薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『三国志』について知る

 少し前、私は中国の三国志の時代(3世紀)に興味を持ち、関連する小説・ドラマ・漫画を読むようになった。

 

 

 まず、三国志の時代に興味を持つきっかけを与えてくれたのは次のブログである。

 

www5f.biglobe.ne.jp

 

 このブログがなければ、私は三国志の時代に興味を持つことはなかっただろう。

 また、項羽と劉邦」の時代(「楚漢戦争」)に興味を持つこともなかっただろう。

 また、「私釈三国志」に書かれているコミカルな訳に興味を持ち、「自分もできるようになりたい」と書いたのは以前のブログに書いた通りである。

 

 その後、私は『三国志演義』のドラマを見た。

 

www.sangokushi-tv.com

 

 このドラマは全部で95話あり、全部を見ようとすると結構な時間がかかる。

 だが、引き込まれるようにドラマを視聴し、結局、一気に見てしまった。

 主要な登場人物にみんな味があり、非常に面白かった。

 

 また、このドラマに縁があったこともあり、項羽と劉邦_King’s_War」も視聴した。

 こちらも全部で80話あり、全部を見ようとすると結構な時間がかかるが、短期間で見終えてしまった。

 このドラマも非常に面白かった。

 

ja.wikipedia.org

 

 さらに、私はネットカフェに何度か通い、横山光輝の『三国志』(漫画)も全部読み切った。

 こちらも全部読もうとすると60巻もあるので、一回では読み切れなかったが、何度かネットカフェに通って読み切ってしまった。

 

www.usio.co.jp

 

 そして、先日、アマゾンアンリミテッドで借りていた、吉川英治の『三国志_完全版』を読み切った。

 

 

 この吉川英治の『三国志・完全版』、約2年前に読もうと考えて、アマゾン・アンリミテッドに登録した。

 しかし、最近まで全く読んでいなかった。

 小説版(吉川英治)の三国志を読まないうちに、漫画版(横山光輝)やドラマの『三国志』を見終えてしまう。

 

 今年の7月になり、「小説版も読まないとまずいよなあ。アマゾン・アンリミテッドでこの本を借りてから2年以上経過しているし、このまま借りっぱなしにして借りられる10冊の一角を占めっぱなしにするのもどうかなあ」と考え、散歩の折に読むようにした。

 そして、先週の日曜日に全文を読み終えた。

 もっとも、この小説版の『三国志・完全版』は小説10冊分の分量。

 全部読み終えるためにかなりの時間が必要だったが。

 

 

 さて、これらの一連の作品はどれも非常に面白かった。

 また、非常に勉強になった。

 

 第一に、時系列でみた場合の事実関係に関する私の認識を是正してくれた。

 例えば、厳密な意味で三国が鼎立した(孫権が呉の皇帝になることで、中国に3人の皇帝が存在することになった)のは、黄巾の乱が発生してから45年後の229年である。

 魏の曹丕が皇帝になった(後漢が滅亡した)のは220年、劉備蜀漢の皇帝になったのは221年であるが、これも黄巾の乱から約35年のタイムラグがある。

 さらに、劉備一行が西蜀(益州)を手に入れたタイミング、つまり、魏・呉・蜀の3勢力が出来たタイミングで見ても214年であり、これまた黄巾の乱の30年後である。

 つまり、黄巾の乱により漢(後漢)が大混乱に陥ってから、三国の勢力が確立するまでかなりタイムラグがある。

 このことを私は知らなかった。

 さらに言えば、赤壁の戦い劉備益州を得てから起きたものと認識していたし、袁紹が北方で大勢力となっていたことも知らなかった。

 一応、世界史や漢文でこの時代のことを勉強していたが、ブログ(「私釈三国志」)を見るまでの私の知識などこの程度だったのである。

 恥ずかしい限りである。

 

 また、諸葛孔明五丈原で亡くなった234年から魏の後を継いだ晋が中国を統一する280年まで約40年かかっていることも知らなかった(これについてはブログ「私釈三国志」によるところが大きい)。

 小説・漫画・ドラマの三国志諸葛孔明が亡くなった後はあっさりとしているためしょうがないところがある(孔明の死後については、ドラマは1話分、漫画は1巻分しかないし、小説は補足があるだけである)が、「後漢が滅んでから諸葛孔明が亡くなるまで」(約15年間)よりも「諸葛孔明が亡くなってから晋が3国を統一するまで」(約45年間)の方が長かったのも知らなかった。

 この意味で、大まかな時系列に関する私の認識を修正してくれたのは大きかった。

 

 

 第二に、登場人物について色々と知ることができたのは大きかった。

 もちろん、小説・漫画・ドラマは『三国志演義』が元ネタになっているところ、いわゆる『三国志演義』は「史実3割、脚色7割」と言われており、「内容=真実」と見ているわけではない。

 しかし、内容と真実の精度についてはブログ「私釈三国志」が補っている。

 また、誇張しているところは魅力の部分であるから、多少のぶれは修正をかければいい。

 というわけで、三国志の登場人物について把握できたのは大きかった。

 また、劉備陣営の人物(劉備関羽・趙子龍・諸葛孔明)は皆魅力的であったし、また、曹操や芝居、もとい、司馬懿も魅力的であった。

 さすが、物語として世界に広く伝わっているだけある。

 

 

 第三に、ドラマ・漫画・小説によって記載に異なる部分があるところ、その差異を見られたのは面白かった。

 ぶっちゃけ、ドラマのスケールの大きさはすごいの一言に尽きる。

 このドラマを見ていたころ、NHKの大河ドラマで「真田丸」が放映されていた。

 しかし、スケールの違いを感じざるを得なかった。

 

 

 最後に、歴史を見ることの面白さを実感した。

 去年の11月以降、私は歴史小説に触れる機会が増えた。

 読んだ本を列挙していくと次の感じである。

 

修羅の都

修羅の都

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 これらの書籍も面白かったが、三国志はもっと面白かった。

 これからも、今後も歴史小説を読んでいきたいと考えている。

『「空気」の研究』を読む 2

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 ただ、山本七平氏が冒頭で述べた道徳律について先に考えてみる。

 

 

2 山本七平氏が述べた「日本に存在する道徳律」

 山本七平は第1章(便宜上「第1章」と書いているが、これは三部構成の最初の部分「『空気』の研究」のことである)の冒頭で、いわゆる「日本の道徳」として次のものが存在する旨述べている。

 

 一つ目は「知人はあらゆる手段で助け、非知人は黙殺してかかわるな」という規律。

 二つ目は「規律や事実を言葉にしてはならない」という規律。

 

 そして、第一の規律の存在を立証するための手段の例として「三菱重工爆破事件のときのある外紙特派員の記事」をあげている。

 また、この2つの規律を担保しているものが「空気」であることはこれまでに述べた通り。

 

 ここでは「空気」ではなくこの規律についてみてみたい。

 なお、著者(山本七平)は「これに従え」と述べているのではなく、「上記道徳律に基づいて社会は動いている事実を子供たちに教えよ」と述べていることに注意。

 

 

 なるほど、言われてみればその通りである。

 ただ、憲法(立憲民主主義)が規定する「表現の自由」と二つ目の道徳律(規律や事実を言葉にしてはならない)は相性が悪いなあ、とは考える。

 そして、表現の自由が議会政治において必須の要素であることを考えれば(詳細は『痛快!憲法学』を学んだ際に触れたのではここでは省略)、日本で議会政治を成り立たせるのは難しいなあ、とも考える。

 さらに、山本七平氏は日本軍の捕虜の収容所において暴力政治が出現した原因として「言葉を奪ったこと」を挙げていたことがあった(これもブログで言及した、詳細は省略)が、「言葉を奪った」由来は日本の道徳律に由来しているのだなあ。

 

 そして、一つ目の道徳律(知人と非知人の差異的取り扱い)は憲法の「平等原則」に抵触する。

 もちろん、日常生活など私的な事項であれば憲法の射程は及ばないので問題にならない。

 しかし、この道徳律が統治者(権力者)にも適用されるなら、つまり、国民がこの道徳律を自分の支持した政治家に要求するならば、これはまた困ることになる。

 憲法が要請するのは「異なる取り扱いは知人か否かではなく、憲法と(憲法の平等原則に適合するように作られた)法律に基づいて行え」になるのだから。

 

 もっとも、だからと言って「これらの道徳律とその正統性を支える『空気』を排除しよう」と述べるつもりはないし、言っても意味ないだろう。

憲法出でて日本亡ぶ」では意味ないのだから。

 また、「空気」を取り払うことに成功して、その結果できた集団が「日本文化を持つ人たち」でなければこれまた意味がないのだから。

 

 

