今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
28 感想をつらつらと_前半
前回は終章についてみてきた。
今回と次回で本書を読んだ感想を徒然なるままに書いていく。
やはり、というべきではないが、一番の感想は「昭和天皇SUGEEEEE」である。
この点、イスラム教やキリスト教にも同じようなことを言っているような気がする(以下の読書メモへのリンク参照)が、昭和天皇に対しても同様の感想を持った以上は感じたままに述べることにする。
この点、著者(故・山本七平先生)は、本書において「昭和天皇の自己規定の一つに立憲君主がある」・「昭和天皇はその自己規定を貫いた(貫き通そうとした)君主である」旨強く主張されている。
また、次の読書メモで見てきた通り、大正デモクラシーによって花開いたとみられた立憲民主主義は昭和時代の大恐慌や満州事変や日華事変によって発生した「空気」によって木っ端みじんになった。
この「空気」の中で、立憲主義を自己規定とし、かつ、その自己規定を忠実に守るというのはどれほど大変なことであろうか。
このように考えると、その空気に抗った昭和天皇には敬意(リスペクト)の感情しか浮かばない。
ただし、そのような昭和天皇の自己規定をどう見るべきなのかは分からない。
特に、日本教から見た場合、このような昭和天皇をどう評価すべきなのかについては本当にわからない。
この点、『「空気」の研究』において山本七平氏は、「日本教徒はドグマを嫌う傾向がある」旨述べており、私も同様の感覚を持っている。
とすれば、「日本教徒は憲法や立憲主義というイデオロギー・ルールに縛られた昭和天皇をよきものと判断しない」気がしないでもない。
また、本書にある通り、戦前の右翼らは天皇機関説を「大臣を天皇の上に置くもの」として不敬扱いした。
同じように考えるならば、「立憲主義は『憲法を天皇陛下の上に置くもの』であるから、不敬である」となり、日本教は立憲主義を否定することになる。
もちろん、「立憲主義が不敬である」と考えた場合、「立憲主義を自己規定とする昭和天皇」に対する評価はどうなるのか。
その辺は本当に分からない。
次に、本書を読んでいて興味深いと感じた(考えた)のが、「大日本帝国憲法の条文は反対解釈をすればわかりやすくなる」という「大日本帝国憲法のすっきりした読み方」についてである。
もっとも、これは、現行法でも同じような気がしないではない。
例えば、刑事訴訟法198条1項は次のように規定している。
(刑事訴訟法198条1項)
検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。
但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。
この条文はいわゆる被疑者の取調受忍義務を肯定する根拠条文とされている。
つまり、刑事訴訟法198条1項但書を反対解釈をすると、「逮捕・勾留によって身体拘束されている被疑者は、取調べに対して出頭を拒むことができないし、退去することもできない」となるため、被疑者の取調受忍義務を肯定している、というわけである。
このような反対解釈を簡単に肯定してしまう背景には、「条文は反対解釈するとわかりやすい」とか「条文の真意は反対解釈にある」ということに理由があるような気がしないでもない。
他にも、憲法第13条後段は次のように規定している。
(憲法第13条後段)
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
これも「公共の福祉に反する場合、国政において国民の権利を尊重する必要はない」と読み替えるとすっきりするように感じなくもない。
また、「公共の福祉=他の人権」、「最大の尊重を必要とする=制限できない」と読み替えれば、「他の国民の人権と衝突する個人の人権は制限してもよい」となり、これまたわかりやすくなる。
さらに、「公共の福祉=国益」などと読み替えて、「国益に反する人権は云々」などといえば、、、この辺はやめておこうか。
そういえば、憲法31条は死刑の合憲性を根拠づける条文であると言われている。
こうなる理由も反対解釈による。
(憲法第31条)
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
この条文を反対解釈するならば、「法律の定める手続によれば、国民の生命・自由を奪い、または、刑罰を科すことができる」と考えることができ、死刑を正当化することができる。
生命を条文に組み込むべきかどうかはさておくとしても、このような規範的判断なくして民主制の国家権力は機能しえない。
その辺を考慮すれば、反対解釈した文章の方を条文にした方がわかりやすくないか、よいのではないのか、と感じないではない。
どうなのだろう。
それから、反対解釈の点は法律以外にも応用できそうである。
例えば、以前の私は日本的盲目的予定調和説のことを「やればできる。必ずできる」という言葉でたとえた。
これについても、より真実性を求めるならば「やらねばできない」となる。
これも反対解釈するとわかりやすいの一例だろうか。
しかし、何故、わざわざ反対解釈にしたものを文字(文章・条文)にするのか。
故・小室直樹先生は『新装版_危機の構造_日本社会崩壊のモデル』において日本人の特徴に「内容に対する完全な無知と、スローガンへの熱狂的反応」という点がある旨主張している。
そして、スローガンとして考えるなら「やらねばできない」より「やればできる」の方が適切である。
ひょっとしたら、このような事情が、、、。
なんてね。
以上、本書の感想をつらつらと書いてきた。
本書を読んだ感想などはまだまだあるのだが、とりあえず規定量(2000文字)を超えてしまった。
そこで、残りの感想は次回に述べ、本書に対する読書メモを終了させたい。