薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『経済学をめぐる巨匠たち』を読む 4

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『経済学をめぐる巨匠たち』を読んで、経済学に関して学んだことをメモにする。

 

 

6 「第4章_快楽の最大化が正しい経済行動」を読む

 この章の主役は功利主義創始者であるジェレミーベンサムである。

 ベンサムの提唱した功利主義の発想は古典派はもちろんケインズ派にも影響を与えることになる。

 

 

 ベンサムはロックの前提を継承している。

 つまり、ロックの自然状態モデルの前提は次のとおりであった。

 

① 自然状態において、人は身分や特権はない

② 人が所有するのは、生命・身体・自由、そして、予見能力である

③ 人は労働によって富を増やすことができ、増価させた富はその人の労働に由来するため労働した者が所有することができる

 

 ベンサムはこの前提、具体的には、予見能力の部分を修正することになる。

 つまり、ロック(ホッブス)の場合、「予見能力によって、人は将来の欲求(未来の食糧等)を見越して行動できる」となっていた。

 しかし、ベンサムの場合、さらに踏み込む。

 つまり、「人は将来の欲求を見越して行動できるだけではなく、その効用・将来の幸福度の度合いも正確に計算できる」という前提を置いた。

 この前提を置けば、「人間は自分の幸福度が計算でき、その計算によって市場で行動し、自分の幸福度を最大化することができるのだから、国家は市場に対して個人間の権利調整以外のことはするんじゃない」となり、自由放任(レッセ・フェール)を導くことになる。

 

 この点、「正確に」という部分に注目すると、ベンサムの前提は「ばんなそかな」となる。

 しかし、「人間が効用・将来の幸福度合いを計算しようとする」点は間違いではない。

 常に計算するわけではない、とか、正確に計算できるわけではない、とは言えても。

 よって、ベンサムの置いた単純なモデルは科学的に見て突飛な手法ではなく、「シンプルなモデルを作り、徐々に複雑にする」という極めてオーソドックスな手法であると言えそうである。

 もちろん、「単純すぎる」という批判はあり得ても。 

 

 

 このベンサムの主張は古典派を支えたことは言うまでもない。

 しかし、ベンサムの主張は古典派に相対するケインズにも利用された。

 具体的に利用された発想が「流動性選好説」である。

 

 流動性選好説を簡単に書くと、「『富の上昇を狙って利子の付く証券を持つ』選択を捨て、『利子がつかないが安定性のある現金選ぶ』選択を採ることがありうる」という考えである。

 ここでは、話を単純にするため、財産保有の手段を現金(貨幣)と証券の二択とする。

 現金を持てば利子がつかないが、証券を持てば利子が付く。

 この場合、古典派の前提に立てば、つまり、合理的に考えれば、「人は現金ではなく証券を持つ」ということになる。

 しかし、現実を見れば、「証券より現金を持つ」という選択をすることは十分ありうる。

 何故なら、証券は証券の価格が変動しうる一方、インフレを考慮しなければ現金の価値は変わらないからである。

 そこで、証券を持つリスクを考慮し、証券を持つことによる利子を捨てて流動性の高い現金を持つ選択を採ることもある、というのが流動性選好説である。

 この流動性選好説は日本人が現金を好む傾向があることの背景の説明として十分役に立つだろう。

 流動性選好説の背景には「未来について完全に計算することはできない」ということがある。

 

 

 ベンサム功利主義を見たところで、本章は功利主義と経済学、古典派とケインズ派についての話に移る。

 経済学を突き詰めていくと、古典派とケインズ派のいずれかに分かれる。

 この両者の論争が経済学を発展させたのは言うまでもない。

 

 では、何故この二つの学説が生き残っているのか。

 その答えはマルクスが示唆している。

 マルクスは「自然科学だけではなく、社会科学にも人の手で変えられない法則がある」ことを発見した(いわゆる「疎外」)。

 この法則のうち経済において重要なものが、「モノの価格は需要と供給によって決まる」というものである。

 この法則から見た場合、「供給によって需要が決まる」と考えているのが古典派、「需要によって供給が決まる」と考えているのがケインズ派である。

 

 つまり、古典派・ケインズ派はいずれも人の手で変えられない基本かつ重要法則を下敷きにしているため、生き残っているということができる。

 

 

 この点、ケインズ派が古典派に対するカウンターとして生まれたのは歴史を見れば明らかである。

 では、古典派の後ろにはどんな背景・思想があるのか。

 古典派は言う、「市場を自由にすれば、『最大多数の最大幸福』が達成され云々」と。

 この「我々は『最大多数の最大幸福』を追求すべき」と世に問うたのは、功利主義の元祖たるジェレミーベンサムである。

 

 この功利主義の発想を簡単にまとめると次のようになる。

 

・人は快楽と苦痛のバランスを考えて行動を決定し、かつ、人は快楽(苦痛)の効用を計算することが可能である

・政府の役割・政治の目的は、人々の計算に基づいて「最大多数の最大幸福」を実現することにある

 

 つまり、善悪の判断よりも快不快のバランスの方が重要であり、快楽・幸福を最大化するのが正しい、というのがベンサム功利主義の主張となる。

 この点、ベンサムがこのような主張をした時代はまだ近代資本主義が始まった段階であるので、反発も多かった。

 当時の伝統主義から考えた場合、贅沢や利子は悪であったから、ベンサムの考えは異端だったと言える。

 ただ、ベンサムと同様の主張をおこなった人はいた。

 例えば、「個人の悪徳は公共の美徳である」と主張したマンデヴィルである。

 アダム・スミスはこのマンデヴィルの『蜜蜂物語』をモデルにして『国富論』を書いたと言われている。

 そして、このスミスの考えを科学的に証明して経済理論化したのが前回の主役であるリカードである。

 さらに、パレートによって「最大多数の最大幸福」は「パレート最適」という概念に発展していくことになる。

 

 

 以上のように見ると、古典派の思想は、ジョン・ロック、マンデヴィルの発想を下敷きにして、アダム・スミスベンサムに引き継がれ、リカードやパレードなどによって完成したと言える。

 また、ロックの思想まで遡ると、資本主義における近代国家の役割が分かる。

 つまり、国家は契約(憲法)によって成立する政府であり、政府・政治の目的は個人相互の権利の調整である、と。

 そのため、近代国家の立憲民主主義と資本主義は不可分の関係に立つ。

 

 このような不可分性を考慮すれば、憲法・民主主義の危機は資本主義の危機であり、資本主義の危機は憲法・民主主義の危機であることになる。

 こんな大事なことを日本の憲法学者は教えんのだ、と著者は嘆いてこの章は終わる。

 まあ、日本のファンディに照らせば不可分の関係にあるものを無理やり分離することはあるので、不思議でも何でもないが。

 

 

 以上が本章のお話。

 メモとしてそこそこの分量になったため、今回はこの辺で。

『経済学をめぐる巨匠たち』を読む 3

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『経済学をめぐる巨匠たち』を読んで、経済学に関して学んだことをメモにする。

 

 

5 「第3章_最高の理論家が発見した国際経済学の原理」を読む

 この章の主役はデビット・リカードである。

 このリカード、「まえがき」では株屋として紹介されている。

 しかし、証券の仲買人だったリカードアダム・スミスの『国富論』を手にして経済学・経済政策の研究にのめむことで、「比較優位説」を発見し、また、「セイの法則」を中心に据えた理論を作り上げることになる。

 その意味では、レッセ・フェールを広めた功績はリカードによるところが大と言えるのかもしれない。

 

 

 では、リカードの発見した「比較優位説」とは何か。

 比較優位説とは、「自由市場(貿易)が実現すれば、その貿易において双方に利益がある(厳密には、不利益は生じない)」である。

 当然だが、国によって生産力に差があるし、得意分野が同じであればライバル関係になることもある。

 それでも、自由貿易によって双方に不利益をもたらすことはない、らしい。

 

 この点、アダム・スミスも分業と交換のメリットを説いている。

 しかし、アダム・スミスの主張は「『絶対優位』の分業論」であり、「得意分野に特化せよ」というものである。

 そして、「『絶対優位』の分業論」の場合だと、どの分野でも勝っている国がどの分野でも劣っている国に対して貿易をするメリットはない。

 どの部分でも勝っている以上、劣っている国から得られるものがないからである。

 

 これに対して、リカードの比較優位論によれば、「どの分野でも勝っている国が劣っている国と貿易しても損をしない」ということになる。

 ただ、正直、私がピンときてないので、リカードが用いた具体例を使って考える。

 具体例では、イギリスとポルトガルの二国間、ぶどう酒と毛織物の二製品、生産手段は労働のみ(一生産要素)というシンプルな例が紹介されている。

 

