』をどう適切に保護していけばいいのか」ということになる

 

(第10章)

・ヨーロッパは分離型の「二尊主義」であり、個人は神と世俗権力の両方に直接リンクしていた

・江戸時代の日本は結合型の「一尊主義」であり、個人が神(儒教ならば「天」)に直接リンクすることを許していない

・江戸時代の秩序は、将軍は天をまつり、大名は将軍を天としてまつり、武士や庶民は大名を天としてまつり、子女は武士や庶民である父を天としてまつることで成立していた

キリスト教のような「二尊主義」の宗教が日本に導入されたら、忠誠を誓う対象が二つ、まつる対象が二つという「二尊」状態になってしまい、日本の秩序は大混乱になる可能性が高い

・日本の「二尊主義」の拒絶という態度は戦後も続いており、企業・組織は社員・構成員に対する二尊の所持を許容していない

・日本人も「二尊」を持たない方が精神的に安定する

・中国と日本は同じ儒教体制であったが、中国の外来のものを拒絶できる「角のある存在」である一方、日本は外来のものを受容しようとする「角のない円のような存在」であった

・「二尊主義」を拒絶する日本人のスタンスが端的に表れたのが内村鑑三の二尊主義に対する双方からの批判である

・一尊主義から見た場合、二尊主義に対して矛盾や中途半端さを感じることになる

・一尊主義者による「矛盾」の否定は「進歩」の否定を意味するところ、この「進歩」の否定は変化していく社会への不適応を招くことになる

・「日本人は義理人情を大事にする」と言われているが、日本の一尊主義から見た場合、「義」と「理」は「人情」のことであり、「人情絶対主義」に転化する

・人情絶対主義の結果、説得・決定の手段は「情に訴える」ことが専らとなり、「義=ドグマ」も「理=合理性」は一切考慮されなくなる

・情による競争は形式的な組織的つながりではなく、人脈を作ることになる

・本書が書かれた当時、一尊主義に対する反動からマイホームや趣味・同好会サークルへの加入といった現象が起きているが、この現象は徳川時代にもみられている

・一尊主義に対する反動の背後には、一尊主義のもたらした人情絶対主義に伴う嫉妬その他に疲れた人間が一種と諦念と無関心に陥り、その諦念等を土台にして組織の価値に興味を持たず、持たないがために無条件に肯定されるといった「無尊主義」というべき態度がある

・構成員が組織に対して「無尊主義」に陥れば、組織は形がい化・給与集団に成り下がり、組織が給与集団としての機能を果たせなくなったときに消滅する

 

(第11章)

・どんな組織でも完璧な組織たりえないが、問題のみの組織ということもない

・長所と短所は表裏一体、合理性と不合理性は分離不可能である

・この不合理性は一定の視点から見た場合のものであり、別の視点から見れば合理的に見えることも十分ある

・二者択一選択方式は原則や理念を示す点、定量化の際の固定点を示す際に役に立つが、現実への修正案や均衡解を示す手段としては役に立たない

・日本の問題点は未来に対する基本的指針(原則)がない点にある

・「社会の変化に適合していない旧時代の組織・一定以上の問題を抱えた組織は改革し、または、再生させたほうが良い。改革しないままの組織を人間や社会の努力によって無理やり維持させても社会公共の利益に反する」という意見は原則論としては意味があるが、組織内に生きている人間に安楽死を強要することになりかねいため具体的な改革案として機能しない

・日本の組織の問題点に対する対処法のキーワードとして「トサフィスト」がある

・トサフィストによる対処法は長期的視点に立った即効性のないものである

・トサフィスト文化の大きな流れは「本の欄外に読者が自分の解釈・意見・見解を加え、それらがまとまったら編集」ということの繰り返しである

・トサフィストは中世ユダヤ教徒のある一群の人々を示す言葉であったが、トサフィストの発想はキリスト教社会にも伝わっている

・ヨーロッパで行われた革新的・独創的な試みはこのトサフィストの蓄積の上にある

・ヨーロッパにおける「進歩」とはトサフィストの発想に基づいて一歩一歩積み重ねていくプロセスのこと以外の何物でもない

・トサフィストの「過去への長い検討結果の集積を編集し直す」という作業は「過去を棄却して新しい発想をする」ことではない

・トサフィストの作業はトーラー・バイブルといった社会の基本的なものを停止させず、かつ、形がい化もさせないための手段である

・日本に足りない部分がこのトサフィストの発想である

・トサフィスト的な発想を行う前提に「本文の絶対性」というものがある

・聖書や宗教・国家や社会に対して個人は「尊重する態度」と「意見を述べる態度」の二つを持つところ、前者はトサフィストにおける本文の絶対性に、後者は欄外に注釈を加えることと関連している

・このトサフィストの成果は「歴史」になる

・トサフィストの作業によって作られた歴史とこれらの歴史による裏付けが得られた理論・モデルは近い未来の予測に役に立つでこととなり、この理論・モデルの精錬化の作業が近代科学になる

・日本にも定款やマニュアルと実務の架け橋として先例があるところ、この先例が絶対化して暴走することがある

・トサフィストにおける重要事項として、トサフィストの記述に誤りがあった場合、その誤った記述に「誤りである」という再注釈を加えることができても、記述自体を抹消してはならないという点がある

 

(第12章)

・日本の組織の問題に対して、ヨーロッパやアメリカの組織のモデルを単純に模倣しても、組織の実質が模倣するモデルとかけ離れたものとなるばかりか、日本の伝統とのミスマッチによって大失敗に終わりかねない

・組織とはそれ自体がイデオロギーである

・組織の外形がどのような形態であっても、その実体は過去の形態の再編成に過ぎない

・組織の問題点に改良するならば自己の歴史の延長線上になる範囲で合理化し続けていくしかない

・日本の歴史から見られる日本の組織の特徴は「集団であること」・「感情(情)によって現実に対応すること」である

・日本の「情による対応」は実に天才的であり、イデオロギー・宗教で拘束されたヨーロッパにおいてこんなことは到底できない

・日本人の組織のパフォーマンスを極大化させるためには、①日本人で対応可能であること、②周囲の対応すべきモデルが存在し、かつ、そのモデルに先進性があることの2つの条件が必要で、この2点があれば日本は成功し、なければ失敗してきた

・日本とヨーロッパの違いとして「失敗例の活用・蓄積」がある

・失敗例はそれ自体が貴重なデータであり、これを捨ててしまうことは大きな損失であり、将来の成功の可能性をつぶすことになる

・失敗例を大事にする背景にはトサフィストの発想がある

・いわゆる「巨人の肩に乗る」ことを実効化ならしめているのがトサフィストの発想である

・自分の歴史から離れることなく発展し続けるためには、企業・組織や自分に起きたことを記録し、削除せずに保存し続ける必要がある

・日本でよくなされる「過去を棚上げして否定すること」・「初心に帰れと強調すること」は「過去の否定」であり「歴史の無視」に過ぎない

・日本が「ピラミッドの頂点のつまみ食い」を見事に成功させたところ、この成功の背後には「原理・原則の不存在」といった日本人の特性がある

・ピラミッドの頂点のつまみ食いをすると基礎が存在しないため、結果をたたき出す前提条件が崩れたらそのつまみ食いはスクラップと化す

・スクラップにしないためにすべきこととして、「過去の索引化」(事項に沿った過去の事実の並べ直し)がある

・「制度のコピペ」という発想は、制度が根付かないという意味での悲劇だけではなく、名目的組織と伝統的秩序の無秩序な結合によって日本の組織の構成・原理についてわからなるという悲劇をもたらした

