薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 10

 今回もこれまでの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

  今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。

 

 

 

11 「第11章 不合理性と合理性」を読む

 今回が関連する敗因21か条は次の2つである。

 

(以下、敗因21か条より引用)

敗因三、日本の不合理性、米国の合理性

敗因一一、個人としての修養をしていないこと

(引用終了)

 

 最初に私の話から始める。

 司法試験の勉強を始めたとき、私にとってよくわからない概念が「合理性」という概念だった。

 当時の言葉で言えば「合理的」といってもいい。

 

 例えば、憲法14条の平等原則は国家による合理的な区別を許容し、不合理な差別を否定すると言われている。

 では、ここで言う「合理的」とはなんなのか?

 合理と不合理の境界線はどこにあるのか。

 

 文字を見れば「理に合致すること」が合理的ということになる。

 しかし、そうなると「『理』とは何か」という問題が発生する。

 この点は今もよくわかってない(境界線については特に)。

 

 

 さて、本章に移る。

 まず、本章では従軍牧師、チャプレンに関する故・小松真一氏の日記から紹介されている。

 ご存じのとおり、アメリカ軍ではチャプレンが軍の一機関として存在し、予算もついている。

 これは日本帝国軍の常識から見れば行いえない、ようである。

 というのも、組織(日本帝国軍)に宗教的権威という自分とは別個の権威を持ち込むのだから。

 

 日本帝国軍の組織はすべてが合理的に構成されていて、かつ、完結している。

 指揮系統は天皇陛下を頂点とする完全なピラミッドのようになっている。

 つまり、「組織編制」としては合理的である。

 

 もっとも、(当然だが)別の面では不合理な面もあった。

 本章では、爆撃(空襲)で兵站宿舎にいた人たちが、爆撃を防空演習と誤認したために退避せず、そのために爆死してしまったケースをあげている。

 このような事件(事故)が起きた場合、合理的な組織(「近代主義的組織」と言うべきか)ならば原因の調査・遺体の収容などの事後措置が採られる。

 しかし、実際は遺体の収容などは行われず、墨痕鮮やかな忠魂碑を建てて終わってしまった。

 これは合理的な対処としては極めて不十分であろう。

 無論、慰霊の必要性があるので、忠魂碑などを立てる措置は必要であるとしても。

 

 また、極めて合理的組織編制を行った結果、軍人以外の人々の持つ知識・知恵・技術が指揮系統に組み込めないという問題も生じてしまった。

 この「よりよい知識・知恵・技術を一切排除してしまうこと」も合理的な対処とは言い難いであろう。

 少なくても、戦争に勝つという目的との兼ね合いでは。

 

 以上が日本帝国軍で起きてしまった齟齬(逆転現象)である。

 

 

 この合理と不合理の逆転の背景には、「目的を実行するのは、組織を構成するのは人間である」ではないかと考えられる。

 あと、「現実は不合理である」というのもあるのかもしれない。

 本章ではその喩えとして人工語の話が紹介されている。

 

 これまで多くの人工語が作られた。

 この人工語の作られた背景には、「言語の不合理性、つまり、意思疎通を阻害する要素を排除して合理的な言語を作れば、人はその言語を活用するだろう」というものがあった。

 しかるに、実際に作られた合理的な言語の大半はほとんど使われずに終わった。

 唯一残ったのはエスペラント語であるが、この言語は他の人工語と比較してあいまいな点(不合理な点)を多く残している点に特徴があるのだそうである。

 

 形式的合理性が不合理な現実・人間と乖離することにより不合理な結果を招来し、逆に、不合理を含むものがそれを含むがために現実において合理的な結果をもたらす。

 なにやら「人生万事塞翁が馬」を同様の響きを感じさせるものである。

 

 

 では、日本の合理・不合理の逆転の背景には何があるのか。

 本章によるとそれは「ものまね」なのだそうである。

 ただ、「総ては模倣(ものまね)から始まる」ことを考慮するならば、「権威としての導入」と言った方が適切な気がする。

 

 ものまね・他者を参考にしたケースであっても、自分で一から作った者(他人の行為を一から再現した者)は、作ったものを自由に改良・応用することができる。

 この場合、「改良」・「応用」は新たな創作ということになる。

 しかし、「権威」として他者の作ったものを導入してしまうと、その形式自体が「権威」になるので、容易に変更できない。

 仮に変更できるとしても、それを「純化させる」か「厳しくする」くらいしかない。

 

 事実、日本帝国軍はそのような意味の厳格さを持っていた。

 逆に言えば、融通が効かないということでもある。

 そして、その厳格さを誇りにしていた。

 しかし、前述の現実や運用者(人間)の不合理性を考慮すると、「純化」とか「厳格化」は不合理をもたらす。

 

 この不合理は「現実からの不合理」であり、「日本人の生活常識からの乖離」ということになる。

 そのため、軍の組織(日本人の生活常識から乖離された規律によって構成された)は敵軍の攻勢などという強打で崩れ、かつ、組織を構成する人たちが常識で動き出せば崩壊してしまう。

 軍の組織が生活常識から乖離していれば、それは自明である。

 逆に、生活常識から発展した規律であれば、劣勢になって崩れたとしても常識が組織を支えるので崩壊を食い止められる。

 

 

 そして、合理的な組織を作った結果、別の悲劇も生まれてしまった。

 長年続いた日本の伝統は日本人の気質を生み出している。

 また、日本由来の組織の基盤は日本の伝統にあり、それは日本人の気質と同じである。

 そのため、日本由来の組織を日本人気質を持つ日本人を動かせば、相乗効果によりプラスに作用する。

 しかし、明治の近代化などにより外国にあった組織をそのまま輸入した場合は必ずしもそうなる保証はない。

 事実、うまくいかず、外来の組織は人間に緊張をもたらし続けた。

 

 そして、その組織から解放されると人は緊張から解放されるため、大きな開放感を味わうことになり、その結果、自分を緊張させていた組織から常識による組織にスイッチさせることなく、無秩序状態をもたらす、らしい

 (本章ではこのように書かれている、もっとも、第4章の記載などを考慮すると、「この無秩序状態こそ日本の伝統に基づく秩序ではないか」と考えられなくもない)。 

 

 

 さて。

 この無秩序状態、現在のコロナ騒動に伴う現象に見られる感じがしないではない。

 ただ、まだ確証が持てないので、時間が経過した後に精査したいと考えている。

 

 そして、この合理性・不合理性問題は戦後になっても克服していない。

 それはコロナ禍を取り上げなくても、色々な例を挙げることができることからも明らかであろう。

 