  話がそれた。

 主題の「空気」に話を戻すため、道徳の話はこれまでにしよう。

 

3 第1章_「空気」の研究_(二)を読む

 これまでの内容から「空気」について分かったことをまとめる。

 

・「空気」は日本人の意思を拘束する
(日本人は空気の支配から逃れられない、逃れるためには膨大なエネルギーが必要になる)

・「空気」には理論・データ・科学を押し退けて、その反対方向に決定する権力と権威を持つ

・「空気」に抵抗すると「抗空気罪」が成立し、村八分以上の制裁が待っている

 

 さらに、次のことも言えそうである。

 

・空気によってなされた判断過程は公開されない

・日本人は論理的判断基準(合理性基準)と空気的判断基準(空気性基準)の2つを持っている

・日本人の発言は論理的判断基準に従うが、行動の規範は空気性判断基準である

・両者は独立ではない

・発言の内容(表現内容)ではなく発言の交換(表現行為)により「空気」が醸成され、その「空気」により行動の決定がなされる

 

 

 次に気になるのは、「空気」の醸成方法・「空気」が人に作用する態様・「空気」の消滅方法であろう。

 本書のテーマもそこに移る。

 そして、人為的に作られた「空気」を題材にして分析が進む。

 ここで用いられている題材は、「文藝春秋」の昭和五十年八月号に掲載されている北条誠氏の「自動車ははたして有罪か・米国よりも厳しい日本版マスキー法の真意は」という論文である。

 この論文を「空気」の観点から見てみる。

 

 まず、背景として次の事情がある。

 60年代後半、自動車の排気ガスによる大気汚染・酸性雨などの問題に対処するため、これを立法により規制しようという動きがあった。

 その結果、70年にアメリカでマスキー法という法律が作られた。

 

 さて、北条氏の論文によると、日本では人為的に「空気」を作成するための活動が行われ、かつ、「空気」の作成に成功した(逆に言えば、欧米ではそのような行為は特にないということなのだろう)。

 その結果、ヨーロッパでは規制は行われなかった。

 また、アメリカでは法律(マスキー法)は出来上がったが、フォード大統領が「法律を改正して(元の法律の厳しい)基準を緩めてくれ」という趣旨の教書を書いたり、暫定基準を延長したりする(厳しい基準の実施を猶予する)などのことが行われた。

 それに対して、日本は基準は「マスキー法」を引き写したものの、その後は日本化して、完全にマスキー法の状態を達成させた(だから、日本の規制は当時世界で最も厳しい規制になっていた)。

 また、フォード大統領のようなことを言えなくなる「空気」も生じた。

 

 そして、北条氏は「このまま規制が厳しくなれば、日本の自動車産業は他の国と比較して厳しい枷がはめられることになる。そうなれば、日本の自動車産業は外国との競争に敗れて、壊滅的なダメージを受け、その結果、日本経済は破壊されるだろう。」と述べている。

 もちろん、現実に自動車産業が壊滅しなかったことは現在(2021年)を見れば明らかであるが。

 

 

 さて、ここで現実で生じなかった仮定の話をしてみる。

 将来、科学的に見て窒素酸化物(所謂NOx)が無害だったことが証明されたとする。

 そうなれば、結果的に見れば、規制をかけなかったヨーロッパは(後付けで)正しかったことになり、現実を見ながら徐々に変化させようとしたアメリカもダメージが少なく、日本だけが過剰な規制によってダメージを受けたことになる。

 そうなったとき、「戦艦大和」のときのような疑問が噴出するだろう。

 そして、その疑問に対する回答は「空気に支配されていたから」になるだろう。

 このことは「戦艦大和」のときと大差ないだろう。

 

 もちろん、今回は仮定の話である。

 また、「空気」の決定だから間違いになるわけではない。

 単に、「空気」が判断を決めるなら、我々は「空気」のことをよく知るべきではないか、というだけである。

 

 

 では、本件(日本版マスキー法の作成)の「空気」はどのように醸成されたのだろうか。

 北条氏の論文はその点について「自動車に対する『魔女裁判』」の形で取り上げられている。

 なお、「魔女裁判」という言葉を用いているのは「『自動車』が必ず有罪でなければならない」からであろう。

 この魔女裁判の図式は非常に西欧的ではあるが、有罪の対象が人間ではなく物(自動車)となっているのが日本的な特徴である。

 確かに、この裁判で人間は登場する。

 例えば、運転手(自動車を用いて便益の提供を受けている者)、あるいは、自動車メーカー(自動車を販売して利益を得ているもの)。

 しかし、ここでは運転者や自動車販売メーカーは魔女の対象ではなく、せいぜい従犯か重要参考人に過ぎない。

 つまり、告発対象は自動車である。

 

 言うまでもないが、刑法の適用対象は原則として人間である。

 あるいは、道徳の適用対象も人間である。

 例えば、細菌が日本国内で日本人を死に至らしめた(病死させた)としても細菌に殺人罪を適用して有罪判決を出すことはあり得ないし、細菌に対して道徳的非難を加えるということもない。

 よって、自動車だって有罪にすることはあり得ない、と考えるのが通常である。

 

 しかし、ここでは「自動車」が人間と同様に有罪にしている。

 この発想はどこにあるのだろうか。

 本書によると、それは「物神論」なのだそうだ。

 つまり、「人間が信ずれば、物も神格や人格を持つ」という考え(信仰)を持っているため、「物」も有罪の対象になるのである。

 

 ただし、西欧の裁判(「近代裁判」と言い換えてもよい)は「告知と聴聞」が前提となる。

 よって、有罪とされた対象の弁明がなければ裁判は成立しない。

 だから、本件のように物(自動車)を相手に近代裁判を仕掛けた場合、物は話せないので、魔女裁判よりもひどい態様になってしまう。

 それは、「車」が仮に言葉を話したらどうなるかを想像すれば、あるいは、本書の記載を見れば明らかであろう。

 

 本件では「車が有罪である」という結果の前提として、「物(自動車)に対して人格を認める」という珍現象(このことは昨今世界中で猛威を振るっているコビットナインティーンに対して「コロナは有罪か」という議論が生じないことを考えれば容易に想像できよう)が起きた。

 もちろん、この現象は信仰がなければ発生しない。

 となれば、今回の決定、より抽象化すれば「空気」の決定は「宗教性」を持っていることになる。

 だから、本件に登場する調査団は肩書こそ「科学者」であるが、その実質は「異端審問官」である。

 北条氏は科学者たちが科学的知識について知らないこと、科学的知識を前提に判断しないことを不思議がっていたが、彼らが異端審問官だと考えれば少しも不思議ではないことになる。

 これは、大和の出撃についても同様のことが言えるのだろう。

 

 

 以上、本件を通じて、「空気」は宗教的絶対性を持つものであることが分かった。

 今回題材にした事件で生じた「空気」は人々が作り出したものであり、かつ、物が対象であった。

 だから、分かりやすかったし、ある意味害も小さいとも言える。

 だが、現世を見れば分かる通り、有罪の対象が「人」になることだってあるだろう。

 さらに、人間ではなく自然的に発生するものもあるだろう。

 その場合はこうもいくまい。

 

 そこで、この「空気」について探求していく。

 キーワードは「臨在感的把握」である。

 

 

 以上が本書の内容であった。

 本書の書き方は非常に面白い。

 特に、自動車と異端審問官のやり取り部分などは笑いさえ起きる。

 

 ただ、一つ気になったのは、異端審問官と自動車とのやり取り、どこかで見たような気がするのである。

 次回はそれについてみて、さらに本書を読み進めていきたい。

『「空気」の研究』を読む 1

0 『「空気」の研究』とは

『「空気」の研究』とは「山本七平」氏の著作である。

 また、極めて有名なものの一つとも考えている。

 

 

 この点、「空気」という言葉は「『空気』に流される」・「『空気』に逆らえなかった」といったう形で用いられるときの「空気」である。

 大気(窒素と酸素がおよそ4:1の割合で混ざっているもの)ではない。

 この「空気」の内容、この「空気」について日本を見て得られたものについて書かれたのがこの本である。

 

 

 この本の文章は大きく3つの章からなる。

 

 一つ目は「『空気』の研究」

 ここでは「空気」について分析されている。

 二つ目は「水=通常性の研究」

 これは「『空気』の支配」に抵抗する手段としての「水」について分析されている。

 ここで言う「水」とは、所謂「『水』を差す」という形で用いられる際の「水」であり、物質としての水ではない。

 三つ目は「日本的根本主義ファンダメンタリズム)について」

 ここではアメリカのピューリタンたちがキリスト教(聖書)を信仰しているように「日本人が(当然のこととして)信仰しているもの」について分析している。

 

 

 さて、この本、目次の前にこんなことが書かれている。

 

