薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 12

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

14 第2章_「水=通常性」の研究_(四)を読む

 前セッションで「水」の発生源=通常性の背景にある「(日本的)情況倫理」の適用例についてみて、その性質についてみてきた。

 

 簡単に述べれば、情況倫理とは次の性質を持つ。

 

① 「情況倫理」とは、「一定の環境(『情況』)にあれば、人は同じ行為を採用する」ことを前提とする規範である

② 「情況倫理」において、特定の行為が「特定の情況」の存在によって正当化(免責)される

③ 「情況倫理」の下では、個人の個別の意思決定は観念されておらず、その結果、個人の責任という観点が希薄である

④ 「情況倫理」は、形式的に適用すると総ての行為が免責されかねないこと、実質的に適用しようとすると基準が不明確になるという特徴がある

⑤ 過去の「情況」を現在に再現することは不可能であり、過去の事実(真実)と「情況」の間に乖離が生まれる(「情況」における虚構性)

  

 

 さて、本セッションに移る。

 本セッションは対比の観点から欧米の固定倫理に関する話から始まる。

 この点、欧米と日本を単純化してみると、次のような対比が見られて面白い。

 

日本_多神教_絶対化の対象が複数(時間によって帰依の対象が異なる)_状況倫理

欧米_一神教_絶対化の対象は一つ(時間によって帰依の対象が異ならない)_固定倫理

 

 

 固定倫理の世界では、倫理・規範の適用時に人間が規範に関与することはできない。

 つまり、尺度(規範)は非人間的であり、また、非人間的であることによって公平性・平等性を担保しているとも言える。

 

 例えば、身近な例として、身長・体重を測定する場合を考えよう。

 身長を巻き尺などで測定する、あるいは、体重を秤を使って図る。

 固定倫理的に考えるならば、「体重を測定したら体重計の目盛りは84.9キロを示した。よって、私の体重は84.9キロである。」で終わりである。

 このときに、私の情況を考慮して測定された数値に介入する(変更する)ことはできない。

 具体的には、「体重測定の15分前にご飯を食べたので、目盛りから1キロ差し引き、体重を83.9キロとする。」といったことはできない。

 そうするためには、測定ルールに「直前にご飯を食べていた場合は目盛りの結果から1キロ差し引いた値を結果とする」と規定されている必要がある。

 当然だが、「体重84キロ以上だと健康指導を受けることなり、指導者と本人の負担が増加するといった『情況』を考慮して、83.9キロとする」といったことが論外なのは当然である。

 

 

 これが欧米における「基準」であり、それを支える「倫理」である。

 上述の例は重さの計測に関するものであるが、人を規律する規範にも同様の背景がある。

 この点は、「欧米の宗教たるキリスト教が『契約教』である」ことを考慮すれば、理解しやすいのかもしれない。

 

 この点、固定倫理が悪い方向に作用すれば、現実を無視した機械的な適用となり、現状に適した妥当な解決が不可能になる、という副作用をもある。

 そこで、固定倫理の世界では、ルールを細分化することによって現実に適した妥当な解決を可能にしていく。

 もちろん、一度妥当になっても、時代の変化などにより妥当でなくなることは当然ある。

 その場合、再びルールに例外を加えたり、変更を加えるのである。

 

 その結果、固定倫理の世界において概念・定義の数は大量になる。

 また、ルールそれ自体も複雑化する。

 そして、情況倫理を背景とする我々から見れば、「なんで覚えることがたくさんあるのだ」・「なんでこんなことが必要なのだ」・「なんと非人間的なシステムなんだ」という感想を持つことになる。

 

 

 ここで、固定倫理が複雑化した例として、刑法総論で学ぶ「犯罪の成立条件」についてみよう。

 なお、この例は本書の記載にはない。

 

 中国の有名な言葉に「法三章」がある。

 その一章では「人を殺したら死刑」となっている。

 つまり、「ある人が他人を殺したら、その人に殺人罪が成立する(死刑になる)」というルールを規定したことになる。

 

 このルールを固定規範に即して考えてみよう。

 なお、固定規範として具体的に利用するのは日本の刑法理論である。

(日本の刑法理論自体は固定倫理を背景にしているし、身近なものなので使いやすい)

 

「人を殺したものは殺人罪が成立」、これを機械的に適用することになる。

 つまり、①他人を殺傷する行為、②「他人の死亡」と言う結果、③因果関係、④事実の認識(故意)の4つの条件が満たされれば、殺人罪が成立することになる。

 

 しかし、このルールに例外がない場合、不都合が生じるのは明らかであろう。

 そこで、日本の刑法の体系に沿ってみた場合、次の例外的な場合には犯罪が成立しないことになっている。

 例外に当たる場合、殺人罪については犯罪不成立(無罪)であり、別の犯罪が成立する可能性があるだけである。

 なお、キーワードだけを列挙する。

 

・被害者の同意がある場合

・法令・業務行為として行う場合

・正当防衛に該当する場合

・緊急避難に該当する場合

・刑事未成年の場合

責任能力が完全にない場合

・被害者の同意がある、法令行為である、業務行為である、正当防衛である、緊急避難であると誤信した場合(「違法阻却事由に関する事実の錯誤」)

・法令上、本件行為に殺人罪が適用されないと誤信し、その誤信につき相当の理由がある場合(「法律の錯誤」、違法性の意識の可能性すら存在しない場合)

・期待可能性の不存在

 

 通常、ここで列挙したことは例外にあたるため、現実に生じる可能性は低く、また、裁判で争点になることはそれほどない(通常は、上の①から④までの事実が問題となり、かつ、それで足りる)

 しかし、可能性が低くても現実に生じることはある。

 その場合に機械的な適用をすれば不当な結論になることは明らかである。

 そこで、例外にあたる事由を上のように列挙していくのである。

 

 この点、私は司法試験に受かるレベルまで知識を定着させた関係で、現段階ならすらすらこの流れが書ける。

 しかし、普通の日本人がこれを見たら、「なんじゃこりゃ」・「めんどくせー」と言う羽目になるだろう。

 事実、私も流れを把握するのに時間がかかったわけだし。

 

 また、各キーワードに書かれた部分はそれなりに複雑である。

 だから、刑法理論を網羅するのは結構大変である(ただ、理論がかっちりしている分、民法・商法に比べれば楽、というのはある)。

 

 なお、例外を大量に作って対応するのが固定倫理の対応法であるが、「情況倫理」の対応法は「『情況』によって判断する」の一言で終わる。

 全部免責しかねない、または、基準が不明確である(恣意的な適用を許すことになる)などの不都合は前述したが、シンプル、かつ、作成コストが少ないのは間違いない。

 

  

 以上、固定倫理の対応法と具体例についてみてきた。

 そして、日本の近代化において、この固定倫理によって作られたシステムは日本に導入された。

 しかし、我々はこの作法を拒否してきた。

 このことは、民事訴訟における「裁判による和解」による解決の割合の多さ、刑事裁判において裁判官の宣告可能な刑の範囲の広さ、立法権から行政権への委任立法の多さなどに見ることができる。

 

 ここでは、民事訴訟の例を挙げよう。

 XはYに対して金を貸し付けたがYが返済しない。

 そこで、XはYに対して「私はXはYに対して金を貸した。お金を返せ」と主張して、訴訟を提起した。

 この訴訟の審判対象(訴訟物・貸金債権)が成立するための要件(条件)は①金銭の授受と②返還合意の2点であるところ、事実関係においてこの2点に争いはない。

 この場合、固定倫理規範の世界なら、「判決をもらって、判決に基づく執行手続きへ移る」となるだろう。

 しかし、日本の訴訟では裁判所を仲介とする和解の試みがなされる(裁判官が和解を試みることができる法令上の根拠は民事訴訟法の89条)

 つまり、判決文が書ける段階になったとしても、その直前に裁判官は両当事者に対して和解を試みるのである。

 

 そこでは、あらゆる事情、つまり、情況が考慮される。

 例えば、ここでは被告(債務者・借主)の現段階の資産状況(返済可能額その他)なども考慮される。

 もちろん、債権の存否に被告の現段階の資産状況などは考慮されない。

 しかし、被告が自発的に借金を返してくれる場合、そのコストは強制執行よりも安い(判決だけではただの紙切れである、次の執行手続によって金銭の回収が必要であるところ、その手続きのコストはゼロではない)。

 また、和解によって解決した場合、判決よりも履行の可能性は高いと言われている。

 さらに、裁判上の和解は判決と同等の効力があり、裁判上の和解条項を相手が破った場合、債権者側はただちに強制執行手続を行うことができる。

 そこで、原告(債権者・貸主)にも和解に応じるメリットがあり、和解を選択することもある。

 なお、和解というのだから原告側も譲歩することになる。

 例えば、利子を放棄する、一括返済ではなく分割返済を許す、一定の金額を支払ったことを条件に残りの借金を棒引きにする、などなどなど。

 この結果、日本で訴訟提起された民事訴訟のうち、3~4割が和解によって解決されている。

 また、裁判官も和解による解決を好む、という傾向がある。

 訴訟において相手が出頭せずに、請求認容判決が出ることも考慮すれば、この割合はものすごい高さである。

 

 

 具体例はこの辺にして。

 情況倫理の世界の人間から見た場合、固定倫理の世界の規範・概念・定義は複雑で見てられないという話をした。

 そのため、情況倫理の世界の人間が固定倫理の世界の人間に対して、「なぜそのような(複雑な)基準を定めたのか」と言われれば、「固定倫理を用いて現実に対応するためである」という回答が得られるだろうが、一歩進んで「何故、情況倫理ではなく固定倫理を採用しているのか」と問えば、おそらく「昔からそうなっている」くらいの理由しか得られないだろう。

 少なくても日本人であれば回答できないに違いない。

 それは、物理学の知識を使って万有引力の現象を公式によって説明できるとしても、万有引力の法則が発生した原因それ自体を説明できないことと似ている。

 

 ただ、固定倫理の世界は自らのルールを明示し、かつ、不都合があれば修正するという作業を続けてきた。

 ちょうど農作業に使う道具を作成し、不都合があれば、改良・修正してきたように。

 そのため、情況倫理の世界に生きる人間は次の例で生じる問いに答えられないことになる。

 

 本書で「ある音楽教師が生徒を評価する際に全員を『オール3』にした例」が紹介されている。

 この音楽教師は「教育の原点に立ち返った結果、全生徒を『オール3』に評価すべきである」と考え、それを実践した。

 では、「この音楽教師の行為は正しいのか、正しくないのか、結論とその根拠を述べよ」と言われて、明快に解答できる日本人は少数だろう。

 この点、固定倫理の世界に生きていれば、規範は明示的に存在しているので、その規範を根拠に掲げて、その規範を本件に適用して評価して、結論を述べればいい。

 なお、この「規範を掲げ、規範を事例に適用し、結論を出す」、この形式は法的三段論法そのものであり、法律実務の文章の基本である。

 

 もちろん、この音楽教師の行為に対してどんな感想を持つかは自由である。

 しかし、本書によると、この音楽教師の発想は非常にまじめで保守的な日本人の発想である、という。

 つまり、情況倫理に生きる我々日本人の発想を煮詰めていくと、このような結論になるのは必然である、というのである。

 この点、「『情況倫理』の論理の形式は同じだから、全部免責されてしまう」ことを情況倫理の性質の一つとして掲げた。

 この「免責」には「(問題行為をしなかった)他人と同じ評価をし、他人と異なる処分(ペナルティ)を科さない」という意味が含まれる。

 とすれば、上の情況倫理の性質の文章の言葉を置き換えれば、「『情況倫理』の論理の形式は同じだから、『全部同じ評価』になってしまう」になる(評価が同じならばペナルティが科さず、結果として免責されることになる)。

「全部同じ評価」は音楽の教師が行った「全生徒オール3」と同じである。

 

 

 ここで「情況倫理」が存在意義について見えてくることになる。

「『情況』による免責」は「『情況』による他者と同等の評価」に置き換えられる。

 つまり、「情況」を用いることで現実では差異があるものに対しても同等の評価が下せることになる。

 ならば、「情況」は「同等の評価を下すための手段」であると言える。

 

 これは固定倫理の世界と比較すれば分かりやすい。

 例えば、身長を測定する。

 測定方法・評価方法は機械的であり、そこに人は介入できない。

 その結果、客観的な差異があれば、その差異は明確化される。

 場合によっては、その結果が明らかになることで背の低い人間が「チビ」と差別され、不利益な扱いを受け、あるいは、いじめの対象になることもあるだろう。

 しかし、差別の問題が発生するからといって目盛りを人ごとに変えて全員を同じ数値にすることはない。

 ルールを追加して、差別的な取り扱い・いじめなどの人格を毀損する行為を禁止するだけである(そして、ルールはさらに複雑化する)。

 逆に、目盛りを人ごとに操作して、または、結果を操作しようとすれば、適用方法が平等ではなくなり、かえって、不公平な扱いとなる。

 これは欧米における「平等」の意味が「神の前の平等」から出発していることなどからすれば明らかである。

 

 この原理は身長・体重だけではなく、法適用においても同じである。

 そして、正確な測定が難しくなったとしても、測定方法・適用方法を複雑化・精密化する(そして、日本人はついていけなくなる)ことで対応する。

 そこには「人間それ自体を基準にする」という発想はない。

 

