薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 2

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 ただ、山本七平氏が冒頭で述べた道徳律について先に考えてみる。

 

 

2 山本七平氏が述べた「日本に存在する道徳律」

 山本七平は第1章(便宜上「第1章」と書いているが、これは三部構成の最初の部分「『空気』の研究」のことである)の冒頭で、いわゆる「日本の道徳」として次のものが存在する旨述べている。

 

 一つ目は「知人はあらゆる手段で助け、非知人は黙殺してかかわるな」という規律。

 二つ目は「規律や事実を言葉にしてはならない」という規律。

 

 そして、第一の規律の存在を立証するための手段の例として「三菱重工爆破事件のときのある外紙特派員の記事」をあげている。

 また、この2つの規律を担保しているものが「空気」であることはこれまでに述べた通り。

 

 ここでは「空気」ではなくこの規律についてみてみたい。

 なお、著者(山本七平)は「これに従え」と述べているのではなく、「上記道徳律に基づいて社会は動いている事実を子供たちに教えよ」と述べていることに注意。

 

 

 なるほど、言われてみればその通りである。

 ただ、憲法(立憲民主主義)が規定する「表現の自由」と二つ目の道徳律(規律や事実を言葉にしてはならない)は相性が悪いなあ、とは考える。

 そして、表現の自由が議会政治において必須の要素であることを考えれば(詳細は『痛快!憲法学』を学んだ際に触れたのではここでは省略)、日本で議会政治を成り立たせるのは難しいなあ、とも考える。

 さらに、山本七平氏は日本軍の捕虜の収容所において暴力政治が出現した原因として「言葉を奪ったこと」を挙げていたことがあった(これもブログで言及した、詳細は省略)が、「言葉を奪った」由来は日本の道徳律に由来しているのだなあ。

 

 そして、一つ目の道徳律(知人と非知人の差異的取り扱い)は憲法の「平等原則」に抵触する。

 もちろん、日常生活など私的な事項であれば憲法の射程は及ばないので問題にならない。

 しかし、この道徳律が統治者(権力者)にも適用されるなら、つまり、国民がこの道徳律を自分の支持した政治家に要求するならば、これはまた困ることになる。

 憲法が要請するのは「異なる取り扱いは知人か否かではなく、憲法と(憲法の平等原則に適合するように作られた)法律に基づいて行え」になるのだから。

 

 もっとも、だからと言って「これらの道徳律とその正統性を支える『空気』を排除しよう」と述べるつもりはないし、言っても意味ないだろう。

憲法出でて日本亡ぶ」では意味ないのだから。

 また、「空気」を取り払うことに成功して、その結果できた集団が「日本文化を持つ人たち」でなければこれまた意味がないのだから。

 

 

  話がそれた。

 主題の「空気」に話を戻すため、道徳の話はこれまでにしよう。

 

3 第1章_「空気」の研究_(二)を読む

 これまでの内容から「空気」について分かったことをまとめる。

 

・「空気」は日本人の意思を拘束する
(日本人は空気の支配から逃れられない、逃れるためには膨大なエネルギーが必要になる)

・「空気」には理論・データ・科学を押し退けて、その反対方向に決定する権力と権威を持つ

・「空気」に抵抗すると「抗空気罪」が成立し、村八分以上の制裁が待っている

 

 さらに、次のことも言えそうである。

 

・空気によってなされた判断過程は公開されない

・日本人は論理的判断基準(合理性基準)と空気的判断基準(空気性基準)の2つを持っている

・日本人の発言は論理的判断基準に従うが、行動の規範は空気性判断基準である

・両者は独立ではない

・発言の内容(表現内容)ではなく発言の交換(表現行為)により「空気」が醸成され、その「空気」により行動の決定がなされる

 

 

 次に気になるのは、「空気」の醸成方法・「空気」が人に作用する態様・「空気」の消滅方法であろう。

 本書のテーマもそこに移る。

 そして、人為的に作られた「空気」を題材にして分析が進む。

 ここで用いられている題材は、「文藝春秋」の昭和五十年八月号に掲載されている北条誠氏の「自動車ははたして有罪か・米国よりも厳しい日本版マスキー法の真意は」という論文である。

 この論文を「空気」の観点から見てみる。

 

 まず、背景として次の事情がある。

 60年代後半、自動車の排気ガスによる大気汚染・酸性雨などの問題に対処するため、これを立法により規制しようという動きがあった。

 その結果、70年にアメリカでマスキー法という法律が作られた。

 

 さて、北条氏の論文によると、日本では人為的に「空気」を作成するための活動が行われ、かつ、「空気」の作成に成功した(逆に言えば、欧米ではそのような行為は特にないということなのだろう)。

 その結果、ヨーロッパでは規制は行われなかった。

 また、アメリカでは法律(マスキー法)は出来上がったが、フォード大統領が「法律を改正して(元の法律の厳しい)基準を緩めてくれ」という趣旨の教書を書いたり、暫定基準を延長したりする(厳しい基準の実施を猶予する)などのことが行われた。

 それに対して、日本は基準は「マスキー法」を引き写したものの、その後は日本化して、完全にマスキー法の状態を達成させた(だから、日本の規制は当時世界で最も厳しい規制になっていた)。

