今日はこのシリーズの続き。
『経済学をめぐる巨匠たち』を読んで、経済学に関して学んだことをメモにする。
17 「第15章_私的所有権こそ資本主義の急所」を読む
第15章の主役は川島武宜博士である。
川島博士は法学者である。
前章の大塚博士はマックス・ウェーバーを研究し、資本主義がどのようにして発生したのかを調べた。
それに対して、川島博士は資本主義が作動するための条件、特に所有権について調べた。
資本主義を支えているものの研究という意味では、両名は共通する。
ジョン・ロックの思想のところで述べたとおり、資本主義は自然状態である。
また、自然状態は政府(国家権力)ができる前の段階であり、その自然状態において既に個人は財産を持っている。
よって、「所有権不可侵の原則」が成立し、これが資本主義の基本となる。
ところで、所有権不可侵の原則、換言すれば、私的所有の原則、私有財産制度。
資本主義社会に生きている私たちにとって当然に見える私有財産制度、これは資本主義のみに生じる稀有な制度である。
このことを調査・研究して主張したのが川島博士である。
ここで、「私有財産制度における所有権」について考える。
私有財産制度に所有権の特徴はその「抽象性」と「絶対性」にある。
まず、「所有権の抽象性」とは、占有(現実に所持していること)と所有権が原則として無関係であること。
日本の民法では所有権の他に占有権という概念があるが、所有と占有が一致していなくてもよいと考えることが所有権の抽象性の特徴である。
例えば、Aさんが土地付きの家が持っている(登記もある)。
その土地付きの家をBさんに貸し、Bさんが住んでいる。
この場合、土地付きの家という財産を現実に所持しているのは住んでいるBさんである。
しかし、所有者はAさんである。
具体的に、現実的に所持していなくても、Aさんの所有(財産)となるのである。
これが「所有権の抽象性」の具体例である。
次に、「所有権の絶対性」とは所有者は財産に対して自由に使用・収益・処分をすることができる、つまり、なんでもできることを指す。
例えば、親から先祖代々住んでいた家屋とその家屋が建っている土地を承継したとする。
この場合、親から土地・家屋をもらった子どもはこの財産を自由に処分することができる。
家を好きなようにリフォームすることができるし、家を破却して高層マンションにして金儲けに走ることもできる(もちろん失敗して土地家屋を手放す可能性もある)。
さらに、土地付き家屋をそのまま売り飛ばすこともできる。
「法令上の制限に抵触しない限り所有者は何でもなしえる。伝統等の社会的事情によって、所有者の使用・収益・処分の方法に制限を受けない」というのが所有権の絶対性の特徴である。
例えば、日本の民法には206条に「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。」と書いており、この所有権の絶対性の原則が述べられている。
なお、「法令」とあるが、この法令が憲法(近代憲法)に違反していないことは大前提である。
この所有権の絶対性。
これが成立するのは近代資本主義だけである。
例えば、江戸時代を見てみる。
ある家臣が大名(領主)から褒美(恩賞)として名馬をいただいたとする。
資本主義の所有権の絶対性に従えば、名馬をどう使おうが自由ということになる。
しかし、この時代、そんなことができたかと言えばそんなことはない。
例えば、馬刺しにして食べる、馬を見世物にする。
このようなことをすれば、直ちに切腹を含む法的制裁を浴びることだろう。
また、江戸時代には田畑永代売買禁止令などというルールがあった。
この法令、その内容は田畑を売ってはならないという。
田畑の所有権の処分(譲渡)を全面的に禁止するものであり、現代でこんな法律を制定しようものなら憲法29条1項違反として即刻違憲になるレベルである。
もっとも、このルールは訴えが生じないかぎり運用されることはほとんどなかったらしいが。
さらに、徳政令を考えてみる。
例えば、商人が旗本や大名に金を貸したが返済されない。
現代ならば国家権力の一翼たる裁判所に訴えることになるが、それを当時の国家権力たる幕府に訴えても何もしてくれない。
それどころが、財産(債権)の存在自体を無効化してしまう。
いくら憲法などで財産権の保障を謳ったところで、それを実現する制度がなければ画餅に終わる。