 ポルトガルとイギリスは共にぶどう酒と毛織物を生産している。

 15世紀の頃は、ぶどう酒と毛織物のどちらにおいても、イギリスよりもポルトガルの方が生産力が高かった。

 例えば、ポルトガルはぶどう酒1樽や毛織物一反を作るのに労働者1人による1年分の労働力(1人・年分)が必要だとする。

 他方、イギリスはぶどう酒1樽を作るのに労働者20人による1年分の労働力(20人・年分)、毛織物一反を作るのに2人の労働者1年分(2人・年)が必要だとする。

 そして、生産に要した労働力が価格となり、価格の比が交換比率になるものとする。

 以上をまとめると次のようになる。

 

ポルトガルの場合、ぶどう酒1樽が1(人・年)、毛織物一反が1(人・年)

 → ポルトガルにおいて、ぶどう酒1樽と毛織物一反の価格比は1:1

・イギリスの場合、ぶどう酒1樽が20(人・年)、毛織物一反が2(人・年)

 → イギリスにおいて、ぶどう酒1樽と毛織物一反の価格比は10:1

 

 この場合、アダム・スミスの絶対優位の分業論に従えば、ぶどう酒・毛織物のいずれにおいても、イギリスよりもポルトガルの方が生産力が高く、生産コストは低い。

 そのため、イギリスと貿易するメリットがない。

 しかし、比較優位論に従えば、メリットが生じる。

 つまり、ポルトガルがぶどう酒1樽をイギリスに運び、イギリスでぶどう酒を毛織物に変えてポルトガルに持ち帰った場合、輸送費を無視すればぶどう酒1樽を毛織物10反に変えることができる。

 この場合、イギリスと貿易することで、ぶどう酒1樽は毛織物10反に化ける。

 他方、イギリスと貿易をしなければ、ぶどう酒1樽は毛織物1反にしかならない。

 つまり、ポルトガルはイギリスと交易することで毛織物を安く手に入れられることになる。

 他方、イギリスも毛織物をポルトガルに運んで、ポルトガルでぶどう酒に交換し、本国に持ち帰った場合、毛織物一反をぶどう酒1樽に変えることができる(輸送コスト等は無視する)。

 もちろん、イギリス本国であれば、毛織物を十反用意しなければぶどう酒1樽に交換することができない。

 つまり、イギリスはポルトガルと交易することで毛織物の価値を高めることができることになる。

 

 以上、自由貿易を行い、お互いに作るものを特化させる(イギリスは毛織物に、ポルトガルはぶどう酒に)ことで、お互いに得をするわけである。

 これが比較優位論の根拠である。

 もちろん、比較優位論の前提において、交易コスト(輸送費等)と交易が途絶した場合(自由貿易のプラットホームが壊れた場合)のリスク(現代日本のように食糧を外国に頼る状況で外国と貿易できなくなった状況を想定してみよ)を無視しているが。

 

 

 ここで、サムエルソンが述べた皮肉な話が紹介されている。

 曰く、アメリカ人が比較優位説を理解できないほど愚かであった事が幸いであった。それがために南北戦争が起き、米国は最大の工業国になったのだから」と。

 つまり、南北戦争前、農産物を生産していた南部は輸出拡大のために自由貿易を望み、イギリスに対して工業力で劣る工業地域の北部は保護貿易を望んでいた。

 比較優位説を知っていれば「自由貿易をするべき」という結論になるが、アメリカ人をそれを知らず、また、理解できなかったため、南北が対立して戦争になった。

 しかしながら、北部が勝って、アメリカは世界最大の工業国になった。

 自由貿易をすれば、イギリスは工業に特化してアメリカは南部中心の農産物生産に特化したので、北部の工業地域が大発展することになかっただろう。

 それゆえ、比較優位説が理解できなかったことが幸いな結果をもたらしたのである。

 

 確かに、この比較優位説、私は知らなかった。

 このような単純なことも把握していなかったとは自らの浅学ぶりを恥じるほかない。

 

 

 さて、リカードが主張した理論・法則等で「比較優位説」と同様に重要な理論が「セイの法則」である。

 リカードは「セイの法則」を理論の中心に据える旨述べている。

 

 このセイの法則は「供給されたものは総て売れる」という恐ろしい法則である。

 日常の生活感覚を前提とする人などはばんなそかな!!!」と叫ぶことになるだろう。

 世の店は長蛇の列ができる店ばかりではないのに、なんでそんな非現実的な設定を前提にするのだ、この人現実を知らないんじゃないかしら、などなどなど。

 

 この点、セイの法則は「部分部分は格別、全体として見れば『供給すれば売れる』ことになる」ということを意味する。

 もう少し言葉を縮めれば、「供給が需要が作る(はじめに供給ありき)」になる。

 

 このセイの法則、その後の経済学者によって当然の前提として使われた。

 このことは、セイの法則はセイという男の子供じみた戯言である」と言い放ったマルクスでさえ例外ではない。

 

 

 しかし、この「セイの法則」を経済学者があまりに当然視したことによって、とんでもない副作用が発生してしまった。

 セイの法則という前提においては「供給は総て満たされる」ことになる。

 そのため、「深刻な不況(モノが長期間売れない事態)は起きない」ことになる。

 無論、短期的な不況は生じるが、市場の持つオート・ヒーリング(自動調整機能)によって不況から脱出できると考えるのである。

 つまり、不況が生じても、労働者は賃金の減少を受忍し、経営者が反省して経営方針を改めれば(できなければ市場から退場するだけ)、景気は元に戻ると考えられていたわけである。

 その結果、古典派の経済学者は失業や不況に関する研究を全くしなかった。

 そのため、大恐慌において古典派はなんら有効な対策が打てなかった。

 大恐慌による不況を克服したのはナチス・ドイツアドルフ・ヒトラー、そして、ジョン・メイナード・ケインズである。

 

 

 この点、古典派の主張・ドグマである「レッセ・フェール」を批判したのは、マルクスケインズである。

 マルクスはレッセ・フェールによって生じる社会的問題(貧富の格差の上昇、労働者の貧困)を根拠に古典派を批判した。

 ケインズは古典派が当然とするセイの法則は常に成り立つものではない(成り立つときもあるが、成り立たない場合もある)と批判し、セイの法則が成り立たないときにレッセ・フェールを貫いても不況から脱出できない旨述べた。

 

 ケインズが古典派に挑戦して50年以上が経過するが、古典派とケインジアンの論争は今も続いている。

 また、リカードの時代から既に200年が経過し、技術・経済規模は大きく変わったが、古典派の理論は今も生きている。

 そこで、古典派の理論が何故今も通用するかを知るため、古典派の思想の背景をもう少し深く掘ってみる。

 

 

 というのが本章のお話。

 うーん、参考になった。

 あと、シンプルなモデルからでもざっくりとした傾向や原則を抽出できるのはすごいなあ。

 モデルの強みを再確認することができた。 

『経済学をめぐる巨匠たち』を読む 2

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『経済学をめぐる巨匠たち』を読んで、経済学に関して学んだことをメモにする。

 

 

3 「第1章_経済学を生んだ思想」を読む

 最初に、経済学の特徴についてまとめておく。

 

・経済学は近代資本主義という経済システムのみを対象とする

(法学・政治学はあらゆる地方・あらゆる時代の政治・法が対象になるし、社会学や心理学では人間以外のものを対象にすることすらある)

・近代資本主義は、その発生から百数十年のうちに、資本主義以前の時代に生み出した富をはるかに上回る富を作り上げ、かつ、地球上の社会を一つに結びつけてしまった

・経済学では社会学のなかで率先してモデルを利用する(物理学のように)

・古典経済学派(古典派)は、経済に関しても(万有引力の法則等の自然法則のように)人の自由にならない法則(マルクスが「疎外」と呼ぶもの)があることを発見した

・古典派の大発見であり、かつ、古典派の教義(ドグマ)は「レッセ・フェール」(自由放任)である

・古典派のドグマである「レッセ・フェール」はマルクスジョン・メイナード・ケインズシュンペーターにより批判されたが、それらの批判にもかかわらず何度も復活している

 

 

 第1章では、古典派のドグマである「レッセ・フェール」のモデルの先例について。

「レッセ・フェール」のモデルを考えたのはトマス・ホッブスジョン・ロックである。

 ジョン・ロック立憲主義(社会契約説)・民主主義のモデルを作ったが、資本主義のモデルも築いた。

 民主主義と資本主義がキリスト教の聖書・予定説を背景にしてできた点を考慮すれば、当然のこととは言えるが(詳細は次のリンク参照)。

 