 しかし、そのためにはどうすればいいのだろうか。

 私は最初、「合理的とは何か分からん。文字通り解釈するなら『理に合うこと』となるが、そうすると、『理』とはなんぞやということになる。」と書いた。

 これがキーポイントなのかもしれない。

 つまり、「理」について知ること。

 言い換えれば、日本人の気質・日本の伝統を知ること。

 具体的には、歴史に学ぶことになるのかなあ。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 9

 今回もこれまでの続き。

 

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  今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。

 

 

 10 「第10章 思想的不徹底」を読む

 今回が関連する敗因21か条は次の4つである。

 

(以下、敗因21か条より引用)

敗因十六 思想的に徹底したものがなかった事

敗因五 精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)

敗因七 基礎科学の研究をしなかったこと

敗因六 日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する

(引用終了)

 

 この敗因は相互に関連がある。

 その方向性を示せばこうなる。

 

 思想的不徹底→(劣勢時における)精神的な弱さ

 思想的不徹底→不十分な思想・学問(空中楼閣)の蔓延

 不十分な思想・学問(空中楼閣)の蔓延→基礎科学への無関心

 基礎科学の前提を欠いた思想・学問(空中楼閣)→現実に即した応用の不能

 

 

 本章は、マニラ赴任後に故・小松真一氏が見た軍属たちの話が紹介されている。

 彼ら(紹介されている軍属)は自分をいかなる思想で律しているかという発想がない。

 その一方、自ら責任を自覚しなければ無責任でいられるというある種の特権階級にいた。

 その結果、彼らは奇人・変人ぶりを露呈し、道化に転落してしまう。

 

 そして、自分を律する思想がない結果、精神的にもろく、結果、その人の行動は場当たり的になり、かつ、一貫性を欠いてしまう。

 なお、今回は批判的に書いたからこうなったが、批判的に見なければ「まあ、普通はこうなるのでは?」とも考えられなくもない。

 

 

 次に、本章では、故・小松氏の調査の結果が紹介される。

 故・小松氏は技術者として真面目に調査したが、結果的に(ブタノールの)増産は不可能という結論が出て、総てが無駄に終わる。

 そこで、故・小松氏は「用が済んだのでお役に立てる場所があるから内地に帰る」と人事に掛け合うと「一年は南方にいてくれないと軍の威信にかかわる。勲章の件もあるから我慢しろ。みんな我慢している」と言われる。

 これでは、上に述べた変人でなくても遊民にならざるを得ない。

 

 この点、上に述べた道化に転落した軍属たちの問題は個人の問題と言える。

 しかし、いま述べた件は組織の問題である。

 つまり、思想的不徹底は個人のみならず、組織にもあてはまったわけである。

 まあ、組織と個人が連動しないというのは考えにくいので、これまた当然と言えそうだが。

 

 

 以上をまとめると、本章から引き出すべき教訓は次のようになる

 

・自分を律する思想(徹底的に考え抜いたもの、中途半端に考えた空中楼閣ではない)を持たなければならない

・自分の思想に適合する技術を開発するための「基礎科学の研究」をしなければならない

 

 実は、後者が手段、前者が目的の関係になっている。

 とすれば、大事なのは「徹底的に考えた思想」ということになる。

 

 もっとも、気になるのは「それは可能なのか」ということである。

 言い換えれば、「どうやったらそれは可能なのか」ということになる。

 どうなのだろう。

 

 

 さて。

 以下、少し私の過去に引き直して考えてみる。

 

 思うに、私にも「徹底さ」がなかった。

 もっとも、それに気付いたのはだいぶ後になってからだが。

 

 私が「徹底さ」が必要なことに気付いたのは、ある「自分が『模倣』しているもの」の根拠に対して「なぜ?」と問いかけたときに明確な回答が出なかったことである。

 そこで、「一度、自分なりに徹底的に突き詰めてみよう」と考え、「何故?」を突き詰めて考え抜いてみた。

 その結果、「この部分は(現段階では裏付けがなく)仮説で支えているに過ぎない」・「この部分は実測による根拠がある」などと自説を支えている根拠の強さが精確に分かり、自説についての理解(弱点も含む)が深まったわけだが。

 

 この点、総ては「模倣」から始まる。  

 この「模倣」のタイミングで「模倣」の対象について徹底的に疑っていたら、「模倣」自体達成できないだろう。

 とすれば、「不徹底」は欠点だけを生み出すわけではない。

 

 しかし、「あるタイミングで徹底的に考える必要がある」ことも間違いない。

 そして、より徹底的に考える(「『何故?』の方向に深く考える」と言い換えてもよい)ことで、単なる「模倣」から自分のものになるように思われる。

 これは所謂「守破離」の考え方に似ている。

 

 すると、思想的不徹底の問題は「十分に能力があるのに『守』にしがみつき、『破』または『離』の段階に移らない問題」と言い換えられるのかもしれない。

 この言い換えが正しい保証はないが、そう考えると「思想的不徹底」に対する突破口が見出せそうだ。

 こう考えれば、思想的不徹底が生じる理由は「『守』の段階に安住できてしまうから」と言えるし、また、「『守』の段階に安住できなくすること」が解決の方法になるのかもしれないので。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 8

 今回はこれまでの続き。

 

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 今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。

 

 

9 「第9章 生物としての人間」を読む

 今回が関連する敗因21か条は次の2つである。

 

(以下、敗因21か条より引用)

 敗因二一 指導者に生物学的常識がなかった事

 敗因一九 日本は人名を粗末にし、米国は大切にした 

(引用終了)

 

 もし、私個人が「この本から最も学ぶべき章」を選択するなら、それは本章になる。

 本章の要約を一言で言うと、「人間は生物であり、その限界から逃れられない」ということである。

 

 当然だが、人間には「為しうること」と「為しえないこと」がある。

 非常に簡単な例を挙げれば、人間は重力(万有引力)には逆らえない。

 人間がいくら「落ちるな、浮け」と念じても、重力を無視することはできない。

 飛行機を使って空を飛ぶことはできても、重力を無視しているわけではない。

 

 重力もそうだが、それ以外にも逆らえないものがたくさんある。

 その一つの限界が「人間は生物であり、生物のもつ性質から逃れられない」ということである。

 例えば、「食物がなければ飢える」、「酸素がなければ呼吸ができなくなって死ぬ」などもそうであろう。

 