・外来文化の導入という問題は日本固有の問題ではない

・それぞれの社会が時代の行き詰まりの危機を乗り越えられたのは自らを歴史化・索引化しておくとともに、外来思想により自らを再把握し、自らを分析し、再構成してきたからであり、それは日本もヨーロッパも変わらない

 

 

 以上、3回にわたって各章をまとめた。

 次回は「欄外」に書かれるだろう私の感想を残して、この本の読書メモを終わりにする。

『危機の構造』を読む 16

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

24 第7章「社会科学の解体」を読む_後編

 前回までで、社会科学的思考法や社会科学的実践を行う際に踏まえるべき前提、日本において社会科学的実践が行われていないがために生じた悲劇と茶番、日本の社会科学の危機的状況についてみてきた。

 今回は危機的な現状に対してどう立ち向かうか、また、立ち向かうために必要な前提についてみていくことになる。

 

 

 前回、政治と経済が密接にかかわっている現代社会では政治学と経済学の両方からの分析をしなければ有益な分析結果は得られない旨確認した。

 もっとも、これは政治学と経済学に限った話ではない。

 すべての学問について言えることである。

 ならば、各学問(自然科学も含まれる)が各学部・学科に閉じこもっている場合ではない、ということが言える。

 いわゆる「学際協力」が重要になる、ということになる。

 

 もっとも、この学際協力は容易ではない

 本書によると、学際協力のための試みの大半がむなしく失敗しているとのことである。

 そこで、学際協力の試みが失敗した原因の分析とその原因を除去する手段の追求が問題となる

 ここで、日本の美しき伝統による諸々、例えば、「失敗したのは能力がないからだ。反省せよ」と迫ることや「何者か誰かが学際協力を阻止している。云々」といった手段が意味をなさないことは言うまでもないだろう。

 

 この点、原因分析の前に、学問、特に、現代科学の方法論について確認する。

 簡単に言えば、「何をすれば『現代の学問』になるのか」という部分の確認である。

 

 まず、学問(科学)の理想状態は次のメカニズムが回転していく状態を指す。

 

1、モデル・理論を作り、一定の過去の状態から未来の結果を予測する

2、実験を行い、作ったモデル・理論の精度を検証する

3、実験の結果を元に従来のモデル・理論を修正し、一定の過去の状態から未来を予測する

4、実験を行い、修正されたモデル・精度を検証する

(以下エンドレス)

 

 簡単に言えば、学問の理想状態は①理論の構築と②実験による理論の検証の相互循環ということになる。

 しかし、これは理想に過ぎず、理論と実験の相互循環という理想状態の実現は極めて困難である。

 さらに言えば、精密な理論の構築それ自体、あるいは、実験それ自体も簡単ではない

 このことは社会科学でも自然科学でも変わらない。

 

 この結果、現実の科学においては、①理論なき実証、②実証なき理論、③実証と理論の分離といったものが少なくない。

 これらは「現状が理想への中途段階」と見れば必ず生じる現象である。

 よって、この状態はやむを得ないものとしか言いようがなく、これ自体を口実に研究者や学者を非難するのは明らかに妥当性を欠くであろう。

 

 しかし、学問毎にこの中途過程の①・②・③のバランスが異なる。

 つまり、ある学問は理論に特化し、別の学問では実験に特化しているといったことがある。

 この不均衡・偏向が学際協力を困難にしている原因になっている。

 

 この点、この不均衡は研究者個人の関心と研究目的にも左右される。

 例えば、理論研究者は理論好きで「実証なき理論」に偏るだろうし、逆に、実証研究者は「理論なき実証」に偏るだろう。

 しかし、概ねは各学問の伝統・研究状況・発達段階(歴史)による。

 その結果、同じ学問でも時間が違えば、あるいは同じ時点でも学問が違えば、不均衡・偏向の程度は異なることになる。

 このことはそれぞれの学問が護送船団方式のような形で横並びで発達することがないことを考慮すれば当然の結果であり、特段不思議なことでもなければ非難すべきことでもない。

 もし、このことを非難するならば、「自然界に重力があるのはけしからん」というようなものである。

 無意味・不合理・不当というしかない。

 

 しかし、この状態に加えて、学者・研究者が自分の所属する学問・学科の偏向状態を科学の準理想状態と誤解することで話がややこしくなる。

 こうなると、現時点における自分の所属する学問・学科の「理論と実証のアンバランス(偏向)」を「科学の理想状態に対する中途過程」ではなく「現状における科学の理想状態」と誤認してしまうのである。

 その結果、自分が専攻しない学問・学科の偏向(当然、これは自分が専攻する学問・学科の偏向とは異なる)に対してとんでもない劣ったと評価してしまうことになる。

 この誤認と誤認に基づく評価が学際交流・学科間交流を妨げる原因になっている。

 なんか盲目的予定調和説とオーバーラップしている感じがするが、それはさておき。

 

 

 このような例は現実においていくらでも例を探し出すことができるが、本書の具体例をみていく。

 当時において社会科学で進んでいる学問は経済学と心理学である。

 ならば、経済学と心理学がタッグを組めば最高になるではないかとも考えられる。

 しかし、経済学は理論特化、心理学は実証特化となっていて、学問の偏向の向きが全然違う。

 その結果、両者の相互理解は絶望的になっている(いた)。

 まさに、コミンテルンファシズムの関係というべきか。

 以下、経済学と心理学の(当時の)状況について単純化してみてみる。

 

 まず、経済学の先端性の裏付けとなっているのは理論である。

 つまり、いわゆる一般均衡理論とその周辺の理論は理論それ自体として最高であり、この点においては理論物理学にも負けないレベルであった。

 しかし、実証に関してはそれほど進んでいない。

 つまり、パラメータの操作などによって実証できるものは一部、パラメータとして操作できるのも一部といった状態である。

 さらに言えば、経済理論には抽象的なモデルとして存在するものも少なくない。

 この状況を裏付ける発言がヒックス教授(ヒックス教授については次のリンク参照)が「わたくしは、これ(私による註釈、限界代替率逓減の法則のこと)が内省的に、あるいは経験から確証できるとは思わない」という発言である。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 次に、心理学についてみてみる。

 心理学が最先端であることを裏付けているのは実証である。

 その実証の緻密さは物理学には及ばないとしても社会科学の中では類を絶している。

 しかし、心理学者は実証と結びつかない理論を重視しない。

 このことは、「実験と結びつかない理論を許せば、心理学者と同数の理論が発生し、科学としての客観性は失われるだろう」というワトソンが行動主義心理学を提唱した際のテーマにも現れている。

 この辺は客観的な物(商品や貨幣)の動きを対象とする経済学と比べるとやむを得ない気がする。

 

 この前提を踏まえて心理学者から経済学者を見た場合、「経済学者は壮大な一般均衡理論を作っているが、これは砂上の楼閣を熱心に作っているようなものだ」とみて、実証に基礎を置かない理論作りを非学問的行為と見るだろう。

 それどころか、このような砂上の楼閣によってノーベル賞をとったとなれば、怒髪天をつくといったことにもなりうるかもしれない。

 もっとも、経済学者に対して親切に「現実離れした理論作りはやめて、もっと実証に重点を置いたらどうか」などといってもおそらく無駄であろう。

 というのも、経済学は(心理学者がいうところの)熱心な砂上の楼閣づくりによって大きな発展を遂げたのだから。

 本書で書かれていない個人的な感想を追加するなら、もし、経済学が心理学のような実証特化の方向に舵を切れば、急性アノミーその他により経済学は崩壊するのではないかとも考えられる。

