0 はじめに
このブログに「この本を読んだ感想をメモにしよう」と考え、途中までメモを作成したが、書きかけのまま約半年間放置している原稿がある。
司法試験過去問の検討と同様、書きかけで終わる気がしないでもないが、既に約6000文字近く書き散らしているので、下書きになっている部分を公開する。
一部を公開してしまえば、「残りも書かなければ」と考えるようになるだろうから。
1 『参謀は名を秘す』という本
先日、ある場所で私の目を引いて、購入することに決めた『参謀は名を秘す』という本を読んだ。
これを読んで考えたことを書いてみる。
ただ、小室直樹先生や山本七平氏の本と異なり、本の内容をまとめるわけではない。
この本を読んで考えたことを徒然なるままに書くだけである。
そういう意味では、このメモは「読書感想メモ」である。
2 本書の構成
本書の構成は次のとおりである。
(以下、本書の目次から抜粋)
第一章、参謀は匿名であれ
第二章、信長に天下思想を与える_沢彦
第三章、家康を育てた反面教師_太原雪斎
第五章、日本最後の将軍の黒幕_黒川嘉兵衛
終章、参謀不要の時代
(抜粋終了)
第1章では、巷で言われている名参謀・名軍師と呼ばれている人たちにスポットをあて、「この人たちは本当に名参謀・名軍師か?」という疑問点を投げかける。
具体的にスポットが宛てられるのは次の人たちである。
・楠木正成
・山本勘助
・山中鹿之介
・真田幸村
・直江兼続
これらの人たちは、諸葛孔明のイメージ像を反映した結果、具体的には、次の要素を持っている結果、世間において名参謀・名軍師であるとの評価がなされている。
・主人への絶対的な忠誠心
・智謀による部分的勝利
・悲劇的な最期
しかし、参謀・軍師の機能性に照らしてみれば、次のような問題点も抱えている。
・局地戦で勝利したが、全体では負けた
・主家を潰したか、または、危機に陥れた
というわけで、「彼らはそもそも名軍師・名参謀足りうるのか」という疑問点を投げかけ、具体的な事実を列挙して彼らに名軍師・名参謀失格の烙印を押していく。
そして、著者の持論である「参謀は匿名であれ」と結び付け、部品に徹した参謀たちの紹介に移る。
具体的に紹介されているのは、次の人たちである。
なお、カッコ書きはその仕えた相手を指す。
・沢彦(織田信長)
・黒川嘉兵衛(一橋慶喜)
そして、最後にまとめに移る。
この「まとめ」において「国民総参謀論」を推奨することで、上の「参謀待望論」を雲散霧消させようととしている。
この本、私は1時間足らずで一気に読み切ってしまった。
さらに、分析が具体的で詳細で合理的である。
そして、参考になる部分が多かった。
ただ、なんか釈然としないものを感じたので、以下、私の考えたことを記す。
3、「国政の中心」から遠い人物
名参謀・名軍師の象徴たる諸葛孔明、この人は劉備玄徳が建国した蜀漢の丞相(総理大臣)である。
また、漢の復興のため、曹魏を討つ観点から北伐を行う。
つまり、諸葛孔明は国政の中心にいたし、また、国運が懸かった戦争を自ら指揮している。
よって、亡国の原因を諸葛孔明に求めること、さらには、諸葛孔明に名軍師・名参謀たりえないとの評価をすることは十分可能である。
同様に、「主君の側に仕えた」と言える直江兼続・山中鹿之助・山本勘助についても同様の主張が成り立つ。
主君を滅亡・危機に追いやった結果を見て、彼らを名軍師・名参謀たりえないと言うのは十分ありである。
ただ、この観点から見た場合、疑問符が付く例がある。
まずは、真田幸村(信繁)。
彼は信州の豪族真田昌幸の息子である。
関ケ原の戦いにおいて兄信幸(信之)と袂を分かち、父と共に豊臣方に着く。
その結果、九度山に追放される。
その後、大坂の陣の前に豊臣方から招かれ、大坂の陣において獅子奮迅の活躍をする。
しかし、夏の陣で彼は討死、豊臣氏は滅亡する。
この点について、筆者は「幸村は局地戦で勝ったが、その結果が主家の存続に結びつかなかった。だから、名参謀・名軍師たりえない」と言う。
この事実に間違いはない。
さらに、私自身は真田幸村を軍師・参謀とは考えていなかった。
「名軍師・名参謀ではない」という結論に異議があるわけではない。
しかし、「そもそも幸村は『参謀・軍師』たりうる地位にいたのか」という疑問が残る。
そもそも幸村は石田三成や加藤清正のように豊臣家の譜代ではない。
また、関ケ原の合戦の後、10年以上もの間大阪から離れていた。
この観点から見れば、幸村は前線で戦った指揮官であり、秀頼や淀殿の側近とは言えない。
よって、「幸村って参謀・軍師だっけ」とか「幸村の名声の源泉って大坂の陣というバトルで勝った点にあるのだから、名将じゃないの?」とか思ってしまう。
なんかずれているのだ。
もちろん、「上杉景勝における直江兼続のように、真田幸村は豊臣家の参謀的地位に上り詰めるための努力をするべきだった。それを怠り、その結果として幸村自身の才能が豊臣家に活用されず、豊臣家は滅亡した。よって、幸村は名軍師・名参謀ではない」と考えることは可能だ。
ただ、この場合、「参謀になろうとしなかった」ことが原因になる。
ずれていることに変わりはない。
この点は楠木正成についても言える。
確かに、幸村に比べれば、正成と主君たる後醍醐天皇の距離は近い。
その観点から見れば、正成への批判は幸村よりは妥当性がある。
しかし、正成は河内の土豪(新興勢力)であり、公家ではない。
また、建武の新政において異例の抜擢をされるが、側に直接仕えるというレベルにはなっていない。
北畠親房・顕家親子、日野俊基、坊門清忠などと比べればはるかに遠い。
そのように見た場合、「南朝を維持できなかった原因を正成に求め、それゆえ名参謀・名軍師たりえない」というのは、幸村ほどではないとはいえ「少しずれてないか」と言える。
つまり、諸葛孔明・直江兼続・山本勘助・山中鹿之助と比べると真田幸村や楠木正成は距離が遠いのだ。
(次の「4、結果の過大評価と不可能な要求」に続く)