 ただ、一般に秀才はその限界に気付かないことがある。

 何故なら、彼らは努力などにより一時的にその限界を突破し、また、突破できてしまうからである。

 例えば、飛行機を使って、重力に逆らって空を飛ぶように。

 あるいは、意思の力で寝ないで業務等を遂行し、一時的に爆発的な成果を出すように。

 

 もちろん、その限界に気付かない結果、または、限界を突破しようと振舞った結果、社会に良き結果(技術革新・制度改革その他)をもたらすこともある。

 しかし、逆の結果をもたらすことも少なくない。

 

 

 そして、その限界で重要かつ致命的だったことが、「人間が(ある極限)状態に陥った場合、考え方・行動様式・生き方も通常から外れてしまう」ということである。

 そのため、「もし、通常の考え方・行動様式・生き方を維持したければ、そもそも人間を(ある極限)状態に陥らせないことが重要だ」ということになる。

 このとき、「通常の考え方・行動様式・生き方から外れたことを非難・罵倒すること」などなんの役に立たない。

 

 そして、その「通常」を維持するために最も重要なこと、それが「食料の配給」であり、言い換えれば、「飢餓からの回避」である。

 だから、社会統治システムは「食料の配給」を目的にしていると言ってもよい。

 逆に言えば、その目的を達成できるなら、自由主義だろうが、社会主義だろうが、独裁だろうがなんでもよいということになる。

 

 そして、「食料の配給が途絶えたらどうなるか」、それについて説明されているのが、本章、そして、故・小松真一氏の『虜人日記』に記載されているジャングルの記録ということになる。

 

 この章で重要と思われる部分をピックアップすると次のとおりになる。

 

・人間は食料がなくなると、「坐して餓死を待つこと」をせず、ふらふら動き出し、自滅してしまう

・このような状態が日常化すると、飢餓によって栄養失調者になった人たちは同情されず、恐怖に似た嫌悪感を抱く

 

 詳細をここで話すことはしないが、私もこの2点に類する経験をしている。

 だから、これらのことを改めてみても「さもありなん」となる。

 もっとも、私が「さもありなん」と思っているのは、この2点に類する経験をしているからであって、逆にこれらの経験がなければ「さもありなん」と思ったかどうかは分からない。

 

 

 さて。

 ここから少し踏み込んでみる。

 とはいえ、根拠があるわけではないので、妄想に準じたことを書くかもしれないが。

 

 この背景にあったものはなんだろう。

 例えば、当時の陸軍・官僚たちに生物学的常識を教えれば、この問題は解決したのだろうか。

 あるいは、陸軍官僚の候補生をジャングルに放り出し、飢餓状態の経験でもさせておけば、この問題は解決したのだろうか?

 もちろん、それらの行為によって多少の改善は見込めただろうが、抜本的な解決にはならないような気がする。

 言い換えれば、「経験・知識あれば回避できた」というイメージはつかめない。

 

 

 そういえば、最近、内田樹先生のブログで気になる文章があった。

 文章は「予言の書」としての『1984』」から。

 

blog.tatsuru.com

 

(以下、ブログより引用)

 そう考えると、丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)、川島武宜『日本人の法意識』(岩波新書)、岸田秀『ものぐさ精神分析』(中公文庫)、山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)といった古典的な日本人論が指摘していたことはほとんど当たっていたということですね。当たっていたのだけれど、それらを読んでも、日本人はおのれの本質的な幼さ、弱さを克服することはできなかった、と。なんだか希望のない結論になってしまいましたね。

(引用終了)

 

 ここで書いてあることを一言で言えば、「分析の内容は非常に素晴らしいものだ。しかし、その分析結果を読んでも改善はされない」になる。

 とすれば、次のステップは「何故改善できないのか」に焦点をあわせるべきだろう。

 

 私が『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条」を読みだして、全体の約3分の2が読み終わった。

 おそらく、この本の分析は妥当なものだろう。

 しかし、「何故改善できないのか」が分からなければ、分析結果を読んでも意味はないのかもしれない。

 となれば、「何故改善できないのか」にも目を向けるべきなのだろう。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 7

 今回はこれまでの続き。

 

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 今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。

 

 

8 「第8章 反省」を読む

 第8章のタイトルは「反省」。

 この章に関連する敗因21か条は次のとおりである。

 

(以下、敗因21か条より引用)

一〇、反省力なきこと

十四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事

(引用終了)

 

 この「反省力」とは巷で行われている「反省」とは関係ないものである。

 それについて端的に書いてある部分があるのでそこを引用する。

 

(以下、本文から引用)

 では、一体「反省」とは何なのか。反省しておりますとは、何やら儀式をすることではあるまい。それは、過去の事実をそのままに現在の人間に見せることであり、それで十分のはずである。

(引用終了)

 

 本章は、日中国交回復時に起きたブームの話からスタートする。

 それを見た筆者(故・山本七平氏)は「反省という語はあっても反省力はない」という感想を抱く。

 

 そして、本章は西南の役西南戦争)に移る。

 何故なら、西南の役における鹿児島軍と太平洋戦争における日本帝国軍には共通する部分が多いからである。

 以下、どんな部分で共通する部分があったか、本章で挙げられている分を列挙する。

 

(鹿児島側に見られた現象)

① 客観的(物理的)軍事力の把握不足

② 精神的優位の妄信(大西郷に対する過剰な依存)

③ 近代戦のおける火力と補給の軽視

④ 地元住民の厭戦気分(田原坂の激戦が始まる頃、地元鹿児島は官軍の手に落ちる)

⑤ 持っている専門的知識の戦争への不利用

⑥ 現実的な敗北がきっかけによる自暴自棄・集団自殺的発想

⑦ 合理的な目的の不存在

⑧ 作戦計画の不存在

 

 もちろん、鹿児島軍側の事情を考慮すると、「しょうがない」と評価すべき部分もある。

 しかし、太平洋戦争と西南の役、似ている部分が多いようだ。

 

 上で挙げたのは鹿児島側の事情であるが、政府側にも共通する傾向がある。

 本章で挙げられた具体例を書いていくと、次のような感じになる。

 

(政府側に見られた現象)

① 報道機関を用いた全国民の戦争への心理的参加への強制

② フェイクニュース・創作記事を用いた「敵(鹿児島)側は悪魔である」・「自分(政府)側は正義の味方である」という虚像の作成

③ 官軍VS賊軍、つまり、神と悪魔という概念の固定化

 

 ちなみに、本章では西南の役に関する文章が紹介されているが、その中に犬養木堂犬養毅)の記事がある。

 もっとも、犬養木堂の報道(田原坂の戦いにおける最も的確な報道として紹介されている、本章208ページ)でさえ、上の傾向から逃れられぬ「同類」と切って捨てられている(本章224ページ)。

 

 この3点、「政府側の事情」として書いたが、主導したのは政府なのだろうか?