 

 

 もちろん、以上の話は単純化した場合の話である。

 当然だが、心理学にも理論はあるし、経済学にも実証はある。

 そして、それらのレベルが低いわけでもない。

 ならば、そこからてこ入れにすればなんとかなるのではないかとも考えられなくもない。

 しかし、それは非常に難しい。

 というのも、両者の間には自然科学でいうところの「理論研究室」と「実験研究室」の不協和音といったようなものがあるからである。

 

 つまり、少し前に「理論と実験の相互循環」が科学の理想状態であると述べた。

 しかし、この理想状態に対しては二つの見方がある。

 つまり、「理論の確立が目的で、実証は理論の価値を支える手段」という発想と、「現実の詳細な解明(実証の緻密か・広範囲化)が目的で、理論は実証を説明するための手段」という発想である。

 経済学や理論研究者は前者の立場を、心理学と実験研究室は取る傾向が強くなる。

 その結果、経済学者は実証結果それ自体に価値を置かない。

 このことは、経済学者が現実の効用関数の調査・実験に関心を持たないという事実からもわかる。

 他方、心理学者はその逆の傾向があり理論それ自体に価値を置かない。

 つまり、実証結果を一般化できるならまあ聴いてやろうという感じである。

 

 この発想の違いはいくらでもあるだろう。

 例えば、法学における実務家と学者の関係もこんなものである。

 あるいは、自然科学における理学と工学や農学の間も似たり寄ったりなのかもしれない。

 しかし、研究対象において一方向のみに特化しているというのは興味深い感じがする。

 閑話休題

 

 そして、この発想の違いが学際協力を困難にすることになる。

 だって、双方にとって一方の目的は相手の手段に過ぎないのだから。

 ある宗教を熱心に進行している人間に対して、「お前の信仰(目的)は私の利益に寄与する(手段になる)、だから力を貸せ」というようなものである。

 反発が先に来ても不思議ではない。

 

 この経済学と心理学における実証的研究思考の差異は、それぞれの学問の実験計画法においても、方法論においても大きな違いを生んだ。

 実証を理論の手段と考える経済学ではデータ処理法に関するものが乏しい。

 逆に、実証にこそ価値を置く心理学ではデータの処理については厳格である。

 このような態度の違いがあれば、一方が「他方とは到底協力できない」と言い放ったとしても無理からぬ気がする。

 

 以上、経済学と心理学のディスコミュニケーションについてみてきた。

 原因を突き詰めれば、それぞれが科学の理想状態からほど遠い状態にある理論特化・実証特化を理想的科学的方法と誤解しているから、ということになる。

 現実では「価格は需要と供給の両方によって作られる」のに対して、「価格は供給が作る」と考えた古典派と「価格は需要が作る」と考えるケインズ派の関係に似ているのかもしれない。

 そして、その辺の誤解を解くことができれば、経済学と心理学は協働できるのかもしれない。

 もっとも、盲目的予定調和説・技術信仰の強い日本でその誤解が解けるかは非常に怪しいが。

 

 

 では、それ以外の社会科学ではどうだろうか。

 そこで、次に政治学にスポットをあてる。

 本書によると、(当時の)政治学は理論も実証も操作(理論による実証の予測)も何ら存在しないらしい。

政治学は、アリストテレス以降進歩していない」らしいのである。

 この点、アメリカでは、政治学の高度化のためのいろいろな理論研究・実証研究は始まっているらしい

 しかし、日本では理論研究自体がタブーというような状況だったらしい(もちろん、当時の話であって現在はわからない)。

 本書によると、日本の政治学者が重視するのは自身の感覚・問題意識、そして作文能力とのことである。

 

 これでは、経済学者や心理学者と政治学者のコミュニケーションは知性主義者と反知性主義者の会話になりかねないだろう。

 つまり、経済学者や心理学者は政治学者と評論家との区別が分からず、他方、政治学者は経済学者や心理学者を社会の問題意識を忘れた些末主義者と見ることになりかねない。

 

 

 以上を見ると、状況は絶望的と言うしかない。

 よって、「社会科学的実践によって得られた成果を社会に還元し、社会問題による悲劇を減少させる」といった話は夢物語に見えてくる。

 本書には書かれていないが、「そんなに絶望的ならば、『あとは野となれ山となれ』でいいではないか、それで問題あるのか」という声まで聴こえてくる。

 しかし、「『あとは野となれ山となれ』はよくない。それは子々孫々のためにならない」と決意するならば(しないならば別である)、この絶望的な状況に立ち向かうしかない。

 

 では、どうするべきか。

 最初になすべきことは「『あとは野となれ山となれ』を選択しない」という決意、、、というのは冗談としても(本書にも記載がない)、「科学的方法論に対する真の理解」になる。

 例えば、心理学者と経済学者の対立は「科学的方法論を理解した上での相互承認」によって解決する。

 ここで大事なのは「理解」と「承認」の二つであり、単なる承認だけではダメかもしれない。

 

 次に、政治学と経済学・心理学の対立についてはどうか。

 この点、上記理解と承認の二点が重要であることは間違いない。

 しかし、さらに必要なことがある。

 つまり、政治学側に必要なことは、「経済学・心理学といった学問発展の歴史の理解」と「『過度の単純化という犠牲を代償にしなければ学問の発展はない』ということの理解」となる。

 例えば、経済学だってワルラス一般均衡論が発表された当初は机上の空論と考えられていた。

 しかし、ヒックス・サミュエルソンによって方法論が整理され、実証・政策立案の武器になった。

 他方、心理学は実験に夢中になり、その結果、「心理学はとは、白ネズミの直系の子孫である人々のことをいう」などと言われた。

 しかし、そこで得られた実験結果が「科学」となり、社会に反映されることとなった。

 この点の理解がカギになるだろう。

 逆に、経済学側・心理学側から見て大事なことは、「今の政治学は昔の経済学・心理学のような状態だったのだから、その理論・実験に不備があってもしょうがない」と割り切ること、であろうか。

 

 

 これらがうまくいけばなんとかなるかもしれない。

 しかし、本書によると、これらの山積した問題に対する手当はなされていないとのことである。

 

 

 以上で本章は終了である。

 今回の話、私自身が似た経験をしていることもあって、それぞれの立場の研究者の心理的状況・解決の糸口のイメージがつかみやすかった。

 この本も似た経験をする前に読んでおけばよかったなあ、と考える次第である。

 まあ、経験する前に読んでもピンとこなかっただろうが。

『危機の構造』を読む 15

 今回はこのシリーズの続き。

 

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『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

23 第7章「社会科学の解体」を読む_中編

 前回は、学問の歴史を通じて「社会科学的法則は存在する」ことを確認した。

 このことは社会科学的実践・思考法を身につけるために絶対に押さえておくべきことである。

 

 ただ、押さえるべきことは他にもある。

 次に押さえなければならないことは「社会に対して個人は極めて弱い存在である」ということである。

 

 この点、前回のメモで心理学と精神分析学による研究の結果として「『個人の自由意志による行動』なるものが存在しない」ことを示した。

 とすれば、社会における個人・集団の現実的な行動の結果が、個人の自由意志や集団の意図・目的といったものから乖離したものとなってもおかしくないことになる。

 この点、マルクスは「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」ということを『経済学批判』にて述べている。