 一方、日本社会は「横並び社会」という言葉もあるように、我々は「オール3」をつける傾向に強い。

 そして、その「オール3」という評価を導くために尺度(目盛り)に加えられる操作が「情況」なのである。

 ならば、情況を振りかざす人間がこの音楽教師に安易に批判を加えようものなら、その批判は直ちにその人間にブーメランの如く返ってくるだろう。

 

 

 また、このことを下敷きにすると、情況倫理の欠点のように書いた「『情況』の虚構性」も別の意味が浮き上がってくる。

 つまり、「情況」の存在理由(同等の評価を行うための手段)を加えて考えると、「情況は虚構」であることは必然であることが分かる。

「人間を尺度の基準」として、かつ、「人間がオール3である(同じ)」という前提が真であると仮定する場合、平等な人間に属する一人の人間が奇行・犯罪に走った場合、その奇行・犯罪こそは「異常な情況が存在すること」の証明になってしまう。

 とすれば、逆に「情況」の存否は問題にならないし、他の「情況」との比較は無用になる。

 例えば、共産党のリンチの件における「特高の弾圧が苛烈だった(ので、リンチをしても免責される)」という情況説明に対して、「他にも苛烈な情況にありながらリンチをしない例はあった(多かった)」と反論をしても、「いや、それは情況が同じではない」と一蹴するだけで相対的に比較するといったことが行われない。

 なお、「情況が違う」と一蹴し、また、ある種の無規範状態を容認してしまえば、事大主義になることは容易に想像がつくが、一貫性はある。

 ただし、それだけではなく余計なことをすることで奇妙なものが露出してしまうのである。

 それを、共産主義のリンチに関する反論を手掛かりに見てみる。

 

 

「情況」を用いた反論は情況倫理からすれば当然である。

 しかし、一方で「『正しい』歴史的認識に立った取り組み」などと言い出すので奇妙なことになる。

 これこそ反論を述べた人間が、現在の情況を過去に投影し、現在の情況に対応して発言していること、つまり、日本的情況倫理によっていることの裏付けである。

 

 このことを詳しく見るため、この反論の要旨を並べてみる。

 そして、(1)固定倫理、(2)情況倫理、(3)それ以外に分けてみる。

 

(1)の部分は「リンチは悪、誰がやろうが例外ではない」となる。

 単純である。

(2)の部分は「本件リンチは苛烈な情況の下でなされたので、その責任は行為者ではなく、『情況』を作出した者にある。そのためには、『正しい歴史認識に立った冷静な取り組み』必要となる。」である。

 情況倫理の観点から見れば、単純である。

 しかし、この反論は(3)のそれ以外として「苛烈な情況は存在したがリンチは存在しなかった。(以下略)」と続く。

(2)を読んだ後に(3)を見れば「あれ?」となるだろう。

(2)はリンチが存在したことを前提として反論している(反論の説得力はさておく)のに対し、(3)はリンチが存在しないことを前提として反論しているからである。

 本書では「つじつまの合わない論理」と書いてあるが、同一人物が書いた文章ならばそう評価されてもしょうがない。

 というのも、「一人が想定する真実は1つだけ」という前提を置けば、(2)と(3)は前提が両立しないからである。

 

 

 もっとも、こういう現象は別に今回だけに見られる場所ではない。

 ここで、あるフィクションを題材に例に挙げよう。

 

 今から30年前、何者かによってA氏が殺害された。

 警察・検察は殺人事件として捜査を行い、容疑者としてY氏が浮上した。

 警察・検察はY氏を捜査した。

 その結果、Y氏の犯行を疑わせる証拠はあるものの、Y氏にアリバイがあったため、Y氏の犯行の可能性は有罪にできるほど高くないと判断し、Y氏を不起訴処分とした。

 その後、事件は迷宮化して時は流れ、Y氏の不起訴処分を基礎づけたアリバイの証拠は時の流れとともに散逸した。

 他方、A氏の相続人であり、一人息子のX氏はA氏が殺された後も資料(証拠)を保存していた。

 そして、その中にはY氏が犯人である可能性を示す証拠も含まれていた。

 

 事件から25年後、警察の捜査には納得できないと考えたX氏はY氏を相手に「A氏を殺傷したことにより自分は精神的苦痛を受けた」ことを理由に損害賠償請求訴訟を提起し、自分の持っている資料を証拠として全部出した。

 この時点で、Y氏はアリバイの証拠は既に紛失しており、また、当時の記憶もあいまいであることから、自分の犯行に対する弁解が十分にできない可能性があった。

 そこで、Y氏は訴訟において「①私は犯人ではないのでX氏の請求は認められない。②仮に、犯人だとしても時効が成立する(不法行為の時効は20年)のでX氏の請求は認められない」と訴訟で主張した。

 なお、X氏は訴訟提起をメディアに通知しており、メディアも過去の未解決殺人事件に関すること、ということで取り上げた。

 さて、裁判所は関係証拠から事実を認定し、結果、Y氏が述べた①の反論を退け、②の反論を認めて請求を棄却した。

 つまり、X氏は訴訟自体は敗訴した。

 しかし、X氏は「裁判所がY氏が犯人であることを認めてくれたので満足」とコメントし、控訴はしなかった。

 他方、過去の事件を蒸し返され、さらに、裁判所に過去の事件の犯人と認定されてしまったY氏は勝訴はしたものの、社会的制裁を受けたのでこれをなんとかしたいと控訴しようと思った。

 しかし、訴訟自体は完全に勝利しており、控訴理由はなく、結局、控訴できなかった。

 そして、この訴訟はメディアを通じて日本全国に広まり、Y氏は社会的地位その他を全部失ってしまいました。

 

 めでたくなしめでたくなし。

 

 

 見てほしいのは、Y氏の訴訟での反論である。

「時効が成立している」という主張は自分が犯人であることを前提としないと成立しないので、「私は犯人ではない」という主張と両立しない。

 だが、訴訟や裁判ではこういう前提まで見た場合に両立しない反論を並列して行うことはよくある。

 例えば、「①本件暴行事件は犯罪として成立しない。②仮に、暴行事件が成立する場合であっても、本件事件には次のような特徴があるので、刑の決定については寛大なものを求める」といった感じで。

 もちろん、このような主張を行うと無罪の主張(①)の説得力がかなり下がるので、あまりやることではない。

 しかし、裁判の経過を見て①の主張が認められないことが明らかな場合、弁護人としては予備的に②の主張を行うことはありうる。

 この背後には「不利益の最小化」という意図があるが、手段としてこれが容認されていること自体、前提事実の両立性に鈍感なのだろう。

 あるいは、結果以外を軽視しているのか。

 

 

 ちなみに、今回は共産党の例を挙げたが、例は別にもあるらしい。

 そして、この反論の形式には「日本人に共通する思考過程」が凝縮されており、それが日本における「通常性」による判断基準であると述べている。

 というところで、このセッションは終わり、次回に続く。

 

 

 今回、具体例の説明でかなり分量をとってしまった。

 これからは少し控えようかな。

『「空気」の研究』を読む 11

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

13 第2章_「水=通常性」の研究_(三)を読む

 これまで「水」による作用、つまり、「通常性」による作用の効果についてみてきた。

 ここから「通常性」について話を進める。

 そして、最初に出てくるキーワードは「日本的状況倫理」と言われているものである。

 

 

 本書によると、「(日本的)状況倫理」とは、次のような形を採るものを示す。

 

「この情況であればこの対応が正しく、あの情況であればあの対応が正しい」というように「情況」に対応することを模範とする行動倫理

「この情況において『Aという情況』を無視して評価するのは妥当でない。『Aという情況』であれば、このような行為を採るほかはなかった。よって、行為者に責任はなく、責任は行為者をAという情況にもっていった人間にある」という考え方

 

 この点、後者の考え方は「空気」による決定を強いられた人間が後の時代の人間に対する「なぜ?」に対して、「当時の空気に照らせば、この決定をするよりほかはなかった。それ以上の弁明をするつもりはない」と似たもののように見える。

 しかし、「空気」と異なり「情況」は具体的・客観的に説明が可能のものなので、その点は異なる。

 

 

 状況倫理が(積極的に)用いられるべきであろう事例として次の事件を取り上げる。

 

 今から約50年前、父親から妊娠・出産等の結果を伴うような性的虐待を10年以上受け続けた娘が、父親からの虐待から抜け出すために父親を殺害するという事件が起きた。

 当時、父親などの尊属を殺害した場合、適用される法律は尊属殺人(当時の刑法200条)であり、条文に記載されている刑罰(法定刑)は「死刑か無期懲役」という極めて重いもの(強盗殺人・強盗致死と同等)であった。

 もちろん、裁判官が背景事情を考慮して条文に記載された刑よりも下の刑を選択して減刑することは可能である(刑法66条から72条までにその旨の規定がある)。

 しかし、それにも限度があり懲役3年半の実刑判決までしか下げられなかった。

 また、正当防衛(成立すれば違法性阻却により無罪になる)や過剰防衛(成立すれば場合によって刑が免除されうる)が成立するためには、犯行の瞬間に危険が差し迫っていなければならないところ、後述する控訴審判決では「殺害直前に虐待を受けていた事実はあれども、犯行(殺害)の瞬間においてはそのような危険は存在せず、また、差し迫ってもいなかった(『急迫不正の侵害』の要件を充足しない)」という事実認定がなされている。

 

 この事件に対して「情況倫理」を全く使わないで考えてみよう。

 当時の刑法200条に従えば、尊属殺は死刑または無期懲役

 法定刑を形式的にあてはめれば最低でも無期懲役ということになる。

 

 しかし、この事件に対して無期懲役刑を宣告しようものなら、情況倫理を用いて次のような反論を受けることは必至である。

 

「長年性的虐待を受けていた娘がその状況を脱するため敢えて犯行に及んだのだぞ。その『情況』を無視して、無期懲役(特段の事情がない限り一生刑務所)なんてそんな馬鹿な判決あるかっ。そもそも、この事件は被害者たる父親が虐待していなければ発生していないではないか。」

 

 この点、日本の刑法は情況倫理を用いて柔軟に対応するためなのか、裁判官に対する信用が極めて厚いためなのか、裁判官の宣告できる刑の幅はかなり広い。

 事実、控訴審の東京高裁は女性に対して宣告できる刑のなかで最も軽い刑である「懲役3年6月の実刑判決」を言い渡し、さらに、女性の服役期間が最も短くなるように未決勾留日数も全部算入するという手段を採った。

違憲立法審査権を行使しない」という条件であれば、控訴審の裁判官は服役期間を短くするために法律上可能なことを総て行ったと言ってもよい。

 さらに言うと、違憲立法審査権が規定されていない大日本帝国憲法を前提とするならば、これが裁判官のできる最大限のことでもある。

 

 この「3年6月の実刑判決」は刑法200条に記載されている「無期懲役」と比較すればかなり軽い。

 しかし、本件情況を考慮すれば「3年6月の実刑判決でさえ重い」と言うことができる。

 特に、尊属殺ではなく通常の殺人罪ならば情況によって付けられる「執行猶予」が付けられない(執行猶予を付すためには懲役3年以下の有罪判決でなければならない、なお、通常の殺人罪ならば法定刑の下限が懲役3年であった関係で執行猶予を付すことが可能である)。

 つまり、今回において、娘を虐待した相手(殺害された被害者)は実の父親だったのでこのようなことになったが、仮に、相手が尊属でなければ通常の殺人罪の適用となり、その場合は執行猶予が付きうる。

 そのため、この事件は上告され、最高裁判所の審判を仰ぐことになった。

 そして、その上告審判決では執行猶予付有罪判決になったのだが、判決の具体的な内容については本件と関係ないので省略する。

 

 

 ここでは、本書で掲載されていないケース、そして、情況倫理を使うことを是とするケースを挙げた。

 仮に、上の事件において「情況」を除外して、刑法200条の成否と関連する事実だけを抜き出せば、「某年月日、某所で娘が尊属たる父親を殺意を持って死亡させた(殺害した)」で終わってしまう。

 ちなみに、起訴状において検察官が裁判所に対して示す事実(公訴事実)はこれだけである(もっとも、刑事裁判では「犯罪の確定」という手続と「量刑の確定」という手続の2つが行われる、後者の判断に必要な関係で公訴事実以外の事実も裁判所には提出される)。

 これだけの事実関係だけで上記事件を論評すれば、明らかに見当はずれになってしまうだろう。

 

 

 さて、状況倫理を用いるべき例の紹介はこの辺にして、情況倫理の形式をみてみる。

 第一に、情況倫理において重視されるのは「対応方法」であり「行為」ではないということである。

 だから、固有名詞を入れ替えてしまえば情況倫理による説明は総て同じ形式を採る。

 そのため、「同じ形式になるならば等しくその論理を成立させる」というスタンスで状況倫理を適用した場合、情況倫理による弁明はいつでも成立することになってしまう。

 それはまずいので、「情況」の具体的事情によって弁明の成否を判断する(妥当な判断である)となると、今度は基準が不明確になって恣意的な判断を許すことになってしまう。

 つまり、情況倫理による弁明は常に成立するか、恣意的に許されたり許されなかったするかのどちらかの状況を招いてしまうのである。

 

 次に、情況倫理に含まれる考え方に欠落されているものとして「個人の責任」というものがある。

 この点、刑事事件など法の適用が問題になる場面では状況倫理をいくら積み上げたところで、法律の規定を無視することはできない。

 上の事件では「執行猶予が付いた」(女性は判決後に直ちに釈放された)とはいえ「有罪判決」であり、個人の法的責任は認定されている。

 

 