(以下、『「空気」の研究』の序論部分を引用)

「人は水と霊(プネウマ)によらずば、神の国に入ることあたわず」

 神の国という新しい神的体制(バシレイア・トゥー・テウー)に入るには、この二つによる回心が必要であろう。

 この神の秩序へのイエスの言葉を少し言いかえて、「人は空気と水による心的転回を知るに至らねば、人の国に入ることあたわず」とすれば、それはまさに日本だといえる。空気と水による絶えざる心的転回で新しい心的秩序に入るという、日本的の人間的体制の見本を探ること、それが本書の主題である。

 (引用終了)

 

 故・山本七平氏はクリスチャンだったと言われている。

 そのため、キリスト教(聖書)との比較が幾たびかなされている。

 この方法により日本人の特質が明確になり、また、分かりやすくなっている。

 

 ここから二つのことが分かる。

 まず、キリスト教は「神の国」であるのに対して、日本は「人の国」であること

 次に、日本教の国に入るためには「『空気』と『水』の相互循環」について知らなければならないこと

「空気」のみを理解するのではなく、「『空気』と『水』の両方を行き来せよ」と書いてあるところが興味深い。

 

 ということを確認して、本文に移る。

1 第1章_「空気」の研究_(一)を読む 

「『空気』の研究」というのは本のタイトルであると共にこの本の第1章(書籍では「章」という言葉は用いられていない)のタイトルでもある。

 以下、第1章の『「空気」の研究」について読んでいく。

 

 本章は山本七平氏(著者)がある教育雑誌から「道徳教育」に関する取材を受けたエピソードから始まる。

 これに対して、山本七平氏は現実に即した(妥当な)返答をするのだが、それに対する相手の反応が面白い。

 

(以下、本文の内容の抜粋)

 著者が「(『道徳』というかはさておき、)現実において道徳的規範は存在し、かつ、その規範は田中角栄首相(当時)を辞任に追いやるレベルの威力を有する。よって、子供には『現実の社会には道徳と称される規範があること』ということを教える必要がある。同時に、教師には子供たちにその旨教える義務がある。つか、教えなければ子供たちが可哀想である」と答えると、相手(雑誌の記者)は「では、道徳教育に賛成ですな。今は大体そういった空気ですな」と返答する。

(「道徳教育は何から始めればいいか」という記者の問いに対して)、著者が「現実にある規範(ルール)を『事実』として教えればいい」と答えると、記者は「そんなことを言ったら大変なことになる」・「現場の空気としてはそんなことは言えない」と答える。

(以下、省略)

 

 本書で述べた著者の「道徳律」については非常に興味深いので後で取り上げるが、著者は記者(編集員)の「空気」という言葉に興味を持つ。

 つまり、記者を拘束しているのは著者と記者のやりとり(議論)の結果ではなく、「空気」であり、その「空気」から記者は自由になれない、と。

 そして、決定権を有するものは「空気」であり、それに抗うことも論破することもできない、と。

 

 この「『空気』による人の支配」は日本の至るところで生じている。

 そして、「空気」はある種の絶対的権威の如く振舞っている。

 

 

 次に、話題はアジア・太平洋戦争における戦艦大和の出撃に移る。

 結論を一言で述べてしまえば、戦艦大和の出撃の是非において判断を決める重要な要素となったのは「空気」である、ということになっている。

 つまり、出撃を無謀とする人たちはデータを出して論証している。

 それに対して、出撃を正当とする人たちの根拠は専ら「空気」なのである。

 そして、「空気」と「データ・論証」の対決の結果、「空気」が勝利してしまう。

 

 このことから著者は「日本人が規範としている根拠は『空気』である」と言う。

 つまり、三菱重工爆破事件に対する人々を具体的行為を規律したのは「空気」であり、道徳教育の第一歩として「事実をありのままに言うべき」ということに「できない」と反応した記者の根拠も「空気」である、と。

 そして、様々な事実(例えば、戦艦大和の出撃)を見る限り、この「空気」は「『議論』・『データ』・『科学』も歯が立たない何か」であることが分かる。

 

 さて、戦艦大和の件について、戦後になされた決定権者(最高責任者、連合艦隊司令長官)の言葉を見る。

 その言葉は「『当時ああせざるを得なかった』と答うる以上に弁疎しようとは思わない」である。

 そりゃそうであろう、何故なら決定の理由が「空気」なのだから。

 だから、著者は「『軍には抗命罪があり、命令には抵抗できないから』という議論は少々あやしい。むしろ日本に『抗空気罪』という罪があり、これに反すると最も軽くて『村八分』刑に処せられるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係」と述べる。

 それゆえ、著者は「『空気』とはまことに大きな絶対権をもった『妖怪』である」と述べる。

 また、「この『空気』なるものの正体を把握しておかない」といけない、とも。

 そりゃ、「空気」は専門家がなした科学的分析・専門的分析を一蹴して、それとは逆の方向の決定にもっていけるのだから。

 リヴァイアサンすら勝てるかどうか怪しい。

 

 さらに、戦後の様子を見て、著者は「戦後にもこの『空気』は猛威を振るっている」と言う。

 その証拠として公害問題に対する専門学者の「いまの空気では、到底こういうことはマスコミなどでは言えない」という趣旨の発言を取り上げる

 このことから、ますます著者は「空気」の実体の解明の必要性を感じることになる。

 

 

 また、「空気」に関する興味深い点として、「『空気』が消え去ってしまうと『空気』があった状況を再現できず、空気に抗った一連の行為が奇妙に見える」点がある。

 本書では、著者が校正した「実験用原子炉導入の必要を説いた論文」が題材(例)に挙げられている。

 この論文では「実験用原子炉と原爆は関係ないこと」が痛ましいレベルまで強調されている。

 痛ましく見えるのは見直した段階では「空気」がないためであり、換言すればこの論文が発表された当時、(実験用原子炉の導入に反対する趣旨の)「空気」があったことの証明になっている。

 だから、仮に「空気」を負かすことができたとしても、「空気」を負かすために必要なエネルギーは膨大であることもわかる。

 

 

 以上、本書の第1章の一を読んでみた。

 本書における「空気」は現在においても十分に存在していることは「顕著な事実」(民事訴訟法179条)である。

 ならば、「空気」を知ることは今でも極めて重要である。

 まあ、だから、私はこの本を丁寧に読むことにしたのだが。

 

 

 さて、次は「第1章の二」に進む予定だが、その前に、山本七平が冒頭で述べた「道徳」の具体的な内容についてみたい。

『痛快!憲法学』を読む 17(最終回)

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことや考えたことをメモにする。

 

 

 なお、各章を1行にまとめた結果は次のとおりである。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った

第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した

第13章_ 日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する

 

16 これから

 本書の最終章(13章)の「日本復活の処方箋があるか」で著者の小室直樹先生(本書の先生役)は「(日本は)このまま進み続ければタイタニックのように沈没するしかない」、「今のままの日本には希望はありません」と断言する。

 それに対して、生徒役のシマジ君は「とっておきの処方箋を先生だったらお持ちでしょう」と言うものの、それに対して、小室先生はこれに対して「この大バカモノ!」と一喝する。

 そして、「この現実を直視しなさい(そこからすべては始まる)」と諭す。

 さらに、「『一刻も早く日本を立て直す』と覚悟を決め、本書に書かれたことをヒントにして自分なりに考えて第一歩を踏み出すこと」を勧める。

「民主主義をめざしての日々の努力の中に、はじめて民主主義は見出される。」という丸山眞男(東大の教授)の言葉を紹介しながら、「それが正しいか、間違っているかは気にする必要はない」という言葉を添えて。

 

 

 本書において、憲法の前提や憲法の成立過程(歴史)について詳しく書かれているのは、(近代)立憲民主主義の前提を示すためであろう。

 また、日本で憲法を蘇生させるためには、その前提も復活させなければならない。

 そのなかには資本主義の精神(勤勉の精神・目的合理性追求の精神)なども含まれる。

 

 この作業は容易ではない。

 非キリスト教国で実質的に民主主義の国になれたのは本当にわずかである。

「日本は一度は成功しかけたのだから、前回の失敗を活かしてもう一度チャレンジすれば成功する可能性が高い」とは言えても。

 

 ここで、近代革命の革命者たちが持っていた精神を列挙してみる。

 

(神の前の)平等の精神

勤勉の精神

目的合理性の精神

契約遵守の精神

 

 こんなところか。

 そして、明治政府はこれらを導入しようと試みた。

 よって、これらの精神を日本に導入するために、明治政府が試みたこと・その背景思想について知る必要がある。

 例えば、天皇教のルーツや二宮金次郎(日本における勤勉の精神)とか。

 そこで、山本七平の書物にあたる必要がある。

 