 

 

 そして、このことを方法論的にまとめあげたのがデュルケームである。

 この点、デュルケームは「社会的事実」という概念を設定し、この概念を用いることで社会学を確実な方法論的基礎のある学問までもっていった

 ここで、社会的事実とは、人間の外部にあって人間の行動を規定する一方、人間の行動によって規定されない事実をさす。

 そして、この社会的事実が社会において大きな意味を持つと「仮定」するのであれば、社会現象・社会科学的法則の研究において重要なものは人間の行動や自由意志ではなく社会的事実ということになる。

 

 もちろん、古典経済学派と同様、この仮定は仮説に過ぎない。

 しかし、このような仮定を設定して研究を進めることによって社会分析は有効に機能するようになった。

 

 

 では、社会分析の役割・目的は何か。

 最も大事な役割・目的は「スケープゴート主義からの脱却」である。

 これまで、スケープゴート主義が科学的思考から離れていること、そうであるにもかかわらず、この発想が多くの人間を縛り付けていることを示してきた。

 とすれば、科学的社会分析の真の効用・目的はこのスケープ・ゴート主義の呪縛から我々の思考を解き放つことそれ自体にあるといってよい。

 

 この点、エネルギー保存則(熱力学第一法則)と熱力学第二法則が支配する自然現象と異なり、社会現象では一方的な因果関係のみによって生じる現象が少なく、相互連関によって無限に波及していく現象が多い。

 そのため、社会現象は直感的な推論に頼っても「意図せざる結果」となることが少なくない。

 とすれば、この「意図せざる結果」の分析が社会科学におけるより重要な任務になる。

 

 

 そして、「意図せざる結果」の原因は「相互連関による無限の波及」にある。

 そこで、社会科学的分析において相互連関分析といった手段が重要になる

 

 この点、相互連関分析による具体的な成果の第一号が経済学の一般均衡理論である

 この一般均衡理論によって経済学は飛躍的発展を遂げることになった。

 この辺のことは『経済学をめぐる巨匠たち』で見てきたとおりである(該当するメモは次の通り)。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 この点、経済学の前提と現代社会の乖離によって経済学の有用性が下がった点はこれまでに述べた通りである。

 また、他の社会科学では経済学において設定した大胆な仮定は作りづらい。

 つまり、古典経済学派は「資本主義体制であれば、国家や民族の性質によらずに成立する法則がある」などといった個性完全無視の前提を置いた。

 しかし、政治や心理といった分野であれば、社会システム(社会構造)の要素が重要な役割を演じることが予想されるのでそうもいかない。

 そこで、他の社会科学においても一般均衡理論のような分析が必要であるが、それだけでは足らず、社会構造と社会における機能体の連関分析(相互作用の分析)も重要になると考えられる。

 

 

 以上、抽象的な話が続いた。

 ここから話題を具体的な日本の社会問題に移す。

 本書で取り上げられている話題は大学入試の弊害を緩和するための制度改革である。

 

 この点、著者によると中教審関係者も政府関係者も社会科学的思考法の前提を踏まえていないという。

 その結果、彼らの改革案は実現不可能か、目的を達成できない、という。

 例えば、従前の大学入試の弊害を緩和させる目的で「内申書の追加・一斉入試」といった手段を提案するかもしれない。

 しかし、これらの小手先の方法では大学入試の弊害が緩和できない。

 それどころか、このレベルの改革はこれまで何度も行われ、かつ、総てが失敗したという。

 つまり、「入試を廃止し、別の有益な方向に青少年のエネルギーをもっていく」という意図でなされた関係者の改革は簡単に裏切られ、入試はより厳しい形で復活した。

 このような失敗の悲劇、いや、茶番を繰り返している原因は、社会科学的思考の大前提の欠落、つまり、「入試制度といった社会制度は社会構造の中にあるので、社会構造と社会制度の相互作用を忘れた改革は無意味である」という点を理解できないことにある。

 

 ここで、日本の大学入試制度についてみていく。

 現代日本において(大学)入試制度は大学への入学の可否だけを決しているのではない。

 現代日本の「傾ける階層」を構成するための機能を、日本人の身分を決めるための機能を有しているのである。

 また、入試制度の公正・公平さについて日本人は信仰に近いものを持っている(これは最近騒がせた医学部の女性などに対する配点の問題でも顕在化した)。

 それゆえ、対処療法的改革は意味をなさない。

 このことを示す例となるのが、高等文官試験(その後の旧・司法試験)をそのままにしていたために卒業生を社会に生かせなかった東北帝国大学の法文学部の設立に関する失敗談がある。

 あるいは、東京都の学校群制度の改革も同様である。

 この教育制度改革も組織的・構造的配慮を欠いたため、都立特権校を私立特権校に変えただけ、貧乏人が(公立から私立に特権校が変わった結果)特権校に入りづらくなり、結果、一流大学に入りづらくなっただけで終わった。

 このような失敗例は日本において無数に転がっているだろう。

 このことから、社会構造や構造機能の相互連関分析を欠いた制度改革は無意味であることが分かる。

 さらに、大学入試に関する問題は、教育問題であり、社会問題であり、経済問題であり、政治問題でもある。

 ならば、政治・経済・社会に対する波及効果と相互作用を考慮しなければ、意図せざる結果を招いて失敗する。

 もっとも、自己または自分の所属する集団の利権拡大の意図で改革を利用しているにすぎず、社会問題の解決は重要ではない、とでも考えるなら別として

 

 

 そして、自己・所属集団の利権拡大を意図とせず、社会問題の解決・緩和を意図とする制度改革を行うならば、次のことを抑えなければならないことが分かる。

 まず、単一の制度のみを変更させるのではなく、関連する制度の変更も行う必要があること。

 また、制度の変更によって生じる社会現象をある程度的確に予測し、それが良い方向に向かう可能性があることが事前にわかっていなければならない。

 そこで、制度変更による日本の社会構造の変化と社会構造と社会組織の相互作用に対する分析を行う必要がある。

 例えば、入試制度をいじるなら、大学入試ランキングといった疑似制度・大学の教育システムといった上位システムが制度の変更によってどうなるか、あるいは、入試制度の変更にあわせてどう変更すべきかといった分析も必要となる。

 さらに、制度変更による副作用についても分析して、場合によっては必要な手当てを施すことも重要になる。

 何が起こるかを100%で予測することは不可能であるとしても。

 

 以上、大学の入試問題を例にして社会科学的分析法を適用していく手順についてみた。

 この点、官製の改革案にケチをつけ、あるいは、「絶対反対」を叫ぶだけでは官製の改革案を阻止することはできない。

 よって、こちらから学問的な裏付けのある有益な対案を出して、官製の改革案を蹴散らしていく必要がある。

 ゲバ棒は機動隊によって蹴散らされても、学問の力は政府の権力をはねのけることができるのだから。

 

 

 以上、「社会科学的思考法(実践)それ自体」と「日本で社会科学的思考法を生かしていく方法」についてみてきた。

 ここから日本の社会科学の現状をみていく。

 

 著者によると、当時の日本の社会科学は破産寸前である(あった)という。

 つまり、当時の日本の社会科学は「日本の破局を救済するために利用可能」であるどころか、日本の社会科学それ自体が崩壊に危機にさらされているという。

 