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 ホッブスとロックが作り出した人間のモデル、いわゆる自然状態は「社会はないが、(人間としての)能力がある状態」である。

 この状態で人間がどう振舞うかを考察した。

 

 二人の共通項は次の通りである。

・社会がなければ身分や特権はない(人はみな平等である)

・人には予見能力があるので、飢えをしのぐための食料などの資源(富)を求める、その際、現在の分だけではなく、将来の分も確保しようとする

 

 一方、ホッブスとロックの相違点は次のとおりである

ホッブスは「富は有限である」・「人間間の能力差は小さい(平等)」ことを前提に考えた結果、自然状態は「万人の万人に対する闘争」という戦争状態になるものと考えた

・他方、ロックは「『労働』によって富を増加させられる(富は有限ではない)」と考えた結果、自然状態は資本主義であると考えた。

 

 以下、ロックの思想を経済学的観点からみていく。

 そうすると、次のようなことが言える。

 

・「労働によって資源(富)が増やせる」と考える結果、増えた富(財産)は労働の対価として本人が所有することができる、つまり、所有権の正当化の根拠を本人の労働に置いた

・自然状態において財産所有が正当化されたことから、財産は生命と自由と同様、国家が成立する前から人間の持つもの(自然権・人権)となった

 

 

 なお、この近代資本主義の思想をヨーロッパに広めたのは、フランス革命後の混乱を終息させ、その後にヨーロッパを征服したナポレオンである。

 ナポレオンの時代、フランスでは『ナポレオン法典』が作られ、軍事征服によってこれが広まったが、このナポレオン法典には財産権不可侵の原則がうたわれている。

 また、日本でも江藤新平がこのナポレオン法典を参照して民法草案を起草している。

 

 

 以上が第1章のお話。

 この辺の話は『痛快!憲法学』と重複するので、さっさと次に行こう。

 

4 「第2章_経済学の父は何を考えたのか」を読む

 第2章では、経済学の父であり『国富論』を書いたアダム・スミスに話題が移る。

 この点、経済学の父であるアダム・スミスが『国富論』を出版したのは1776年である。

 ここから経済学の思想が始まっていることを考慮すると、経済学の歴史は約300年ということになり、経済学が非常に新しい学問であることが分かる。

 そして、このスミスの発想から、マルサスジョン・スチュアート・ミル、マーシャル、ピグーと連なる古典派を形成する。

 この古典派がケインズマルクスによって叩かれても蘇ったことは前述の通り。

 ならば、アダム・スミスの思想を知ることは経済学を知るうえで必須である。

 

 

 では、アダム・スミスの思想とは何か。

 それは古典派のドグマである「レッセ・フェール」(自由放任)である。

 つまり、「市場を自由にしておけば、最大多数の最大幸福・パレート最適は自然に達成される」というものである。

 そして、この思想から「国家は経済に干渉してはならない」という夜警国家・消極国家の考えも生じることになる。

 

 

 もっとも、「『最大多数の最大幸福』が実現された状態はどんなものか」について、アダム・スミスははっきりしたことは言っていない。

 その答えを示したのがリカードである。

 リカードの答えは次のとおり。

 

 資本主義の諸法則・市場の自由を貫徹した結果、「最大多数の最大幸福」の状態になるが、長期的に見た場合、または、究極的な状況になった場合、企業の利潤率はゼロに、労働者の賃金は最低レベルの水準になる

 

 暗い影をおとす結果になってしまった。

 なんか、現代日本を見ているようではないか。

 もちろん、それでも資本主義が他の経済システムよりマシ(他のシステムでは餓死者が出るが、資本主義ならば最低賃金は捻出できる場合)ならば、この状態でも「最大多数の最大幸福」になりえるので、リカードとスミスの主張は十分両立するのだが。

 

 なお、古典派であり、『人口論』を書いたマルサスも次のような指摘をしている。

 

 人口は等比級数的(1倍、2倍、4倍、8倍、といった感じ)に増えるが、食料は等差級数(1倍、2倍、3倍、4倍、といった感じ)でしか増えないため、人口過剰による貧困と悪徳が蔓延する

 

 

 なお、リカードマルサスも「最大多数の最大幸福」の次の状態については言及していない。

 それを検討したのがマルクスである。

 マルクスの答えは次のとおり。

 

 最大多数の最大幸福の状態になると革命が起きて社会主義に移行する

 

 マルクスの特徴は、①経済だけではなく社会にまで視野を広げたこと、②「『最大多数の最大幸福』が達成されたとしても革命が起きる」とした点である。

 

 

 最後に経済学の具体的な目的について。

 経済学は近代資本主義を研究する学問であるが、具体的に調べていたものは「モノの価格が決まるメカニズム」である。

 いわゆる「ミクロ経済学」と呼ばれているものである。

 

 この点、現在の視点で考えれば、「価格は需要と供給によって決まる」と言える。

 しかし、この結論に至るまでも紆余曲折があった。

 例えば、「価格は人々の欲する意欲(需要)」によって決まるという考えがあったが、現実においてダイヤは高価で水は廉価であることを考慮すると、この考えは成立しない。

 また、「価格は投入された労働の量(供給)」によって決まるという「労働価値説」も唱えられた。

 さらに、「価値は『効用』によって決まる」という考え方も唱えられた。

 そして、この説が洗練されて「限界効用説」になった。

「限界効用説」とは「追加された最後の1単位がもたらす効用」となる。

 xがy個あったときの価値をf(x,y)と書くとき、限界効用g(x,y)は次のような式にできる。

 一言で言えば、価値f(x,y)をy(量)で微分した結果と言えばいいか。

 

g(x,y)=f(x,y+1)ーf(x,y)

 

 具体例を挙げれば、ご飯の1杯目は必ず要る(価値が高い=値段が高くなる)、2杯目はお腹が減っているときに限りいる(1杯目ほど要らない、価値や値段が下がる)、3杯目は欲しいとは思わない(さらに、価値と値段が下がる)、という要領である。

 

 もちろん、限界効用をどうやって測定するのかという問題はある(例えば、投入された労働の量が価値を決めるという労働価値説であれば、価値の測定も可能である)。

 しかし、ここでワルサスの弟子であるパレートが「限界代替率」という概念を導入して限界価値測定の問題を解決した。

 これは、1個のものだけを見てその価値を測定することはできないが、ある1個の絶対的な物(例えば、金)を固定し、金とあるもの(リンゴでもコメでも何でもよい)の2種類の交換比率を測定すれば、相対的な価値を測定することができる、という考え方である。

 

 

 このようにケインズ前の経済学はアダム・スミスの思想を前提に経済学が発展した。

 そして、このアダム・スミスの思想を理論にしたのがリカードである。

 そこで、古典派と経済学についてよく理解するためにリカードについてみていく。

 

 

 というところでこの章はお終い。

 ざっくりと把握するという点では理解できたかなあ、という感じ。

 この調子でどんどん読み進めたい。

『「空気」の研究』を読む 27(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 なお、今回が最終回である。

 

 

30 感想

 今回、改めてこの本を読んで思った感想は次の3点である。

 

 1つ目は「もっと前に知っておけばよかった」である。

 これまでのメモで同趣旨のことを何度も書いているが、本当にそう考える。

 

 この点、この本を購入したのはかなり昔である。

 私の持っている本は文庫本の第16版、この版が出たのは2006年である。

 買った時期は覚えてないが、10年以上前であることは明らかである。

 そして、過去にこの本を一通り読んでいることも明らかである。

 このことから、「真面目に何かの教訓等を得ようと考えれば、何時でも知ることができた」わけである。

 

 ならば、昔の私は「『知ろう』と考えていなかった」ことになる。

 また、「知っても『意味がない』と評価していた」ことにもなる。

 そこで、この背景について自戒の意味を込めて振り返ってみたい。

 

 この本に書かれた「空気」が日本や日本人を強く拘束していることは今も昔も認識していた、と言える。

 この点は今も昔も変わりがない。

 とすれば、この本を読んで「空気」について把握することで、自分を拘束しているものを把握し、または、脱却を試みることができる(できるかどうかは別として)ことには気付けただろう。

 しかし、過去の私はそのように思わなかった。

 何故だろうか?