 本章には記載されていないし、仮に、「政府が報道機関を利用した」としても不思議ではなく、特段咎めるつもりもないのだが、実際のところどうなのだろう。

 逆に、当時の小規模だった報道機関が「自らの存在価値を高めるために積極的にやった」という可能性も考えていいのかもしれない。

 もちろん、それ自体をとがめるつもりは私にはない。

 

 

 さて。

 最初の部分で「反省とは何か」について本章の文章を紹介した。

 反省とは「過去の事実をそのままに現在の人間に見せることであり、それで十分」である、と。

 しかし、「これが極めて大変である」ということは認識した方がいいだろう。

 そもそも、「過去の事実」を明らかにすること自体、容易ではないのだから。

 

 また、「過去の事実をそのままに現在の人間に見せた」として、それを活かすことも大変ではないか。

 というのも、そのためには過去を活かす意思だけではなく、過去を活かすための技術・リソースと過去が活きる環境の両方が必要だからである。

 これらの条件が満たされなければ、「過去の事実をそのままに見せる」ために投じたリソースは無駄になる。

 

 この事情を考慮したうえで、「反省すること」を選択するためには自己決定(共同体的自己決定)が必要になる。

 それが日本共同体に可能なのか。

 正直、無理ではないか。

 

 とはいえ、この点をどうにかしたいのであれば、できる人間ができる範囲から始めるしかない。

 また、「過去の事実をそのままに見ること」、それのみからできることもある。

 例えば、過去を活かせず、過去と同じ失敗を繰り返す場合であっても、過去の事実から未来の結論の方向を予測して、失敗によるダメージを軽減することならできる。

 この点、私は「どうせ私は変えられない。ならば、反省をしても未来は変わらない」と思っていたが、過去の自分の経験から未来の方向をぼんやりとではあるが予測していた関係で失敗によるダメージを減らすことができた。

 もちろん、これは予測していただけで、ダメージを減らすために何かしたわけではないのだが。

 

 とすれば、この辺が「反省」を始めるための出発点になるのかもしれない。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 6

 今回はこれまでの続き。

 

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 今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。

 

  

7 「第7章 『芸』の絶対化と量」を読む

 本章に関連する敗因21か条はこちら。

 

(以下、敗因21か条より引用)

一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。

二、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった

四、将兵の素質低下(精兵は満州支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)

(引用終了)

 

 本章を一言でまとめれば、「『質』と『量』を同一視した悲劇」になるだろう。

 

 まず、本章は「日本兵の強さ」に関する発言を紹介することから始まる。

 曰く、「資源も物量も(米国に対して)乏しい状況で日本はあれだけ頑張れたのだから、日本軍は強い」と。

 また、この「日本兵の強さ」には具体的事実による裏付けがあり、説得力がある。

 そのことを踏まえて「その『強さ』とは何か?」と話が続く。

 

 本章では、次のように言う。

「この『日本軍の強さ』は『零細企業・中小企業の強み』である」と。

 抽象化すれば、「芸・秘術を極めたものの強み」と言うべきか。

 

 零細企業等では資本その他の制約条件が強く、かつ、それを変更するのは容易ではない。

 そのため、勝つためには自分の持っている技術を精錬化して「秘術」とし、それを用いて戦わざるを得ない。

 結果、この秘術はその制約条件下であれば、また、相手が同じ制約条件下であれば無類の強さを発揮することになるし、事実強さを発揮した。

 

 

 ところで、日本は「『制約条件』を固定し、その中でレベルを競う」ということを長らくやってきた。

 現代においてそれが色濃く表れているのが「受験」の世界である。

 さらに言えば、「資格試験」もそうなのかもしれない。

 その結果、「秘術を極めた者は、制約条件が変わったとしても同様の絶対性を発揮する」という錯覚を持つようになった。

 極端に言えば、「一芸に秀でた者は万能である」ということである。

 

 もちろん、あることに秀でている人間が別のことに秀でている可能性はある。

 例えば、将棋プロの島朗先生が書いた『純粋なるもの』に書かれていたエピソード(手元に本がないので若干不明確な点はご容赦いただきたい)に「将棋のプロの先生がある人からあるボードゲームのルールを教えてもらったところ、その直後にその先生は教えてくれた相手をそのボードゲームで負かしてしまった」というものがある。

 こういうことがある以上、「可能性がない」ということはない。

 

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 しかし、「全部の場合に成立することはない」ということも明らかであろう。

 マックス・ウェーバーは「最高の官僚は最悪の政治家である」と述べたが、このことからも明らかである。

 

 

 さて、この「秘術(芸)絶対化」の錯覚を抱くことでどんな問題が発生するか。

 本章では、その結果生じる問題点を次のように列挙している。

 

一、交代要員がおらず、質にばらつきが生じてしまう

二、秘術を直ちに身に着けることができないため、補充が効かない

三、高度な技術が発展した場合に、秘術は転用できない

四、外部条件の変更如何によっては秘術を活かせなくなり、その場合、自信の喪失につながる

五、秘術の精錬化に集中することにより、前提をいじることで目的を達成する発想に及ばなくなる

 

 

 なお、「秘術の精錬化に熱中すること」、これは欠点しかもたらさないものではない。

 何故なら、この熱中こそ明治の近代化と戦後の高度経済成長の奇跡をもたらしたと言いうるからである。

 

 ならば、「芸に熱中する一方で冷静な視点を持つ」ことでこの悲劇は回避できるのかもしれない。

 あるいは、「役割分担」によってこの悲劇が回避できるのかもしれない。

 もっとも、冷静な視点を持てば熱中できなくなるわけで、その辺の塩梅はよくわからないが。

 

 

 さて。

「私にもこの錯覚はあったなあ」としきりに反省する次第である。

 この点、私は自分に対しては冷めた目で見ており、「私は受験で成功したがそれだけだ。この点を他の部分に転用できる可能性は全くない」とこの錯覚の逆の発想を持っていた。

 もちろん、東大(理系)に受かった際の経験は、司法試験の際に転用でき、その他色々な場所で転用しているので、この発想は間違っていたわけだが。

 

 他方、私は他人に対して「その人はある分野で私よりも優れた結果を出しているのだから、私がコミットしている分野にその人がコミットすれば私よりもはるかに優れた結果を容易に出すであろう」と想像することに限りがなかった。

