薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 3

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

5 第1章_「空気」の研究_(三)を読む

 第1章_「空気」の研究の(三)はとあるエピソードから話が始まる。

 このエピソードは次のような趣旨の話である。

 

(以下、本書の32ページのまとめ)

 ある遺跡で発掘作業をしていたら古代の墓地が出てきて、人骨がざらざら出てきた。そこで、日本人とユダヤ人が共同で発見された骨を毎日運んでいた。約一週間、骨の投棄作業をしていたら、ユダヤ人の方は何もなかった(終始影響を受けなかった)が、日本人二名は少々おかしくなり、病人同様の状態となってしまった。もっとも、骨の投棄作業が終われば、日本人は病人の状態からケロリと治ってしまった。 

(まとめ終了)

 

 もし、遺跡にあった人骨が物理的・化学的に有害な成分を持っていたのであれば、日本人とユダヤ人の両方に影響があるだろう。

 しかし、ユダヤ人に影響がなく、日本人にのみ影響が出たのであれば、日本人は人骨からなんらかの精神的な影響を受けた、と推測するのが妥当な推論になる。

 これを「空気」という言葉と絡めて述べるならば、「日本人は現場の『空気』にあてられて心身の調子を崩した」ということになり、ここに「空気」の日本人に対する作用の一形態を見出すことができる。

 

 

 日本において「物質から日本人が心理的・宗教的影響を受ける」という状況、より詳細述べれば、「物質の背後に何者か存在(臨在)していると感じて、知らず知らずのうち存在していると感じる何者かの影響を受ける」と言う状況は普通に存在した。

 このことは『福翁自伝』などにも書かれている。

 これに対して、福沢諭吉など明治時代の啓蒙家たちは「物質は『物』に過ぎない。よって、それを拝むことは迷信であり野蛮である。よって、そのような態度は否定されるべきであり、そのために啓蒙的教育が必要だ」と考えた。

 しかし、「日本人は何故、物の背後に何かが臨在すると感じるのか。また、何かが存在すると感じてその影響を強く受けるのか(上の例では体調を崩すレベルの強い影響を受けている)を研究すべきだ」とは考えなかった。

 前者の発想は啓蒙的、後者の発想は科学的である。

 そして、明治時代の啓蒙家が前者の考えを採用し、後者の考えを採用しなかったということは、彼らは啓蒙的ではあったが、科学的ではなかった(科学的観点は重視しなかった)ことを意味する。

 まあ、明治時代の日本の国家的課題は「近代化」だったのだから、やむを得ない面もあるが。

 

 ただ、明治時代の啓蒙主義者たちの教育の結果、「啓蒙化」が「(日本で言うところの)科学的」になってしまった。

 つまり、上の例だと「(物の背後に)何も存在しないと思うことが『科学的』である」、つまり、「啓蒙主義」=「科学」ということになってしまったのである。

 このことは「超能力ブーム」における著者の発言である反発にも表れている。

 

 ここで見るべきは明治時代の啓蒙主義者たちの為した結果である。

 彼らは日本の近代化のために西洋の科学的な知識などを日本に紹介した。

 これらの行為が日本の近代化のために有効だったことは言うまでもない。

 しかし、啓蒙主義は殊更に悪意を込めて言えば「知識の押し付け」でしかない。

 つまり、啓蒙主義によって国民の民度・知力の向上には役に立つが、真実究明には役に立たない。

 そのため、押し付けられて否定されたものは根強く潜在化してしまう。

 その結果、無視している無言の臨在感に最終的決定権を奪われてしまい、身動きが取れなくなってしまうのである。

 

 

 本書では、ある人がイタイイタイ病の取材にきた新聞記者にカドミウムの金属棒を見せると「ワッ」と言ってのけぞる例、ある人がカドミウムの金属棒をナメる例が挙げられている。

 この態度は明治時代の啓蒙家たちと同様、啓蒙的であり、かつ、さらに言えば、親切でもある。

 しかし、これ以上何もしないのであれば「科学的」とは言い難いだろう(もちろん、「科学的」なことをする義務はない)。

「科学的に振舞う」とは、「新聞記者は何故このような反応をするのかを探求する」ことを意味するのだから。

 