 これ以上、上の事件を使うのは精神的にきついので、情況倫理を否定的に扱っている本書の例を出す。

 もっとも、こちらも「リンチによる事件」が題材になっているので、重い話ではあるが。

 

 本書の例では、「情況」として「国家権力による苛烈な弾圧」という情況が挙げられている。

 しかし、その「情況」において、つまり、苛烈な弾圧を受けた人間全員がその「情況」に対応してリンチをしたかと言われればそうではない。

 つまり、情況倫理を用いた場合、「具体的な個人」の観点が抜け落ちてしまうのである。

「具体的な個人」の観点が抜け落ちてしまえば、「個人の責任」の話も宙に浮いてしまう。

 

 本書に掲載されている別の例で考えてみよう。

 太平洋戦争末期・終了後、日本人の捕虜収容所において暴力政治が発生し、同胞をリンチにかけるという事実があったと言われている(このことはいわゆる「敗因21か条」でも述べられている)。

 この点に対して、「『捕虜収容所の環境が苛烈だった』という情況を考慮すべき」という情況倫理による弁護はもちろん可能である。

 しかし、よその民族においても同じような行為があったか。

 第二次大戦時にできた収容所において環境が苛烈な収容所は確かにあった。

 しかし、本書の記載によれば「英米人捕虜の収容所の中で暴力機構が発生して同胞をリンチにかけた」とか「ソビエトの収容所のドイツ人捕虜の一部がロシア人の権威を借りて同胞をリンチにかけた」例はないという。 

 状況倫理に世界的な普遍性を持たせるためには、上のような例がなければいけないのだが、それはないようである。

 

 

 さて、ここで「情況倫理」を別の視点から見てみる。

 この点、欧米の人間(一神教の信仰者たち)は「『情況』を免責の理由として考慮することは原則としてない」世界(伝統)を生きている(た)ことになる。

 リンチの件で言えば、「当時の可憐な弾圧」と「リンチ」の間の因果関係を認めることを原則としてしない。

 例外として認められるとすれば、「法律上によって示された例外的な場合(正当防衛・過剰防衛・緊急避難その他を裏付ける事実)」に限られるだろう。

 その意味で、彼らの発想は固定的(悪く言えば、硬直的)である。

 さらに言えば、事件の事実関係から「行為」や「結果」など(法的)評価に必要な部分だけを取り出して評価するのである。

 ちょうど上の事件で公訴事実だけを取り出したように。

 

 なお、上の殺人事件を欧米人的に考えたらどうなるか。

 おそらく、(例外である)正当防衛・過剰防衛の要件である「急迫不正の侵害」の要件において「情況」を引っ張り出して適用の有無を考慮することになる(その範囲で考慮される)と考えられる。

 そして、一審裁判所が本事件において「過剰防衛」を認定したように、「過剰防衛・正当防衛が成立する(その際に「情況」を利用する)」と判断されるのではないかと考えられる。

 

 それに対して、我々(私も含まれる)は欧米の人間とは異なり、情況倫理による弁明を用いてしまう。

 つまり、「情況を設定した者の情況設定行為に対する批判」が「行為者の犯罪に対する間接的弁護」になると思ってしまっている。

 今はこの辺は改善されたそうだが、昔は「刑事事件で被害者の被告人に対する不当かつ些細な行為」を情状弁護で主張することがあったらしいが、これも同じ背景を有する。

 

 これらの弁護の背景には、「『情況への対応』が『(行為の)正当化・免責の根拠』になる」という発想である。

 しかし、そうすると、争点が「行為」から「情況」にすり替わってしまう。

 また、その裏には「情況に対する自分の対応(行為)は正当である」・「正当である以上、自分の行為によって生じた結果について私は責任を負わない」・「責任を負うのは私ではなく、私をこの情況に追いやった者である」という考えがあることになり、これらの弁明は一種の「自己無謬性」・「無責任性」の主張になってしまう。

 その結果、自分の行為は機械的になされた行為ど同等に評価していることとなり、それは個人の選択を認めないことを意味する結果、「人間は皆、同じ情況に対しては同じ反応を示し、同じ行為をし、同じ結果を出す」という考えを持っていることを自白することになってしまう。

 この背景には「日本的平等主義」があるのだろう。

 このように情況倫理には無責任体制を生んでしまうという問題がある。

 

 

 そして、情況倫理にはもう一つの問題点がある。

 それは、「情況」それ自体の再現不可能性である。

 

 弁明において「当時の情況では」という言葉が用いられる。

 しかし、現在の視点で当時の情況を考慮することは可能であっても、当時の視点で当時の情況を考察することは不可能である。

 つまり、当時の事実関係を記録などから参照することはできる。

 しかし、細かい情況、例えば、感覚や意識まで再現することは不可能である。

 できることは「現在の意識で当時の自分を見て、その時点の行動から逆算して当時の意識を探る」ことだけである。

 だが、それによっても「当時の情況それ自体」を再現することは本人でさえ不可能であり、他人ならさらに不可能と言うしかない。

 その結果、情況は現在の意識による過去への投影という形になる。

 それでは、実体(真実)との乖離が小さくないだろう。

 

 そして、質の悪いことに情況倫理を用いる際、人はその乖離に気付かない。

  気付いていれば、情況倫理を使うことのまずさを理解できるだろうから。

 

 この点、現在から過去を測定する(過去の事実を確定する)ならば、過去と現在において共通して成立する情況の変化に無関係の尺度を使って一つの基準を作成して測定し、その差を見て現在と過去の違いを求めるほかない。

 しかし、この方法は情況倫理では不可能である。

 そのために、情況倫理は別の無謬性を持つ尺度を求めざるを得なくなる・・・。

 

 

 というところで本セッションは終了である。

 最後に今回のメモ作成に関して釈明めいたことを。

 私はこのメモを作るにあたり、具体例については「本書以外に例がないか」と考えるようにしている。

 これは自分の理解をより深めるためである。

 あるときは「反軍演説」を挙げ、また、今回はある事件を取り上げた。

 今回の事件はとある分野でよく知られた事件である(私が初めて知ったのは中学校のの公民の授業の資料集においてである)。

 そして、これを取り上げる必要性については大であるとは言えず、その点は非難されるべきことかもしれない。

 ただ、この事件は日本人の情況倫理が有効活用された例・されるべき例であると考えているため、取り上げることにした。

 その点はご理解いただきたい。

『「空気」の研究』を読む 10

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

12 第2章_「水=通常性」の研究_(二)を読む

 前セッションの内容を簡単にまとめると次のようになる。

 

・いわゆる「水を差す」という行為には、沸騰した「空気」を消失させ、人々を空気の拘束から解放し、現実・通常性に戻す効果がある 

・「空気」の支配を目論むものにとっての大敵は「水を差す」者であるから、「水を差す」者は「空気」の支配を望む者から弾圧される

・「水を差す」ことによる効果は「水を差す」という具体的行為がなくても生じる

・日本では、外来の思想等に対して、「その内容を変質させ、名しか残らせない」作用、いわゆる「水」による作用(内村鑑三の言葉なら「腐食」による作用)が存在する

 

 

 さて、セッション(2)は言葉の定義から始まる。

 分析する以上、定義は大事だからである。

 そして、日本で見られる「その実質を変質させて名しか残らせない作用」、これを「酵素の作用」と仮定する。

 その上で、この酵素の作用のことを「日本的無意識的通常性的作用」、略して「通常性作用」と規定する。

 つまり、「水を差す」ことなどによって生じる作用のことを「日本的無意識的通常性的作用」と定義する。

 

 この点、「日本的」という言葉が付いているのは日本で見られる現象だからである

 また、「無意識的」という言葉が付いているのは別に意識して行っているわけではないからである

 つまり、「水を差す」場合は意識的に効果を狙って行うことが少なくないが、そうでない場合は意識的に生じるものではない。

 さらに、「通常性的」という言葉が付いているのは、現実・通常性を源としているからである

 これは「水を差す」行為を分解してみれば分かる。

 

 

 言葉を確認したところで、次に「通常性」について確認する。

 我々の日常生活は「我々が無意識で行っていることの集積」によって成り立っている。

 そして、社会はこの「無意識で行っている行為の相互作用」によって運営されている。

 よって、この無意識で行われる行為に一定の共通基準が必要となり、その基準に適合しているものが「通常性」にあたる。

 例えば、「相手がお辞儀をした場合、こちらもお辞儀で返す」というのが通常性による相互作用である(ここで「自分の足で相手のお辞儀している頭を踏みつける行為」は通常性から逸脱する)

 また、「信号が赤になった場合、道路を通行しない」というのも通常性による相互作用である(ここで「赤信号にも関わらず、信号を無視して渡る」のは通常性から逸脱することになる)。

 

 この「通常性による相互作用」は極めて重要である。

 この点、なんらかの事情(ケガその他)により通常性を蓄積した基盤(記憶装置)を失ったとすれば、その人が社会で生活するのは極めて困難になるだろう。

 また、なんらかの超常現象により人々が通常性を蓄積した基盤を失えば、通常性による相互作用が一切働かなくなり、社会は崩壊するだろう。

 そのため、「通常性の基準の喪失」を人は恐れることになる

 

 このことを太平洋戦争の終戦時にあてはめてみる。

 終戦詔勅を聴いた人たちは自分たちの通常性が喪失したものと思って虚脱状態に陥った。

 しかし、その直後、人々は消えたのはいわゆる「空気」であり、「通常性」は失ってないと気付き安心する。

 また、「空気」の拘束を受けていた人は「空気」の拘束から解放されてほっとする。

 これに関する具体例として、いわゆる「敗因21か条」で出てきた「終戦の知らせを知ったとたん、降伏するくらいなら自決しかねない挙動を示していた軍人が家作を心配する普通の一般人に豹変する」エピソードがある。

「空気」によって拘束された結果、「軍人」というぬいぐるみを着せられてはいたものの、ぬいぐるみを取ってみればその人の関心事は私事(家作など)だった、というわけである。

 

 

 ここで、本書は再び日本共産党に関する話題に移る。

(なお、このブログでは日本共産党の思想や行為については評価しない。何故なら、「水」を理解するための具体例として取り上げているに過ぎないからである)

 ただ、共産党に関する本書の記載(本書は昭和50年頃のものである)だけを見ても、その背景が分からなければちんぷんかんぷんになる。

 そこで、私の持っている大雑把な知識・ウィキペディアの「日本共産党」の項目などを見ながら、「水」の観点から分析するために必要な背景を確認しておく。

 

 ロシア革命の後、日本で共産主義を掲げる団体として日本共産党が発足した。

 しかし、太平洋戦争以前の共産党は治安警察法治安維持法などにより合法的な団体として認められなかった。

 合法的な団体(政党)と認められるのは太平洋戦争後になってからのことである。

 しかし、太平洋戦争後、朝鮮の分裂・中華人民共和国の成立(中国における国民党の敗北)・レッド・パージなどによって共産主義に対する風当たりは強くなる。

 その結果、共産党は武力闘争路線を取るか平和的な路線を取るかの判断が必要となり、51年のとき(朝鮮戦争が勃発している)は武力闘争路線を採用した。

 しかし、武力闘争路線は日本国民の支持を得ることができなかった。

 そこで、55年(朝鮮戦争はいったん終息している)に武力闘争路線を放棄し、平和路線に舵を切り替えることになる。

 しかし、平和路線に舵を切り替えることに反対する者・党の方針に従えないは相当数存在し、その者たちは除名され、あるいは、脱退した。

 従前の方針を180度転換し、かつ、転換後の方針に反対する(従前の方針に賛成する)者を除名などによって切り離していけば、組織として大きな弱体化は避けられないものと想像された。

 しかし、本書によると、この方針転換による弱体化は組織解体の危機になるようなレベルではなく、逆に、この路線転換により失った勢力などを回復させ、72年の衆議院総選挙では38名の当選者を出すことになる。

 

 以上を踏まえて、本セッションを見る。

 55年に平和路線を主張した委員長が党内の主導権が取れた理由はなぜか?