 また、導入される側についても知らないとダメだろう。

 導入される側の事情を無視することは、いわゆる「敗因21か条の『敗因三、日本の不合理性、米国の合理性』」に該当する。

 そこで、古来の日本人のメンタリティについて知る必要がある。

 以前、日本神話に関する本を図書館から借りて読んだが、この周辺をより深く知る必要があるかもしれない。

 

17 憲法に再び関心を持った理由

 最後に。

 以前、私は「憲法に対する関心を失った」と書いた。

 理由は2つ。

 1つは、「日本国憲法は死んでいるとの小室先生の見解に同意するところ、憲法に関心を持つのは墓守をやるのと大差ないから」。

 もう1つは、「国民が憲法の蘇生を望むのか分からないから」である。

 

 私が「国民が憲法の蘇生を望むのか分からないから」と述べるのはなぜか。

 それを裏付けると考えられるエピソードが山本七平の次の書籍に書かれてあるので紹介する。

 

 

 最初のキーワードは「大に事(つか)える主義」である。

 この「大に事える主義=(事大主義)」について要約すると次のようになる。

 

(以下、『下級将校の見た帝国陸軍』の16・17ページの一部の要約)

 日本人はある状態で「ある役つきの位置」に置かれると一瞬にして態度が豹変する(現象)がある。例えば、とある学生が○○委員長などと言った肩書がつくと教授に対する態度が変わる。就職活動のタイミングになればまた態度が変わる。卒業してある会社の社員になればまた態度が変わる。この現象は日本人において不思議なものではなく、また、タイミングによって態度が変わることについて当の本人は全く矛盾に感じていない。なお、この特徴は戦後以降のことではなく、戦前も同様である。

 ところで、この態度が立場によって豹変する現象、態度が一貫しないため無原則のように見える。しかし、この背後には「事大主義(大に事える主義)」という原則があり、この原則を通じて一貫している。つまり、自分の立場が「大」側であれば横柄な態度となり、お得意様であるなど相手の立場が「大」であればこれに阿っているだけである。

 この「事大主義的態度」ないし「事大主義的態度の豹変」は日本人捕虜に見られたし、日本軍の捕虜の扱い方に見られている(『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』にて引用されている故・小松真一氏の日記にもそれを示唆する記述が見られる)。

 

 この事大主義、言い換えれば、「大に媚び諂う態度」は立憲主義とマッチするだろうか。

 立憲主義は大(権力者)を縛って小(個人)の権利・自由を擁護する考え方である。

 ならば、事大主義は立憲主義にマッチしないのではないか。

「私が立憲主義が日本人にマッチしないだろう」と考えている重要な理由はこの点にある。

 

 他の理由として挙げられるのが次のことである。

 

 例として、上で紹介した山本七平の書籍からエピソードを引っ張ってくる。

 参照する部分は291ページからの「言葉と秩序と暴力」である。

 ただ、類似の記述は前回に読んだ『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』にもある。

 この箇所についてはブログの次の記事で紹介している。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 簡単に事実関係を確認する。

 太平洋戦争末期、または、終了後、フィリピンに日本軍の捕虜収容所がつくられ、捕虜となった日本人(故・山本七平や故・小松真一氏)はここに収容された。

 この収容所、米軍の指導下で最低限の衣食住と民主主義的自治機構が与えられたが、一部の例外を除いて暴力支配が発生し、それによって収容所内の秩序が確立してしまう。

「暴力支配はいかん」と米軍が介入して暴力団が排除されると、収容されている日本人は解放を大いに喜ぶが、直ぐに秩序にガタがくる、と。

 なお、このような暴力支配は日本人が作った外国人(アメリカ人・イギリス人など)の捕虜収容所では見られなかった(このことについて書かれた書物として次のものがある)。

 

 

 では、日本人と外国人の違いは何だったのか。

 山本七平によれば、「『秩序は自分たちで作る』という考えがあったか」だという。

 憲法の言葉に引き付けるならば、「自治意識の有無」と言ってもよい。

 

 そして、山本七平は重要な指摘を加える。

「言葉の有無」も重要な違いだという。

 つまり、キリスト教国家が「はじめに言葉ありき」ならば、日本は(権力者=大によって)言葉が奪われており「はじめに言葉なし」の世界であった。

 言葉がなければ「力がすべて」の世界、暴力支配の世界にならざるを得ない。

 

 ここで挙げた具体例は捕虜収容所である。

 しかし、「似た例を現代の日本で探せ」と言われれば、山ほど見つけられるだろう。

 だから、この現象は過去の現象でもなければ、特異的な現象でもない。

 

 さて、ここで取り上げた自治の不在」と「言葉の不在」

 前者には「権力を操縦しよう」という意思がない。

 後者は「言葉がない」のだから、言葉で書かれる「契約」など存在せず、当然、「契約遵守」の思想もない。

 この2つを併せて考慮すれば、ジョン・ロックの社会契約説を日本で実践するのは無理ではないか。

 

 また、自治を行うか」・「言葉を持つか」という問題は能力の問題ではない。

 意思の問題である(宮台真司先生の言葉を用いれば、「知性の問題」ではなく「感情の問題」である)。

 つまり、自治をしない」・「言葉を持たない」という現象は大和民族の民族的自己決定の結果ではないかと考えられる。

 ならば、日本人は社会契約説による憲法など実践できないし、また、する気もない、ということになる。

 

 以上から、私は憲法的なものに関心をなくしていた。

 もっとも、近い将来、憲法が機能不全であること理由にとんでもない惨禍が日本を襲うような気がする。

 既に、コロナ禍がそうではないかという思うところもないではないが、コロナ禍程度で済むものではないと考えている。

 そのため、「大和民族がやりたくないというのなら、それでいい」と言ってられなくなってしまった。

 だから、憲法に関する諸々について関心を持つことにした。

 悲劇を回避できればそれもよし、悲劇が回避できなければ原因となった事情の手がかりを見つけ、それを後世につなげていくために。

 

 

 以上で、本書に関するメモ書きを終える。

 次は、日本人の気質について知るため、『空気の研究』を見ていこうと考えている。

 

 

『痛快!憲法学』を読む 16

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことや考えたことをメモにする。

 

 

 なお、各章を1行(正確には「1文」か)にまとめた結果は次のとおりである。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った

第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した

第13章_ 日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する

 

15 私の感想(後半)

 前回は、第8章までを読んだ私の感想を書いた。

 今回は、第9章以降の私の感想を書く。

 

 第9章は平和主義について。

 大日本帝国憲法と異なり、日本国憲法では9条にて平和主義を謳っている。

 これは戦争がもたらす惨禍を考慮すれば、または、太平洋戦争がもたらした惨劇を考慮すれば当然とも思える。

 ただし、日本国憲法のような「平和主義で戦争が防げるか」と言われるとそうもいかないようだ。

「平和(戦争の回避)が大事なら戦争について徹底的に研究しろよ。『平和主義を唱えれば平和になる』という発想でいるなんて日本は呪術国家かっ」というのが著者(小室直樹先生)の主張である。

 ただ、この「平和主義を唱えれば平和になる」という点と「平和を希求する」という点、これは日本の古来の伝統とかなりマッチしていそうな気がするので、この点は「さもありなん」ということなのかもしれない。

 

 第10章は経済について。

(立憲)民主主義と資本主義は双子であるところ、資本主義、特に、古典経済学において「国家は経済にタッチすべからず(自由放任)」というドグマがあった。

 もっとも、20世紀の大恐慌がそのドグマにヒビを入れる。

 その結果、ケインズ主義が生まれ、国家が経済政策を行うことがよしとされた。

 しかし、日本では立法・行政を動かす連中が資本主義の精神やケインズの思想を理解していないようで、実効性のある公共投資ができていない。

 日本が員数主義的なところ、表面的な部分しか理解できていない部分がここに現れている。

 

 

 と、憲法に関する基礎知識が得られたところで、日本の近代化の歴史について話題が移る。

 それが第11章と第12章、そして、第13章である。

 

 明治時代における日本の近代化は日本の自衛、つまり、日本が植民地にならないためになされた。

 欧米列強の侵略から日本を防衛するためには、日本は欧米列強と対等に渡り合えなければならない。

 欧米と対等に渡り合うためには近代的な軍隊を持つ必要がある。

 近代的な軍隊を持つためにはそれに見合う経済力が要る。

 その経済力を維持するためには日本を資本主義の国にしなければならない。

 日本を資本主義の国にするためには、国家の統治システムを立憲民主主義のシステムにし、国民には資本主義の精神を植え付けなければならない。

 そのために、明治政府は二宮金次郎を使って勤勉の精神を国民に植え付け、さらに、天皇教を使って平等の精神を植え込もうとした。

 この2つの精神は近代革命を起こした人たち(新教徒)が持っていた精神と類似のものである。

 