そのため、近代国家では訴訟と差押(保全)というシステムがあり、裁判所がその仕事を担当している(もちろん、ないところから差押えることはできないし、財産がないからといって相手を奴隷として売り飛ばすことができないとしても)。
しかし、江戸幕府は何もしてくれない。
資本主義を前提としていない江戸幕府だから問題ないと言えばそれまでだが、これまた資本主義から見れば重大な怠慢になってしまう。
さて、この資本主義(近代)における所有権の抽象性と絶対性。
この発想はどこから生まれたのか。
この発想はキリスト教の神(クリエーター)と被造物(人間)の関係から見出すことができる。
つまり、キリスト教において「神は(世界・人に対して)なんでもできる」。
このタテの関係を人と物(財産)の関係に置き換えれば、「人は財産に対して何でもできる」となり、所有権の絶対性が成立する。
このように所有権の絶対性を前提に置くことによって、資本主義の精神の一つである「目的合理性」も働くようになる。
何故なら、所有権の絶対性がなければ、財産を自由に処分できず、合理的な計画が立てられないからである。
なお、所有権の絶対性によって利子が生まれるが、利子の正当化が資本主義の作動の前提にあたることはすでに述べた通りである。
ところで、私有財産制度の背景にキリスト教があることを考慮すれば、日本人には私有財産制度があまり理解されていないことが推察される。
例えば、日本の株式会社を挙げてみればいい。
少し前「会社は誰のものか」みたいな話題があったが、近代資本主義の私有財産制度から見れば答えは「株主」一択である。
しかし、少し前まで日本の会社は所有者たる株主の不在なまま経営され、占有者たる経営者や労働者のものと思われていた。
このことを見れば、所有権の抽象性についての理解が浸透しているとは言えまい。
さらに、官僚の私物化(家産官僚)の問題も所有権の抽象性を前提にすれば分かりやすいだろう。
もっとも、その原因を占有者に求めるのは酷な気がする。
これは下剋上というより、上(所有者)の下(占有者)への依存と言った方がいいように思われるので。
さて、資本主義・近代の私有財産制度。
このような所有権の絶対性が認められるのは資本主義だけである、というのが川島博士の主張である。
例えば、鎌倉時代には「悔い還し権」というシステムがあった。
当主である親が隠居して、嫡男に家督が譲られ、所領・土地も譲られ、さらに、幕府もこれを承認した。
しかし、この場合、嫡男たる新当主は土地を自由に処分できると思いきや、さにあらず。
先代たる親の満足のいくように土地を使用・収益しなければならない。
先代たる親に不満があれば、親は「悔い還し権」を行使して、所領を取り返すことができる(そして、幕府もそれを承認する)。
これでは、土地の上級所有者は親(先代)のままであり、子は下級所有者に過ぎないではないか。
これでは、所有権の絶対性もへったくれもない。
次に、資本主義発生前のヨーロッパの事例を見てみる。
ヨーロッパの土地の所有者は土地を自由に処分することができなかった。
必ず上級の領主に同意を得る必要があり、そのためには同意を得るためのお金を支払う必要があった。
また、上級所有権・下級所有権といったように、一つの物に対して複数の所有権が成立しえた。
このように資本主義以外の時代の「所有」は資本主義における「所有」とは異なるものと言ってよい。
このような複雑怪奇な所有権を認めていては、資本主義における合理的な計画は立てられない。
また、古典経済学派のドグマたる自由放任から見れば、複雑怪奇な所有権は自由を妨げる。
そういうことがあって、近代資本主義の所有権はシンプルになり、所有権の抽象性と絶対性が認められるようになったのだろう。
もっとも、日本の民法にも昔の名残は残っている。
例えば、地上権・永小作権・地役権といった所有権以外の物権が存在し、これらは実質的に見れば下級所有権のようなものである(物権であることから誰にでも主張できるという意味での一定の絶対性がある)
ただし、「所有権」という言葉は使われないが。
本章はここから資本主義の市場、つまり、自由市場について話題が移る。
近代資本主義の市場は「需要と供給によって価格が決まる市場」である。
もちろん、需要が価格を押し上げるといった現象は「洛陽の紙価を高める」といった故事、凶作時の米価の高騰を見れば分かる通り、資本主義以外の市場にもある。