 そして、もしも「空気」の支配を断ち切り、「空気」の支配による悲劇を回避したいのであれば、「『空気』は存在しない。『空気』に縛られる事は悪しきことである」などと啓蒙的に振舞うよりも、「何故、人は『空気』に縛られるのか」などを科学的に調査した方がよいだろう。

 これが本書の主張であり、かつ、私が本書を真面目に読み直している理由でもある。

 

 

 さて。

 人が(「空気」やモノの)臨在感の支配を受けて言論・行動が縛られる背景には何があるのか。

 その背景には「感情移入」があり、それによる「臨在間の把握(認識)」がある。

 

 この点、「感情移入」自体はどの民族にもあることで、日本特有のものではない。

 ただし、①感情移入の絶対化と②感情移入している意識の不存在(無意識化・日常化)によって臨在感を把握・認識するたことになる。

 よって、整理すると

 

「感情移入の絶対化・日常化(通常化)」→「臨在感の把握(認識)」→「拘束」

 

となる。

 

 ここで、本書では「日本人の親切」という随想が紹介されている。

 この随想は、「日本人が親切心からヒヨコにお湯を飲ませ、ヒヨコを殺してしまう。随想の著者はこの行為に日本人の親切が凝縮されている旨述べる」という話である。

 また、これを受けて「保温機に自分の赤ん坊に懐炉を入れて、その結果赤ん坊を死なせてしまって過失致死罪に問われた母親の話」も取り上げられている。

 

 これらの行為(ヒヨコにお湯を飲ませる行為、懐炉を保育器に入れる行為)に日本人の親切心、つまり、善意が凝縮されていることは間違いない。

 そして、新聞の投書にたまにあるように、「善意が通らない社会はよくない」という意見がある。

 しかし、善意による結果を見れば、善意を通していたら命がいくらあっても足りないことが分かる。

 そのため、「そんな善意は通らない社会の方が良い」という反論が出てくるだろう。

 そして、この反論に対しては、「善意でなした行為によって悪い結果が出るようなシステム(社会)が悪い」という再反論が出てくるだろう。

 

  さて、この水掛け論。

 ここで、「行為者に啓蒙(知識)が足らなかった。啓蒙すればこのようなことはなくなる」という主張はあまり意味がない。

 何故なら、このような行為・主張の前提において、自分と相手(第三者)の区別が行われていないからである。

 そして、この区別がついていない状態を絶対化し、区別させようと障害するもの(反論や結果)を悪とする心理状態が感情の絶対化であり、臨在感的把握の前提であるからである。

 なお、この現象は「乗り移し」・「乗り移らす」現象と考えるとわかりやすいだろう。

 

 

 では、①臨在感的把握と②臨在感による拘束は何故生じたのか。

 まず、後者の「臨在感による拘束」は歴史を再把握しなくなったためである、という。

 つまり、明治時代の啓蒙家が「臨在感による拘束は悪しき事であり、拘束されないことが良きことである」と啓蒙した結果、「臨在感による拘束」が潜在化した。

 そのため、「臨在感による拘束」の実態が把握できなくなり、かえって、「臨在感による拘束」を受けることになってしまった。

 

 次に、前者の「臨在感による把握」は日本の歴史的伝統に由来する。

 例えば、上の遺跡のケースであれば、「日本人は遺跡の人骨の背後に何かがあると感じ、その感じに知らず知らずのうちに絶対化され、その結果、人骨に心理的に支配されて病的状態に陥った」ことになるが、この背景にあるのは日本人の伝統だろう。

 本書に記載されている村松剛氏が『死の日本文学史』で指摘している点を踏まえて具体化すれば、「人の霊はその遺体・遺骨の周辺にとどまり、この霊が人間と交流しうる』という日本の伝統的な世界観」がこの背景にある。

 もっとも、この伝統はヨーロッパにはないらしい。

 

 では、カドミウムの例(ある人がカドミウムの金属棒を「これだ」と見せたところ、取材に来た記者たちがのけぞった例)はどうだろうか。

 遺跡の例とそろえて記載すれば、「新聞記者は(カドミウム金属棒を見て)カドミウム金属棒の背後に何かがあると感じ、その感じに知らず知らずのうちに絶対化され、その結果、カドミウム金属棒に心理的に支配されて恐怖感に陥り、のけぞった」となる。