 その結果、日本は帝政ロシアとの間で戦争をして戦争目的を達成した上、欧米との不平等条約を改正し、大正デモクラシーを実現させて、さらには、国政連盟の常任理事国に就任する。

 すさまじい成果である。

 

  しかし、日本の伝統に基づく民族性は明治時代の政策だけでは昇華させられなかった。

「時間が足りなかった」と言うべきかもしれない。

 大恐慌に対する政府の無能から議会政治に対する不信が生じ、ナチス・ドイツの躍進や大日本帝国憲法の欠陥などから政党政治・議会政治はとどめを刺される。

 そして、第二次世界大戦終了後、アメリカの占領政策によって「日本を近代化させようとしたシステム」を潰され、日本国憲法が死ぬことになる。

 

 

 さて。

 私が感想として持つのは、立憲主義にせよ民主主義にせよ、運営・維持するのは大変なのだなあ」ということである。

 確かに、身体の自由がある状況・信仰の自由等がある状況・(一定の財産がある状況で)自由が保障されているというのは素晴らしい。

 しかし、共同体内においてそれらの自由を維持するのは大変なのだなあ、と思わされる。

 そして、戦後、それがいかに大変であるかということを次世代に伝えなかったのはとんでもないことだなあ、とも考える。

 

  もう一つ、「歴史って大事だなあ」ということも実感させられる。

 この点、自然科学法則の場合、外部条件が同じであれば生じる結果は同じである。

 例えば、惑星の位置関係が同じであれば、地球の公転軌道は変わらないし、重力も同じである。

 人間の都合によってニュートンの運動法則の中身が変わったり、地球の公転軌道が変わったりしない。

 よって、自然科学法則や自然科学を学ぶ際、歴史を参照する必要はそれほどない。

 

 しかし、社会科学や人文科学はそうはいかない。

 これは「立憲民主主義の成り立ちにいかにキリスト教の影響が入っているか」などを見ればそれは火を見るよりも明らかである。

 

 以上の2点が本書の感想である。

 次回は、「本書の内容を将来にどう生かすべきか」について私の考えたことを書いてこのシリーズを終えることにする。 

『痛快!憲法学』を読む 15

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

14 私の感想(前半)

 各章を1行でまとめると次のとおりになった。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った

第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した

第13章_ 日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する

 

 これまでは、「本書を読んで私が学んだこと」を書いてきた。

 ここからは、「各章を読んだ私の感想」をつらつらと書いていく。

 

 

 まず、第1章は「日本国憲法は死んでいる」という話であった。

 つまり、「近代憲法が機能しているかは『実質的に』判断すべきところ、日本国憲法は実質的に見て機能していない。よって、日本国憲法は死んでいる。」ということになる。

 私はこの見解に同意する。

 しかし、この「実質的に判断すべき」という点が日本人の感覚にマッチするかは分からない。

 つまり、典型的日本人がこの話を聴いても、「本章は我々日本人の判断基準と異なる基準で判断しているに過ぎない。我々の基準では『形式的』に判断すべきところ、日本国憲法は失効していない。以上より、憲法は別に死んでいない」で終わるのかもしれないなあ、と考えた。

 なにしろ、日本は「員数主義」の国であるところ、「員数主義」とはつまるところ「形式主義」であり、実質的判断とは対極の位置にあるのだから。

 

 そして、第2章。

 この章では近代憲法の常識中の常識、つまり、憲法は国家権力に対する命令書である」と言うことについて書かれている。

 もちろん、「近代憲法がそういうものと定義されている」というのは分かる。

 しかし、この権力を縛らなければならない(けん制しなければならない)という発想が「事大主義(大に仕える主義)」を採用する日本人の感覚に適合するのかなあ、と考える次第である。

 

 さらに、第3章。

 この章では「民主主義の象徴たる議会」・「『権力を縛る』という立憲主義の発想がどこから出現したのか」を見るために、中世ヨーロッパの歴史を振り返る。

 こう見ると、立憲主義の端緒にしても議会にしてもキリスト教の影響は大きいなあと考える次第である。

 例えば、国王が当事者(貴族)を集めて一括して契約を締結する(改訂する)場として議会を用意するなんて、キリスト教の「契約」の発想がなければあり得ない。

 また、中世の国王の立場の弱さを示す、「国王は人の上に、神の下に」という発想だって絶対神の存在を前提とするキリスト教が必要だろう。

 この辺りは、中国と対比してみれば理解が深まるだろう。

 

 そして、第4章と第5章。

 国王(とそれに接近した商工業者)VS貴族・教会の戦いは国王の勝利となり、国王による絶対王権が誕生する。

 そして、この王権の持つ権力は現在の国家権力とほぼ同質である。

 つまり、「権力は領土内にいる国民に何でもできる。伝統主義をも考慮する必要もない」というもの。

 しかし、国王は貴族と教会を蹴散らし、絶対王権として権力を行使しようとしたが、今度は国王を援助していた商工業者たちが国王と対立することになる。

 さらに、この商工業者が新教徒(教会ではないキリスト教徒)であり、民主主義(平等)と資本主義の精神(勤労と目的合理性の精神)を持つ人たちであった。

 この商工業者(新教徒)たちが革命を起こし、国家権力を縛り上げることになる。

 

 となると、「近代革命は新教徒が起こした」と言える。

 少し抽象化すれば、「近代革命は『契約主義・平等主義・勤勉主義・合理主義の精神』を持つ人たちが起こした」になる。

 この前提を見落としてはいけないように思われる。

 

 さらに、第6章と第7章。

 ここから近代革命を起こした人間たちが絶対王権から自分たちの身を守るために作ったシステム(憲法と民主主義)とその背景について話が移る。

 まず、近代立憲民主主義を支えているジョン・ロックの思想について。

 ジョン・ロックの社会契約説には「人間は理性的存在である」・「人間は(勤勉性と合理主義的精神を持っており)労働を行うことで富を無限に増やせる」・「人間は契約をほぼ守る」という前提があることが分かる。

 もちろん、これらの前提は新教徒(ピューリタン)であれば概ね持っている発想である。

 しかし、これらの前提がない状況で、ある集団が表面的にこの社会契約説に従ったらどうなるか、それはヨーロッパ以外の国々を見れば分かるように思われる。

 

 あと、ロックの説は「富は無限である」という前提がある。

 ただ、富の大きさは「現実の物量と人間の数」の相関によって評価される。

 大航海時代以降、ヨーロッパ各国(ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス)は世界を席巻したので、この前提がある意味成立していた。

 もっとも、中国はもとよりこのような前提はなかった。

 また、現代の世界もこの前提はなくなっているように思われる。

 そうなってもロックの思想が成り立つのか、その辺は分からない。

 

 

 そして、第8章。

 この章は民主主義の持つ憲法破壊の危険性について触れられている。

 民主主義的決定により「権力者を拘束する必要はない=憲法は要らない」となったら憲法は死ぬ。

 例えば、ナチス・ドイツで議会が可決した全権委任法。

 別に、これによってワイマール憲法が失効したわけではない。

 しかし、行政府の処分をけん制する道具である「法律」、これを作る権限を議会(立法機関)が放棄することでワイマール憲法は死んだ。

 

 また、ヨーロッパを見ると大衆の歓呼の声に支えられて独裁者は現れた。

 アドルフ・ヒトラー然り、ナポレオン三世然り、ナポレオン然り、カエサル然り。

 もちろん、民衆の幸福にとって独裁政治がいいのか悪いのかは分からない。

 ただし、第9章で見た通り、「歴史的に見て独裁政治が人権(生命・自由・財産)を蹂躙しやすい・憲法を蹂躙しやすい」のは確かである。

 立憲民主主義を引き受けるならばそのコストも代償も引き受けなければならない、ということなのだろう。

「国民にその覚悟はありや」、この章の最後の質問はそう問いかけているようである。

 

 

 そして、第9章へ、、、といきたいところだが、本ブログの文字数が2000文字を超えてしまった。

 その辺で、次章以降は次回に回す。

RUBYでFIZZBUZZプログラムを書く

0 はじめに

 約4か月前、「FIZZBUZZプログラムを書く」という課題にチャレンジしたことがあった。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

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 前回は、第一段階として自分が使用・学習した経験のある言語(PERL・RUBY・PYTHON・C++)でFIZZBUZZプログラムを書いた。

 そして、第二段階として自分が使いこなしていたPERLで応用問題に挑戦した。

 

 もっとも、今後の私が用いるだろう言語はRUBY・PYTHON・C++である。

 PERLではない。

 よって、前回、PERLでやったことRUBY・PYTHON・C++でもできるようになりたい。

 