 

 今から推察するに、理由をあげれば次のとおりだろうか。

 

1、この本を読んでも「空気」について把握できると思わなかった

2、今回ほど真面目に読んでいなかった

3、「空気」について把握したところで、脱却する気はないと確信していた

 

 まず、違うのは1である。

 現在読み直すことで色々と把握しているし、成人後の過去の私と現在の私で頭の出来に大きな差があるとは考えられないから(むしろ、今の方が劣っているとさえ考えられる)。

 また、三者から見ても、この『「空気」の研究』は名著なのだから。

 

 2つ目はどうだろうか。

 この点、読書に対するスタンスが今回と過去で違う、というのはある。

 よって、この回答がもっとも妥当ではないかと考えられる。

 ただ、「真面目に読まなかった」には「読む余裕がなかった」と「読む予定がなかった」の両方の意味があり、両方とも当たっている気がする。

 別に、今年に入って80冊以上の本を読んだが、全部の本を真面目に読んでいるかと言われれば怪しい。

 例えば、今年に呼んだ戦国武将の小説など読書メモを作るような本と比べれば全然真面目に読んでない。

 過去のこの本に対するスタンスは現在の戦国武将の小説に対するスタンスと同じだったと言われれば、「まあ、そうかな」と言う気がする。

 

 そして、3つ目。

 2つ目と連動するところもあるが、これもあるのかな、という気がする。

 やや抽象化すれば、「本を読み知識を吸収することはしても、それ以上のことをする予定がなかった」になる。

 別に、この本はプログラミングの教科書でもなければ、司法試験の教科書でもない。

 また、資格試験の教材でも実務に関する専門書でもない。

 ならば、「きょーよー」として知っておくという目的で充分だったということはある。

 この点は、読書メモを作った『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』や『痛快!憲法学』についても似たようなところがある。

 

 もちろん、総ての本を読むにあたって「なんらかのアウトプット」に向ける必要はない。

 ただ、実務に関連しない本であってもそのようなスタンスで臨むべき本もある、ということなのかもしれない。

 

 

 2つ目の感想は、「さて、これをどう活かそう」というものである。

 内面においてどう活用するかはある程度決まっている。

 キーワードは「相対化」と「現実(歴史)」と「背景」

 つまり、相対化して把握する、現実と歴史を参照する、行動の背景(ファンディ)を切り離さない

 もちろん、全部についてこれをやっていたらきりがないので、重要かつ必要なところだけ、ということになるが。

 

 あとは、対外的にどう生かすか、である。

「メモにする」というのは一つのアウトプットではあるが、それでは外面的な実践にならない。

 この点は今後の課題、ということになる。

 

 また、「改革」の共通性として「人は改革を望むとき、過去の理想郷だった時代に戻ろうとする」というものがあった。

 ならば、未来の「改革」なるものを想定するなら、日本の過去を学ぶのも一興なのかもしれない。

 

 

 そして、3つ目の感想は「今も昔も変わらんなあ」である。

 本書で書かれている通り、「反省」と称する行為によって過去を切り離したとしても、過去を切り離せず同じことを繰り返している。

「外国の思想(私の場合は『集団外の思想』になる)が日本の『水』によって腐食し、吸収されて名しか残らない過程」や「外来(私の場合、『集団外』になる)の『思想と技術』のうち技術だけを取り込もうとする姿勢」についてはここ数年の私の身近でまさにこの現象が起きており、あまりの類似性に笑ってしまったほどである。

 また、その集団で使われていたとある言葉の背後にあるものが、実は「『情況』への適応」だということに気付き、これまた笑ってしまったほどである。

 この辺は、まとめて発表してみたら面白いかもしれない。

 

 あと、「空気」や「水」と『敗因21か条』を比較してみると、面白い何かが見られるかもしれない。

 これも今後の研究課題としよう。

 

 

 以上、『「空気」の研究』をメモにするレベルで読み直したが、その収穫するところは大であった。

 この知識は是非とも対外的に活かしていきたい。

『経済学をめぐる巨匠たち』を読む 1

0 はじめに

『「空気」の研究』に関するメモが終わってないが、次回で終わる予定であること、次にメモにする本が決まったので、今回からその本を読んでメモにしていく。

 4冊目にメモにする本はこちらである。

 

 

 著者は『痛快!憲法学』の著者である小室直樹先生である。

 

 

ja.wikipedia.org

 

 このブログでは山本七平氏と小室直樹氏の著書の読書メモが中心になりそうである。

 

 

 先日、この本を県の図書館で見つけ、借りて読んだ。

 そして、最近、某所で見つけたので購入した。

 購入したのであれば、メモにする程度に読み込んだ方が良い。

 

 また、資本主義と憲法立憲主義・民主主義)は密接な関係にあることは『痛快!憲法学』で見てきたとおりである。

 さらに、資本主義社会で生きていく以上、その資本主義を研究対象とする経済学についてある程度知っておいた方がいい。

 そこで、4冊目のメモはこの本にした。

 

1 本書で紹介されている経済学の巨匠について

 この本では、経済学を発展させた巨匠(学者)について紹介しながら経済学の歴史・発展について紹介する、という形を採っている。

 紹介されている先生方は次のとおりである。

 

 トマス・ホッブス

 ジョン・ロック

 アダム・スミス

 デビッド・リカード

 ジェレミーベンサム

 ジョン・メイナード・ケインズ

 カール・マルクス

 マックス・ウェーバー

 ヨーゼフ・アイロス・シュンペーター

 レオン・ワルラス

 ジョン・リチャード・ヒックス

 ポール・アンソニー・サムエルソン

 高田保馬

 森嶋通夫

 大塚久雄

 川島武宜

 

 このように並べると、『痛快!憲法学』で登場された先生方の名前を見ることができる。

 憲法(立憲民主主義)と資本主義に共通する思想・宗教を考慮すれば当然のことなのかもしれない(この両者をあっさりと分離してしまう点に我々日本人のファンディがある、という話は『「空気」の研究』でみてきたとおり)。

 

 ただ、登場していない先生もいる。

 また、私は経済学についてほとんど学んでおらず、この本を読むまで知らなかった先生もいるし、名前しか知らない先生もいる。

 そこで、これを機に勉強する。

 

2 前書きを読む

 前書きでは「経済学」の射程範囲の狭さに関する話から始まる。

 つまり、経済学はあらゆる社会の経済システムを対象としている学問のように見える。

 しかし、本書によると「経済学の対象は近代資本主義である」と言う。

 この点、法学や政治学の射程範囲は近代だけではない。

 古代から現代までのあらゆる時代の「法」や「政治」が対象となるし、地域も中国からイスラムまで人間の営む地方であれば総ての地方が対象となるだろう。

 社会学・心理学も同様である。

 社会学はサルの共同体(社会)を対象にすることもあるし、心理学は動物に対する実験を盛んに行っている。

 この観点から見た場合、「近代資本主義」のみを対象とする経済学はやや奇妙に見える。

 どちらかと言うと、生物学や物性科学に近いというべきか。

 

 また、本書では経済学は経済学者の独占物というわけではなく、様々な分野の人間によって研究されてきたことも紹介している。

 ホッブスとロックは哲学者・政治学者だし、マルクスは革命家、マックス・ウェーバーは宗教社会学者である。

 また、本書によると、アダム・スミス倫理学の先生、リカードは投資家、マルサスは牧師である。

 このことは色々な分野の学者によって経済学が成立していったこと、経済学は新しい学問であることを意味している。

 

 最後に、日本の予備校の先生と経済担当大臣が書いた経済学の入門書が出版されたところ、「前者の方が遥かに良い」という話も紹介しており、その理由を「学問の目的が分かっていないため」としている。

 この点を山本七平氏の観点から考察すると面白そうだが、これまた本筋ではないのでこれ以上踏み込まない。

 

 こんなエピソードから経済学の発展に関する本格的な話に移っていく。

 

 

 なお、前書きの最後にいわゆる「古典派」(古典経済学派・英国古典派)という言葉の使い方に関する注釈がある。

 そして、「古典派」とその対となる「ケインズ派」について次のように用いている。

 

・「古典派」とは、レッセ・フェール(自由放任)を唱え、「市場がベストな状態を作る(市場に任せて放置すること至上)」と信仰している学派である

・「ケインズ派」とは、逆に、レッセ・フェールが「常に」ベストを作ると考えていない学派である

・両者を区別する基準は「セイの法則」の扱い方で決まる

 

 このように考えることで、話が簡単になるらしい。

 例えば、この分類で考えれば、ミルトン・フリードマン博士の主張するマネタリストやロバート・ルーカス博士の主張する合理的期待学派も古典派の範疇に入るらしい。

 この読書メモでもこの言葉の使い方に準じるものとする。

 

 