 今思えば愚かなことを考えていたものである。

 

 まあ、信仰から脱却できただけよいこととしよう。

 信仰を相対化するのは大変だから。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 5

 今日はこれらの記事の続き。

 

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 今回は山本七平氏の『日本はなぜ敗れるのか』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

 4月23日現在、このブログで学習内容をメモにする予定として、この書籍(『日本はなぜ敗れるのか(以下略)』)と小室先生の『痛快!憲法学』と旧司法試験・論文試験の過去問(憲法第1問)である。

 取り上げたいことがたくさんある(上にあげた3つでさえ、年内に終わるか微妙である)ので、一つ一つ着実に行っていきたい。

 

6 「第6章 厭戦と対立」を読む

 この章に関連する敗因21か条の条項は次のとおりである。

 

(以下、敗因21か条から引用)

 敗因十七 国民が戦争に厭きていた

 敗因十二 陸海軍の不協力 

(引用終了)

 

 太平洋戦争は「1941~1945年」である。

 そのため、私は「太平洋戦争は5年間」だと思っていた。

 しかし、期間を月を含めて記載すると「1941年12月~1945年8月」であり、3年10カ月となる。

 5年間だと思っていたものが、月で数えると「3年10カ月間」(4年未満)になったのを見て、「ん?短くね?」と思った。

 

 という私の話はさておいて。

 この章は「十五年戦争」という言葉から話が始まる。

 曰く、「15年(昭和6年~昭和20年)といっても実質は13年10カ月(昭和6年9月~昭和20年8月まで)だろ」、「満州事変から日華事変(日中戦争)までの約4年間は大規模な軍事行動がないのに戦争期間に含めるのは変だろ」と突っ込みを入れる。

 そして、軍事作戦の連続期間を考慮すれば、盧溝橋事件(昭和12年7月)から起算するのが妥当、というように話をもっていく。

 この場合、戦争期間は連続して8年1カ月になる。

 

 この点、世界的視点、とりわけ、ヨーロッパから見れば8年間の戦争というのはそれほど長いわけではない(百年戦争三十年戦争などを見よ)。

 しかし、私から見た場合、日本から見た場合、8年という期間は非常に長く感じることは明らかである。

 事実、当時、戦争は「月」でカウントするものだったのだから。

 

 

 さて。

 章のタイトルにある「厭戦」。

 そして、敗因21か条に指摘された「戦争に厭きていた」。

 つまり、士気(モラル)の低下。

 

 月計算で終了する計算であった「日華事変」が年単位で継続し、戦争継続の結果として生活物資が困窮し(ちなみに、昭和13年4年に国家総動員法が公布・施行される)、さらに先行きが分からない。

 そうなれば、士気は低下する。

 

 士気の低下は問題であるから、政府は様々な対策を打つ

 その対策がフェイクであることに気付く人間は一応それに乗ったふりをするが、士気は低いまま(当然回復しない)。

 その対策がフェイクであることに気付かない人間はそのフェイクが現実的な問題の解決につながらないことに気付かない。

 結果、どんどん悲劇的状況に繋がるというわけである。

 

 当然だが、専門的知識がある人間はカラクリが分かるので、フェイクに気付く。

 だから、モラルの崩壊は職業軍人・専門家から始まる。

 秦郁彦氏が、太平洋戦争を「プロは投げて、アマだけがハッスルしていた戦争」と述べたがこれが的確な説明になるだろう。

 もちろん、現場にいる人間は専門的知識があろうとなかろうと逃げるわけにはいかないので、さらに悲惨なことになるが。

 

 そして、最終的には、アマも投げるようになり、総てが空中分解する。

 この部分は次の文章で締めくくられている。

 

(以下、本章の文章引用)

 これが、「暗雲が一気に晴れた」とか「一切の迷いは去った」という、心理的解決だけに依拠し、実在の現実を無視していた者が、最後に落ち込んでいく場所である。

 そしてこれが、当事者自身が「厭戦」のくせに、あらゆる言葉で実態をごまかしつづけ、その場その場を「心理的解決」で一時的にごまかして行った者の末路だったわけである。 

(引用終了)

 

 この章の現代に具体例は「コロナ対応」がそれにあたるだろう。

 時間が経過したら、資料をかき集めて類似性を詳細に検討したい。

 

 

 さて。

 厭戦によるモラル低下、それが真っ先に現れた例が「陸海軍の対立」であろう。

 海軍はもちろん専門家である。

 とすれば、真っ先にモラルが低下してもなんら不思議ではない。

 そして、日華事変の泥沼化が拡大し、果てには英米を相手に戦いをしなければならなくなる。

 海軍としては(陸軍より)日米の実力差が分かっているので及び腰になるが、それを非難される。

 そりゃ「やってられるか」とはなろう。

 

 ただ、組織的な背景も考えておく必要がある。

 つまり、日本のセクト主義、そして、日本のタテ社会がもたらすヨコの連携の不在といってもいいだろうか。

 

 

 こうやって本章を見てみると、「モラルの問題」と「ヨコの連携不在がもたらす組織間対立」、これは現在も生きているだろう。

 私自身、組織から遠いところに居続けてたため、この点をどうすればいいかは全く想像ができないのだが、これまた再び悲劇の原因になりそうである。

資本主義の精神

1 小室先生の動画を拝聴する

 先週の土曜日の深夜、私は普段使用しているPCのデータのバックアップを作成し、緊急時用のPC(値段の割にクソ重い、いつもは使わない)にコピーしていた。

 バックアップとはいえデータは大量にある。

 また、容量も膨大である。

 よって、コピーそれ自体に時間がかかる。

 

 だから、「データをコピーをしている間に、ユーチューブで宮台先生が出演している動画を見るか」などと思っていたところ、宮台先生のお師匠である故・小室直樹先生の動画が見つかった。

 

www.youtube.com

 

 この動画は1998年の小室先生の講演を収録したものらしい。

 1998年というと今から約20年以上前になる。

 かなり昔だ。

 

 内容は「資本主義が成立するためにはどんなエートス(行動様式)が必要か」というもの。

 小室先生の書籍を読んでいたおかげで講演内容(質疑応答除く)は理解していることであった。

 小室先生の書籍を読んだ甲斐があった。

 

 また、質疑応答の部分は面白かった。

「ロシアへの対応」に関する小室先生の返答は先生が日本の独裁官でもない限り不可能であろう(また、列強の反対にもあうだろう)が、なるほどと思わせるものであった。

 また、官僚に対する対策も参考になった。

 20年経過した後においてもこの発言は有効だと思う。

 