 

 そして、私は次の2冊の教科書でRUBYを勉強した。

 そこで、RUBYを用いて前回の応用問題にチャレンジしてみる。

 

  

 

 今回の課題は次の3つ。

 

① 何も見ないでFIZZBUZZプログラムを書く

② 1行でFIZZBUZZプログラムを書く

③ 「%」を用いないでFIZZBUZZプログラムを書く

 以下、チャレンジする。

 

1 チャレンジの結果

 まず、①の条件で書いたプログラムは次のとおり。

 

def fizz_buzz ( n )
    if n % 15 == 0 
        "FIZZBUZZ,\n"
    elsif n % 3 == 0 
        "FIZZ,"
    elsif n % 5 == 0 
        "BUZZ,"
    else
        "#{n}," 
    end
end

(1..50).each do |n|
    print fizz_buzz(n)
end

 

 次に、②の条件(1行以内に収める)で書いたプログラムは次のとおり。

 

(1..50).each{|nprint n%15==0?"FIZZBUZZ,\n":n%3==0?"FIZZ,":n%5==0?"BUZZ,":"#{n},"}

 

 次のサイトで文字数をカウントしたところ、上のプログラムの文字数は90文字以下になっていた。

 これならまあ及第点と言ってもよいだろう。

 

http://www1.odn.ne.jp/megukuma/count.htm

 

 最後に、③の「%」を用いないで書いたプログラムは次のとおりである。

 

def fizz_buzz(x)
    y = x
    while 1 
        if y > 15
            y -= 15
        elsif y == 15
            return "FIZZBUZZ,\n"
        elsif y == 3 || y == 6 || y == 9 || y == 12 
            return "FIZZ,"
        elsif y == 5 || y == 10
            return "BUZZ,"
        else
            return "#{x},"
        end
    end
end

(1..50).each { |nprint fizz_buzz(n) }

 

 もう少しコンパクトにできそうではあるが、まあこんな感じか。

 

 今回書いた3つのプログラムの実行結果は次のとおりである。

 

PS C:\Labratory\LessonLab\ruby\RubyPro1_1> ruby rubypro02_084.rb
1,2,FIZZ,4,BUZZ,FIZZ,7,8,FIZZ,BUZZ,11,FIZZ,13,14,FIZZBUZZ,
16,17,FIZZ,19,BUZZ,FIZZ,22,23,FIZZ,BUZZ,26,FIZZ,28,29,FIZZBUZZ,
31,32,FIZZ,34,BUZZ,FIZZ,37,38,FIZZ,BUZZ,41,FIZZ,43,44,FIZZBUZZ,
46,47,FIZZ,49,BUZZ,
PS C:\Labratory\LessonLab\ruby\RubyPro1_1> ruby rubypro02_085.rb
1,2,FIZZ,4,BUZZ,FIZZ,7,8,FIZZ,BUZZ,11,FIZZ,13,14,FIZZBUZZ,
16,17,FIZZ,19,BUZZ,FIZZ,22,23,FIZZ,BUZZ,26,FIZZ,28,29,FIZZBUZZ,
31,32,FIZZ,34,BUZZ,FIZZ,37,38,FIZZ,BUZZ,41,FIZZ,43,44,FIZZBUZZ,
46,47,FIZZ,49,BUZZ,
PS C:\Labratory\LessonLab\ruby\RubyPro1_1> ruby rubypro02_086.rb
1,2,FIZZ,4,BUZZ,FIZZ,7,8,FIZZ,BUZZ,11,FIZZ,13,14,FIZZBUZZ,
16,17,FIZZ,19,BUZZ,FIZZ,22,23,FIZZ,BUZZ,26,FIZZ,28,29,FIZZBUZZ,
31,32,FIZZ,34,BUZZ,FIZZ,37,38,FIZZ,BUZZ,41,FIZZ,43,44,FIZZBUZZ,
46,47,FIZZ,49,BUZZ,
PS C:\Labratory\LessonLab\ruby\RubyPro1_1>

 

 要求通りの結果が出ている。

 これならミッションクリアと言ってもよかろう。

 

 

 以上、RUBYの学習成果を試すため「FIZZBUZZ問題」にチャレンジした。

 プログラミングの勉強は「『今年やるぞ』と決めたことのうちあまり進んでいない部分」である。

 これからどんどん進めていきたい。

 

2 RUBYの教科書を写経する

 RUBYを身に着けるために上の2冊の教科書を読み、コードの写経を行った。

 結構、疲れたー。

 

 疲れただけあって一通りの知識は得られたのではないかと考えられる。

 また、以前、C++を学んだときはちんぷんかんぷんだったことも、RUBYの教科書を読んだことで、分かったこともあった。

 丁寧に読み、また、写経した価値はあったのだろう。

 

 もっとも、知識を得ただけでは使えない。

 これから色々なプログラムを書くことで学んだ知識を定着させていきたい。

 でないと学んだ意味がないので。

 

 

 それから、RUBYに関しては次のような資格があるらしい。

 

it.prometric-jp.com

 

 この点、私が今年・来年に取ろうと考えていた資格は

 

FP_2級(今年取る)

数学検定1級

統計検定1級

応用情報技術者

英語検定1級(TOEIC)

 

などであり、RUBY技術者認定試験は考えていなかった。

 ただ、将来的には考えてみてもいいのかもしれない。

 仕事でRUBYを使う予定がない以上、どれだけプログラムを書いて公開しても自己流を超えることができないので、客観性を身に着けるという観点から。

『痛快!憲法学』を読む 14

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

13 第13章 憲法はよみがえるか

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った

第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した

 

 そして、第13章、最終章。

 この章は、憲法の機能不全によって生じた弊害とその原因について述べられている。

 この章を一行でまとめれば、「日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する」になる。

 ちょっと長いかな。

 

 

 本章は、現代日本においてリヴァイアサンを操る官僚についての話から始まる。

 国家権力は絶対王政の時代と同等・同質の絶対権力である。

 そして、この権力に歯止めをかけるために用意した道具が憲法である。

 よって、この憲法が死ねばリヴァイアサンは自由気ままに国民の生命・自由・財産を蹂躙できることになる。

 

 戦前の日本でリヴァイアサンを操ったのは軍部である(この軍部を世論が支えたことは第12章で述べた通り)。

 そして、戦後の日本でリヴァイアサンを操ったのは(行政)官僚である。

 まあ、戦前の軍部と言っても実際のところ軍部の官僚であるから戦前も戦後も大差ないのだが。

 

 この点、憲法によってリヴァイアサンに鎖をかける方法は次のとおりである。

 まず、国民の代表者で構成される議会が「リヴァイアサンのしてよいこと」を法律にまとめ、リヴァイアサン(行政)に法律の通りに忠実に実行させ、不都合があれば法律を修正する。

 裁判所が、具体的に行ったリヴァイアサンの行為に対して、法律に基づいて事後的に監視・是正する。

 

 もっとも、第12章や現実を見ればわかる通り、日本には議員立法がほとんどない。

 その結果、行政官僚が法律の制定を代行することになる。

 そして、法律で「仔細は政令等に委任する」などと行政の裁量を大きく認めるようにしてしまえば、裁判所も行政の処分に容易に介入できない。

 その結果、裁判所も行政に口が出せなくなってしまった。

 このようにして、行政官僚に対するコントロールが効かなくなってしまったのである。

 

 もちろん、第8章で述べた通り憲法が殺されたからと言って必ずしも国民が不幸になるとは限らない。

 日本の高度経済成長を見ればそれは明らかである。

 しかし、平成不況のトリガーを引いた「総量規制」を見る限り、平成の官僚たちが近代(資本主義)の精神を欠片も知らなかったことは明らかなようである。

 

 

 以上、「日本は官僚がリヴァイアサンを操っている、それも無能な官僚に」ということで、話は官僚について移る。

(なお、官僚に対する評価については、本書と私とで評価が異なる、これは次回以降に回す)

 ここでマックス・ウェーバーの官僚制の研究が紹介される。

 その結果、「近代立憲主義において(行政)官僚は依法官僚、『法律マシーン』でなければならない」という日本人の直感とは真逆の結論が出る。

 

 もっとも、「官僚をどうにかしよう」と言ってもそれは簡単ではない。

 それは中国の官僚制を見れば明らかである。

 そこで、中国の官僚制の歴史をみていく。

 中国は領土が広大だから、官僚の存在は不可欠である。

 もっとも、官僚をそのままにしておけばその弊害が生じる。

 そこで、中国では官僚グループに対抗できる勢力を用意していた。

 まず、官僚が出来立ての頃は貴族たちの勢力。

 そして、10世紀ごろの宋の時代に貴族が消えた後は宦官たちの勢力。

 

