今回は前回のこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
5 第1章_「空気」の研究_(四)を読む
第1章の(三)の内容をまとめてみる。
・「空気」による支配のメカニズムは①「感情移入の絶対化・日常化(通常化)」→②「臨在感の把握(認識)」→③「拘束」という順序になる。
・「『空気』の支配」が潜在化し、かつ、猛威を振るったきっかけは明治時代の近代化・啓蒙化で行われた「『日本人の臨在感の把握する習性』を否定すること」にある。
・「日本人の臨在感を持つ習性」は伝統・歴史に基づく
・「『空気』の支配」は「『物神化』による支配」と言い換えると理解しやすい
・ヨーロッパ(キリスト教社会)では「『物神化』による支配」から脱却するために多大な努力が払われ、その一例としてキリスト教の異端の問題がある
ここまで読むことで、「『空気』の支配による単純な構造」を理解することができた。
これまでの例は「心理的支配の対象たる『物神』が1つ」という「支配者は1つ」のケースである。
複数あるわけでもなく、かつ、複数あることによる相互作用もない。
これに対して、現実では支配者たる物神が幾重にも存在することの方が多い。
つまり、現実において、我々は複数ある支配者にあらゆる方向から支配され、金縛りにあっていて身動きが取れなくなっている、と言える。
そして、「複数の支配源が混在している状況から受ける拘束力」を「『空気』の支配」と言っていることになる。
とすれば、幾重にも絡んでいる空気をそのまま分析することは容易ではない。
そこで、複雑な場合を理解するために、絶対的支配者を1つから2つに増やしてみる。
絶対的支配者を2か所にする、つまり、二方向・二極点への臨在感的把握を絶対化し、その二極点に支配されることで身動きが取れなくなる現象の具体例、これは複数挙げることができる。
本書では、日華事変・太平洋戦争・日中国交正常化が挙げられている。
そして、具体的な説明に用いられているのは西南の役(西南戦争)である。
西南戦争は、近代日本が行った最初の近代的戦争である。
また、本書によると、「官軍」・「賊軍」という概念が初めて明確に出てきた戦争でもある、らしい(この点、戦国時代にこの発想はないのは本書の記載の通りである。ただ、戦国時代以前に遡った場合、概念自体はあったのではないか疑問はないではない、ただ、私のこの疑問は横に置く)。
そして、背景に「相手は明治維新の立役者の一人である大西郷であった」という事実もあり、明治政府は「対応如何によっては全国的争乱になる」という危惧を抱いていた。
また、日本の庶民(農民)は「戦争は武士の仕事で、自分たちとは関係ない」という態度であった(なお、この態度は後の日清戦争でもあった)。
そのため、明治政府にとってこの戦争は世論の動向が重要であり、かつ、国民の心理的参加が必要だった戦争だった。
そこで、マスメディアが利用され(マスメディアもこれに便乗して活躍し)、戦意高揚のための創作記事の作成・掲載、「官軍=正義」かつ「賊軍=悪」の図式化が行われた。
つまり、戦争記事の原型であり、かつ、「『空気』醸成システム」の基本はこの戦争に見ることができると言える。
例えば、西南戦争において、「鹿児島軍(相手方)の絶対悪的把握」・「相手方を絶対悪とするための記事の創作」などがなされている。
後者については、「メディアがこれをやる(創作した内容を事実として発表する)のは、メディアの自殺ではないのか」との疑問が生じないではないが、本書の記載と私の実感に照らすと、このことは日本のメディアの伝統として100年以上続いているらしい。
そして、これらの記事が流布された結果として、「鹿児島軍は悪である」という物神化が行われ、所謂「空気」が醸成された。
そのため、「西郷と調停すべき」・「鹿児島側にも酌量すべき事情がある」と言った主張が事実上不可能になってしまった(膨大なエネルギーと反発を覚悟しなければならない)。
本書では、「このキャンペーンは『空気』を醸成するために誰かが計画したものだろう」と述べているが、戦争が国家の大事であることを考慮すれば、計画してもおかしくないし、むしろ、やって当然とも思える。
なお、相手(鹿児島側)を絶対悪にするだけではなく、自分たち(政府側)を絶対善にするためのキャンペーンも行っている。
この二種類の記事を読み、これに感情移入して絶対化すれば、その人は絶対善と絶対悪という二極の方向から支配されて身動きが取れなくなる。
これが(二種類の物神を用いた)「『空気』の支配」の基本形である。
そして、この手段はその後も利用され続けることになる。
これにより、「『空気』による支配」の特徴がもう一つ浮かび上がってきた。
それは、「『対立概念で対象を把握すること』を排除すること」である。
現実を見れば分かるが、人間・物・システムには様々な面がある。
「ある面から見れば善く、他方、別の面から見れば悪い」といったことはざらである。
あるいは、「ある人は非常に優しい面(善い面)があるが、他方で残酷な面(悪い面)もある」といったこともあるだろう。
そして、このような認識を持つためには「善と悪という対立概念で対象(相手)を把握している」必要がある。
それが排除されるとどうなるか。
対立概念で用いて相手を理解すれば「この人(対象・現象)には良い面も悪い面もある」と言えるのに対し、対立概念を排除して相手を理解しようとすると、「この人は良い」と「この人の悪い」の二択に限定されてしまう。
定規でたとえれば、対立概念による把握を排除した定規は「0と1」しか目盛りがないのに対して、対立概念を用いて相手を把握した場合の定規の目盛りは0と1の間に複数の目盛りがあることになる。
これは「善悪の基準(価値観)の違い」とは異なる。
つまり、対立概念を使って相手を把握する場合は、相手を0(悪)と1(善)の間のどの場所にも評価することができる。
この場合、「0」と「1」という基準は動かせないが、相手の評価は自由に動かすことができる。
他方、対立概念を排除して相手を把握すると、「相手=0」か「相手=1」となるので、自由な評価ができなくなってしまうのである。
これは価値観の方向性を変えても変わらない。
戦前の天皇主義だろうが、戦後の平和主義であろうが。
これを原理を用いて、権力者がマスメディア(情報)を用いて国民を一斉に支配した結果生じるもの、これが「『空気』の支配」となる。
この「『空気』の支配」がなされれば、誰もその支配から逃れられない。
この結果、「『空気』の支配」からの脱却するためのキーが見えてきた。
一つ目は、臨在感の把握に関する歴史の再び知ること
二つ目は、対立概念で対象を把握する習慣を身に着けること。
それについては次のセッションでみていく。
というのが、本節のお話。
なるほど・・・。
「『空気』の支配」についてその原型を理解した。
特に、「2つの対立概念を用いて対象を評価すること」ということの重要性が理解できた。
この点は自分の中ですぐさま用いることができそうだ。
対外的な場面で用いられるかはさておき早速利用していきたい。
あと、日本のマスメディアは今も昔も変わらんのだなあ。
余力があれば(多分ないと思う)、こうなった理由も考えてみたい。
この問題を抽象化した場合、その抽象化された問題は日本のマスメディア以外にも存在するだろうと考えるので。