2 小室先生を知ったきっかけ

 ところで、私が小室先生を知るきっかけとなったのは次の2点である。

 

 第一は、『痛快!憲法学』という書籍を通じて、である。

  

 

 以前このブログで取り上げたが、この書籍は憲法の背景・歴史について書かれた本である。

 そのため、ヨーロッパの歴史・キリスト教の歴史にまで遡って書かれている。

 

 また、近代立憲主義だけではなく、近代における重要原則たる民主主義・資本主義・平和主義についても触れられている。

 ざっくりと「憲法ってなーに?」という人にとっては非常に最適な本である。

 

 現在、私は故・山本七平氏の『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』から学んだことをブログに書き留めているが、それが終わったら『痛快!憲法学』から学んだこともブログにまとめようと思っている。

 

 小室先生を知るきっかけとなったもう一つは、私が継続的に視聴しているインターネット番組・丸激トークオンデマンドの次の番組を通じてであった。

 

www.videonews.com

 

 これもかなり昔の番組である。

 この番組は『痛快!憲法学』が下敷きになっている。

 

3 小室先生の書籍を読みまくる

 一時期、私は図書館に通って小室先生の書籍を読み漁っていた。

 読んだ本を片っ端からピックアップすると次のようになる。

 

  

  

 

  

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 改めてピックアップしたが、結構読んでいるなあ。

 図書館にあった小室先生の本は片っ端から読んだからなあ。

 私が興味を持ったらこれくらいは一気に読んでしまうらしい。

 

 あと、忘れていた。

 小室先生のプロフィールは次のとおりである。

 

ja.wikipedia.org

 

4 動画について

 小室直樹先生の話を先行させてしまったが、動画の前半(質疑応答以前)の内容を簡単にまとめると次のとおりになる。

 なお、これらのことは、『痛快!憲法学』から学んだことをメモにする際、改めて触れる予定である。

 

(以下、私による理解、完全にあっている保証はないのでその点は注意)

 共産主義としてスタートしたソビエトは、一時、アメリカと肩を並べる程になった。

 しかし、やがて崩壊した。

 ソビエト崩壊後、ロシアは資本主義を目指したが失敗した。

 その原因は、ロシアに「資本主義の精神」がなかったためである。

 

 資本主義の精神とは何か。

 簡単にまとめてしまうと、①「労働は救済である」という倫理(勤勉さ)と②目的合理的思考である。

 ロシアはこの2点がないために共産主義から資本主義にならず、(小室先生が言うところの)マフィア経済(=資本主義以前の状態)になってしまった。

 

 この「資本主義の精神」がなければ、技術や資本(金)がどれだけあったところで資本主義(システム)にはならない。

 例えば、中国はイギリスに比べればはるかに資本があり、技術があった。

 しかし、上の①と②がないため、資本主義にならなかった。

 

 さて、日本。

 黒船来航以降、日本も資本主義に向けて走り出した。

 ところが、様々な要因により日本は資本主義に見せかけた社会主義になってしまった。

 その結果、、、(現状を見れば説明は不要であろう)。

(以下、まとめ終了)

 

 まあ、こんな感じである。

 ただ、小室先生の講義は非常に分かりやすいので、できれば直接上の動画を聴いてほしい。

 

 

 ところで、最近、山本七平氏や小室先生に興味を持ったため、そっち方面に目がいってしまい、プログラミング関係がなおざりになっている。

 これではあかん。

 自分の行動力を増やすか、バランスを考えて、プログラミング(とそれを用いたアウトプット)にも時間をまわしていかないと。

『憲法義解』を読む

1 大日本帝国憲法の注釈書『憲法義解』

 最近、図書館から借りてきた『憲法義解』を読んだ。

 

 

 この本を借りたのは、大日本帝国憲法について興味を持ったためである。

 現在、私は「憲法」について興味を持っているところ、大日本帝国憲法は日本に近代立憲主義を持ち込んだ最初の憲法(コンスティテューション)である。

 本書にも同趣旨のことが書かれていたが、日本の憲法及び日本の憲法の歴史に興味を持ち、それらについて調べようと思ったら、この本(憲法義解)にあたらないという選択肢はない。

 

 ここ数日、最初から最後までざっと読んだ。

 ざっと読んだだけではあり、「理解した」というには程遠い状況だが、それでもかなり勉強になった。

 ただ、ちゃんとこの本の内容を理解するため、近い将来購入しようと考えている。

 

2 読んで得たこと

 当時の日本政府にとって、近代主義を日本にどのように取り入れるかは大きな課題であった。

 つまり、明治憲法は「近代主義を日本に導入しようと試みた結晶」である。

 その苦労を憲法の条文・条文解釈(義解)に見ることができた。

 

 また、司法試験合格のために憲法を学習した際に出てきたいくつかの論点について「この論点にはこんな背景があったんだ」ということも知ることができた。

 具体的な論点を示すと、「特別権力関係」と「委任立法と罰則」についてである。

 論点をめぐる解釈・政治的背景について分かったのは大きな収穫であった。

 

 さらに、どんな憲法にも欠陥があるところ(それは現在の日本国憲法にも言える)が、明治憲法に含まれた欠陥を具体的に把握することができた。

「軍部が『統帥権の独立』を悪用して云々」という言葉はよく言われており、私もその言葉は理解していたが、大日本帝国憲法の条文と条文解釈を見ることで「あー、なるほど」と理解することができた。

 

3 ざっと読んだ感想

 以下、私の感想。

 ざっと読んだ印象(あくまで印象であり、正しい保証はない)として、「この憲法天皇陛下(とその藩屏)が主体的に行動することを前提としているな」と感じた。

 極端な言い方をすれば、この憲法では天皇陛下は「君臨すれども統治せず」というスタンスを採れないのではないか、ということである。

 もちろん、天皇陛下御自身が大日本帝国憲法作成直後(日清戦争後)から立憲君主として振舞っていたということは知っているが。

 

 この点、天皇陛下御自身が「君臨すれども統治せず」というスタンスを採られても、周り(元老)が補佐すれば問題がなかった。

 しかし、元老は大正時代に西園寺公(西園寺公望)を除いてほとんどいなくなり、また、それに代わるものもなくなってしまった。

 他方、大日本帝国憲法の議会(国会)の権能はそれほど強くない。

 そのため、憲法解釈を用いてどんなに議会の権能を強めたところで限界がある。

 したがって、昭和に入ってから権力に空白地帯ができ、かつ、その空白地帯に対する議会のコントロールも効かなくなってしまった。

 それがために何が生じたかは説明不要であろう。

 