 本書によると、委員長のしたことは「武力闘争路線という『空気』に拘束されていた共産党の状況を日本の『通常性』によって解放したこと」である、らしい。

 また、そのことがあるのでこの委員長は通常性保持の象徴として長らく共産党のトップにいられた、らしい。

 つまり、「武力闘争路線から平和路線への転換」は「終戦詔勅」にたとえることができる。

 

 ところで、日本で共産党が発足されたのは1922年であり、平和路線への路線転換が1955年である。

 両者の間には約30年間しかない。

 しかし、この約30年間の間に、共産主義という外来の思想・その思想を掲げる団体が日本の通常性により「水」を差されて変容してしまったことになる。

 

 

 日本において「通常性」による支持を取り付けるためには、自分の思想を「通常性」の方に近づけなけれならないが、その結果、自分の思想は通常性によってどんどん変容してしまうことになる。

 共産主義でたとえれば、共産主義によって日本を改革するのではなく、共産主義を日本の通常性に適合するように修正していくことになる。

 この点、「適合するように修正」と書いたが、通常性に適合するようにすることは自然(無意識)にしていればそうなる関係で、意識的な修正が必要というわけではない。

 しかし、通常性によって修正されたものが元の思想と同一性があると言えるかは分からない(まあ、「言えない」ということにはなろう、仏教のように)。

 

 以上、共産党における一連の出来事を見ながら「『通常性』による作用」の結果を見てきた。

 では、この「通常性」とは何なのか。

 それについて、「日本的状況倫理とその奥にある論理」を通じてみていく。

 

 

 以上が本セッションのお話である。

 続きは次回にて。

『「空気」の研究』を読む 9

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

10 第1章_「空気」の研究のまとめ

 第1章で日本で何度か猛威を振るっている「空気」についてみてきた。

 その内容をまとめると次のようになる。

 

・日本で「空気」の支配が生じた場合に見られる現象

 日本では「空気」による意思決定がしばしばなされる。

「空気」による意思決定は科学的根拠に基づく合理的決定を覆す威力がある。

「空気」による意思決定に逆った場合、抗「空気」罪が成立し、よくて「村八分」、最悪、「餓死」やリンチを覚悟する必要がある。

 

・日本人が「空気」による支配を受ける構造

 日本人が「物」や「言葉」の背後に「何が存在する」と無意識のうちに思い、さらに、存在する何かを絶対化することで、逆に、「『存在している』と考えているもの」によって支配され、拘束されてしまう。

(キーワードは「臨在感的把握の絶対化・無意識化」)

 特に、「死」を臨在感的に把握すると強く支配・拘束される。

 

・日本人を「空気」によって支配する構造

 日本人に対して、普通の「物」・「言葉」について「絶対的対象(絶対善・絶対悪)である」という情報を与えると、情報を受け取った日本人は(自動的に)その物・言葉を絶対化してしまい、物・言葉(物神・偶像)に支配されて拘束されてしまう。このことを利用したのが「空気」による支配である。

 

・「空気」の性質

「空気」の支配の構造と「偶像による支配」の構造が類似していることを考慮すれば、「空気」の決定は「宗教的決定」である。

 日本の「空気」に相当する言葉は古代の言葉にあり、ギリシャ語の「プネウマ」がこれに相当する。

 

・日本人が「空気」に対する制御ができなくなった背景

「物の背後に何かがあると感じてしまい、その結果、物に支配されて自由に行動できなくなる」という現象を「存在するもの」と認識してこの現象に対処しようとせず、逆に、この現象を「野蛮なもの・迷信」と把握してこの現象を無視すれば存在しなくなると誤解した明治時代の啓蒙によって、主観的に無視しても客観的には残存する「空気」の制御が困難になった。

 

・日本人が「空気」による支配を極端に危険視しなかった背景

 日本は多神教の国であって絶対的な神の存在がおらず、絶対化される対象が複数あったこと、及び、絶対化される対象を時間の経過によって変更することで現実的・柔軟な対処ができないわけではなかったこと、また、日本は自然が豊かであって、江戸時代以降、国家的存亡をかけた意思決定をする機会が少なかったことが空気を殊更に危険視しない結果となった。

 

・「空気」に対する対処法

「偶像化の対象となりうる物や言葉を(2つの)対立概念で把握して、相対化すること」と「歴史的に行われてきた日本の『空気』に対する対処法を再把握すること」がカギになる。

 

 

 まとめはこれくらいか。

 それでは、第2章に移る。

 

11 第2章_「『水=通常性』の研究」の(一)を読む

 以上、「空気」についてみてきた。

 なんとなく「空気」の輪郭は分かったような気がする。

 

 そして、日本の先祖たちが行ってきた「空気」の支配に対抗する手段としての「水」。

 この「水」、あるいは、「水を差す」という現象を単純化するとこんな感じになる。

 

 盛り上がった雰囲気が醸成され、所謂「空気」に拘束されている状況で「現実的・具体的な目の前の障害」を口にする(いわゆる「水を差す」)

 それにより、その場の「空気」が消失し、その場の人々を現実(通常性)に引き戻す

 

 具体的なエピソードとして、本書では出版業の人たちが集まって自分の出版したい本を出版する話が紹介されている。

 その分野の職業人が集まり、自分の出版したい本の話が出る。

 その話が具体的な計画になり、果てには「実行しよう」という段階まで盛り上がり、一種の「空気」が醸成される。

 ところが、誰かが「先立つものがないなあ」と口にする(「水」を差す)と、その場の「空気」は消え、人々は現実(通常性)に戻り、その計画は立ち消えになる。

 

「水を差す」という一連の流れに「現実の(障害の)指摘」という行為と「空気の消失」という結果があることから、「水」について次の特質があることが推測される。

 

1、「水」が現実(通常性)に裏付けられた何かであること

2、「水」が「空気」を消失させる効果があること

 

 

 また、「水」を封殺することで「空気」の支配を強化できることがわかる。

 そこで、「空気」による支配を望む者(また、全体空気拘束主義者)は「水を差す者」を抑制・弾圧しようとすることになる。

 

 この例は本書に掲載されているものではないが、昭和15年に斎藤隆夫がいわゆる「反軍演説」を行い、その結果、帝国議会から除名された事件があった。

 

ja.wikipedia.org

 

 この演説は「反軍」という名称がついているが、戦後の平和主義的なものではない。

「日華事変(日中戦争)をどう終わらせるのか、この事変(戦争)からどんな利益を得るのか、または、損失をどう埋めるのか」という現実的な解答を求めるものであった。

 しかし、この演説が戦争翼賛の「空気」に対して「水を差す」演説だったことは間違いない。

 それゆえ、彼は(軍の指嗾もあっただろうが)同僚たちの議員によって帝国議会から除名されることになった。

 この事件により、日本の議会が言論の自由を自ら封殺し、憲法大日本帝国憲法)を殺すこととなったという話は『痛快!憲法学』で参照したとおりである。

 この件も「抗『空気』罪」の一事例とみてよいだろうが、帝国議会の自殺という結果を見ると、「抗『空気』罪」の威力のすごさに唖然とするばかりである。

 

 

 ところで、「水」の背後にある現実や通常性は「水を差す」か「水を差さないか」にかかわらず存在する。

 よって、現実・通常性は「空気」に対して無言のままで「水を差し続ける」ことができる。

 そこで、「水」について知る前に、先に「(日本人の)通常性」についてみていく必要がある。

 喩え、その対象が非常に漠然としているとしても。

 

 この点、日本において「空気」に対して「水を差し続ける何か」が存在することは分かっていた。

 本書では、内村鑑三の次の言葉が紹介されている。

 なお、内村鑑三は「腐食」という言葉を喩えとして使用している。

 

(以下、『「空気」の研究』の93ページより引用)

 日本は雨が多いから、外来のどんな思想も制度もたえず「水」を差しつづけられて、やがて腐食されて実体を失い、名のみ残って内容は変質し、日本という風土の中に消化吸収されてしまう 

(引用終了)

 

 つまり、日本では「水」の発生源が存在し、無言のまま「水」を差し続けている。

 外来の思想・制度を日本に導入してもこの「水」の影響を受け続ける。

 その結果、名前は残るが実体は失われ、内容は変質してしまう。

 

 この例は日本において山ほど見つけることができる。

 本書では仏教を例に出しており、ペンギン叢書の「仏教」の内容が紹介されている。

 ここでは浄土宗の説明があり、また、浄土宗のことを高く評価している。

 しかし、最後は「これが果して仏教なりや?」という言葉で終わっている。

 

 他にも儒教の例もあるが、本書で詳しく紹介されているのは日本共産党に関する記載である。

 これを思想・政治体制の観点からではなく、「水」(とその背後にある「通常性」)の観点から見てみる。

 

 

 日本共産党は「共産主義」と是とする日本の政党である。

 日本の政党である以上、日本において政治的に勝利する必要がある。

 また、日本では民主主義を採用しているため、政治的に勝利するためには大衆の支持を得て票を集める必要がある。

 

 ここで、大衆の支持の方向性を共産党から変えることは基本的にできない。

 また、大衆の支持の実体もよく分からない(少なくても単純な何かに還元できない)。

 分かるのは、相手(大衆)が違和感を覚えればさっと雲散霧消して消えてしまうこと、支持を得られない形で相手に近づいても拒否反応を示して逃げてしまうこと、くらいである。

 

 そして、相手が拒否反応を示して逃げ、その結果、相手の支持が得られなければ、共産党は政党として成立できない。

 この点、「政党として成立し得なくても構わない、殉教や敗北は覚悟の上だ」と言うことは不可能ではない。

 しかし、敗北や殉教するためには「敵」が必要になるところ、敵の実体が分からなければ、一人芝居の自滅を演じることになる。

 

 以上を考慮した結果、共産党は自らモデルチェンジを行うことになる。

 そのモデルチェンジが成功すれば党員と得票数が増え、逆に、モデルチェンジに失敗したり、従前のモデルが大衆の支持に適合するものでなければ、党員と得票数が減る。

 つまり、大衆の支持を得るために、自ら変容して相手(大衆)の中に入り込み、融合・一体化する必要がある。

 

 モデルチェンジといってもその程度は千差万別である。

 実質的に見れば微調整で済むレベルのものもあるだろう。

 また、多くの(熱心な)同志を追放するレベル程度の組織の内実が変化すると考えられるレベルのものまで。

 

 そして、当時の共産党はそのモデルチェンジを実行し、多くの同志を追放した。

「同志の追放」という部分を見ると、共産党の内実が変化したように見える。

 しかし、このモデルチェンジの結果、共産党が大ダメージを受けておらず、また、その後の回復・発展は(著者から見て)早すぎるものだった、らしい。

 

 この一連の事実関係から、「モデルチェンジ前の共産党の実質はモデルチェンジ後の共産党と同種であり、かつ、モデル前の共産党は「共産主義」という輸入した思想に縛られていて消耗していたのではないか」という解釈が成立する。

 つまり、「多くの同志を除名した」とあるが、共産党が同志と共に切り離したのは「共産主義」という「ぬいぐるみ」ではなかったか、と。

 この点、共産党の「民主連合政府案」のコピーを読んだ自民党の元の幹事長が「笑わせてはいけない、これでも共産党か。厚化粧どころか、これでは美容の成形手術ではないか」と述べたらしいが(本書の記述による、また、本書の記述の元ネタは鈴木卓郎『新聞記者の日本共産党研究』)、このコメントもこの解釈と整合する。

 

 ここで「ぬいぐるみ」を切り離したとする。

 この場合、ぬいぐるみは被る人がいなければ動くことはできない。

 そのため、切り離されたぬいぐるみは「脱ぎ捨てられたぬいぐるみ」の形となって放置されることになる。

 逆に言えば、ぬいぐるみだから「純粋であった」ということは言えるのだが。

 

 この解釈を前提にすると、このモデルチェンジが行われる前から共産党内部には「水」が差され続けており、内実が変化されていたことになる。

 そのため、モデルチェンジそれ自体は当事者(党員)にとって大変結構なこととも言える。

 しかし、モデルチェンジすれば内側だけではなく外側からも「水」が差されることになる。

 その結果、共産党は「水」によってさらに加速して変容することになるだろう。

 

 そして、そのような変容を遂げてしまえば、仮に、共産党が大衆の支持を得て、政治的に勝利したとしても、日本で成立する政治システムは共産主義からかなり離れたものになるだろう。

 つまり、共産党が勝利して相応の政治システムを作ったところで、その政治システムを見た後世の専門家は「日本共産党共産主義の政党にあらず」と言うだろうし、ペンギンの言葉を借りれば「これが果して共産主義なりや?」ということになるだろう。

 まあ、地図上は共産主義圏に分類してくれるかもしれず、「それで十分」というのならそれで目的を達成したことになるが。

 世界的にみて日本が仏教圏に入れられているように。

 

 

 以上、「外来の組織が『水』によって変容されていく様子」日本共産党の事例を取り上げてみてきた。

 本書ではこの件の話がもう少し続いているので、最後の仮定(日本共産党が政治的に勝利した場合)の話をもう少し続ける。

 

 日本共産党が「水」に差されて変容を遂げ、政治的に勝利したと仮定する(現実的にはあり得ない話だが、その点は横に置く)。

 それに対して、「でも、『天皇制』があるではないか、と人は言うかもしれぬ。」と本書では続く。

 この質問の趣旨を丁寧に書くならば、「(政治的に勝利した)共産党が『天皇制』を打倒すれば共産党に対する国民の支持は完全になくなるだろうし、逆に、共産党が十分に変質して『天皇制』を存続させた場合、日本が共産主義圏に入ることはないだろう」となるのだろう。

 この疑問に対して、著者は仏教の例を出して「心配は御無用」と言う。

 この点、世界的に見た場合、日本は仏教圏に入っている。

 ただ、仏教を研究している者たちが決して触れない問題がある、らしい。

 それは「天皇家は(現在、あるいは、過去)仏教徒だったのか」という問題である。

 皇国史観を前提とすれば、(現在・過去の)天皇仏教徒となると、現人神が仏壇を前に頭を下げることになってしまい、極めてまずいことになる。

 ただ、現実(史実)を見れば、明治時代より前の時代には宮中には仏壇があり、仏式の法事が行われていた。

 そして、明治維新という革命の結果、天皇家では一千年続いていた仏式の行事は総て停止されたらしい。

 皇族の中には熱心な仏教徒もいたらしいが、その葬儀が仏式で行うことはなかった(禁止されてしまった)。

 

 以上のことを「存続」という観点から見れば、天皇家は(積極的にではないにせよ)一千年の伝統を断ち切って、自己変革をすることによって明治維新に対応したことになる。

 そして、この対応は太平洋戦争後のいわゆる「人間宣言」と同種である。

 ならば、共産革命が起きたとしても天皇家はこのような対応をなされるであろう、と考えられる。

 

 なお、この対応に対して否定的な印象を受けるかもしれない。

 しかし、この対応は別に天皇家だけのものではなく、日本人にも備わっているものである。

 このことは、太平洋戦争の終結によって一瞬で天皇主義者から民主主義者に変わった人たちを見れば明らかである。

 つまり、この人たちは外形(装い・挙動・発言)を変える一方で、「自分は変わった。これまでの私は天皇主義者だったが、今日から民主主義者だ」などと自己暗示をかけ、そう信じ込むことによって変革による影響を最小化しようとしただけである。

 また、この振る舞いは日本の伝統的な生き方の象徴的な表れに過ぎない。

 

 だから、仮定の話に戻り、日本が共産化した場合でも天皇家は代々社会主義者だったという新説ができ、外形上は自己変革がなされて(内部の変革はなされず)、新説と矛盾する過去の事実は仏壇のように消されても不思議ではない、ということになる。

 別に、新説を裏付ける資料ならあるだろうし、変革が問題になることはないだろう。

 本書では「新説」がどんな形を取るかの具体例が示されているが、その点は省略する。

 

 

 なにやら仮定の話を進めていったが、以上の話をまとめればこうなる。

 日本において共産化の試みがなされ、仮に、成功したとしても、その試みの過程で「水」の影響を受け、共産主義の思想などは変質してしまい、成功のは果てにできた実質は(定義された)共産主義とはかけ離れたものになり、「名」しか残らない(地図上の分類に入れられるのがせいぜい)。

 また、「水」に差された結果として、共産化後の日本においても天皇制は存続するし、天皇制を正当化する理論やその理論を作成する学者は大量に出現する

 

 つまり、名実の両方を伴う革命を達成する予定だったものが、(仮に成功したとしても)その実を骨抜きにしてしまうものが絶え間なく「差し続ける水」ということになる。

 そして、その「水」はまず内側を差し続けて内部の実質を変容させ、やがて表面をも変容させることになる。

 では、「水」とは何か?「水」の発生源たる現実・通常性とは具体的にどんなものか?