 まず、経済学の状況を確認する。

 高度経済成長をけん引するために極めて重要な役割を演じた経済学が、石油危機のころから役に立たないとの批判の集中砲火を浴び、没落したことは第4章で確認した。

 本書の時点で経済学自体が解体の傾向を示しているという。

 その原因はいわゆるラディカル・エコノミックスの隆盛、そして、過去の経済学者がラディカル・エコノミックスに転向してしまったことにあるという。

 本書では、宇沢弘文教授(現段階では故人、この方が丸激で話をしたものして次のリンクがある)は日本最高の経済学者であるが、旧来の古典派、つまり、新古典派に反旗を翻すようになった。

 このように新古典派から離脱した元古典派の経済学者は少なくない。

 

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 このように、六十年代に隆盛を極めた近代経済学は急速に崩壊してしまった。

 もちろん、近代経済学が廃れたからといってマルクス経済学が代わりの役割を果たすわけでもない。

 というのも、マルキストの予想を超えて日本社会が激変してしまった関係で、彼らの理論その他が旧式になってしまったからである。

 さらに、「ブルジョワ社会科学」も飛躍的に発展している。

 この点、マルクスブルジョワ社会科学(この中には古典派経済学も含まれる)を学び、吸収し、その上で批判を展開したのだが、このような努力は日本のマルキストに見られなかった。

 これでは、旧式化してもやむを得ないともいえる。

 

 ところで、19世紀以前の近代資本主義社会と異なり、現代社会は「政治経済学」という形で政治と経済をセットにして分析しなければならない時代になった。

 この辺のことは第4章で確認したとおりである。

 それに対して、経済学の不振は前述の通り。

 では、日本の政治学についてはどうか。

 本書によると、「日本の政治学は既に消滅した」というレベルらしい。

 このことはいわゆる政治学者が最新の政治的重大事件に対して発言しえないことからも明らかである、らしい。

 この点、戦後から高度経済成長以前の時代は、丸山真男といった超有名な政治学者がいた。

 彼の発言は重かった。

 また、戦後、政治学者たちは廃墟のなかから出発し、斬新な方法と鋭い問題意識をもって現実を分析し、戦後独自の政治学を作り上げた。

 さらに、彼ら政治学者は様々な分野に関心を持ち、心理学・社会学統計学などの隣接分野においても業績を上げていった。

 しかし、高度経済成長による日本社会の激変を経て、政治学者は意欲と能力を喪失する。

 その結果、日本社会に対する発言力を失うとともに、社会科学の進歩から取り残されてしまった、とのことである。

 

 もちろん、ニクソン・ショック、石油危機、ロッキード事件など現代日本において政治的な事件は転がっていて、政治学的方法による分析の機会がないわけではない。

 しかし、本書によると体系的な政治分析はなされていないらしい。

 著者は「戦前の天皇制・官僚機構の分析の際に鋭い切れ味を示した日本政治学はどこへ行ったのか」と嘆いている。

 

 

 以上、日本における社会科学的実践が欠落して悲劇や茶番を繰り返していること、日本の社会科学が危機的状況にあることについて確認した。

 では、どうすればいいのか。

 社会科学を再生させていくためには、学問や科学それ自体について理解すること、また、それぞれの学問の特徴を理解した上で対処していく必要がある。

 そこで、それらの手段を次回以降にみて、本書の精読を終えたい。

『危機の構造』を読む 14

 今回はこのシリーズの続き。

 

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『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

21 第6章「ツケをまわす思想」をまとめる

 まず、前章の内容を箇条書きにまとめる。

 

ロッキード事件・造船疑獄事件・革新自治体の慢性赤字の問題といった日本の社会病理現象現象の背後には「ツケを回す思想」がある

アメリカやヨーロッパと異なり、(昭和50年当時の)日本人は自治体の慢性的赤字財政をそれほど深刻には受け止めなかった

アメリカでは、大恐慌における失業者救済のためのニューディール政策憲法訴訟に発展したように、財政均衡に対しては厳格な態度をとってきた

財政均衡に対する厳格な態度の背後にはジャン・カルヴァンの予定説・資本主義・古典経済学・財産権不可侵の原則などといった宗教・原則がある

アメリカの差別をめぐる戦いは一定のロジック(原則・宗教)によって正当化された「差別主義者」と差別撤廃主義者の間で行われているところ、多くのアメリカの差別撤廃主義者は口先だけではなく行動でも差別を撤廃しようとしてきた

・日本の場合、アメリカのような差別主義者・反福祉論者は存在しないが、差別解消のための行動を起こす差別撤廃主義者も少ない

・日本のような「空気」によって右往左往する社会では、自治体の慢性的赤字の問題と福祉の充実化の成果について一方のみを切り取って称賛・断罪することはあまり意味がない(経済的合理性のみに至高の価値を置き、かつ、経済的合理性を追求する行動以外の人間の行動の価値を否定するならさておいて)

・「自治体の慢性的赤字と福祉の充実」と類似するケースとして国鉄と農業(お米)の問題があった

・現代の日本社会は「ツケを回す思想」で成り立っている面があり、それは功罪両面がある

・この「ツケを回す発想」を支えているものが、日本における「所有」観念と日本の傾ける階層構造である

・近代資本主義の「所有」の特徴として、所有の絶対性・抽象性・一義的明確性がある

現代日本は地図上は資本主義社会に分類されているが、その「所有」に対する日本人の認識に「所有」の絶対性・抽象性・一義的明確性が極めて弱い

現代日本の所有の絶対性が相対化されていることが示されている言葉として、「(企業の環境汚染による漁民への損害に対して)企業を破産させてまで賠償しなくてもいいが、所有不動産くらいは手放して賠償せよ」といった資本主義に対して否定的な識者の発言がある

現代日本の所有が具体化されている例として、いわゆる社用族の振る舞いがある

現代日本では「やり過ぎ」をアウトにするが、この「やり過ぎ」という基準は一義的・明確ではないことから、現代日本の所有の観念は一義的・明確とはいえない

現代日本の「所有」観念がアメリカと異なることについては、業績泥棒や窃盗に対する見方の違いに現れている

・日本の階層構造はいわゆる「傾ける階層」となっている

・「傾ける階層」とは、「『形式的・上位制度の上では平等であるべき』と規定されている一方で、実質的・下位制度的には区別(差別)があることによって生じる階層」のことをいう

・制度化された階層の具体例として貴族制度やカースト制がある

・日本では所属する共同体によって階層が決定されるところ、これらは制度的に決まっているわけではない

・「傾ける階層」が存在することによって、社会では「連続的細分化の法則」と「限界差別の法則」が作動する

・連続的細分化の法則とは階層が「傾ける階層」になっていることにより階層の分化が離散的にならずに連続的になること、階層と階層の境界が不明確になることをいう

・階層と階層の境界(身分の境界)が不明確になる結果、「階層ごとの団結」という現象が生じにくくなる

・階層毎の団結が生じにくくなる結果、個人が共同体外において疎外されていると感じる原因になる

・限界差別の法則とは、各人が自分の状態を自己の属する階層の下限に勝手に設定し、自分よりわずかに下の人間を別の階層とみなしてこれを差別してしまう発想をさす

・「傾ける階層」ではその差があいまいであるため、階層の認識が各個人によってばらばらになる

・自分に有利になるように階層の境界を引く結果、各自が自分の所属する階層の境界線を自分の状況のすぐ下に引くことになる

・限界差別の法則が作動する結果、各集団・集団に属する個人は、よりランクの上の集団にはコンプレックスを抱きながら、より下のランクの集団を見下すしていくことになる

・日本の階層は多元的な構造を持っている

アメリカでは威信と富はプラスの相関があることが多いが、日本では無相関、あるいは、負の相関がみられることもある

・日本では威信・権力だけある人間と富だけある人間がより多く生じることになる

・日本では、威信・権力だけを持っている人間は委託された権力を自分のために流用するようになる

・日本では、富だけを持っている人間は限界差別によって生じる不安から脱却するため上の階層にしがみつくことになる

・日本では、威信・権力を持つ側の人間が「ツケを回す側」の役割を、富だけ持っている人間が「ツケを回される側」の役割を果たし、その結果、「ツケを回す発想」を作動させていくことになる