 次に、「大日本帝国憲法は『外見的立憲主義』である」と言われているらしいが(司法試験の勉強の際に教えられた)、それについて「なるほど」と実感することができた。

 この「外見的立憲主義」という言葉には否定的なニュアンスが含まれている。

 ただ、当時の状況を思うに、キリスト教を背景に持たない我が国においてそれはやむを得ないのではないかという気がする。

 この点、平等という概念は「神の前の平等」というキリスト教を前提としている。

 しかし、キリスト教のない日本にはそんなものはない。

 そこで作り上げたのが「天皇の前の平等」という概念。

 となれば、「天皇による権利保障」という形式をとらざるを得ない。

 私が「やむを得ない」と評価しているのはそう意味である。

 

 さらに、歴史、抽象的には、「時の流れ」を意識しながら理解することの重要性を確認した。

 私は理系の人間ゆえ、「時の流れ」というものを意識することは少ない。

 例えば、数学・物理の定理などは過去でも今でも同様に成立するので、歴史を意識する必要性に乏しい。

 しかし、社会科学はそうはいかない。

 となれば、結論部分を知識として覚えるだけでは「資格試験に受かる」という目的に対して合理的であっても、理解の観点から見て不十分であるように感じた。

 

4 これからについて

 さて。

大日本帝国憲法は欧米で発展した近代主義と日本の伝統を接続する試みの結果できたものである」旨述べた。

 そのため、近代主義、すなわち、キリスト教や日本の伝統についても把握する必要がある。

 次に私が学ぶべき内容は明治憲法を支えたいわゆる「天皇教」になる。

 具体的には、日本の神話と尊王思想(水戸学)に関する入門書を読むことになりそうだ。

 順次読んでいきたい。

マイケル・ムーアの演説に涙を流す

 約5年前、2016年のアメリカの大統領選挙の直前。

 マイケル・ムーアというドキュメント映画監督が「(2016年の)大統領選は、ヒラリー・クリントンではなく、D・J・トランプが勝つ」という趣旨のスピーチをしたことがあった。

 

 私がこのスピーチを知ったのは次のニュース番組を見たとき。

 このニュース番組「丸激トークオンデマンド」は、私が約15年前から見ており、私が長期間継続的に見ている唯一の「番組」でもある。

 

www.youtube.com

 

www.videonews.com

 

 このスピーチはかなり有名なので、知っている人もいるかもしれない。

 もう少し長いバージョンがないか探していたら、次の動画がヒットした。

 ただし、日本語訳はない。

 

www.youtube.com

 

 下の動画(番組のではない方)でマイケル・ムーア本人が述べた演説の要旨を私なりにまとめると次のとおりになる。

 なお、以下の要旨を作るにあたっては、別の動画(それには和訳が付いていた)やスピーチの文字起こし(英語)を参考にしている。改めて探したがリンクが見つけられなかったが、見つけたら追加で貼りなおす。

 

(以下、私の「意訳」である。言葉を省略したり、文章の順番を入れ替えた部分もある。「正確な訳」とは到底言えないので、その点は必ず注意すること)

 私は「トランプに投票しよう」と考えている人たちをたくさん知っている。でも、彼らは必ずしもトランプに賛成しているわけではない。彼らは礼儀正しい普通の人たちだ。

 ただ、私が彼らと話して思ったことがある(のでそれを話す)。

 トランプは大企業の経営者らを前にこう啖呵を切った。「デトロイトの工場を閉鎖してメキシコに移転したら、作った車に関税をかけてやる。そうなれば、車は売れず返品の山だ」と。驚くべき状況だった。かつて、こう言い放った政治家は民主党にも共和党にもいなかったのだから。

 オハイオに住んでるなら私の言いたいことが分かるだろう。トランプがガチかどうかは関係ない。でも、この発言はミシガン・オハイオペンシルベニアウィスコンシンの人たちにとって福音だった。トランプの発言が時代の変化により傷つき、打ちのめされ、忘れ去られた名もなき「没落した中産階級たち」を意識していたことは間違いない。

 人々にとってトランプは自分たちを押しつぶしたシステムに復讐するために待ち望んでいた人間爆弾なのだ。

 これまでこのシステムは人々からあらゆるものを奪っていっただろう。でも、そんな人たちでも一つだけ残っているものがある。行使するのに1セントも必要としない、アメリカ合衆国憲法が保障してくれた「一票」だ。

 彼らは金もなく、家もなく、これまでさんざんな目に遭ってきた。でも、投票ではそんな事情は関係ないし、チャラにすることだってできる。何故なら、大金持ちも没落して職がない人も持っている票は同じ1票だ。そして、没落した人の数は金持ちの数より圧倒的に多いのだから。

 だから、11月8日、人々は投票所に行き、自分を滅多打ちにしたシステムに復讐するために大統領を選択するだろう、ドナルド・J・トランプを。

 お偉いさんたちはトランプを嫌っているようだ。もちろん、メディアも。昔は支援していたくせに。でも、トランプは言うだろう。「ありがとう、メディアよ。あなた方の敵が私を投票してくれる」と。

 そう、11月8日、アメリカ人がみんなでこのシステムを叩きつぶしにいくのだ、自分たちの権利を行使して。

 トランプの当選により我々は人類史上最高の「くそったれ」を突き付けることになるだろう。お偉いさんにおいてはなんといいざまであろうか。

(終了)

 

 私がマイケル・ムーアの演説から受け取ったメッセージは要旨のとおりになる。

 この演説を聴いたとき、私は涙が止まらなかった。

 普段意識していない私の傷に触れたのだろう。

 

 この演説を聴いて思った感想は「すげーな」である。

 

 1つ目はこのスピーチの内容。

 心情的にトランプに投票しようとしている人たちの説明として的確であること。

 

 2つ目に合衆国憲法の威力。

「彼らは何もかも失った。でも、合衆国憲法が保障された選挙権が残っている」というように、絶望的な状況でも持ち出せる合衆国憲法に対して。

 

 3つ目はスピーチそれ自体。

 これは私がスピーチを聴く経験が少なく、私が疎いだけかもしれないが。

 

 さて。

 次に思ったことが、「政治に関するスピーチで、日本でこんなスピーチってあったっけ」ということである。

 確かに、私は時事に疎いので、「知らないだけ」ということは十分ありうる。

 ただ、残念ながら私は知らない。

 