 しかし、人骨と同様、カドミウム金属棒は放射性物質を発しているわけではない(だから、ある人は平然とカドミウム金属棒を記者の前に見せることができた)。

 さらに、「カドミウム」が認知されたのは最近であり、それ自体に伝統的な何かがあるわけではない。

 ならば、記者たちを拘束したのは何なのだろうか。

 それは、「イタイイタイ病の歴史」という「写真と言語で記された描写の集積の歴史」の所産である、という。

 つまり、「新聞記者は(カドミウム金属棒を見て)カドミウム金属棒の背後にイタイイタイ病に基づく悲劇があると感じ、その感じに知らず知らずのうちに絶対化され、その結果、カドミウム金属棒に心理的に支配されて恐怖感に陥り、のけぞった」と言い換えることができる。

 

 

 もちろん、この現象は悪用できる。

 ここで登場した人は「カドミウムは安全であることを啓蒙する」という目的で「カドミウム金属棒」を記者に見せたわけだが、これを支配の手段に用いることもできる。

 これこそ「物神化」であり、「偶像を用いた支配」である。

 つまり、「ある人がカドミウム金属棒を見せたところ、現場の『空気』にあてられた記者は云々」というのはこの言い換えに過ぎない。

 もちろん、現代においてこの例は大量に挙げられる。

 それこそ自動車でもいいし、さらに言えば、「イワシの頭」でも十分なのである。

 

 さて、ここで「物神化」というところで「神」という文字を用いた。

 日本において「神」としてまつるものは基本的に怨霊であり、「恐れ」の対象であった。

 例えば、多くの神社では悲惨な出来事を経験した対象(人)がその悲惨さを世にふりまかないようにその象徴的物質を御神体にして祭っている。

 それに対して、明治時代の啓蒙家の流れを継ぐ者たち「モノはモノでしかない」ことを示すためにご神体をなめたりする。

 新聞記者とある人のやりとりも「空気」の関係に即して書けば、これと類似したものになる。

 

 ただし、「物神化」と「原因の究明」は無関係である。

 本書に書かれていない例を挙げると、菅原道真公は大宰府に左遷され、失意のうちに死亡した。

 その後、左遷に携わった関係者(醍醐天皇藤原時平)が死亡し、また、清涼殿に落雷が襲った。

 人々は落雷や関係者の死亡を道真公のたたりによるものと考え、神として祭った。

 

 この一連の流れで道真公の神格化が行われている。

 しかし、原因の究明と神格化は関係ない。

 科学的に見た場合、「一般的に、人が死後に気象を操ることができる」ことは立証できないので「因果関係はない」とみるのが通常であり、かつ、(科学的に見て)妥当な判断であるが、真実は知らない。

 この点、「因果関係を立証しなければならない」と言いたいわけではない。

 単に、「真に落雷や関係者の死亡が怨霊によるものか否かについて調査する」という科学的作業と「道真公を神格化する作業」は関係ないと言いたいだけである。

 さらに、「無関係であることに問題がある」と主張するつもりもない。

(もっとも、私のこの意見は、先に述べた「事実を事実と述べるなかれ」という道徳律に抵触するかもしれないが)。

 

 

 さて。

「神格化」、その一態様である「物神化」という作業と科学的作業。

 これが無関係であると主張し、「物神化支配から脱却する」するのは容易ではない。

 キリストの異端論争もその背景を見れば、この作業と関連している。

 ここで見られる現象を抽象化すれば、「ある者たちは、その対象を知り、かつ、その対象に熱心であるが故に、その対象を物神化してしまう(と同時に、その対象に支配されてしまった)。それゆえに、ある者たちは異端として排除された」になる。

 カドミウムの例を取れば、「公害の問題を知り、かつ、公害の問題の解決に熱心であるが故に、カドミウム棒を物神化してしまった。それゆえに、問題解決のための当事者から排除された」になる。

「知識があり、熱心だから排除する」というのは私の直感にはピントがあわない。

 しかし、物神化するほど熱心になってしまい、かつ、支配されてしまえば、問題の解決には役に立たず、排除されてもしょうがないとも思える。

 

 

 以上が(三)のお話。

 今回、改めてこの書を読むと参考になることが多い。

 もちろん、この本を昔読んだのは言うまでもないが、ここまで参考になると思ってはいなかった。

 この違いは何なのだろう。

 年を取ったから?

 このブログにまとめようとするほど熱心に読んでいるから?

 うーむ。