 以上を調べよう、ということで本セッションは終わる。

 

 

 今回の話は読みごたえがあった。

「水」が何をなしうるのかの概形がつかめたような気がする。

 ただ、それだけでは「水」の内容・実質は分からない。

 今後もこの本を丁寧に読むことでそれを理解していく予定である。

『「空気」の研究』を読む 8

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

9 第1章_「空気」の研究_(八)を読む

 前セッションの内容を簡単にまとめると次のようになる。

 

 

・日本は多神教の世界・アニミズムの世界である

・明治時代以降の天皇制は「『空気』の支配」によるシステムである

・人や像だけではなく、「言葉」や「命題」でも「空気」の支配源たる偶像にすることができる

一神教の世界では、神(造物主・クリエーター)以外は総て相対化され、対立概念で把握されているところ、それは「言葉」・「命題」も例外ではない

一神教の世界では、唯一相対化が許されない神の名前については逆に言葉にする(口にする)ことが許されず、ユダヤ教では神の名を口にすることを死刑を使って禁止していた

・日本において「空気」の支配がもっとも強く出る「『死』の臨在による支配」は古代においても存在した

・日本と異なり、古代においては「空気」の支配を排除すべき場面で「空気」を極力排除しようとした

・最近の日本は明治の近代化・高度経済成長の時代など「空気」の支配がうまくいく時代が長く、それゆえ「空気」の支配による危険性が認識されなかった

 

 

 さて。

 明治維新後の日本は成長期の時代が長かったし、また、江戸時代もその多くは平穏で、重大な決断が必要な場面がほとんどなかった。

 そのため、「空気」の支配の危険性が認識されなかった。

 

 それに対して、中東・西欧では滅ぼす・滅ぼされるということが頻繁に行われる。

 つまり、国家の興亡をかけた決断が頻繁に必要だった。

 そのような場合に「『空気』の支配」によって合理的判断ができなくなればどうなるか。

 その共同体は立ち行かず、さっさと滅ぼされていたであろう。

(その点、海に囲まれた日本は自然的に豊かであっただけではなく、共同体的にも恵まれていたということができる)

 

 つまり、

 

日本(自然が豊か・外敵による侵略が少ない)

 →存亡がかかるような決断の必要性が小

 →「空気」に対する危険性の認識が乏しい(戦争などをしない限り)

古代(中東)

 →存亡がかかるような決断の必要性が大

 →「空気」に対する危険性の認識が強い

 

という関係を見出すことができる。

 そして、「空気」の支配を避ける具体的な教材が「旧約聖書」などを教材とした「徹底的相対化の世界」ということになる。

 

 

 本書では「徹底的相対化」の世界がどんな世界かの具体例が示されている。

 例えば、聖書では人間の創造の物語に関して二種類の相反する物語が記載され、かつ、その矛盾をそのまま掲載している。

 つまり、聖書では人間を矛盾した存在ととらえてそのまま記載しており、そのまま記載するがために矛盾した記述になっている。

 他方、日本で知られている聖書の人類創造の物語は「日本式聖書物語」であり、二種類の相反する物語の矛盾を消去・調整してしまっている。

 日本式の調整をすれば、筋が通るし、日本人も受け入れやすいだろうが、逆に、真実から外れて一種のフィクションになってしまうとは言える。

 

 そして、この「相反する2つ面をそのまま記載する」点が『箴言』と『ヨブ記』にも出ているところ、こうなってくると日本人の手には負えなくなる、らしい。

 まず、『箴言』の世界は日本人でもとっつきやすい世界である。

 また、これを見ると人間の生活訓・生活感覚は古代でも現代でも実に似た同じような面があることに気付かされる、らしい。

 この『箴言』の世界は「正義は勝利し、正しい者は必ず報われる」世界ともいえよう。

 

 これが『ヨブ記』に移ると、箴言』に出てくる言葉が持つ負の側面にゾッとすることになる。

 例えば、「正しい者は報われる」という命題(言葉)が全称命題(例外がなく常に正しい命題)だとしよう。

 この場合、この命題の裏である「悪しき者は報われない」は必ずしも正しくない。

 また、この命題の逆である「報われた者は正しい者である」も必ずしも正しくない。

 しかし、この命題の対偶である「報われなかった者は悪しき者である」は正しいことになる。

 以上の結論は高校数学の論理の授業の知識を使えば容易にわかるものであり、また、公務員試験の数的処理(判断推理)の分野、SPI試験の非言語分野で出題されている。

 

 さて、「正しい者は報われる」が全称命題であれば、「報われなかった者は悪しき者である」も全称命題になる。

 とすれば、「正しい者は報われる」という命題が絶対化された場合、「現実において報われなかった者は悪しき者である」と断罪されることになる。

「命題を絶対化する」が分かりにくければ、「機械的に適用する」に言い換えてもよい。

 そうすれば、「命題を絶対化する」の怖さが実感できるだろう。

 この怖さは「自己批判の要求」や「魔女裁判」(自動車魔女裁判)でも出てくる。

 

 

 当然だが、箴言』などの命題は有用である。

 しかし、これらの有用な命題も絶対化されれば、とんでもない副作用が生じる。

 そのため、絶対化させないために逆に相対化させる必要がある。

 つまり、相反する命題を同時に持てば当然矛盾が生じるが、それを承知し、矛盾を矛盾の認識して把握すれば、逆に、命題を活用することができる。

 逆に、命題を絶対化すれば副作用を招いて、命題の実効性が失われてしまう。

 

「人間による命題の活用方法」という観点から考えた場合、この「相対化の原則」は古代も現代も変わらない。

「公害解決」を絶対化すれば公害は解決できなくなる。

 せいぜい、「公害の元を絶った結果、人間の生活が崩壊し、共同体が破滅の危機にさらされる」だけである。

 また、「差別根絶」という絶対化も差別の解決には役に立たないだろう。

 こちらも「差別」の発生源が人間の心にある以上、人間を滅ぼさない限り差別はなくならないということになりかねない。

 さらに、「敵」を絶対化してしまった太平洋戦争も似たり寄ったりである。

 この場合、敵の殲滅が不可能であることから、敵を絶対化した結果、敵に支配されて振り回され、結局、一億玉砕しか選択肢がなくなる。

 ここでは、相手と自分の立場を別の座標軸を使って把握し、現実的かつ妥当な解決を図るということができなくなるのである。

 

 

 さて。

 以上、古代・一神教の世界における「空気」の制御方法についてみてきた。

 この方法が参考になることはもちろんである。

 しかし、これだけが唯一の解決法というわけではない。

 というのも、昔の日本、つまり、我々の祖先は「『空気』の支配」に対して別の手段、「水を差す」という手段で対抗していたからである。

 とすれば、「空気」の制御する手段としての「水」についても知る必要があるだろう。

 

 この点、「水を差す」という手段は太平洋戦争の際には機能しなかった。

 というのは、「明治時代以降に作られた『空気』(西洋思想に裏付けされた『空気』)」に対して「水」が無力だったからである。

 しかし、「空気」について知るならば「水」を知ることが有益である。

 よって、これから「水」についてみていく。

 

 

 ということで、本章は終わる。

「なるほど」と参考になる部分が多かった。

 また、「『空気』もちゃんと分析できる」ことが分かったのは大きな収穫だった。

 

 次回は、第2章に相当する「『水=通常性』の研究」を読んでいきたい。

『「空気」の研究』を読む 7

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

8 第1章_「空気」の研究_(七)を読む

 ここまで読んだことで、次のことが分かってきた。

 

日本人が「空気」に支配されるメカニズム

日本人を「空気」で支配するためのメカニズム

「空気」の性質

「空気」の支配を回避する方法

日本における「空気」

日本において「空気」に対する制御が困難になった原因

日本において「空気」が猛威を振るった出来事

 

 

 これまで日本における「空気」の支配の具体例を見てきた。

 例えば、人骨に感情移入した結果、人骨に支配されて体調を崩すという原始的物神論的なもの。

 または、「公害廃絶」などの絶対的(とされる)命題・名称を臨在感的に把握による生じる「言語による『空気』の支配」のケース。

 さらには、御真影・遺影デモ等の偶像による「空気」の支配というもの。

 こうやってみるとバラエティ豊かである。

 

 

 本セッションでは「明治時代以降の天皇制」について話から始まる。

 これは天皇陛下教育勅語御真影)が偶像(礼拝の対象)になった上、偶像への帰依の感情が絶対化された結果生じたとみることができる。

 

 ところで、本書では面白いことを述べている。

 太平洋戦争のあと、天皇陛下は所謂「人間宣言」を出した。

 しかし、明治時代以降、天皇家が「我こそは現人神ぞ」と宣言した証拠はなく、つまり、畏れ多くも天皇家以外の何者かが天皇陛下を現人神にしたことになる。

 だが、「誰が天皇陛下を現人神にしようとしたのか」という追究がなされたという話は聴いたことがない。

 もちろん、犯人は「空気」であり、「天皇制」とは典型的な「空気」の支配のシステムなので追及しても無駄ではあるが。

(この点については少々違和感があるが、違和感は保留する)

 

 さて、「空気」の支配によるシステムとしての天皇制。

 この場合、天皇陛下はいわば「偶像」であり、臨在感的把握の対象ということになる。

 すると、人々にとって天皇陛下は感情移入の対象であっても、それ自体が意思を持つことは想定していなかったことになる。

 それが証拠に、二・二六事件を起こした青年将校たちは昭和天皇が自分たちの決起(クーデター)に対して激怒した(自らの意思を表明した)ことに対して、まるで奈良・東大寺の大仏が突如立ち上がって口を利いたかの如くに驚いている。

 また、戦後でも先の天皇陛下(今の上皇陛下)が退位する旨の言葉を述べたときは、、、さすがに、ここで書くのはやめておこう。

 

 明治時代以降の天皇制は天皇陛下が親政を行うようなシステムではなかった。

 天皇陛下が自ら意思決定することは誰も考えていなかった。

 また、天皇陛下御自身も「君臨すれども統治せず」というスタンスでいらっしゃった(詳細は『痛快!憲法学』参照)。

 では、このシステムは何だったのか。

 本書によると、「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」なのだそうである。

 なにやら分かりにくいのでよりスパッと言うなら、「天皇制とは『空気』の支配によるシステム」ということになる。

 

 この点、日本において「空気」の支配の際に偶像化された対象がバラエティ豊かであることは既にみた。

 ここで、偶像の対象は言葉や命題でも良い。

 このことは日本における「言葉狩り」の現象を見れば明らかである。

 何故なら、「言葉狩り」において問題になるのは、言葉の持つ意味内容よりも、「その言葉を臨在感的に把握してこれを偶像化することによって生じる空気」だからである。

 

 

 ところで、前のセッションで「日本はアニミズムの世界であるが、世界には一神教で構成されている地域(中東・欧米などユダヤ教キリスト教イスラム教の世界)がある」旨述べた。

 それらの一神教の世界では偶像崇拝・偶像の存在が基本的に許されず、我々から見て文化的価値がある偶像でさえ破壊されてしまった。

 また、この世界では言葉の偶像化も許されないことになる。

 その結果、言葉も相対化され、対立概念で把握されることになった。

 これをさらに進めると、相対化が唯一許されない「神の名」については逆に言葉にする(口にする)ことが許されないことになる。

 というのも、「神の名」を口にすれば、「神の名」が臨在感的に把握されて偶像化し、その結果、「神の名前」に対する偶像崇拝を将来し、「神」を冒涜することになるからである。

 事実、ユダヤ教では神の名前を述べることを禁止している。

 

 