しかし、需要と供給以外の要素によって価格が致命的に変わるといったこともある。
例えば、中国のケース。
中国の親しさについてはある程度枠組みが決まっている。
一番親しい者が「幇会」であり、三国志の劉備・関羽・張飛の関係のようなもの。
次が、「情誼」と呼ばれるもので、以下「関係」・「知り合い」と続く。
このように、中国では需要と供給だけではなく、人間関係の濃淡により価格が変わるのである。
このケースから近代資本主義の市場を見ると、やや奇異に見える。
つまり、需要と供給だけで価格が決まると考えるのだから。
では、この近代資本主義の市場(自由市場)が成立する場合とは何か。
それは「完全競争市場」が成立している状況を指し、次の条件を満たす場合をいう。
① 財の同質性
② 需要者・供給者の多数性
③ 完全情報
④ 参入と退出の自由
まず、①の「財の同一性」とは相手を差別しないことをいう。
つまり、「この人なら売らない(買わない)」とか値段を変えたりしないことをいう。
例えば、京都の一流の老舗のように「一見さんお断り」みたいなこともしない、「まんじゅうはこの店以外買わない」といったことをしないということである。
次に、②の「需要者・供給者の多数性」というのは、個々の売買の量が全体から見て僅少であり、価格を滑らせるレベルにはならないこと、つまり、個人による価格操作ができないことをいう。
さらに、③の「完全情報」とは、市場に関する総ての情報が総ての市場参加者に瞬時に届いており、かつ、そのコストがゼロであることをいう。
最後に、④の「参入・退出の自由」はいつでも市場に参加し、かつ、退出する自由があることをいう。
この条件が満たされれば、経済学の諸法則は作動する。
もちろん、このような市場が必ず存在するわけではない、それどころかレアであることは中国の例を引くまでもなく明らかではあるが、。
ところで。
資本主義が興り、産業革命を経た19世紀末、「セイの法則」が作動していたことにより、順調に資本主義は成長していた。
その前提として「所有権の絶対性」があったことは言うまでもない。
もっとも、20世紀に入り、「セイの法則」が作動しづらくなった。
その後、大恐慌によって古典派が一度大きく失墜したのはこれまで見てきた通り。
この点、「セイの法則」が成立しない段階では、古典派の言う「自由放任」ではダメで、ケインズが述べた政府の経済政策が必要になる。
ヒトラーはアウトバーン建設などの公共投資によってドイツの不況を立て直した。
では、ケインズの経済政策と「所有権の絶対性・抽象性」は矛盾しないのか。
「古典派=自由放任=所有権の絶対性・抽象性」との関連を考えれば矛盾しないはずがなさそうである。
公共投資をするには元手が必要になるところ、政府の元手は税金である。
そして、従前にない公共投資を行うならば新たな財源が必要になり、政府は国民の財産を税金として徴収する必要がある。
そのため、公共投資は新たな財産権の制限になりうるので、公共投資には憲法から見た合理的な理由が必要になる。
また、政府の公共投資は政府による経済活動であるから、民間の経済活動を圧迫する可能性がある(所謂、クラウティングアウト)。
そこで、ケインズの主張に基づいてルーズベルト大統領がやろうとしたニューディール政策は片っ端から憲法訴訟のネタになり、連邦最高裁判所は違憲にしていった。
そのため、ルーズベルトは最高裁の判事に自分の子分を送り込むことになる。
また、大恐慌によって経済的自由の規制目的二分論が出てきたこと(消極目的規制の違憲判断は厳格に、積極目的規制の違憲判断は緩やか判断する)こともあり、「所有権の絶対性」も大きな変容を遂げることになる。
例えば、当時、最も先進的なワイマール共和国憲法には財産権の規定について「所有権には義務が伴う。その行使は公共の福祉に役立つべきである」と示しており、所有権の絶対性が修正されている。
近代資本主義を支えてきた所有権の絶対性、それから、契約の自由。
これらは大恐慌や資本主義の成功によって崩壊・修正されようとしている。
では、この変化の過程・変化の方向はどうなるのか。
将来を見据えるうえで、過去の「所有」について調べた川島博士の業績は貴重な出発点になるだろう、と述べて、本章は終わる。
うーむ、前章と本章は資本主義の前提に関する話であり、参考になった。
次回でまとめをして、本書のメモを終わりとしたい。