薫のメモ帳

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『「空気」の研究』を読む 1

 今回から『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモしていく。

 

1 『「空気」の研究』とは

『「空気」の研究』とは「山本七平」氏の著作である。

 また、極めて有名なものの一つとも考えている。

 

 

 この点、「空気」という言葉は「『空気』に流される」・「『空気』に逆らえなかった」といったう形で用いられるときの「空気」である。

 大気(窒素と酸素がおよそ4:1の割合で混ざっているもの)ではない。

 この「空気」の内容、この「空気」について日本を見て得られたものについて書かれたのがこの本である。

 

 

 この本の文章は大きく3つの章からなる。

 

 一つ目は「『空気』の研究」

 ここでは「空気」について分析されている。

 二つ目は「水=通常性の研究」

 これは「『空気』の支配」に抵抗する手段としての「水」について分析されている。

 ここで言う「水」とは、所謂「『水』を差す」という形で用いられる際の「水」であり、物質としての水ではない。

 三つ目は「日本的根本主義ファンダメンタリズム)について」

 ここではアメリカのピューリタンたちがキリスト教(聖書)を信仰しているように「日本人が(当然のこととして)信仰しているもの」について分析している。

 

 

 さて、この本、目次の前にこんなことが書かれている。

 

(以下、『「空気」の研究』の序論部分を引用)

「人は水と霊(プネウマ)によらずば、神の国に入ることあたわず」

 神の国という新しい神的体制(バシレイア・トゥー・テウー)に入るには、この二つによる回心が必要であろう。

 この神の秩序へのイエスの言葉を少し言いかえて、「人は空気と水による心的転回を知るに至らねば、人の国に入ることあたわず」とすれば、それはまさに日本だといえる。空気と水による絶えざる心的転回で新しい心的秩序に入るという、日本的の人間的体制の見本を探ること、それが本書の主題である。

 (引用終了)

 

 故・山本七平氏はクリスチャンだったと言われている。

 そのため、キリスト教(聖書)との比較が幾たびかなされている。

 この方法により日本人の特質が明確になり、また、分かりやすくなっている。

 

 ここから二つのことが分かる。

 まず、キリスト教は「神の国」であるのに対して、日本は「人の国」であること

 次に、日本教の国に入るためには「『空気』と『水』の相互循環」について知らなければならないこと

「空気」のみを理解するのではなく、「『空気』と『水』の両方を行き来せよ」と書いてあるところが興味深い。

 

 ということを確認して、本文に移る。

2 第1章_「空気」の研究_(一)を読む 

「『空気』の研究」というのは本のタイトルであると共にこの本の第1章(書籍では「章」という言葉は用いられていない)のタイトルでもある。

 以下、第1章の『「空気」の研究」について読んでいく。

 

 本章は山本七平氏(著者)がある教育雑誌から「道徳教育」に関する取材を受けたエピソードから始まる。

 これに対して、山本七平氏は現実に即した(妥当な)返答をするのだが、それに対する相手の反応が面白い。

 

(以下、本文の内容の抜粋)

 著者が「(『道徳』というかはさておき、)現実において道徳的規範は存在し、かつ、その規範は田中角栄首相(当時)を辞任に追いやるレベルの威力を有する。よって、子供には『現実の社会には道徳と称される規範があること』ということを教える必要がある。同時に、教師には子供たちにその旨教える義務がある。つか、教えなければ子供たちが可哀想である」と答えると、相手(雑誌の記者)は「では、道徳教育に賛成ですな。今は大体そういった空気ですな」と返答する。

(「道徳教育は何から始めればいいか」という記者の問いに対して)、著者が「現実にある規範(ルール)を『事実』として教えればいい」と答えると、記者は「そんなことを言ったら大変なことになる」・「現場の空気としてはそんなことは言えない」と答える。

(以下、省略)

 