 この一神教の世界では神以外は相対化されるため、「言葉」や「命題」も当然相対化されるし、かつ、相対化されるように把握されなければならない。

 例えば、「正義は必ず勝つ」という命題がある。

 日本人が好み、かつ、絶対化していそうな命題である。

 しかし、欧米人に対して「『正義は必ず勝つ』という命題は正しい(全称命題である)」などと言われれば次のような反論を受けることは必須である。

 曰く、「正義は必ず勝つ、というのならば、敗者は必ず不義なのか。権力者はみな正義なのか」と。

 なお、この欧米人の反論に対して、日本人が本音で回答するならば、「然り。勝者は正義で、敗者は皆不義なり」と返答しそうな気がして怖い。

 何故なら、事大主義に照らせばこの返答になるのだから。

 

 あるいは、「正しいものは報われる」という。

 これに対しては、「報われなかったものは不正だったのか」という反論を受けるだろう。

 この話は『ヨブ記』の主題でもある。

 

 このような反論はあらゆる方向に広がっている。

 そして、言葉・命題の相対化によって「『命題』によって醸成される『空気』の支配を防ぎ、よって、『空気』のせいでどうにもできない事態を可及的に防いでいる」のである。

 逆に言えば、「空気」が醸成されても問題ない部分、例えば、音楽や祭事においてはこのような相対化による対策を行うことなく、「空気」に支配される(浸る)のだろう。

 目的は「空気」の暴走による悲劇を回避することにあるのであって、「空気」自体の殲滅にあるわけではないから。

 

 そして、「空気」の暴走による悲劇を回避するために、特に、「多数決によって決定される場における『空気』の排除」を徹底している。

 多数決で決定する場面で「空気」の支配が発生させると致命的な悲劇が起きうるし、また、その例は山ほどあるからである。

 

 この点、太平洋戦争のときに日本において「死の臨在による『空気』の支配」があった旨話した。

 しかし、これは日本にだけあったわけではなく、どこにでもあった。

 当然、古代人にもあった。

 それに対して、古代人は死の臨在する決定においては「死の臨在による支配」を極力排除しようとした。

 もっとも、それでも誤判が生じてしまった事実は否定できないのだが。

 

 

 さて、日本。

 日本では相対化が起きない代わりに絶対化される対象が時間によって変化する。

 そのため、前提が同じで時と場所を変えて多数決を行うと、結果が異なることがある。

 これは場所や時間の変化によって支配される空気(絶対化される対象)が異なるためである。

 それゆえ、本書で筆者(故・山本七平)は「日本で多数決が必要な場合、一人に二票を与え、一票は議場で投票させ、もう一票は飲み屋で投票させたらいいのではないか」と述べている。

 

 また、前提が同じでも時間と場所が異なるため、時間を引き延ばすという選択肢もありえた。

 特に、戦争のような重大な決断が必要でなければ、つまり、戦争のようなことをしなければ、大きな支障が生じることはなかったのだろう。

 逆に、明治の近代化、高度経済成長の時代など先進国を模倣を目標としている場合は先進国に「空気」的に支配され(先進国を偶像の如く絶対的に信仰し)、それに従っていけば大過はなく、安全だったとさえ言える。

 よって、日本は「空気」の支配を危険視せずに安全であると考えたり、あるいは、問題視する必要がなかったと言える。

 

 

 というところで、本セッションは終了している。

 色々勉強になった、という感想を持ったところで次回へ(次で、第1章の「『空気』の研究」は終わり)。

『「空気」の研究』を読む 6

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

7 第1章_「空気」の研究_(六)を読む

 

 前セッションの内容をまとめると次のようになる。

 

・「空気」は古代の言葉を用いれば「プネウマ」(ギリシャ語)に相当する

・「『空気』による支配」は宗教的熱狂によって生じる

・古代において「空気(プネウマ)」が暴走して共同体が破滅の淵に追いやられる現象が存在した

・古代人は「空気(プネウマ)」の存在を認め、それを前提として「どうすれば『空気』の暴走をコントロールできるか」という方法を考えた

・これに対し、明治時代の啓蒙家たちは「プネウマは主観的なものだから、(主観的に)無視すれば消える」と考えて実践したが、その結果、「客観的にはプネウマが残存してしまい、かつ、無視した結果として制御不能になる」という事態になってしまった

 

 

 さて。

「『空気』の支配」の猛威は明治時代から始まり、かつ、戦後も続いている。

 戦後、日本は「天皇教」を廃止したわけだが、日本人のメンタリティは変わってない。

 とすれば、新たな「物神」が生まれただけであろう。

 さしづめ、新たな神になったのは「平和憲法」と「金」であろうか。

 

 その結果、「客観的・科学的根拠に基づいて合理的判断をしなければならない場面で『空気』の影響を受けて判断が歪む」ということになる。

 2021年の世情を見れば、その例は枚挙に暇がない。

 

 

 この点、明治時代の例として「御真影」と「教育勅語」がある。

 明治時代の啓蒙家として超有名な福沢諭吉は(ご神体であった)お札を踏めた。

 では、「御真影」や「教育勅語」を踏めただろうか。

 なお、他人の所有に属する「御真影」や「教育勅語」を踏むことは他人の財産権を侵害して違法になるので、自己所有の「御真影」・「教育勅語」を踏むケースを考える。

 物質的・化学的に見た場合、「お札」も「御真影」も「教育勅語」も「紙」に「墨汁・感光液・印刷インク」が付着した物質に過ぎない。

 福沢諭吉のお札を踏む背景(根拠)に従えば、「これらは物質に過ぎないので、背後に何かを感じたら野蛮である」と判定される。

 しかし、この判断に従って「『御真影』・『教育勅語』はモノに過ぎない。」と言ったり、「自分の所有する『御真影』・『教育勅語』を踏んだ」場合、その人は超法規的に制裁を受けることになるだろう。

 具体例として「内村鑑三不敬事件」が挙げられる。

 

ja.wikipedia.org

 

 これを見れば、「明治時代の啓蒙主義は『空気』の前に大敗した」と言ってよい。

 また、「抗『空気』罪」がいかに苛烈であるかも示している。

 さらに、「空気」の支配を貫徹するためには「相対化」を排除することがいかに重要かということも示されている。

 

 また、公害問題において「公害対策基本法」においてさっさと「『経済の健全なる発展との調和』を図る」といった条項が削除されてしまった例も取り上げられている。

 この条項削除の裏に「対立概念で対象をとらえることや『相対化』を排除する」という意図があることは間違いない。

 もっとも、「『相対化』を排除した結果、その対象に支配されて、問題の合理的解決が図れなくなってしまった」わけだが。

 

 

 さて。

 公害問題に取り組んだ人たちは、真面目であり、真剣であり、熱心である。

 もちろん、昔の青年将校も真面目で真剣であった

(と本書に書いてある、疑問符をつけることは可能だがここではしない)。

 ところが、彼らは「おっちょこちょい」なのである。

 ここで、本書では周恩来首相が田中角栄に贈った「言必信、行必果」という言葉が紹介され、「この言葉くらい見事な日本人論はない」と述べている。

 この周恩来のこの言葉は『論語』の一節である。

「言必信、行必果」が登場する部分を私釈三国志的に訳せばこんな感じだろう。

 なお、「言必信、行必果」は孔子の三番目の発言で登場する(この部分は白文を記載)。

 

(以下、『論語』の巻の第七、子路の第十三の二十を「私釈三国志」風に意訳したもの、原文等は『論語』(金谷治訳注、岩波文庫、1999)を参照)

子路「立派な人間ってどんな人っスか?」

孔子「自分の未熟さを恥じつつも、君主の使者としてどこでも立派に任務を果たせる人間は立派な人だろうなあ」

子路「敢えてその次に立派な人間を言うならどんな人っスか?」

孔子「親孝行者で年長者に従順な者は二番目に立派かなあ」

子路「さらに敢えてその次に立派な人間を言うならどんな人っスか?」

孔子「(え?まだ聴くの?)発言に偽りなく、行動すれば結果を出す。柔軟性のない小人の振る舞いではあるが、まあ、三番目に立派な人間と言っていいんじゃね?」(言必信、行必果、硜硜然小人也、抑亦可以爲次矣)

子路「では、今の政治家たちはどんなもんでしょうか?」

孔子「話にならんな」

 (意訳終了、あまりうまく味がでなかった、ご容赦)

 

 この「小人」という部分を「おっちょこちょい」と訳せば、日本人に対するこんな適切なたとえもない。

 そして我々はこの小人のような生き方、つまり、「『やる』と言ったら必ず実行するぞっ。実行した以上とことんやるぞっ」という生き方(太平洋戦争末期のバシー海峡の件が想起されるがこれ以上は踏み込まない)を「純粋」と判断し、逆に、相対化して考える大人の振舞い方を「不純」と判断するのである。

 それだけならまだしも、この「純粋な人間」を臨在感的に把握して絶対化して称揚し、不純な人間を排撃してしまう(この点は経験があるのでより深く理解できる)。

 もちろん、こうなれば問題の解決は望めるはずもなく、自身の破滅をもって事態が終焉することになる。

 

 

 さて、何故こうなるのか。

 これを見るために、日本で「空気」の支配が最も威力を発揮するケース、つまり、「『死』の臨在による支配」を見てみる。

 帝国陸軍の支配の背景にあったこの「『死』の臨在による支配」、戦後でも用いられている。

 例を挙げれば、「遺影デモ」だろう。

 さらに言えば、前に挙げた北条氏の「自動車魔女裁判」でも交通事故の遺児のことが挙げられている。

 前に、遺跡で日本人が人骨を取り扱ったところ、発熱して体調がおかしくなったケースを取り上げた。

 このように、日本人に「死の臨在」は非常に効果があるのである。 

 その結果、デモを直接見た日本人、及び、デモの報道を見た日本人は、「遺影」に拘束されて「相対化」ができなくなる。

 この際に、「遺影は紙なので云々」・「相手側にも事情もあるのだから妥協点を探そう」などと口にしてみればどうなるか?

「餓死を覚悟」どころか、直接リンチにあうことになるだろう。

 ただ、相対化ができなくなれば「言必信、行必果」の世界になって、問題の(現実的)解決は不可能になる。

 そして、自分側の玉砕か相手側の殲滅のどちらかによってしか解決できなくなる(この点、後者の解決案は本書に記載がない、しかし、これでも解決はになるので、ここでは書き足した)。

 

 ところで、この臨在感的把握の絶対化。

 一神教の世界において「人や物は神(造物主・クリエーター)が作ったもの」とされる。

 そのため、「『物を拝む』・『物に支配される』ことは『被造物』というを神以外のものを拝んだり支配されたりする」ことを意味し、いわゆる「偶像崇拝」にあたる。

 よって、偶像崇拝などの行為は「涜神罪(とくしんざい)」に該当し、宗教的に見てもっとも悪しき行為になる。

 とすれば、「遺影デモ」や「『空気』の支配」はこの世界では悪になる(程度の差は多少あっても)。

 

 つまり、一神教の世界であれば「絶対化」できるものは神(造物主・クリエーター)のみで、残りは総て相対化されている。

 というか、相対化されていないものの存在は許されていないと言ってもよい。

 

 他方、日本人の住む世界はアニミズムの世界、つまり、多神教の世界である。

 また、「アニマ」という言葉は「空気」に近い。

 ならば、アニミズムは「『空気』主義」とも言える。

 そして、アニミズムの世界では絶対化されるべき対象は無数にあり、何かに絶対化している間は相対化されない。

 しかし、絶対化される対象が時間の経過によって変わる。

 だから、「うまくやることで時間的経過によって相対化できる」とも言える。

 つまり、「絶対化される対象を巧みに乗りこなす」ことで相対化できるとも言えるし、逆に言えば「先走りすぎておっちょこちょい」とも言える。

 

 よって、「『空気』の支配が猛威を振るう」状況は、ある一つの「空気」が固定された場合、つまり、絶対化された対象が固定化された場合に発生する。

 これはファシズムより厳しい「全体空気拘束主義」になる。

 では、この「全体空気拘束主義」を回避するにはどうすればいいか。

 これに対する対処法の一つは、「絶対化対象をころころ変えること」ということ、つまり、アニミズム的ジグザグ型相対化になる。

 この手段は平和・平穏な状況、あるいは、成長期における問題解決として有効である。

 だから、明治時代の啓蒙主義は有効に機能した、ともいえる。

 しかし、絶対化対象がころころ変わるということは、いわゆる「短期決戦連続型」になり「長期戦略」が取れない(これは私自身経験があるためよくわかる)。

 また、成長期ではない成熟社会でも有効に機能しない。

 そこで、別の手段を探索すべきではないか、ということになり、その一歩として「『空気』の相対化」を考える必要が出てくる。

 

 そして、我々はアニミズムの世界に生きているが、中東・西欧・欧米は一神教の世界である。

 つまり、「『空気』が相対化された世界」は存在する。

 ならば、その世界を見れば「『空気』の相対化」を考えることができるだろう。

 そこで、ここから「『空気』が相対化された世界を見ていく。

 

 

 ということで本セッションは終わる。

 次のセッションについては次回に。

『「空気」の研究』を読む 5

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

6 第1章_「空気」の研究_(五)を読む

 第1章の(三)・(四)の内容から「空気」による支配構造をまとめると次のようになる。

 

(「空気」による支配を望む者などが)日本人に対して「ある対象は(絶対)善である」・「ある対象は(絶対)悪である」という2種類の情報(記事)を与える

「物に対する臨在感的把握」という習性を潜在的に持つ日本人がこの2点の情報を受け取ると、絶対化された2つの対象(物神)によって拘束されてしまう

 