 ところで、経済学が研究対象とする近代資本主義、この近代資本主義の背後にキリスト教の予定説(聖書)があることは『痛快!憲法学』で確認した。

 ならば、資本主義も信仰の現れの一種、ということになる。

 その信仰がどのような形で現れるのか、本書を通してみていきたい。

『「空気」の研究』を読む 26

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

29 第3章とあとがきのまとめ

 本全体を読み終えたので、ここで第3章の内容をまとめておく。

 

・日本の「アタマの切り替え」という規範について

 日本には「アタマの切り替え」という規範がある

「アタマの切り替え」という規範は、「『情況』が変化したら、変化した『情況』に対応し、思考・行動・所作を一切改めよ(回心せよ)」という規範である

「アタマの切り替え」と呼ばれる一種の回心は骨の髄から軍人とみられた人でも簡単にできた

「アタマの切り替え」の背景にある「情況」の変化は頻繁に生じる


・モンキートライアルの背景にあるもの

 キリスト教では一つの組織的合理的思考体系、つまり、「知識・思考に関する『一つのマップ』」が存在する

 あらゆる知識・思考はこの「一つのマップ」に配置でき、配置できないものは存在しないし、してはならない

 新しく発見された知識や思考が従前のマップに存在する知識や思考と両立しない場合、「一つのマップの維持」するために新しい知識・思考を排除するか、既存の知識・思考を排除するのかの二者択一を迫られることになる

 他方、多神教を前提とする日本人には一神教における一つの組織的合理的思考体系、「一つのマップ」が存在しないが、その代わりに「『情況』への対応」が要求される

 

・「改革」が持つ逆説的な関係

 改革者たちは「改革」によって現状から昔の原点(理想)に戻そうとする傾向にある

 

・「合理と不合理の関係」に関する一つの傾向

 ある合理性を徹底的に追及する原動力は「不合理な何か」を源泉としている

 その「不合理な何か」を失えば、合理性の追求は消し飛ぶ

 その「不合理な何か」を徹底しても、合理性の追求は消し飛ぶ

「不合理な何か」を源泉となるのは新しいものではなく古き伝統である

 合理的なものと不合理なものを併存させるために要請されるのが神学であり、神学が成立する範囲では合理と不合理は対立せず、一方の追及が他方の成就するための手段になる

 

・日本のファンディについて

「自分自身、自分の所属する集団、自分の臨在感的把握の対象に対する絶対性」を信仰の源泉とする

「他人の優れた技術・思想について、その技術・思想のみを分離して導入することが可能であり、かつ、許容されている」と考えている

「(自分や他人の)ファンダメンタルな部分や不合理な部分を見ないし、考えない」という特徴がある(この点は員数主義につながる)

 一神教から見た場合、日本のファンディが構成する世界は「なんでもあり」の「汎神論的神政制」の世界であり、それを具体化すると「『空気』を作り、それに対して『水』を差し、『水』の習合たる『雨』が『空気』を中和する過程であらゆる外来思想その他を腐食・解体・吸収した結果、出てくる『言葉』に矛盾があっても気にならない世界」になる

 

・日本の不合理(空気)を外国の合理(憲法)で制御した場合に生じること

 合理的な装置によって不合理な力(「空気」)が制御されれば、無目的・無気力状態になる

 不合理な力が暴走すれば、合理的な装置は何の役にも立たない、合理的装置の威力を増幅させようとしても無駄である

 

・日本のファンディの特徴

 日本人は、現在の情況の変化に対しては極めて天才的な対応をすることが可能である一方、理から将来の情況を予測してもその予測に対応することができない

 日本人は言葉(数字)によって行動を変えることはないが、映像によって簡単に行動を変えてしまう

 

・黙示文学について

「黙示文学」は言葉や映像を一定の順番で読者に提供することによって読者をある状態に拘束してしまうものをいい、黙示文学は神話的手法として用いられていた

 日本では『神話』を『黙示文学』として利用し、(結果として)日本人を拘束した

 日本人が黙示文学による支配を受けた背後には「図像・描写に思想性はない」と考えていたことにあるが、図像と思想伝達の関係を研究する学問として「図像学」があることを考慮すれば、この認識は誤りである。

 日本のマスメディアは黙示文学的手法を用いることで日本人が論証を受け付けないようにしてきた

 

・「理」を持つ者たちの「空気」に対する抵抗とその特徴

 日本人において、理(論証・実証)で態度を変えることは絶対にない

 そのため、「理」によって悲劇を予測した人たちは「理」で説得することを諦めて、日本人を拘束している「空気」を「水」で攻撃することになる

「水」による「空気」への攻撃は「過去」(現実)による攻撃であり、「保守的」にならざるを得なくなる

 

・「未来は神の御手にある」という言葉の意味

 人は未来に触れることができない。

 唯一、言葉によって未来を構成するのがせいぜいである。

 この点、日本人の把握は『臨在感的把握』になるところ、実在するものがなければ臨在感的把握もできないため、日本人はこの『言葉で構成された未来』を一つの実感を持って把握し、これに対応することができない。

 また、日本人は「言葉で構成された未来」を作ることもなかったため、言葉は総て「映像化された言語」として利用され、言葉による論争は「真理の追究手段」ではなく、「印象合戦」となった。

 その結果生じたのが、日本人の「罵詈雑言に対する脆弱性」である

 

・日本のファンディが原理化した際に生じる世界

 日本のファンディがもたらす汎神論的神政制は、究極的な状態として、「言葉によって未来を構成できる人間」が支配者となって統治する、一種の「依らしむべし、知らしむべからず」の儒教体制になることが予測される

 もっとも、日本の通常性を考慮すれば、このシステムに「自由」(個人の自由)はない

 

一神教世界と日本における「探究」という言葉のずれ

一神教的・自然科学的)探究という作業は根気のいる持続的・分析的作業であり、特定の「空気」の拘束のもとでできる作業ではない(対象を臨在感的に把握した瞬間、その対象に支配され、相対的把握が不可能になるから)

 他方、日本の「空気」に拘束された人のいう「探究」を具体化すると、彼らを拘束する「空気」(偶像)に基づく事実・理論が客観的にも正しいことを裏付けるための活動、または、「空気」に反する客観的な事実・理論を排斥するための活動がこれにあたり、これは訴訟や裁判における探究と類似性がある

 

・日本が「空気」の独裁化を招いた背景

 明治時代、江戸時代には「空気に流されてなした行為を恥じる」伝統があったが、昭和に入ってから「空気」の存在が行為者の行為を免責するようになった

 一神教社会(キリスト教社会)では、個人は「神(宗教)」と「世俗(所属集団)」の二つによってリンクされていた

 個人は神の声と世俗の声という二つの発言を意識し、両者のずれをどのように調和するか、両者による緊張状態をどのように緩和させるかを「常に」考えていた

 他方、日本では、日本人の臨在感的把握の結果(対象に支配される結果)、同じ時間に「神」と「世俗」を意識することができなかった

 もっとも、過去の日本では儒教的道徳体系が別途存在したため、集団がこの道徳体系と逸脱した際、二つの声を同時に意識することができた

 

・未来に向けた著者(故・山本七平)のメッセージ

 日本人は日本のファンディに縛られているのだから、「ファンディを把握すること」からスタートすべきである

 なお、この「把握」の作業はまどろっこしい作業であるが、「進歩」とはこのような試行錯誤の連続であり、まどろっこしいものである(から、非能率であることを気にする必要はない)

 

 

 まとめだけでかなりの分量となってしまった。

 今回はここまでとし、次回で私の感想を述べてこの本のメモを作ることを終える。

2021年の9カ月間を振り返る

 2021年、こと、令和3年も9カ月が経過し、残り3カ月となった。

 そこで、この9カ月を振り返ってみる。

 

1、資格取得について

 まず、資格に関する目標を達成したのは(精神衛生的に)いいことである。

 この点、令和元年に「勉強習慣を身に着け、1年に資格を2個ずつ取る」と決めた。

 そして、令和元年に簿記3級と簿記2級の資格を取った。

 しかし、令和2年はコビットナインティーンによる混乱などにより一つも資格を取らなかった。

 そのため、令和3年は統計検定2級・基本情報技術者・FP3級・FP2級の資格を取り、去年と今年の目標(各年2個、合計4個)を達成した。

 

 この点、資格を取ったことにより経済的利益を獲得したわけではない。

 しかし、自分の学習に関する傾向を把握できたことはいいことであった。

 来年も現在の学習習慣を維持・改良して、結果として資格を得たいと考えている。

 

2、読書と重要なもののメモ化について

 今年に入ってから意識的・積極的に読書を行うようにした。

 また、公共の図書館に足を運んで、興味を持った分野の専門書を借りた。

 