 また、「日本国憲法のほにゃららがあり、どうこう」というスピーチってあったっけ、とも思った。

 こちらについては「明らかにない」のではないかと思われる。

 特に最近においては。

 憲法の力を信じている人間はほとんどいないだろうから。

(ただ、あったらコメント欄で教えてくれると助かる)

  

 トランプ大統領については様々な評価がある。

 しかし、それとは別に、このマイケル・ムーアの演説には感動した。

 その感動した事実を記録に残しておく。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 4

 今回は前回までの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。

 

 

 なお、今回の日記は、一度、4月10日に記事を作成して公開した。

 しかし、4月23日に別の日記を更新しようとした際、間違えてこの日記を上書きしてしまい、その大半を消してしまった。

 よって、4月23日に改めて全部書き直した。

 

5 「第5章 自己の絶対化と反日感情」を読む

 この章と関係する21か条は次のとおりである。

 

(以下、敗因21か条より引用)

敗因20、日本文化に普遍性なき為

敗因13、一人よがりで同情心が無いこと 

(引用終了)

 

 この章を読んで思い出すのが、『孫子』の次の部分である。

 

(以下、『新訂孫子』(金谷治訳注、岩波文庫、2000)の51ページ以下の一部を引用)

 故曰、知彼知己者、百戦不殆、不知彼而知己、一勝一負、不知彼不知己、毎戦必殆。

(故に曰わく、彼れを知りて己を知れば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし)。

(引用終了)

 

 所謂「百戦して危うからず」の部分である。

 私釈三国志風に意訳するとこんな感じか。

 

(以下、意訳)

 よって、次の3つのことが言える。

 第一に、敵と自分の状況を十分把握していれば負けない。

 もちろん、この場合、勝てない状況ならばそもそも戦を回避するだろうから。

 次に、自分の状況を把握して敵の状況を把握していなければ勝ったり負けたりする。

 最後に、敵と自分の状況を十分把握していなければひたすら敗北の山を築くことになる。

(意訳終了)

 

 この章を読んでみると、「当時の帝国陸軍アジア・太平洋戦争を行うにあたり、(戦地にして占領地であった)フィリピンと自分たちのことの両方を把握していなかった」と言われても抗弁できないように思われる。

 もちろん、大正から昭和初期における陸軍の仮想敵は大陸側、つまり、中華民国(中国)とソビエト連邦(ロシア)であったから、南方のことを把握していなかったとしてもしょうがないのかもしれないけれども。

 

 この章の最初で一般論についてこう書かれている。

 

・文化的な相互理解を実現するためには、①自分の文化を理解して、それを表現できること、かつ、②相手の事情を把握して理解すること、この2条件が成立する必要がある。

・また、自分側に相手側を矯正することを実現するためには、少なくても相手に説明し、説得することが必要となるが、この場合であっても①自分の文化を理解して、表現できることが必須である。

・さらに、相手と自分を「対等な立場」と割り切って話し合うのであれば、自分の立場を理解して、それを表現できなければならない(相手の立場を理解するだけでは、自分が相手に隷属してしまうので、「対等な立場」たりえない)

 

 つまり、相手にどう応じるか、どの選択肢を選ぶにしても「自分の文化を理解して、それを表現できること」が必須になる。

 それができなければ、これらは達成できない。

 この「自分の文化を理解して、表現」できない状態、これが「日本文化に普遍性がない」場合である。

 

 

 ここまでは「(日本サイドの)自分自身の理解」に関することを書いたが、問題は「(日本サイドの)相手側への視線」についてもある。

 一言で言いきってしまえば、「切断操作」というものであろう。

 これは、「相手は自分と同じ人間ではない」という感情である。

 

 確かに、「相手と自分は同一ではない」。

 言葉も文化も宗教も色々な点で異なる。

 しかし、「相手の存在を自分と同程度に認めない」のであれば、相手を理解したり、説得したりしようとはせず、ただ討伐するか隷属を要求するかのいずれかになってしまうだろう。

 もちろん、自分が下で相手が上であれば(すぐさま)不都合は生じない(ただし、自分と相手以外の第三者が発生すれば問題が表面化するが)が、自分が上で相手が下になれば問題が発生しないはずがない。

 

 

 この2つ、つまり、自己理解の不十分・相手の立場の否認、これが帝国陸軍のフィリピンにおける悲劇になってしまった、と結論付けている。

 もっとも、帝国陸軍に属していた人間の総てがこうだったわけではない。

 故・小松真一氏はそうではなかったし、『虜人日記』には例外だった人間がたくさんあり、その人たちに対しては収容所においてフィリピン人からの差し入れがあった旨書かれている。

 よって、この章は「個人では十分なしうることが全体になると何故できなくなるのか」という問題提起で終わっている。

 

 

 この章、結構、耳が痛い。

 私も似たり寄ったりのことをしているからである。

 私の場合、深入りする前に自分側の事情で撤退したこと、相手側に具体的な便益を提供できたこと、相手に対して拝跪を要求したわけではないことなどから自分に対する悪感情を惹起しないで済んだが、下手に深入りしていたらどうなっていたかは分からない。

 

 また、これに似た話として戦後の例を挙げれば「外国人技能実習生」の問題が挙げられるだろう。

 約12年前、私はあるきっかけで外国人技能実習生の問題に取り組む弁護士の先生と接したり、当事者(外国人の方)の話を聴くきっかけがあった。

 そのときの話とこの章で書かれたことを思いだすとぞっとする。

 

 さらに言えば、今、移民をどうするかという問題が叫ばれている。

 ただ、この問題は到底克服されていない以上、どうなることやら。

 まあ、日本の国力が減退しているので、あまり大問題にならないかもしれないが。

 

 

 この章をまとめると「コミュニケーション不全による悲劇」と言えるだろうか。

 とすれば、克服方法は「コミュニケーション」しかない。

 具体的な方法は、①相手の立場を認め、相手の状況を理解すること、②自分の事情を把握し、かつ、それを表現することの2点になる。

 

 この点、①が大事なことは言うまでもないが、②も劣らず重要である。

 というのは、①しかなく②をしないと相手に隷属することになってしまう。

 自分と相手の二者であればさほど問題がないが、第三者が現れたときに問題になってしまうからである。

 

 そして、②を適切に行うためには「自分の尊厳が確保されていることが重要かなああ」という気がする。

 尊厳が確保できていなければ、自分を見るのも、自分について表現するのも嫌になってしまうので。