 そして、「空気」による支配から逃れる方法は次の2点である。

 

① 我々(日本人)が持っている「物に対する臨在感的把握」について理解する(歴史的に再把握する)こと(「再」がついているのは明治時代の近代化・啓蒙化の流れで把握していたものを放棄してしまったため)

② 対立概念を用いて対象を理解しようとすること

 

 

 さて、このセッション(第1章の「五」)では公害に対する話題からスタートする。

 この点、本書では海軍と公害(に対する対処)を題材に用いることが多いが、それは「(欧州的な意味における)科学的決定」と「日本の空気による決定」の差が分かりやすいからであり、「『空気』による決定」が海軍や公害に対する日本の対応に集中しているからではない。

 本書の目的は「空気」の理解であるから、理解しやすいものを題材に選んでいるだけである。

 

 

 太平洋戦争末期の戦艦大和の出撃に関する決定が実質的に「『空気』による決定」であることは既に述べた。

 しかし、この決定は形式上「科学的決定」とみなされている(だから、「何故、あのような無謀な出撃をしたのか?出撃を決定した根拠は何か?」という質問が出てくるのである)。

 よって、出撃の根拠を提示することができず(根拠となるデータをぶつければ、そのデータに沿った決定でないことが明白になる)、「それについて私は何も弁明しようとは思わない」という回答しか得られないことになる。

「空気」の存在を前提に考えれば、この回答は極めて妥当なものであり、かつ、理解できるだろう。

 

 これに似た話題が本セッションで登場している。

 ここで紹介されているのは『正論』の昭和50年10月号に掲載された『誤ったNO2基準に国際不信広がる_科学的疑惑に回答せよ』という清浦東京工業大学名誉教授の論文である。

 この論文の要旨は、「日本の窒素化合物の規制基準は世界から見てかなり厳しい。そこで、海外の研究者・政府関係者等は日本に対して規制基準の根拠となるデータ・資料を求めているが、日本の関係部署は海外からのこの要請に対して何ら反応がない。日本の環境庁は『日本は公害行政先進国』と称し、『環境白書』では環境科学の国際協力を高らかに謳っているのにもかかわらず」となる。

「空気」を前提すれば「(日本の対応について)さもありなん」となるが、それを知らない人間(海外の関係者)からすれば「なんだ?!」ということになろう。

 

 さて。

 本書では、「海外の要請に対してどう対応すべきか」について著者(山本七平氏)の説明が書かれている。

 それによると、「『国際性を謳い』ながら海外の要請を無視するのは信用を徹底的に喪失するから、さっさと返答するべし。」であり、その返答の内容の要旨は「日本の規制基準は『空気』によって決定されたものである」というものである。

 この場合、海外の関係者から「『空気』とは何ぞや?『KUーKI』で意味が通じるのか?妥当な英訳は何か?」という質問が飛んでくるだろうが、それについては「『プネウマ』(ギリシャ語)・『ルーア』(ヘブライ語)・『アニマ』(ラテン語)に相当するものである」と回答すればよい、というのである。

 

 

「空気」の支配の前提には「感情移入」や「臨在感的把握」がある。

 これらのものは人間ならば持っているものであり、日本人固有のものではない。

 日本と欧米の違いは「『空気』の決定を許容するか、しないか」に過ぎない。

 また、古代の文献を見ると、現代日本でいうところの「空気」に相当するものがよく出てくる。

 つまり、プネウマ・ルーア・アニマの原意は「風・空気」であるところ、古代人たちはこれを息・呼吸・気・精・魂・精神・非物質的存在・精神的対象等に対しても利用した。

 この点を考慮しつつ、文献を読むと日本の「空気」の意味にも使われている。

 

 古代人の文献では、人が宗教的な熱狂状態、いわば、エクスタシーに陥る、あるいは、ブームによって集団的に異常な状態になることは、この空気(プネウマ)の沸騰状態によるものとされている。

 このように、日本の「空気」を意識しながらプネウマに関する古代人の記述を見ると、昔の話とは思えなくなる、らしい。

 つまり、古代人も日本の「空気」のようなものの存在は知っていたことになる。

 ならば、古代人の流れを汲む欧米人も知っているだろう。

 よって、「日本の公害基準はプネウマが決めたものだ」と返答すれば、海外の関係者はこの決定が「宗教的決定」であることも含めて理解することができるだろう。

 同時に、前回述べた北条誠氏の記事「自動車魔女裁判」が欧米の異端審問と類似のものとなったとしてもおかしくないことになる。

 

 

 この点、古代人は「プネウマ(『空気』)に相当する実態のつかめない奇妙なものが自分たちを拘束し、自由を失い、そのまま破滅を導く決定をしてしまう」という奇妙な事実を事実として存在することを認めた。

 つまり、古代人は「プネウマ(『空気』、あるいは、霊)の支配」の存在を認めた上で、どう対処すべきかを考えた。

 これに対して、明治時代の啓蒙主義者たちは、「霊(『空気』)の支配」があると考えることは無知かつ野蛮なことと考え「霊(『空気』)の支配」を無視することが現実的・科学的だと考えた。

 具体的には、「霊(『空気』)の支配」を拒否・罵倒・笑殺すればいいと考えた。

 しかし、主観的に無視したとしても客観的に存在するものは存在する。

 それどころか、無視してしまったがために存在する「空気」の暴走を制御する手段を失ってしまった。

 それゆえ、確固たる「『空気』の支配」を確立し、それにより、大和民族を破滅の淵に追いやってしまったのである。

 

 そして、この「『空気』に対するコントロール」という点から見れば、戦前と戦後で変りはない。

 それゆえ、再び「空気」が暴走すれば大和民族はまた同じ運命に遭うかもしれない。

 

 

 以上が、本セッションのメモの内容である。

 非常にわかりやすかった。

 また、自分自身、思い当たる面もあり、より詳細に理解することができた。

 

 ところで、このセッションを読んでいて、ふと、石原莞爾の「それなら、ペルリ(私による註、黒船を率いて浦賀にやってきて日本に開国を要求したマシュー・ペリーのこと)をあの世から連れてきて、この法廷(私による註、極東国際軍事法廷のこと)で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」という言葉を思い出した。

(上記言葉はウィキペディアの次の文章からの引用)

 

ja.wikipedia.org

 

 当然だが、開国後の日本の決定に関してマシュー・ペリーは関係ない。

 もちろん、日本の近代化にも。

 しかし、「欧米列強の世界侵略がなければ」という感想は抱かざるを得ない。

 この感想が喩え無意味、不毛であるとしても。

 

 また、本書の記載に従えば、日本の「『空気』の支配」の猛威は「明治時代の啓蒙家たちによる啓蒙の副作用」ということになる。

 当時の世界情勢に照らして日本の近代化は至上命題であり、かつ、時間的余裕がないことも明らかであった。

 そのため、この点をとやかく言うことは無意味にして不毛である。

 だが、それでももやもやした感想を持つことは否定することはできない。

 これを否定したら前に進めないだろうから。

『「空気」の研究』を読む 4

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

5 第1章_「空気」の研究_(四)を読む

 第1章の(三)の内容をまとめてみる。

 

・「空気」による支配のメカニズムは①「感情移入の絶対化・日常化(通常化)」→②「臨在感の把握(認識)」→③「拘束」という順序になる。

・「『空気』の支配」が潜在化し、かつ、猛威を振るったきっかけは明治時代の近代化・啓蒙化で行われた「『日本人の臨在感の把握する習性』を否定すること」にある。

・「日本人の臨在感を持つ習性」は伝統・歴史に基づく

・「『空気』の支配」は「『物神化』による支配」と言い換えると理解しやすい

・ヨーロッパ(キリスト教社会)では「『物神化』による支配」から脱却するために多大な努力が払われ、その一例としてキリスト教の異端の問題がある

 

 

 ここまで読むことで、「『空気』の支配による単純な構造」を理解することができた。

 これまでの例は「心理的支配の対象たる『物神』が1つ」という「支配者は1つ」のケースである。

 複数あるわけでもなく、かつ、複数あることによる相互作用もない。

 

 これに対して、現実では支配者たる物神が幾重にも存在することの方が多い。

 つまり、現実において、我々は複数ある支配者にあらゆる方向から支配され、金縛りにあっていて身動きが取れなくなっている、と言える。

 そして、「複数の支配源が混在している状況から受ける拘束力」を「『空気』の支配」と言っていることになる。

 とすれば、幾重にも絡んでいる空気をそのまま分析することは容易ではない。

 そこで、複雑な場合を理解するために、絶対的支配者を1つから2つに増やしてみる。

 

 絶対的支配者を2か所にする、つまり、二方向・二極点への臨在感的把握を絶対化し、その二極点に支配されることで身動きが取れなくなる現象の具体例、これは複数挙げることができる。

 本書では、日華事変・太平洋戦争・日中国交正常化が挙げられている。

 そして、具体的な説明に用いられているのは西南の役西南戦争)である。

 

 西南戦争は、近代日本が行った最初の近代的戦争である。

 また、本書によると、「官軍」・「賊軍」という概念が初めて明確に出てきた戦争でもある、らしい(この点、戦国時代にこの発想はないのは本書の記載の通りである。ただ、戦国時代以前に遡った場合、概念自体はあったのではないか疑問はないではない、ただ、私のこの疑問は横に置く)。

 そして、背景に「相手は明治維新の立役者の一人である大西郷であった」という事実もあり、明治政府は「対応如何によっては全国的争乱になる」という危惧を抱いていた。

 また、日本の庶民(農民)は「戦争は武士の仕事で、自分たちとは関係ない」という態度であった(なお、この態度は後の日清戦争でもあった)。

 そのため、明治政府にとってこの戦争は世論の動向が重要であり、かつ、国民の心理的参加が必要だった戦争だった。

 そこで、マスメディアが利用され(マスメディアもこれに便乗して活躍し)、戦意高揚のための創作記事の作成・掲載、「官軍=正義」かつ「賊軍=悪」の図式化が行われた。

 つまり、戦争記事の原型であり、かつ、「『空気』醸成システム」の基本はこの戦争に見ることができると言える。

 

 例えば、西南戦争において、「鹿児島軍(相手方)の絶対悪的把握」・「相手方を絶対悪とするための記事の創作」などがなされている。

 後者については、「メディアがこれをやる(創作した内容を事実として発表する)のは、メディアの自殺ではないのか」との疑問が生じないではないが、本書の記載と私の実感に照らすと、このことは日本のメディアの伝統として100年以上続いているらしい。

 そして、これらの記事が流布された結果として、「鹿児島軍は悪である」という物神化が行われ、所謂「空気」が醸成された。

 そのため、「西郷と調停すべき」・「鹿児島側にも酌量すべき事情がある」と言った主張が事実上不可能になってしまった(膨大なエネルギーと反発を覚悟しなければならない)。

 本書では、「このキャンペーンは『空気』を醸成するために誰かが計画したものだろう」と述べているが、戦争が国家の大事であることを考慮すれば、計画してもおかしくないし、むしろ、やって当然とも思える。

 

 なお、相手(鹿児島側)を絶対悪にするだけではなく、自分たち(政府側)を絶対善にするためのキャンペーンも行っている。

 この二種類の記事を読み、これに感情移入して絶対化すれば、その人は絶対善と絶対悪という二極の方向から支配されて身動きが取れなくなる。

 これが(二種類の物神を用いた)「『空気』の支配」の基本形である。

 そして、この手段はその後も利用され続けることになる。

 

 

 これにより、「『空気』による支配」の特徴がもう一つ浮かび上がってきた。

 それは、「『対立概念で対象を把握すること』を排除すること」である。

 

 現実を見れば分かるが、人間・物・システムには様々な面がある。

「ある面から見れば善く、他方、別の面から見れば悪い」といったことはざらである。

 あるいは、「ある人は非常に優しい面(善い面)があるが、他方で残酷な面(悪い面)もある」といったこともあるだろう。

 そして、このような認識を持つためには「善と悪という対立概念で対象(相手)を把握している」必要がある。

 

 それが排除されるとどうなるか。

 対立概念で用いて相手を理解すれば「この人(対象・現象)には良い面も悪い面もある」と言えるのに対し、対立概念を排除して相手を理解しようとすると、「この人は良い」と「この人の悪い」の二択に限定されてしまう。

 定規でたとえれば、対立概念による把握を排除した定規は「0と1」しか目盛りがないのに対して、対立概念を用いて相手を把握した場合の定規の目盛りは0と1の間に複数の目盛りがあることになる。

 

 これは「善悪の基準(価値観)の違い」とは異なる。

 つまり、対立概念を使って相手を把握する場合は、相手を0(悪)と1(善)の間のどの場所にも評価することができる。

 この場合、「0」と「1」という基準は動かせないが、相手の評価は自由に動かすことができる。

 他方、対立概念を排除して相手を把握すると、「相手=0」か「相手=1」となるので、自由な評価ができなくなってしまうのである。

 これは価値観の方向性を変えても変わらない。

 戦前の天皇主義だろうが、戦後の平和主義であろうが。

 

 

 これを原理を用いて、権力者がマスメディア(情報)を用いて国民を一斉に支配した結果生じるもの、これが「『空気』の支配」となる。

 この「『空気』の支配」がなされれば、誰もその支配から逃れられない。

 

 この結果、「『空気』の支配」からの脱却するためのキーが見えてきた。

 