 その結果、今年に入ってから85冊の書籍を読んだ。

 当初の目標は週1.5冊、年間80冊であるから、既に目標を達成している、と言える。

 今後は量を意識せず、読みたい本を読んでいく予定である。

 

 また、私が自分自身に関心を持ったこともあり、山本七平の書籍を片っ端から読んだ。

 具体的に読んだ本は次のリンクの通りであるが、読みたい本はまだ残っている。

 そこで、残りは図書館から借りて読んでしまおうと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

新聞の運命

新聞の運命

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 次に、「この本はちゃんと読みたい」と考えた本はこのブログにメモとして残すことにした。

 

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 この「ちゃんと読みたい本」というのはこれだけに限られない。

 それらの本も読んで、順次メモにしていく予定である。

 ただ、これまでの「メモ」は「メモ」というには分量が多い。

 そのため、メモ化するスピードが遅くなっている。

 これについては、ちょっと考える必要があるようだ。

 

 あと、資格のための勉強・読書・読書メモの習慣は数年で終わらせたくはない。

 そのためにも無理のない範囲で継続していくことが重要であると考えている。

 

3、淡々と生活記録を録る

 今年から本格的に生活の記録を録ることにした。

 体重・睡眠時間・活動時間(と空白時間)・食事・歩数記録。

 記録を録る際には結果を評価をせず、淡々と、ひたすら淡々と。

 

 この結果、自分の現状を把握することができた。

 また、「評価せずに淡々と記録する」ことを続けることで事実を見ることができた

 これまで、「評価する」という意識・無意識が「事実を見ること」を困難にしていたようである。

 この点は生活記録以外にも活用していこうと考えている。

 

 また、記録の採取の結果、「具体的にやったこと」・「そのために投入された時間」と明確化された。

 そのためか、時の流れを早く感じなくなった。

 これはいいことである。

 

4、今後の課題

 もちろん、課題がないわけではない。

 

 まず、私が「やろう」と考えていたことのうち、出来たことは全体の約3割であった。

 また、私の実際の活動時間は私が理想と考えている時間の約5割であった。

 

 そのため、私の活動時間を増やさなければならない。

 この点、睡眠時間を大きく変化させるのは健康を害する危険があるため、空白時間を減らしていくことが重要になる。

 そのためにすべきことを検討し、実行に移していきたい。

 

 次に、私がやろうと思っていたことはそもそも全部達成できないとも考えられる。

 よって、やるべきことの取捨選択を考慮すべきであると考えられる。

 これも検討し、すべきことの縮小化をはかっていきたい。

 

5 さらにしていきたいこと

 この9カ月間、資格取得・読書・読書メモブログの他に、プログラミングの勉強もやっていた。

 しかし、このプログラミングの勉強は予定通り進められていない。

 読書や資格に関しては既にノルマをこなしたこととは対照的である。

 

 この点、私は「一点集中」の傾向がある。

 ならば、今年の残り3カ月間はプログラムに重点を置く必要がありそうである。

 

 あと、ここには書けない「やるべきこと」が3点ある。

 これら3点についても予定通り進んでいない。

(正直、年内に達成することは困難ではないかと考えている)。

 そこで、この3点についてもプログラミングの勉強と同様、やっていきたいと考えている。

 

 

 以上、9カ月の総括と残り3カ月の課題をメモにした。

 3か月後の来年の1月、今回よりも前向きなことが書けますように。

『「空気」の研究』を読む 25

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

28 あとがきを読む

 以上、「空気」・「水」と「日本の通常性」・「日本のファンディ」についてみてきた。

 今回は「あとがき」を見て、次回で第3章などをまとめ、次々回で感想を書きたい。

 つまり、残り3回でこの本のメモも終了である(「メモ」っていってもブログ27回分、かなりの分量になるが)。

 

 

 あとがきでは「『空気』の支配の猛威はいつから始まったのか」という話から始まる。

 この点、徳川時代・明治時代は「空気」に支配されることを一種の恥とする風潮があった。

 しかし、昭和期に入ると「空気」の支配力が強くなり、「情況」の存在が個人の行為を免責するように、「空気」に拘束されたことの証明が個人の行為を免責するようになった。

 もちろん、「水を差す」という抵抗はあるが、「水」でその瞬間の「空気」を雲散霧消したとしても、結果的に生じるのは新たな「空気」である。

 ならば、現「空気」と「水を差す」間に生じる戦いは「空気」という「錦の御旗」の取り合いであって、「『空気』に対する抵抗」とは言い難い。

 

 

 ところで、ある「空気」によって「うやむやにするな」・「徹底的に探究(追究)せよ」という言葉が発せられることがある。

 しかし、一神教的観点から見た場合、探究・追究という作業は根気のいる持続的・分析的作業であり、特定の「空気」の拘束のもとでできる作業ではない。

 もちろん、宗教的情熱のような不合理な何かを源泉とする力が必要であることを否定するつもりはない。

 しかし、追究・探究といった作業はある種の「空気」に支配されない「自由」な状態であり、かつ、ある種の「空気」から独立してこそ可能になるもののはずである。

 それは、これまでの事例、例えば、数値やデータが「空気」に汚染される現象などからも明らかである。

 

 これに対して、上の「うやむやにするな」的な発言をする人がその事実に気付いている感じはない。

 そのことに気付かず、つまり、「空気に拘束された状況での追及は不可能」ということに気付かないのであれば、(一神教的)追究・探究は不可能であろう。

 何故なら、対象を臨在感的に把握した瞬間、その対象に支配され、相対的把握が不可能になるからである。

 

 以下、本書に書かれていないことを私なりに解釈してメモに追加する。

 この点、一定の「空気」に拘束されて「うやむやにするな」と叫ぶ彼らのいう「探究・追究」という言葉は、一神教的探究・追究とは異なるのだろう。

 具体的に述べれば、彼らに従っている「空気」に基づく事実・理論が客観的にも正しいことを裏付けるための活動、または、「空気」に反する客観的な事実・理論を排斥するための活動が「探究・追究」なのだろう。

 私は、数年の間、ある業界の「空気」から離れて、その業界に関することについて自然科学的手法を用いて研究する機会があった(今見れば、私のレベルは極めてお粗末なものであった、しかし、そのような研究をする人がゼロに近い状況であったため、そのお粗末なレベルであってもその業界で「有用」と評価されるものとなった)。

 他方、数年の間、私は民事訴訟や刑事裁判に携わる機会があった。

 訴訟・裁判の際に見た当事者・代理人の活動(当然だがこれは法令に則ったものである)を見ると、自然科学の研究者のいう探究・追究(これは一神教的観点と同様である)と法曹界の人間の言う探究・追究はずいぶん意味が違うなあ、と考えさせられる。

 もちろん、両者の目的は異なるのだから、「違うからいけない」とは考えないが。

 

 

 このあとがきでは、「何故、日本では空気の独裁化を招いてしまったのか?そして、我々はどうするべきか」という答えのヒントとして、我々のファンダメンタルな部分が示されている新井白石の『西洋紀聞』の文章が紹介されている。

 この文章では、我々日本人がファンダメンタリストに対していう言葉と同様の言葉が述べられている。

 

『西洋新聞』は新井白石が宣教師シドチを尋問した結果が記されたものである。

 そして、白石はシドチに対して「彼(シドチ)には賢い部分と愚かな部分があり、彼の発言を聴くとまるで二人の人格があるようだ」との感想を持つ。

 また、「賢い部分(=知識・技術)は日本に導入するべきだが、愚かな部分(=キリスト教)は導入すべきではない」という結論を出す。

 ところが、シドチは二重人格者ではなく、一人の人格によって立つ人間である。

 また、シドチが日本に来た動機は我々が「愚か」と判定した部分に属する事項である。

 この辺を見ても、白石と現代の日本人との間に共通項が見られる。

 例えば、現在の日本人がアメリカの素晴らしい技術(文明)に関する話とモンキートライアルの話を同時に聴けば、白石と同様の感想・結論を持つだろう。

   

 この点、白石は「鬼畜米英」等と考えていたわけではない。

 シドチの考えを聴き、日本に即して冷静に検討し、その結果として「賢い部分は導入するが、愚かな部分は導入すべきではない」と判断している。

 その理由は、「キリスト教が当時の日本の序列的集団主義に適合しないから」となる。

 具体化して書くならば、キリスト教は天(神)と個人が直接リンクされているが、日本では「天(神)=天皇=幕府=大名=・・・=民」という形で天と民は集団を介してつながっており、キリスト教のように個人と天(神)を直接リンクしたら、日本の秩序が崩壊するから、となる。