 本書で述べた著者の「道徳律」については非常に興味深いので後で取り上げるが、著者は記者(編集員)の「空気」という言葉に興味を持つ。

 つまり、記者を拘束しているのは著者と記者のやりとり(議論)の結果ではなく、「空気」であり、その「空気」から記者は自由になれない、と。

 そして、決定権を有するものは「空気」であり、それに抗うことも論破することもできない、と。

 

 この「『空気』による人の支配」は日本の至るところで生じている。

 そして、「空気」はある種の絶対的権威の如く振舞っている。

 

 

 次に、話題はアジア・太平洋戦争における戦艦大和の出撃に移る。

 結論を一言で述べてしまえば、戦艦大和の出撃の是非において判断を決める重要な要素となったのは「空気」である、ということになっている。

 つまり、出撃を無謀とする人たちはデータを出して論証している。

 それに対して、出撃を正当とする人たちの根拠は専ら「空気」なのである。

 そして、「空気」と「データ・論証」の対決の結果、「空気」が勝利してしまう。

 

 このことから著者は「日本人が規範としている根拠は『空気』である」と言う。

 つまり、三菱重工爆破事件に対する人々を具体的行為を規律したのは「空気」であり、道徳教育の第一歩として「事実をありのままに言うべき」ということに「できない」と反応した記者の根拠も「空気」である、と。

 そして、様々な事実(例えば、戦艦大和の出撃)を見る限り、この「空気」は「『議論』・『データ』・『科学』も歯が立たない何か」であることが分かる。

 

 さて、戦艦大和の件について、戦後になされた決定権者(最高責任者、連合艦隊司令長官)の言葉を見る。

 その言葉は「『当時ああせざるを得なかった』と答うる以上に弁疎しようとは思わない」である。

 そりゃそうであろう、何故なら決定の理由が「空気」なのだから。

 だから、著者は「『軍には抗命罪があり、命令には抵抗できないから』という議論は少々あやしい。むしろ日本に『抗空気罪』という罪があり、これに反すると最も軽くて『村八分』刑に処せられるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係」と述べる。

 それゆえ、著者は「『空気』とはまことに大きな絶対権をもった『妖怪』である」と述べる。

 また、「この『空気』なるものの正体を把握しておかない」といけない、とも。

 そりゃ、「空気」は専門家がなした科学的分析・専門的分析を一蹴して、それとは逆の方向の決定にもっていけるのだから。

 リヴァイアサンすら勝てるかどうか怪しい。

 

 さらに、戦後の様子を見て、著者は「戦後にもこの『空気』は猛威を振るっている」と言う。

 その証拠として公害問題に対する専門学者の「いまの空気では、到底こういうことはマスコミなどでは言えない」という趣旨の発言を取り上げる

 このことから、ますます著者は「空気」の実体の解明の必要性を感じることになる。

 

 

 また、「空気」に関する興味深い点として、「『空気』が消え去ってしまうと『空気』があった状況を再現できず、空気に抗った一連の行為が奇妙に見える」点がある。

 本書では、著者が校正した「実験用原子炉導入の必要を説いた論文」が題材(例)に挙げられている。

 この論文では「実験用原子炉と原爆は関係ないこと」が痛ましいレベルまで強調されている。

 痛ましく見えるのは見直した段階では「空気」がないためであり、換言すればこの論文が発表された当時、(実験用原子炉の導入に反対する趣旨の)「空気」があったことの証明になっている。

 だから、仮に「空気」を負かすことができたとしても、「空気」を負かすために必要なエネルギーは膨大であることもわかる。

 

 

 以上、本書の第1章の一を読んでみた。

 本書における「空気」は現在においても十分に存在していることは「顕著な事実」(民事訴訟法179条)である。

 ならば、「空気」を知ることは今でも極めて重要である。

 まあ、だから、私はこの本を丁寧に読むことにしたのだが。

 

 

 さて、次は「第1章の二」に進む予定だが、その前に、山本七平が冒頭で述べた「道徳」の具体的な内容についてみたい。