 もちろん、これだけでは官僚の害悪は避けられない。

 そこで、御史台という罪に問われたら「推定有罪」のシステムを用意した。

 

 この点、「近代において国家権力はリヴァイアサンである」と述べた。

 ならば、行政官僚、しかも、高級官僚はこのリヴァイアサンをも食い殺す怪獣(寄生虫)である。

 だから、中国ではこの官僚を制御するために貴族や宦官などの対抗勢力を用意し、さらには、御史台という官僚にとって恐怖のシステムを作った。

 それでも、官僚の毒は防げずに王朝の交代が起き、王朝の交代によって官僚も入れ替わるわけだが。

 これを見れば、日本の(メディアなどが有する)官僚に対する信頼など、中国の皇帝が見れば鼻で笑うことだろう。

 

 ただ、現代日本のように複雑なシステムになれば、官僚の毒が大きいからと言っても、官僚システムをやめることもできない。

 そこで、政治家・議員によって官僚をコントロールするしかなくなる。

 もっとも、近代民主主義国家であれば政治家・議員の質は国民次第である。

 そして、その国民が憲法や民主主義を殺してしまえばどうしようもない。

 だから、「日本は終わった」と筆者(小室先生)は述べて、日本人が有している「自由」と「平等」に対する誤解について話が進んでいく。

 

 

 小室先生は言う。

 

 アメリカ人はデモクラシーや資本主義を自明のこととして思っているので、デモクラシー・資本主義のことを詳しく知らない。

 例えば、資本主義や官僚制の研究をしたマックス・ウェーバーや資本主義の矛盾に気付いて共産主義を考えついたマルクスはドイツ人だし、アメリカの民主主義について考察したトックヴィルはフランス人の貴族である。

 まあ、それはアメリカが新教徒たちによって作られた宗教国家であることを考慮すればしょうがないことではあるが。

 

 また、民主主義・資本主義を確立するための労力に対して極めて楽観的である。 

 もちろん、アメリカ自身、民主主義や憲法を定着させるために多大な労力を支払っているが。

 

 明治時代、日本は民主主義や憲法を成り立たせるために不可欠な前提を、具体的には、天皇教を作った。

 確かに、第11章で見た通りこの天皇教は立憲主義・民主主義から見て完全ではなかったし、昭和の初期において(世論に支えられた)軍部に悪用されることになるが。

 それがために、戦後日本の改革でアメリカはこの点を問題視し、天皇教システムを崩壊させた。

 もっとも、その結果、憲法と民主主義が支えてくれた権威まで崩壊し、自由・平等に関する誤解が生じると共に、権威の崩壊によってアノミーに陥った。

 

 例えば、立憲民主主義にとって「平等」とは「機会の平等」であった。

 もちろん、「この機会の平等だけでいいのか」という問題はある。

 しかし、この原則を取っ払ってしまえば、「平等」について空転してしまう。

 その結果、「結果の平等」や「均質化」が幅を利かせることになる。

 まあ、この背景には日本人の古来から持っている思想も大いに影響しているだろうが。

 

 また、「自由」や「権利」についても誤解されてしまう。

 自由権堅苦しい言葉で言い換えれば、「個人の国家に対する不作為請求権」である。

 つまり、生命・自由・財産は国家権力ができる前から個人が所有している。

「その生命・自由・財産に対して国家権力は手を出すな」というのが権利(自由権)の基本である。

 国家に対して積極的な作為を求めるものではない。

 資本主義がもたらす不公正の是正のため、憲法社会権生存権以下、25条)を規定したが、これは例外である。

 

 平等は「機会の平等」が原則、「結果の平等」は例外。

 自由は「不作為請求(手を出すな)」が原則、「作為請求(何かよこせ)」は例外。

 この原則と例外を規定していたのが天皇教(欧米ならキリスト教)であり、「権威」であった。

 しかし、天皇教を潰したことで、権威が崩壊し、自由と平等について混乱が生じ、アノミーが生じてしまった。

 

 

 以上が本章で書かれた内容である。

 ちなみに、「憲法を立て直すために必要な処方箋」は書かれていない。

 ただ、「現実を直視せよ」と言うだけである。

 この辺、例の敗因21か条の「実数と員数」に似たようなものを感じないではない。

 

 次回は、本章の記載に対して私が思ったことを書いていきたい。

 単に、内容をまとめるだけではもったいないからである。

2021年前半の総括

 6月も終わり7月になった。

 つまり、2021年も半分が終わったことになる。

 そこで、今年の前半を総括しておこう。

 もっとも、リアル関係のことなどここで書けないことは省略する。

 

1 達成できた目標について

(1)生活に関する記録の録取

 去年の終わりから今年の初めにかけて「とりあえず生活の記録を録ろう」と生活に関する記録を録り始めた。

 1月の段階では、「『これをやる』と自分で決めたものを実際に実行した時間」・「『金銭』の出し入れ」・「体重」・「『スマホの万歩計』の数値」の4つを記録していた。

 その後、2月26日から「睡眠時間」に関する記録を録り始めた。

 さらに、6月28日からは「食べたもの」に関する大雑把な記録を録り始めた。

 そして、7月5日からは「『食事』と『入浴』に関する時間」の記録も録り始めた。

 

 生活の記録を録取することで、自分について色々なことが分かった。

 ここ数年、現実を見ることによる精神的なダメージを考慮して、「計画」や「計画の実現の有無」に関する記録を作成しても、「計画を実践した時間」の記録は作らなかった。

 しかし、今回、目的を「実態の把握」だけに限定して(「自分が『やる』と決定したこと対する達成率の調査」などを加えると、負担・ストレス・ダメージが健康を害するレベルまで上昇する)、記録を録り始めた。

 その結果、健康を害することなく(この点が極めて重要)、生活に関する記録・数値が把握できた。

 

 この調査結果を、健康や現実性を無視することなく未来に反映させていきたい。

 

(2)読書

 2021年から「知識を広げる」という目的で読書を習慣に加えた。

 この際、ノルマを週1.5冊、3カ月で20冊、年間80冊を目標とした。

 結果、今年に入ってから49冊の本(文庫・新書・専門書)を読んだ。

 

 この調子で興味を持った分野に対する知識を深めていきたい。

 

(3)資格の取得

 令和に入ってから「1年に資格を2個ずつ取り続けるぞ」と決めた。

 そして、令和元年から令和3年6月までの間に、「簿記3級」・「簿記2級」・「統計検定2級」・「FP_3級」・「基本情報技術者」の資格を取った。

 ノルマは残り1つ、具体的には、「FP_2級」を目標にしている。

 また、来年は「数学検定1級」・「統計検定1級」・「英語検定1級」・「応用情報技術者」・RUBYやPYTHONに関する資格を取り、その際に、「資格周辺の勉強」をしようと考えている。

 

(4)メモブログの記事作成・公開

 今年の初めに「メモ帳ブログ」を作り、「月に10個、記事を公開する」ことを目標にした。

 現在、公開されている記事数は60であり、この目標は達成されている。

 できる限りこの目標を継続していきたい。

 

 

 以上、このブログで書けないことを除き、これだけの目標を達成できた。

 これだけ見れば「この半年間、何もしていない」ということはないと言える。

 

2 達成できなかった目標について

 他方、できなかった目標もある。

 

(1)プログラミング

 この半年間、あまりできなかったこととして「プログラミング」がある。

 この点、プログラミングを学ぶ目的は次の3点であった。

 

一、簡単なウェブアプリが作れるようになる

二、機械学習を用いたシミュレーション・調査ができるようになる

三、C++を用いたAIが作れるようになる

 

 一のために「RUBY」と「RAILS」、二のために「PYTHON」、三のために「C++」を学ぶ予定であり、また、付随する周辺知識も学ぶ予定であったが、これらの目標を達成できるレベルまで勉強できていない。

 もちろん、この半年間は「結果に対して何も言わない」という縛りがあるので、気にしないようにはしている(するとストレスとダメージが健康を害するレベルまで跳ね上がる)。

 だから、結果は忘れることにしているが、半分くらいしか達成していないと思われる。

 

(2)体重の減量

 この半年間、体重はほとんど変わらなかった。

 増えなかった点は喜ぶべきことであるが、この半年間の私のBMIは約29であり、適正体重からは程遠い。

 できればBMI22(適正体重)に、最低でもBMI24のラインまでもっていきたいと思っている。

 

 

 実際はできなかったことはたくさんある。

 ただし、ここでは書けないのでその辺は省略。

 

3 残り半年間でやること

 残り半年でやるべきことを列挙していくと次のようになるかな。

 