 

 

 このように考えると、キリスト教社会(欧米)において、個人は「神(宗教)」と「世俗(所属集団)」の二つによってリンクされていたと言える。

 そして、個人は二つの発言を意識し、両者のずれをどのように調和するか、両者による緊張状態をどのように緩和させるかを「常に」考えていた。

 一方、この「神」と「世俗」と個人の関係は日本人にも存在しえた。

 しかし、日本人の臨在感的把握の結果、つまり、対象に支配される結果、同じ時間に「神」と「世俗」を意識することができなかった。

 もちろん、情況によって臨在感的把握の対象が異なる関係で、ある時間では一方を、別の時間では他方を把握することはできるのだけれども。

 

 ただ、昭和以後と明治時代以前とを比較すると異なる点がある。

 つまり、過去の日本では儒教的道徳体系が別途存在し、個人はこの体系に生きていた。

 その結果、所属集団(組織、つまり、幕府や藩など)がこの道徳体系に沿っていれば「二人の言葉」はあり得ないものの、逆に、集団が「空気」などに支配されてこの道徳体系から逸脱した場合、道徳体系と集団を支配する「空気」との間に緊張関係が生じる。

 この場合には、キリスト教社会の個人のように、宗教と世俗のずれをどう修正するかを考える機会が生じた。

 

 

 さて、明治の近代化の際、日本は技術を導入して、思想(キリスト教)は導入しない(キリスト教に近い天皇教で対応する)という戦略を用いて近代化を行った。

 つまり、白石と同様の戦略を採用し、近代化という目的を達成した。

 しかし、賢い部分だけを導入しようとしても、愚かな部分も導入されてしまう。

 そのときに、「日本では精神文明では欧米に勝るが、物質文明では欧米に劣るので、後者のみを補充して云々」と言っても、両者の不可分性を考慮すれば無理であった。

 

 

 良し悪しはさておき、日本人は日本のファンディに縛られている。

 ならば、この点を把握することからスタートすべきであると考えられる。

 もちろん、「白石に戻れ」と言っても、近代化と高度経済成長の過程で日本の精神文明を一掃してしまった以上、現代では「空気」しか残っていないので不可能である。

 ただ、「近代化・民主化によって消したものが消えずに我々を拘束している」ということは分かる。

 ならば、次はその呪縛の内容を再把握すれば、脱却という選択肢も考えられるようになるだろう(実際に脱却するかは把握した後で考えればいい)。

「空気」を把握すれば、「空気」の無意識的拘束という現状からは脱却できるだろうから。

 

 なお、この再把握の過程は近代化・高度経済成長の過程と比較すれば、まどろっこしいことになるだろう。

 ただ、「進歩」とはこのような試行錯誤の連続であり、まどろっこしいものである。

 

 

 ということで、「あとがき」は終わり。

 以下、3章とあとがきのまとめに続く。

『「空気」の研究』を読む 24

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

27 第3章_日本的根本主義について_(六)を読む

 これまでアメリカ・キリスト教ファンダメンタリズムを見て、日本のファンディについてみてきた。

 日本のファンディの特徴をまとめると次のようになる。

 

・日本のファンディの特徴

「他所の優れた技術・思想について、その技術・思想のみを切り取って導入することが可能である」と考えている

「(自分・他人の)ファンダメンタルな部分を見ない、考えない」という特徴がある

「自己、または、その時点の自分の所属する集団に対する絶対性」を信仰の源泉とする

 一神教から見た場合、日本のファンディが構成する世界は「なんでもあり」の「汎神論的神政制」の世界である

 ファンディが構成する世界を具体化すると、「『空気』を作り、それに対して『水』を差し、『水』の習合たる『雨』が『空気』を中和する過程であらゆる外来思想その他を腐食・解体・吸収した結果、出てくる『言葉』に矛盾があっても気にならない世界」である

 

 この本や山本七平氏の書籍を読み、世界や自分の過去を眺めていると、この本に書かれていることが再現されまくっていて、「面白い(笑いが止まらない)」と言うほかない。

 もちろん、「面白い」と私が考える対象は失敗や悲劇であるため、笑っている場合ではないとしても。

 

 

 さて、第3章(「日本的根本主義」について)の最終セッションに移る。

 前セッションの最後に書かれた問題提起は次のとおりである。

 

 我々のファンディがもたらす統治システムとその特徴は何か

 我々のファンディがもたらす統治システムの欠点は何か

 我々のファンディがもたらす統治システムの欠点はどうすればフォローできるか

 

 本セッションは日本人の特徴を示したある言葉、つまり、「日本人は理(論証・実証)によって行動を変えることはない。しかし、情況の変化に対しては極めて簡単に対応して行動を変化させる、その対応はまさに天才的である」から始まる。

 これに関する例は、開国後の日本の対応、太平洋戦争直後の日本の対応、オイルショック時の対応などいくらでも出すことができる。

 とすれば、我々は現在の情況の変化に対しては極めて天才的な対応をすることが可能であるが、理から将来の情況を予測してもその予測に対応することができないということになる。

 その一方で、日本人は言葉(数字)によって行動を変えることはないが、映像を使えば簡単に行動を変えてしまう、反応してしまうことは様々な過去の事例からも明らかになっている。

 

 

 以上、日本の現状について説明されたところで、本書では「黙示文学」というものが紹介される。

 本書によると、「黙示文学」は言葉や映像を一定の順番で読者に提供することによって読者をある状態に拘束してしまうものである。

 そして、黙示文学は神話的手法として用いられていた。

 黙示文学は催眠や洗脳の手段として使えると言ってしまうのは言い過ぎだろうか。

 

 この黙示文学と日本との関係で考えた場合、「日本では『神話』を『黙示文学』として利用し、(結果として)日本人を拘束した」ということになる。

 そして、その背景には「図像・描写に思想性はないと考えている」ことがある。

 しかし、図像と思想伝達の関係を研究する学問として図像学があるのだからこれは間違いである。

 むしろ、黙示文学、あるいは、日本における神話の活用を図像学から検討した方がいいことになる。

 あるいは、日本のマスメディアは黙示文学的手法を用いることで日本人が論証を受け付けないようにしている(戦時中の報道、公害報道その他)こともこの観点から見れば理解できる。

 

 

 以上を踏まえた結果、日本人の特性・日本のマスメディアの影響等を考慮すれば、画像・映像・映像化した言葉によって対象の臨在感的把握が絶対化される日本人において、理(論証・実証)で態度を変えることは絶対にないと言ってよいことになる。

 それを理解した人は、「理」で説得することを諦め、彼らを拘束している「空気」を「水」で攻撃する。

 しかし、「水」は日本の通常性を源泉とし、「空気」は現在醸成されているものである。

 そのため、「水」による「空気」への攻撃は過去による現在への攻撃という形になり、未来とは関係ない。

 そして、「水」を差す人間がどんなに進歩的だったとしても「保守的」にならざるを得なくなる。

 なお、「先進国の現在」を「日本の未来」と考えて水を差す場合であっても、厳密な意味である「未来」とは関係ないことになる。

 

 

 この点、「未来は神の御手にある」という言葉がある。

 この言葉を日本の現実に置き換えれば、「人は未来に触れることができない。唯一、言葉によって未来を構成するのがせいぜいである。ただ、日本人はこの『言葉で構成された未来』を一つの実感を持って把握し、これに対応することができない。何故なら、日本人の把握は『臨在感的把握』になるところ、実在するものがなければ臨在感的把握もできないのだから」となる。

 

 また、日本人は「言葉で構成された未来」を作ることもなかった律令制の導入、戦国時代末期の南蛮人がもたらした技術の導入、明治の近代化、戦後の高度経済成長等)。

 そのため、言葉は総て「映像化された言語」として利用され、言葉による論争は「印象合戦」となってしまった。

 結果生じたのが、日本人の「世界で最も罵詈雑言に弱い」現象である。

 もちろん、「自分を攻撃する空気」が醸成されたときに発生する損害を考慮すれば無理もないことではある。

 しかし、「空気」は論証に向かないので「未来を言葉で構成すること」には向かない。

 また、上述の日本人の心的態度も消極的なものだからこれも「未来を言葉で構成すること」には向かない。

 