 

22 第7章「社会科学の解体」を読む_前編

 本書もこれで最終章である。

 そして、本章は学問に関するお話が中心になる。

「そもそも『学問』とは何か」という点から見た場合、本章は有益である

 まあ、小手先の学問的成果だけをかっさらおうとする人間にとっては本章は無用の長物であろうが。

 

 

 本章は「社会科学的思考法」の定義から話が始まる。

 そして、「社会科学的思考法」をイメージするため、その対極にある苦労人の説教話を例に出して話が進む。

 

 この点、「苦労人の説教話」には「現状の世間の状態は苦労人の認識した内容と同一であり、かつ、その認識した世間の状態は『善』である」という前提がある。

 もし、これらがなければ、苦労人の説教話から説得力が消えるだろう。

 また、これらがなければ、聴いた人間からの質問・反論に対して、「自分がお前に対して1時間も費やして話をしたのに、その態度はなんだ」といった態度批判で返すこともないだろう。

 当否はさておき、苦労人の説教話の背景に「社会を(自然のような)所与とみる心的傾向」があることは否定できない(他の仮定としては、「苦労話を使って相手を破滅に追いやる意図がある」とか「全く何も考えていない」といった可能性もあるが、それはあまり多くはないだろう)。

 

 この「社会を所与とみる心的傾向」は苦労人に限った話ではない。

 いわゆる前近代的社会に住む人間にもこの心的傾向はある。

 

 この心的傾向がいいか悪いかはわからない。

 しかし、このような心的傾向でいる限り、社会科学的思考法を行使する意思は生じえないことになる。

 何故なら、このような心的傾向を前提にするなら、社会を批判・分析することは無益であり、その手段となる社会科学的思考法などドブに金を捨てるようなリソースの無駄遣いにしかなりえないからである。

 そして、前近代の人間にとって「社会は、そこで、人は生まれ、黙って生活し、そして死んでいくべき自然現象の一部」だったのであったのだから、「社会を分析・批判しよう」などとは思いにもよらないことであったということになる。

 

 

 以上を踏まえると、社会科学的思考法にはある一つの前提があることになる。

 それは、「社会組織や社会構造は、過去の所属集団の構成員たちの行為による結果である」ということである。

 そう考えるからこそ、「社会組織や社会構造も所属集団の構成員たちの意図に応じて改変・制御することができる」と考えることになる。

 前述の苦労人にこのような発想がないことは明らかである。

 そして、この二つの発想は近代思想の大前提ということになる。

 

 以上の大前提、「社会は人間が作ったものだから、人間は社会を変えられる可能性がある」という観点は極めて重要である。

 この点、近代以前であれば、「社会は不変である。よって、個人は『不変である社会』に適合することが大事」という苦労人の説教話が絶対的真理になる。

 これに対して、近代以降になると「社会は変化しうる。よって、人間は必要に応じて社会を制御し、あるいは変革する必要がある」になってしまい、苦労人の説教話が相対化される。

 もちろん、相対化されるだけで、完全否定されるわけではないとしても。

 

「社会が変化しうる」ことの立証は歴史を見ればわかるだろう。

 これまで様々な社会が滅び、再生してきたのだから。

 もっとも、「変化しうる」といってもその手段が明確なわけではない。

 そこで、「どうやったら社会を変化しうるのか」ということが次の重要な問題となる。

 

 

 この点、「社会を変化させる手段」としての一つの重要な方針が「人間・集団の行動法則(社会科学的法則)を解明する。その解明したルールを足掛かりに社会を変革する」になる。

 しかし、この方針は自明ではない。

 それが証拠に、次の二つの質問が浮かびあがってくる。

 第一の疑問は「社会科学的法則が分からなくても、自分や集団の目的・意図に適合するような社会を強引にデザインすればいいではないか」という点。

 第二の疑問は「そもそも人間・集団の行動法則(社会科学的法則)など存在するのか」という点である。

 いずれも当然に生じうる疑問である。

 

 ここで、本書に記載されていることではないが、イメージしやすくするため自然科学における具体例に置き換えてみる。

 例えば、「鳥は空を飛んでいるが、人は空を飛べない」という過去の一般的事実がある。

 これを所与の前提として「人が空を飛べないことを前提に生きる」のが近代以前の思考法となる。

 これに対して、「(そのままでは人は飛べないが、)補助道具を使えば人間でも空を飛べる可能性がある」と考えるのが、近代以降の思考法となる。

 そして、空を飛ぶ手段として採用する指針が「自然科学法則を解明し、その法則を利用する」となる。 

 これに対する第一の疑問は「別に法則なんか解明しなくてもいいじゃん」であり、第二の疑問が「自然科学法則など存在するのか?」になる。

 自然科学についてみていくと、第二の疑問は「度重なる実験を行った結果、自然には万有引力の法則が成立する現象を多数確認できる。よって、過去の事実関係(歴史)を前提とすれば万有引力の法則は存在する。」になるだろう。

 また、第一の疑問に対しては、「念じて空を飛べるなら、そのまま何もせずに飛んでみい、まあ、概ね失敗するだろう」という反論を突きつければいいということになる。

「汝の信仰、病を癒せり」で有名なクリスチャン・サイエンスの立場にでも立たない限りこれで終わりである。

 そして、自然科学法則を解明して、その法則を利用(逆用)して人は飛行機などを使って空を飛べるようになった。

 めでたしめでたし。

 

 この点、自然科学と社会科学は同じではない。

 本書に書かれている大きな違いとして「自由意志の存在(自然科学にはなく、社会科学にはある)」があり、書かれていない違いとして「実験の現実的可能性(自然科学では実験が可能だが、社会科学では人体実験になりやすく困難)」がある。

 それゆえ、社会科学法則の有無に対する疑問は当然の疑問である。

 

 この法則の有無に対する疑問は、最初に経済学、古典経済学派に投げかけられた。

 そこで、古典経済学における法則の有無をめぐる論争を見ていく。

 つまり、イギリスの古典経済学派は「資本主義社会一般に成立する抽象的法則」の発見を目的としていた。

 途方もない目的である。

 そして、この目的の背後には「個別の資本主義国の歴史的・文化的差異は無視してよい」という前提がある。

 この前提の結果、労働価値説・差額地代説・比較生産費諸説といった法則が発見され、古典経済学派は「これらの法則はいかなる資本主義社会でも通用する(原則である)」とまで主張したのである。

 当然だが、これに対して異論が巻き起こった。

 そして、異論を述べる側の要旨が「経済現象に一般法則など存在しない」になる

 

 この点、自然科学であれば「実験」で蹴りがつく(場合が多い)。

 しかし、社会科学では「実験」を行うことは人や集団をモルモットにすることを意味するため、極めて困難である

 だから、自然科学のような解決は困難であり、現在においても完全な回答を得ることができないわけである。

 まあ、自然科学でも「未来においても現在と同一の法則が成立する」ということを完全に証明することは不可能であり、その意味で「完全な回答」はないのだが。

 