 また、フォード大統領のようなことを言えなくなる「空気」も生じた。

 

 そして、北条氏は「このまま規制が厳しくなれば、日本の自動車産業は他の国と比較して厳しい枷がはめられることになる。そうなれば、日本の自動車産業は外国との競争に敗れて、壊滅的なダメージを受け、その結果、日本経済は破壊されるだろう。」と述べている。

 もちろん、現実に自動車産業が壊滅しなかったことは現在(2021年)を見れば明らかであるが。

 

 

 さて、ここで現実で生じなかった仮定の話をしてみる。

 将来、科学的に見て窒素酸化物(所謂NOx)が無害だったことが証明されたとする。

 そうなれば、結果的に見れば、規制をかけなかったヨーロッパは(後付けで)正しかったことになり、現実を見ながら徐々に変化させようとしたアメリカもダメージが少なく、日本だけが過剰な規制によってダメージを受けたことになる。

 そうなったとき、「戦艦大和」のときのような疑問が噴出するだろう。

 そして、その疑問に対する回答は「空気に支配されていたから」になるだろう。

 このことは「戦艦大和」のときと大差ないだろう。

 

 もちろん、今回は仮定の話である。

 また、「空気」の決定だから間違いになるわけではない。

 単に、「空気」が判断を決めるなら、我々は「空気」のことをよく知るべきではないか、というだけである。

 

 

 では、本件(日本版マスキー法の作成)の「空気」はどのように醸成されたのだろうか。

 北条氏の論文はその点について「自動車に対する『魔女裁判』」の形で取り上げられている。

 なお、「魔女裁判」という言葉を用いているのは「『自動車』が必ず有罪でなければならない」からであろう。

 この魔女裁判の図式は非常に西欧的ではあるが、有罪の対象が人間ではなく物(自動車)となっているのが日本的な特徴である。

 確かに、この裁判で人間は登場する。

 例えば、運転手(自動車を用いて便益の提供を受けている者)、あるいは、自動車メーカー(自動車を販売して利益を得ているもの)。

 しかし、ここでは運転者や自動車販売メーカーは魔女の対象ではなく、せいぜい従犯か重要参考人に過ぎない。

 つまり、告発対象は自動車である。

 

 言うまでもないが、刑法の適用対象は原則として人間である。

 あるいは、道徳の適用対象も人間である。

 例えば、細菌が日本国内で日本人を死に至らしめた(病死させた)としても細菌に殺人罪を適用して有罪判決を出すことはあり得ないし、細菌に対して道徳的非難を加えるということもない。

 よって、自動車だって有罪にすることはあり得ない、と考えるのが通常である。

 

 しかし、ここでは「自動車」が人間と同様に有罪にしている。

 この発想はどこにあるのだろうか。

 本書によると、それは「物神論」なのだそうだ。

 つまり、「人間が信ずれば、物も神格や人格を持つ」という考え(信仰)を持っているため、「物」も有罪の対象になるのである。

 

 ただし、西欧の裁判(「近代裁判」と言い換えてもよい)は「告知と聴聞」が前提となる。

 よって、有罪とされた対象の弁明がなければ裁判は成立しない。

 だから、本件のように物(自動車)を相手に近代裁判を仕掛けた場合、物は話せないので、魔女裁判よりもひどい態様になってしまう。

 それは、「車」が仮に言葉を話したらどうなるかを想像すれば、あるいは、本書の記載を見れば明らかであろう。

 

 本件では「車が有罪である」という結果の前提として、「物(自動車)に対して人格を認める」という珍現象(このことは昨今世界中で猛威を振るっているコビットナインティーンに対して「コロナは有罪か」という議論が生じないことを考えれば容易に想像できよう)が起きた。

 もちろん、この現象は信仰がなければ発生しない。

 となれば、今回の決定、より抽象化すれば「空気」の決定は「宗教性」を持っていることになる。

 だから、本件に登場する調査団は肩書こそ「科学者」であるが、その実質は「異端審問官」である。

 北条氏は科学者たちが科学的知識について知らないこと、科学的知識を前提に判断しないことを不思議がっていたが、彼らが異端審問官だと考えれば少しも不思議ではないことになる。

 これは、大和の出撃についても同様のことが言えるのだろう。

 

 

 以上、本件を通じて、「空気」は宗教的絶対性を持つものであることが分かった。

 今回題材にした事件で生じた「空気」は人々が作り出したものであり、かつ、物が対象であった。

 だから、分かりやすかったし、ある意味害も小さいとも言える。

 だが、現世を見れば分かる通り、有罪の対象が「人」になることだってあるだろう。

 さらに、人間ではなく自然的に発生するものもあるだろう。

 その場合はこうもいくまい。

 

 そこで、この「空気」について探求していく。

 キーワードは「臨在感的把握」である。

 

 

 以上が本書の内容であった。

 本書の書き方は非常に面白い。

 特に、自動車と異端審問官のやり取り部分などは笑いさえ起きる。

 

 ただ、一つ気になったのは、異端審問官と自動車とのやり取り、どこかで見たような気がするのである。

 次回はそれについてみて、さらに本書を読み進めていきたい。