 一つ目は、臨在感の把握に関する歴史の再び知ること

 二つ目は、対立概念で対象を把握する習慣を身に着けること。

 

 それについては次のセッションでみていく。

 

 

 というのが、本節のお話。

 なるほど・・・。

「『空気』の支配」についてその原型を理解した。

 特に、「2つの対立概念を用いて対象を評価すること」ということの重要性が理解できた。

 この点は自分の中ですぐさま用いることができそうだ。

 対外的な場面で用いられるかはさておき早速利用していきたい。

 

 あと、日本のマスメディアは今も昔も変わらんのだなあ。

 余力があれば(多分ないと思う)、こうなった理由も考えてみたい。

 この問題を抽象化した場合、その抽象化された問題は日本のマスメディア以外にも存在するだろうと考えるので。

『「空気」の研究』を読む 3

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

4 第1章_「空気」の研究_(三)を読む

 第1章_「空気」の研究の(三)はとあるエピソードから話が始まる。

 このエピソードは次のような趣旨の話である。

 

(以下、本書の32ページのまとめ)

 ある遺跡で発掘作業をしていたら古代の墓地が出てきて、人骨がざらざら出てきた。そこで、日本人とユダヤ人が共同で発見された骨を毎日運んでいた。約一週間、骨の投棄作業をしていたら、ユダヤ人の方は何もなかった(終始影響を受けなかった)が、日本人二名は少々おかしくなり、病人同様の状態となってしまった。もっとも、骨の投棄作業が終われば、日本人は病人の状態からケロリと治ってしまった。 

(まとめ終了)

 

 もし、遺跡にあった人骨が物理的・化学的に有害な成分を持っていたのであれば、日本人とユダヤ人の両方に影響があるだろう。

 しかし、ユダヤ人に影響がなく、日本人にのみ影響が出たのであれば、日本人は人骨からなんらかの精神的な影響を受けた、と推測するのが妥当な推論になる。

 これを「空気」という言葉と絡めて述べるならば、「日本人は現場の『空気』にあてられて心身の調子を崩した」ということになり、ここに「空気」の日本人に対する作用の一形態を見出すことができる。

 

 

 日本において「物質から日本人が心理的・宗教的影響を受ける」という状況、より詳細述べれば、「物質の背後に何者か存在(臨在)していると感じて、知らず知らずのうち存在していると感じる何者かの影響を受ける」と言う状況は普通に存在した。

 このことは『福翁自伝』などにも書かれている。

 これに対して、福沢諭吉など明治時代の啓蒙家たちは「物質は『物』に過ぎない。よって、それを拝むことは迷信であり野蛮である。よって、そのような態度は否定されるべきであり、そのために啓蒙的教育が必要だ」と考えた。

 しかし、「日本人は何故、物の背後に何かが臨在すると感じるのか。また、何かが存在すると感じてその影響を強く受けるのか(上の例では体調を崩すレベルの強い影響を受けている)を研究すべきだ」とは考えなかった。

 前者の発想は啓蒙的、後者の発想は科学的である。

 そして、明治時代の啓蒙家が前者の考えを採用し、後者の考えを採用しなかったということは、彼らは啓蒙的ではあったが、科学的ではなかった(科学的観点は重視しなかった)ことを意味する。

 まあ、明治時代の日本の国家的課題は「近代化」だったのだから、やむを得ない面もあるが。

 

 ただ、明治時代の啓蒙主義者たちの教育の結果、「啓蒙化」が「(日本で言うところの)科学的」になってしまった。

 つまり、上の例だと「(物の背後に)何も存在しないと思うことが『科学的』である」、つまり、「啓蒙主義」=「科学」ということになってしまったのである。

 このことは「超能力ブーム」における著者の発言である反発にも表れている。

 

 ここで見るべきは明治時代の啓蒙主義者たちの為した結果である。

 彼らは日本の近代化のために西洋の科学的な知識などを日本に紹介した。

 これらの行為が日本の近代化のために有効だったことは言うまでもない。

 しかし、啓蒙主義は殊更に悪意を込めて言えば「知識の押し付け」でしかない。

 つまり、啓蒙主義によって国民の民度・知力の向上には役に立つが、真実究明には役に立たない。

 そのため、押し付けられて否定されたものは根強く潜在化してしまう。

 その結果、無視している無言の臨在感に最終的決定権を奪われてしまい、身動きが取れなくなってしまうのである。

 

 

 本書では、ある人がイタイイタイ病の取材にきた新聞記者にカドミウムの金属棒を見せると「ワッ」と言ってのけぞる例、ある人がカドミウムの金属棒をナメる例が挙げられている。

 この態度は明治時代の啓蒙家たちと同様、啓蒙的であり、かつ、さらに言えば、親切でもある。

 しかし、これ以上何もしないのであれば「科学的」とは言い難いだろう(もちろん、「科学的」なことをする義務はない)。

「科学的に振舞う」とは、「新聞記者は何故このような反応をするのかを探求する」ことを意味するのだから。

 

 そして、もしも「空気」の支配を断ち切り、「空気」の支配による悲劇を回避したいのであれば、「『空気』は存在しない。『空気』に縛られる事は悪しきことである」などと啓蒙的に振舞うよりも、「何故、人は『空気』に縛られるのか」などを科学的に調査した方がよいだろう。

 これが本書の主張であり、かつ、私が本書を真面目に読み直している理由でもある。

 

 

 さて。

 人が(「空気」やモノの)臨在感の支配を受けて言論・行動が縛られる背景には何があるのか。

 その背景には「感情移入」があり、それによる「臨在間の把握(認識)」がある。

 

 この点、「感情移入」自体はどの民族にもあることで、日本特有のものではない。

 ただし、①感情移入の絶対化と②感情移入している意識の不存在(無意識化・日常化)によって臨在感を把握・認識するたことになる。

 よって、整理すると

 

「感情移入の絶対化・日常化(通常化)」→「臨在感の把握(認識)」→「拘束」

 

となる。

 

 ここで、本書では「日本人の親切」という随想が紹介されている。

 この随想は、「日本人が親切心からヒヨコにお湯を飲ませ、ヒヨコを殺してしまう。随想の著者はこの行為に日本人の親切が凝縮されている旨述べる」という話である。

 また、これを受けて「保温機に自分の赤ん坊に懐炉を入れて、その結果赤ん坊を死なせてしまって過失致死罪に問われた母親の話」も取り上げられている。

 

 これらの行為(ヒヨコにお湯を飲ませる行為、懐炉を保育器に入れる行為)に日本人の親切心、つまり、善意が凝縮されていることは間違いない。

 そして、新聞の投書にたまにあるように、「善意が通らない社会はよくない」という意見がある。

 しかし、善意による結果を見れば、善意を通していたら命がいくらあっても足りないことが分かる。

 そのため、「そんな善意は通らない社会の方が良い」という反論が出てくるだろう。

 そして、この反論に対しては、「善意でなした行為によって悪い結果が出るようなシステム(社会)が悪い」という再反論が出てくるだろう。

 

  さて、この水掛け論。

 ここで、「行為者に啓蒙(知識)が足らなかった。啓蒙すればこのようなことはなくなる」という主張はあまり意味がない。

 何故なら、このような行為・主張の前提において、自分と相手(第三者)の区別が行われていないからである。

 そして、この区別がついていない状態を絶対化し、区別させようと障害するもの(反論や結果)を悪とする心理状態が感情の絶対化であり、臨在感的把握の前提であるからである。

 なお、この現象は「乗り移し」・「乗り移らす」現象と考えるとわかりやすいだろう。

 

 

 では、①臨在感的把握と②臨在感による拘束は何故生じたのか。

 まず、後者の「臨在感による拘束」は歴史を再把握しなくなったためである、という。

 つまり、明治時代の啓蒙家が「臨在感による拘束は悪しき事であり、拘束されないことが良きことである」と啓蒙した結果、「臨在感による拘束」が潜在化した。

 そのため、「臨在感による拘束」の実態が把握できなくなり、かえって、「臨在感による拘束」を受けることになってしまった。

 

 次に、前者の「臨在感による把握」は日本の歴史的伝統に由来する。

 例えば、上の遺跡のケースであれば、「日本人は遺跡の人骨の背後に何かがあると感じ、その感じに知らず知らずのうちに絶対化され、その結果、人骨に心理的に支配されて病的状態に陥った」ことになるが、この背景にあるのは日本人の伝統だろう。

 本書に記載されている村松剛氏が『死の日本文学史』で指摘している点を踏まえて具体化すれば、「人の霊はその遺体・遺骨の周辺にとどまり、この霊が人間と交流しうる』という日本の伝統的な世界観」がこの背景にある。

 もっとも、この伝統はヨーロッパにはないらしい。

 

 では、カドミウムの例(ある人がカドミウムの金属棒を「これだ」と見せたところ、取材に来た記者たちがのけぞった例)はどうだろうか。

 遺跡の例とそろえて記載すれば、「新聞記者は(カドミウム金属棒を見て)カドミウム金属棒の背後に何かがあると感じ、その感じに知らず知らずのうちに絶対化され、その結果、カドミウム金属棒に心理的に支配されて恐怖感に陥り、のけぞった」となる。

 しかし、人骨と同様、カドミウム金属棒は放射性物質を発しているわけではない(だから、ある人は平然とカドミウム金属棒を記者の前に見せることができた)。

 さらに、「カドミウム」が認知されたのは最近であり、それ自体に伝統的な何かがあるわけではない。

 ならば、記者たちを拘束したのは何なのだろうか。

 それは、「イタイイタイ病の歴史」という「写真と言語で記された描写の集積の歴史」の所産である、という。

 つまり、「新聞記者は(カドミウム金属棒を見て)カドミウム金属棒の背後にイタイイタイ病に基づく悲劇があると感じ、その感じに知らず知らずのうちに絶対化され、その結果、カドミウム金属棒に心理的に支配されて恐怖感に陥り、のけぞった」と言い換えることができる。

 

 

 もちろん、この現象は悪用できる。

 ここで登場した人は「カドミウムは安全であることを啓蒙する」という目的で「カドミウム金属棒」を記者に見せたわけだが、これを支配の手段に用いることもできる。

 これこそ「物神化」であり、「偶像を用いた支配」である。

 つまり、「ある人がカドミウム金属棒を見せたところ、現場の『空気』にあてられた記者は云々」というのはこの言い換えに過ぎない。

 もちろん、現代においてこの例は大量に挙げられる。

 それこそ自動車でもいいし、さらに言えば、「イワシの頭」でも十分なのである。

 

 さて、ここで「物神化」というところで「神」という文字を用いた。

 日本において「神」としてまつるものは基本的に怨霊であり、「恐れ」の対象であった。

 例えば、多くの神社では悲惨な出来事を経験した対象(人)がその悲惨さを世にふりまかないようにその象徴的物質を御神体にして祭っている。

 それに対して、明治時代の啓蒙家の流れを継ぐ者たち「モノはモノでしかない」ことを示すためにご神体をなめたりする。

 新聞記者とある人のやりとりも「空気」の関係に即して書けば、これと類似したものになる。

 

 ただし、「物神化」と「原因の究明」は無関係である。

 本書に書かれていない例を挙げると、菅原道真公は大宰府に左遷され、失意のうちに死亡した。

 その後、左遷に携わった関係者(醍醐天皇藤原時平)が死亡し、また、清涼殿に落雷が襲った。

 人々は落雷や関係者の死亡を道真公のたたりによるものと考え、神として祭った。

 

 この一連の流れで道真公の神格化が行われている。

 しかし、原因の究明と神格化は関係ない。

 科学的に見た場合、「一般的に、人が死後に気象を操ることができる」ことは立証できないので「因果関係はない」とみるのが通常であり、かつ、(科学的に見て)妥当な判断であるが、真実は知らない。

 この点、「因果関係を立証しなければならない」と言いたいわけではない。

 単に、「真に落雷や関係者の死亡が怨霊によるものか否かについて調査する」という科学的作業と「道真公を神格化する作業」は関係ないと言いたいだけである。

 さらに、「無関係であることに問題がある」と主張するつもりもない。

(もっとも、私のこの意見は、先に述べた「事実を事実と述べるなかれ」という道徳律に抵触するかもしれないが)。

 

 

 さて。

「神格化」、その一態様である「物神化」という作業と科学的作業。

 これが無関係であると主張し、「物神化支配から脱却する」するのは容易ではない。

 キリストの異端論争もその背景を見れば、この作業と関連している。

 ここで見られる現象を抽象化すれば、「ある者たちは、その対象を知り、かつ、その対象に熱心であるが故に、その対象を物神化してしまう(と同時に、その対象に支配されてしまった)。それゆえに、ある者たちは異端として排除された」になる。

 カドミウムの例を取れば、「公害の問題を知り、かつ、公害の問題の解決に熱心であるが故に、カドミウム棒を物神化してしまった。それゆえに、問題解決のための当事者から排除された」になる。

「知識があり、熱心だから排除する」というのは私の直感にはピントがあわない。

 しかし、物神化するほど熱心になってしまい、かつ、支配されてしまえば、問題の解決には役に立たず、排除されてもしょうがないとも思える。

 

 

 以上が(三)のお話。

 今回、改めてこの書を読むと参考になることが多い。

 もちろん、この本を昔読んだのは言うまでもないが、ここまで参考になると思ってはいなかった。

 この違いは何なのだろう。

 年を取ったから?

 このブログにまとめようとするほど熱心に読んでいるから?

 うーむ。