 しかし、完全な回答がなくても「今のところ、一方よりも他方の方が正しい」ということは言いうる。

 自然科学において「過去においては万有引力の法則は成立したし、その前提が崩れぬ限り未来においても万有引力の法則は成立する」と言えるように。

 その観点から見た場合、古典経済学派とその反対派の争いはどうなったか。

 歴史を見ればわかる通り、古典経済学派は大恐慌まで全盛を極め、現在においてもケインズ派と張り合っている。

 現在でもたびたびの批判はあれども、学会の潮流は一般法則の解明に向かっている。

 とすれば、歴史の審判がどちらに微笑んだかの勝敗は明らかと言っていいだろう。

 

 なお、古典経済学派を批判した歴史的偉人としてケインズの他にマルクスがいる。

 しかし、マルクスのしたことは古典経済学派の連中より過激である

 というのは、古典経済学派の一般化は資本主義経済に限られていたのに対して、マルクスはそれを社会一般まで拡張しようとしたから、である。

 具体例としては、産業予備軍説・疎外の理論などがある。

 マルクスにとっては歴史から得られる社会科学的法則の発見・解明の方が大事だったのかもしれない。

 なお、この辺は次の読書メモで学んだこととも関連している。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 かくして、社会科学的法則(個人・集団における法則)の存在がより認知され、経済学から社会学・人類学・心理学といった別の分野に拡散し・再編されていくことになった。

 その結果、「自由意志」についても研究が進み、「人間には『自由意志』が存在するから、社会科学は成立しないのではないか?」という疑問に対しても体系的な回答が得られるようになった。

 

 本書による(学問的)回答は次のとおりである。

 まず、行動主義心理学の展開により、「人間の自由意志」という概念が方法論的に否定されていくことになる。

 次に、行動を決定する際の重要な要素が「意志」から条件反射・社会的慣習に変化していった。

 このことは、我々の日常生活において「習慣・反射に流されてしまった結果、自分の意図が達成できない」という頻繁に起きる現象を見ればイメージしやすいと考えられる。

 さらに、精神分析学の分析結果を組み合わせることで、自由意志と我々が考えているものは個人の複数あるコンプレックスの相互作用の結果に過ぎないことが多いことも判明され、それらの相互作用の法則もある程度発見されるようになった。

 

 

 以上を見ていくと、「人間には自由意志があるから、社会科学的法則は『一切』存在しない」という極論は採用しがたいことになる。

 そして、自由意志という前提がなければ、社会科学を自然科学に引き付けて考えていいことも。

 そして、この理解が社会科学的思考法(実践)を始めるうえで極めて重要な大前提となる。

 

 

 以上、第7章のきりがいいところまで進んだ。

 これ以降は次回に。

『危機の構造』を読む 13

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

20 第6章「ツケをまわす思想」を読む_後編

 まず、前回の部分で今回と関連する部分をまとめておく。

 

 つまり、近代資本主義の「所有」概念には①絶対性・②抽象性・③一義的明確性といった特徴がある

 そして、現代日本の「所有」概念において「所有がの絶対性」は乏しい。

 

 

 では、「所有」の抽象性についてどうだろうか。

 この点を見るため、財産の所有者と所持者の関係を見ていく。

 民法上の言葉を使えば「財産の所有権者と占有権者の関係」だし、日常的なイメージで考えるなら「住居における大家と賃貸人の関係」でもいい。

 

 結論から言うと、日本では他人の物を預かっている人間(管理者)が所有者の同意なく所有権者の如く物を利用する例が少なくないらしい。

 本書では、終戦疎開した農村社会の事例から、日本の「所有」感覚が近代資本主義の所有概念からかけ離れていることに驚いた川島教授の例が紹介されている。

 また、具体例としていわゆる「社用族」が挙げられている。

 この点、いわゆる社用族とは名目的・形式的には会社の営利目的で実質的には自分のために会社のお金を利用する人間のことをさす。

 そして、欧米社会の規範から見れば、社用族の行為は権限の濫用ということになる。

 しかし、日本社会の規範から見れば、別の視点が見える。

 つまり、日本社会においては「自分が管理している会社のお金はその権限の大小の範囲に応じて会社のお金であると同時に自分のお金でもあるのだから、その権限の範囲でお金を利用することに問題はない」ことになる。

 もちろん、やり過ぎればアウトになるが。

 なお、社用族の全員がそうではないとしても、社用族はいわゆるモーレツ社員であって、会社に対して献身的エネルギーを提供して高度経済成長に寄与した人間でもあったという点も付け加えておくべきであろう

 

 もっとも、このような状況では所有の「抽象性」は大いに具体化されているということになる

 その善悪はさておいて。

 

 

 さらに、前述の「やり過ぎればアウト」という言葉の「やり過ぎ」の基準は不明確である。

 また、所有権が相対化についても相対化の程度が明確になっているわけでもない

 例えば、個人の所有物が家や集団の所有物とみなされるケースだとして、どのような方法による処分なら可能なのかという点について明確な基準がない。

 民法の共有の規定(民法249条以下)・法人の規定(昔は民法に規定があった、現在は「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」に規定されているため、該当する条文は削除されている)によって考えればいいわけではないことも明らかである。

 このことから、所有の「一義的明確性」も期待できないことがわかる。

 

 なお、日本はアメリカ・ヨーロッパとは実体が異なるとはいえ、資本主義の社会ということになっている。

 よって、経済財において「所有権はあるようで、かつ、ないようで」といった状況は露呈されにくい。

 しかし、経済財以外の社会財のようなものを見れば、その違いを見ることができる。

 本書では大学の業績泥棒のケースを例に出して、その違いを見せている。

 

 業績泥棒、それ自体は日本でもアメリカでもありうる話である。

 ただ、違うのは業績泥棒が発覚しそうになった場合のその後の展開である。

 本書で紹介されているアメリカの例では、業績を盗んだ側(有名な大学教授)が盗まれた側(若手の研究者)に対してあらゆる手段を用いて自分の研究室に引き留めようとし、それがかなわないと見るや、大学教授はその若手研究者に対して「自分の研究室から抜けるなら『お前のスキャンダルをでっちあげて、研究者生命をないものにしてみせるぞ』」と言って脅したらしい。

 アメリカらしい、というか、盗人猛々しいというべきか。

 この背後には、知的財産のような社会財であっても、その帰属先は一義的かつ明確に個人に特定されること、その特定された個人の知的財産を他人が簒奪することは許されない(だから、相手の口を封じる必要がある)といった発想がある。

 日本ではこんなことは起こりえないだろう。

 その背後には、「知的財産であっても財産である以上は、一義的・明確な基準によって特定の個人に帰属される」という発想がないことに基づく。

 その結果、日本では、教授が助手たちの業績を集めて自分の成果として発表し、また、その発表において教授が助手たちへの賛辞を述べるような部分があること、その一方で、助手の方もそれに対して何も言わないこと、といったことが起こりうることになる。

 

 