一、金銭の出入れの記録

二、生活(活動・睡眠・食事・入浴時間)の記録

三、万歩計の記録

四、体重の記録

五、ブログの記事の作成・公開

六、読書の継続

七、FP2級の資格ゲット

八、(目標が達成になるレベルまでの)プログラミングの学習 

 (なお、リアルに関することはここには書かない)

 

 一から四までは「記録を録ること」だけを目標とする。

「今後の方針」が決まってない以上、適正な数値があるわけではないので。

 

 五と六はこれまでの継続をもって良しとする’。

 これ以上増やせばよそにしわ寄せがいくので。

 

 そして、従前よりも量を加えてやることが七と八である。

 この部分を少しずつ増やしていこう。

 

 

 ここで書けないことを除けば、こんな感じかな。

 ここで書けないことについてみると、「目標として決め、かつ、達成したこと」は少なく、逆に、「目標として決めたが、達成できなかったこと」は多い。

 もっとも、「全くできていない」わけではないので、その辺は気にしないようにしよう。

「簿記2級」の資格を取ったときのこと

1 はじめに

 少し前のことになるが、「会計に関する資格を取ろう」ということで簿記2級の資格を取った。

 そこで、記憶を掘り返してそのときのことをメモにしておく。

 

 なお、簿記3級の資格を取ったときのことは次の記事にメモしたとおり。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

2 一度目の簿記2級の試験を敵前逃亡するまで

 簿記2級の資格を取ろうと考えた時期は簿記3級の資格を取ろうと考えた時期と同じである。

 だから、簿記2級を受ける動機は簿記3級を受ける動機と同じである。

 端的に書けば次のとおり。

 

・勉強する習慣を取り戻したい、また、勉強の成果を資格という形で残したい

・経済・会計に関する勉強がしたい

 

 色々考えた結果、私は簿記3級と2級の試験を同日に受ける(3級と2級は同じ日に試験を受けることができる)ことにした。

 そして、試験日の約10週間前、簿記3級と2級の教科書・過去問集を買い込み、勉強を開始した。

 

 

 この10週間という期間、決して長いわけでも短くもない。

 私がちゃんと勉強する人間であったならば、勉強して試験を受け、両方とも合格していただろう。

 

 しかし、簿記3級の勉強をある程度までしたところで簿記の勉強の歩みは完全にストップした。

 そして、試験直前までほとんど進まなかった。

 

 この点、簿記3級については教科書を読み掲載されている問題を解いた。

 また、簿記3級については問題集を使って過去問を解いた。

 しかし、簿記2級については全く手が付かなかった。

 そこで、「今回は3級に合格できればとりあえず良いか」と2級の試験は敵前逃亡することになる。

 

 

 結果、簿記3級の試験は合格。

 しかも100点満点の合格、オーバーキルのような結果だった。

 これを見て、少しだけ「ダメもとでいいから受ければよかったか」と反省する。

 また、「次回の試験を受けて、その試験で必ず合格する」と決意するのである。

 

3 2回目の試験まで

 

 この点、一度試験から敵前逃亡すれば、「次は真面目に勉強しよう」と考えそうなものである。

 もっとも、私は懲りなかったのか、あまり勉強しなかった。

 

 この点、前回と異なり、全く勉強しなかったわけではない。

 例えば、私は次の教科書(リンクは最新版、私が持っている年度や版は当時のもの)を購入していた(簿記2級は商業簿記と工業簿記がある関係で教科書は2冊ある)。

 そして、簿記3級のときと同様、教科書を読み、教科書に掲載されていた問題を解いていった。

 

 

 

 ちなみに、工業簿記は計算がメインということもあり非常にやりやすかった。

 簿記3級のところでも少し触れたが、この資格は理系だから敬遠する必要はない。

 むしろ、有利な面もあるのではないかと考えている。

 理系の人が簿記2級を受ける際は、簿記3級の商業簿記の部分の知識を身に着けたら、先に工業簿記から始めるのもありかもしれない。

 

 また、上に掲げた教科書は私にとって分かりやすかった。

 簿記3級の時も述べたが、「この教科書があれば、それ以上の知識は必要ない」と考えている。

 相性の問題はあるとしても。

 

 しかし、先に述べたとおり、私はさほど勉強しなかった。

 その結果、教科書の最後の部分(商業簿記なら連結決算の部分、工業簿記なら分析する部分)が十分理解できなかった。

 工業簿記の最後の部分は理解よりも計算の方が大事なのでなんとかなりそうだったが、商業簿記(連結決算)については本当に「ちんぷんかんぷん」だった。

 

 さらに、過去問集(購入したのは次の本の過去のモノ)は全く手を付けなかった

 簿記3級のときは曲がりなりにも手をつけたのに比べれば雲泥の差である。

 

 

4 2回目の試験へ

 このように事前準備が極めて不十分だった私は、2回目の試験も敵前逃亡しようかと考える。

 実際、受験日の朝、私は直前まで試験を受けに行くかどうか決めかねていた。

 合格できる自信は全くなく、「100%不合格になる」と思っていた。

 

 しかし、前回と異なり、勉強を全くしていないわけでもない。

 また、実際に試験を受けてミゼラブルな結果を出せば、次こそ真面目に勉強するかもしれない。

 さらに、前回、「結果はどうであれ、受けておけばよかった」という考えが頭をよぎった。

 そこで、試験会場の私が受験する机の場所まで私の身体を持っていった。

 

 

 そして、試験。

 試験は大問が5つ。

 工業簿記の問題(設問4・5)は完全に問題を解ききる。

 商業簿記の仕訳の問題(設問1)はなんとか解く。

 さらに、知識問題(設問2)も自分の知識を総動員して回答欄を埋める。

 しかし、設問3の問題が連結決算の問題であり、全く分からなかった。

 もちろん分かりそうなところの答えは埋めたが、ちんぷんかんぷんだった。

 

 そんなこんなをしているうちに試験時間の2時間が過ぎ、終了した。

「手も足も出ず、途中退室する」と考えていたが、予想が外れる。

 また、ある程度善戦できたので、充実感もあった。

「試験を受けて良かったー」と思ったことは間違いない。

 

 

 試験後は自己採点。

 連結決算の設問3は壊滅的だったが、設問4・5は満点、設問1と2もある程度解けていた。

 もっとも、自己採点の結果から得た感触は「ギリギリ不合格」だった。

「ギリギリかよ~。効率悪りぃ」とも思ったが、「不合格自体は勉強を十分しなかった以上しょうがない」、と自分をハゲ増す、じゃない、励ます。

 

5 微妙な結果

 試験終了直後、ネットにおける簿記2級の反応を見たが、設問3(連結決算の問題)に対する反応はすごかった。

 今回、この文章を書くにあたり改めて当時のネットの反応を調べたが、ツイッターではトレンド入りしていたらしい。

 

 私は簿記3級・2級は完全に独学である。

 受験仲間はいない。

 また、「教科書と問題集しか見ない」という勉強方法を採用していたので、ネット上の話題はほとんど関心がなく、かつ、知らなかった。

 

 だから、試験後の反応は新鮮であった。

 もっとも、私は冷めた目で見ていたが。

(この点について私の感想を正直に言えば、「受験者側からすれば、問題を批判することは不毛である。批判することにエネルギーを注ぐなら勉強した方がマシ。事実、合格率は悪くなかったわけだし」になる)

 

 さて、「ギリギリ不合格」を予想していたこの試験。

 しかし、結果を開いたらギリギリ合格していた。

 私は解答用紙に書いた内容を問題用紙に書き写ししていたが、設問1のある問題について書き写しに間違いがあったらしく、不正解から正解になった問題が1問(4点分)あったらしい。

 その結果、ギリギリ不合格がギリギリ合格に変わった。

 

 奇跡の合格、というか、微妙な合格、と言うべきか。

 

6 感想

 私が資格を取ろうとする目的は総じて「勉強すること」・「勉強の成果を形にすること」である。

「資格を使って対外的に何かしよう」という予定は今のところなく(将来は分からない)、簿記2級もその意味で例外ではない。

 

 また、簿記1級を受ける予定はなかった。

 だから、簿記2級を合格出来て簿記について一区切りができた、と言える。

 

 さらに、この試験に受かったことで2019年に合格できた資格の試験が2つ(級が違うだけではあるが、2つであることに変わりはない)になり、2019年のノルマが果たせた。

 ノルマを果たした意味で、簿記について一区切りがついた意味で、ホッとしたのを覚えている。

 

  しかし、ホッとしすぎたのがいけなかったのか、次の年(2020年)は一切試験を受けなかった。

 2021年に慌てて資格を取りまくっているのは別の記事の内容から推察される通り。

 そう考えると、この試験の合格が私に良きものをもたらしたのかどうか。

 この点については正直分からない。