 もちろん、「このままではまずい」と判断した集団(企業・エリートその他)は、その集団内において「未来を言葉で構成すること」をすることはある。

 しかし、集団内で行うという結果、日本的閉鎖性・日本的集団倫理を呼び覚ましてしまう。

 となると、この状態が続けば、日本人は二極化し、「空気に支配される一般人」と「未来を言葉で構成できるエリート」に分かれていくことになる。

 何故なら、「空気」に支配されて悪い方に突っ込んでいる状況にいおいては、「空気」に支配されている人ですら「これだとヤバい」と考えるからである。

 また、悪い事情を把握している人は、理による説得も水による説得も失敗した結果、「(このような愚か者どもは)一度やけどして痛い目にあってしまえ」と考えるからである。 

 そして、空気が雲散霧消した後、人は言うのである。

「(理・データ等を見れば)小学生でも無謀だとわかりそうなことを何故したのか?」と。

 このような現象はおそらく枚挙に暇がない。

 

 

 さて、日本のファンディがもたらす汎神論的神政制。

 究極的には、後者が新しい支配者となって統治し、一種の「依らしむべし、知らしむべからず」の儒教体制になるのかもしれない。

 ただ、日本の通常性を考慮すれば、このシステムに「自由」(個人の自由)はない。

 とすれば、このシステムにおいて「自由」はどのような位置にいるのか。

 また、このシステムから脱却することは可能なのか。

 ヒントとしては、「黙示録的支配から脱却した人間たちの歴史」があるが、、、というところで本セッションは終了する。

 

 

 うーむ、参考になった。

 今後どうするかの具体的な処方箋は書いてないが、ヒントは十分散りばめられていると言えそうである。

『「空気」の研究』を読む 23

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

26 第3章_日本的根本主義について_(五)を読む

 これまでアメリカのファンダメンタリズムと改革についてみてきた。

 その内容をまとめておく。

 

・「改革」が持つ逆説的な関係

 改革者たちは改革によって現状から昔の原点に戻そうとする傾向にある

(例として、ユダヤエズラ革命、ヨーロッパの宗教改革、中国の易姓革命イスラム教のワッハーブ派、日本の建武の中興、明治維新江戸幕府の三大改革)

 

・「合理と不合理の関係」に関する一つの傾向

1、ある合理性を徹底的に追及する原動力は、実は不合理な何かを源泉としている

2、その不合理な何かを失えば、合理性の追求は消し飛ぶ

3、その不合理な何かを徹底しても、合理性の追求は消し飛ぶ

4、不合理な何かを源泉となるのは新しいものではなく古き伝統である

5、合理的なものと不合理なものを併存させるために要請されるのが神学であり、神学が成立する範囲では、合理と不合理は対立せず、一方の追及が他方の成就するための手段になる

 

 

 ここで、話を主目的たる日本に移す。

 つまり、「『日本のファンディ』は何か?」という点に話が移る。

 

 ここで、あるアメリカ人の発言である「日本人が日本国憲法を扱う態度は、ファンダメンタリストが聖書に対する態度と同様である」という発言が紹介されている。

 確かに、護憲左翼の態度・法廷闘争を見るとある種の共通性が見られなくもない。

 彼らは「憲法」を盾に個人の自由・権利を主張し、権力(政府や大企業)と裁判などで戦ったのだから。

 しかし、彼らの態度は常識的日本人の観点から見ればやや異質と言わざるを得ない。

 とすれば、「日本人が全体として憲法を盾に社会的権力と戦った」という歴史はないと見た方がいいと考えられる。

 例えば、太平洋戦争後の民主化の改革を指揮したのはアメリカだし、明治維新の近代化を指揮したのは薩長土肥藩閥である。

 いずれも日本人全体、あるいは、日本人全体から選ばれた代表者というわけではない。

 

 また、憲法」は法であり、合理のサイドから生まれたものである。

 とすれば、力に対する制御装置にはなり得ても、力の源泉になることはないとみてよい。

 その意味でも憲法と聖書は異なると言える。

 

 

 そして、話は明治時代に移る。

 伊藤博文は日本に憲法のもたらすため欧米を視察するが、その結果、「憲法キリスト教が不可分」であることを知る。

 これはミュンツァーやロビンソン、ピルグリム・ファーザーズたちとファンダメンタリストたちを見れば明らかである。

 しかし、伊藤博文はこの「憲法と聖書」のうち、憲法の部分だけを抽出分離することが可能であると考え、その方法を探求した。

 この発想に日本のファンディはあると考えられる。

 というのも、伊藤博文の前に徳川時代朱子学者の天才、新井白石も同じ発想を持っているのだから。

 また、「近代立憲主義憲法と現人神の併存」と「進化論と現人神の併存」は同種の関係に立つのだから。

 さらに、そのような前提がなければ、戦後の日本人が「アメリカの憲法を踏襲さえすればよく、アメリカの持つ宗教的部分は切り離しても問題ない」とは思わなかっただろうから。

 

 この点、大日本帝国憲法は制定当時には様々な有用性(列強に対する表示としての)と合理性があったのは間違いない。

 しかし、近代憲法は欧米の不合理に対する制御装置として作られたものに過ぎず、日本の不合理性を前提とした制御装置ではない。

 そのため、この制御装置が日本の不合理に対して過剰に作動すれば、「合理性の追求源としての不合理」をも封じ込め、大正時代の無目的性に転化することになる。

 これはある種の無気力を引き起こすことになる。

 逆に、なんらかの要因により日本の不合理が力を持って一方向に暴走すれば、憲法は制御装置としては機能しない。

 帝国陸軍が暴走した際、憲法帝国議会は敗北した(詳細は『痛快!憲法学』参照)。

 それは、憲法が日本の不合理の象徴たる「空気」を前提にして作られておらず、その結果、「空気」に対して無力だったからである。

 

 そして、戦後、このことを忘れて同じことを繰り返している。

 ならば、戦後がもたらす悲劇の結果は戦前と似たり寄ったりになるだろう。

 あるいは、人はそのことをなんとなく把握し、それに対する危惧を持っているのかもしれない。

 戦前、分離輸入した制御装置(大日本帝国憲法)は昭和の戦争に対してコントロールできなかった(終戦憲法の枠内ではなく昭和天皇の御聖断によって終わったことを考慮せよ)ように、戦後の経済力の時代においては金脈的エネルギーを制御しえないと考えるように。

 これをどうにかするためには、「我々が持っているファンディ」を把握して、ファンディと結合している宗教的なものを把握して、その宗教的絶対が生み出す力に対して直接ブレーキをかけるしかない。

 少なくても、今ある合理による制御装置を絶対化しても意味がないだろう(これはよく行われる事である)。

 

 

 ところで、日本人のファンダメンタリストに対する戸惑いの背景には「合理と不合理の併存」があると述べたが、これは相手のファンダメンタルな部分を見れば理解はできる(もちろん、その在り方を我々も採用するかは別である)。

 逆に言えば、戸惑いをもたらすこちら側の原因は「相手のファンダメンタルな部分を見ない」という伝統にあると言える。

 そして、これは「自分(日本)のファンディ」を見ないことにもつながる。

 さらには、「表面しか見ない」ということにもなり、「形式主義・員数主義」にもつながると考えられるが、それはさておく。

 しかし、日本のファンディを見なければ、日本の不合理性に対する制御装置は作れない。

 とすれば、日本のファンディを探求・再把握するしかない。

 

 

 では、自分のファンディは何か。

 この点についてヒントになるのが、「一君万民的平等」・「親は子のために隠し、子は親のために隠す」を信義とする価値観・「一君万民情況倫理」と「『一君』に対する強権への喝采(事大主義)」などである。

 ただ、その背景にあるのは、キリスト教などにおける神(クリエーター)に対する絶対性というよりは自己や自己の所属する集団の絶対性なのだろう。

 だから、我々はドグマを嫌う(例えば、仏教で重要とされる戒律を緩和させた天台宗最澄を見よ)。

 

 また、我々の背後にある神政制の部分は何か。

 それは、これまでの「空気」と「水」の関係を見ればある程度想像できる。

 それは、空気と水の相互循環の中で、あらゆる思想体系を解体し、自分の通常性に吸収させるものの、その結果、外面に出てくる「言葉」が相矛盾したとしてもちっとも気にならずに併存できる状態となる。

 これは、キリスト教と対比させれば汎神論(パンティズム)になるだろうし、この統治システムは汎神論的神政制になると言える。

 一神教に依る欧米と異なり、日本人はは矛盾する概念の併存に対して矛盾と感じない。

 これが我々のファンダメンタリズムになる。

 

 とすれば、日本のファンダメンタリズムによってできる政治システムがどんなものか、どんな欠陥を持つか、その欠陥を最小化すためにはどうすればいいか、その辺を見ていくことになる。

 

 

 以上が、このセッションのお話。

 ただ、今回メモをまとめた時点では理解できてるとは言えなさそうである。

 これは繰り返し読む必要があるようである。