 以上、日本社会の「所有」概念が資本主義のそれと乖離していることを確認した。

 なお、「業績泥棒」に触れたついでに、日本の「泥棒」感覚についてもみてみる。

 本書によると、日本では庶民の窃盗(万引き)には寛大だが、エリートの窃盗については厳格である、らしい。

 この点は本書に記載がないが、「万引き」という言葉にもこのことが表れているようにみえる。

 これに対して、「脱税」・「汚職」・「役得」に関する日本人の感覚は欧米人と異なる。

 アメリカやヨーロッパにおいて、これらは重大犯罪であり、泥棒よりも重いこともある。

 これに対し、日本では「一般庶民は司直によって処置するが、身分の高い官僚その他は自分で出処進退をすべきで司直によって処理すべきではない」といったいわゆる「法は士大夫にのぼらず」の感覚が支配的になるらしい

 このことは造船疑獄やロッキード事件においてみられている。

 

 このことから、日本では窃盗・強盗のような具体的な占有を奪われることについては重大な犯罪と考える一方、横領・背任・脱税・汚職といった抽象的な所有権を奪うことについてはあまり強い非難を加えない傾向があることがわかる。

 事実、単純横領罪は窃盗罪よりも軽い。

 この二重規範が日本の特徴ということになる。

 

 以上、現代における日本社会の「所有」概念について確認した。

 次に、「日本の階層構造」についてみていく

 

 

 本書によると、現代の日本社会の階層の特徴は「傾ける階層」という言葉で示すことができるという。

 この「傾ける階層」とは「『形式的・上位制度の上では平等であるべき』と規定されている一方で、実質的・下位制度的には区別(差別)があることによって生じる階層」のことをさす。

 例えば、インドのカースト制・中世ヨーロッパの貴族といった階級は制度化された階層であり、それ自体が差別された階層である。

 このような「制度」となっている階級・階層は日本では存在しない。

 このことは憲法14条2項を見ればわかる。

 

日本国憲法第14条2項 華族その他の貴族の制度は、これを認めない

 

 しかし、このことは現代日本に階層がないことを意味しない

 日本では所属する共同体によって階層が決定される。

 イメージとしては大学の序列が参考になる。

 もちろん、日本の大学も共同体化された機能体なので、このことは「共同体」によって決まる、ということになる。

 このことは企業や銀行(日本においては企業も銀行も共同体化されている)においても変わりはない。

 そして、これはカースト制やいわゆる士農工商といった身分のように制度的に決まっているわけではないので、実質的な階層にしかなりえないことになる。

 

 このような「傾ける階層」が存在することによって、以下の二つの社会科学的効果が発生する。

 

・連続的細分化の法則

・限界差別の法則

 

 以下、順にみていく。

 

 まず、連続的細分化の法則とは階層が「傾ける階層」になっていることにより階層の分化が離散的にならずに連続的になることをいう

 つまり、制度化された階層であっても日本にある傾ける階層であるにせよ、階層は分化していく傾向がある。

 しかし、制度化された階層の場合、身分・階層と個人が関連しているため、細分化されてもそれはとびとびの値をとるような離散的な形になる。

 それに対して、日本における傾ける階層の場合、階層は共同体に関連しているため細分化のされ方が連続的になる。

 この「連続的」とは「社会科学的に連続」という意味で、具体的には、階層と階層の境界があいまいであることをさす。

 イメージするなら、離散的な形の場合、「一級身分・二級身分・・・(以下略)」という身分の境界が明確になる一方、連続的な形になると「一級身分のようでもあり、二級身分のようであり」といったあいまいな状態になるということである。

 

 そして、このように身分の境界があいまいになる結果、「階層ごとの団結」という現象が生じにくくなる。

 つまり、制度化された階層を持つ社会では、自分がどの階層にいるかが明確になるため、「労働者は労働者で団結」・「奴隷は奴隷で団結」といった現象が生じる。

 これに対して、日本では自分の階層の位置が判明しても、同一の階層がどの範囲まで及ぶのかが分かりにくい。

 その結果、同一の階層による団結といった現象が生じにくくなるわけである。

 これは大学受験における大学の偏差値をイメージするといいかもしれない。

 偏差値は一元化された数値で示され、これは連続値である。

 その結果、「どの範囲なら同一のレベルとみていいのか」ということが分かりにくい。

 これが制度化された階層なら、「一流大学は何々大学と何々大学、二流大学は何々大学と何々大学」という形で明確になっていて、一義的で明確であるがためにわかりやすいく、また、団結もしやすい、ということになる。

 このことは、個人から見た場合、共同体外において疎外されていると感じる原因にもなる。

 

 次に、限界差別の法則とは、各人が自分の状態を自己の属する階層の下限に勝手に設定し、自分よりわずかに下の人間を別の階層とみなしてこれを差別してしまう発想をさす。

 つまり、制度化された階層では階層の差が明確であるから、境界も明確である。

 それに対して、「傾ける階層」ではその差があいまいである。

 その結果、階層の認識が各個人によってばらばらになることを意味する

 その際、自分に有利になるように階層の境界を引く結果、各自が自分の所属する階層の境界線を自分の状況のすぐ下に引くことになる

 その結果、自分よりわずかに劣る階層の人間に対して天と地の差があるが如くに差別することになる。

 これが限界差別の法則である。

 

 このようにして、各集団は、そして、集団に属する個人は、よりランクの上の集団にはコンプレックスを抱きながら、より下のランクの集団を見下すことによってプライドを回復させ、心理的緊張・ストレスを緩和させることになる。

 その際、機能集団としての共同体の数が多い日本では見下す集団には事欠かない。

 このことは文系集団と理系集団の関係をみてもわかる。

 かくして、この「傾ける階層」構造は日本社会に根を下ろし、連続細分化の法則と限界差別の法則を拡大再生産していくことになる。

 

 

 もちろん、「傾ける階層」は一長一短である。

 階層が流動化されているという点を見ると、日本社会の緊張緩和(日本人のストレス緩和)のために役に立っているといえる。

 とはいえ、別の観点から見れば、階層の流動化による身分の不安定さから別の心理的緊張(ストレス)をもたらしているとも言いうる。

 というのも、階層が流動化しているということは、階層にしがみつく不断の努力をしなければ一気に転落してしまうからである。

 また、日本の階層は多元的な構造を持っている。

「階層が多元的」というのを江戸時代でたとえるなら、「権力は江戸の幕府が持ち、財力は大阪の町人が持ち、名誉・文化は京都の朝廷が掌握する」といったものである。

 その結果、ある階層が「ある意味では一流、別の意味では三流」といった「地位の矛盾」を引き起こす。

 例えば、日本の大学教授は名誉・威信はあっても財力は低い。

 これに対して、成功したベンチャー企業の起業者はその逆と言いうるだろう。

 アメリカでは威信と富はプラスの相関があることが多いが、日本では無相関、あるいは、負の相関がみられることもあるという。

 

 

 以上の前提で日本社会を見るとどうなるか。

 まず、威信(権力)と富の間にプラスの相関がないため、威信・権力だけある人間と富だけある人間がより多く生じることになる。

 また、「所有」概念については絶対性も抽象性も乏しい。

 その結果、まず、威信・権力だけを持っている人間は委託された権力を自分のために流用するようになる(もちろん、形式的には目的に適合するようになっていることは言うまでもない)。

 他方、富だけを持っている人間は限界差別によって生じる不安から脱却するため上の階層にしがみつくことになる。

 その結果、「ツケを回す」ための需要と供給の条件が威信だけを持つ人間と富だけ持つ人間との間で成立する。

 かくして、「ツケを回す発想」が自動的に作動していく。

 

 

 以上が本章のお話である。

 これまで山本七平氏と小室直樹氏の本を読んできたが、ある一本線でつながっている。

 その意味で、このお二方の本を読んでよかったと強く感じる次第である。