『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 4

 今回は前回までの続き。

 

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 今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。

 

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 なお、今回の日記は、一度、4月10日に記事を作成して公開した。

 しかし、4月23日に別の日記を更新しようとした際、間違えてこの日記を上書きしてしまい、その大半を消してしまった。

 よって、4月23日に改めて全部書き直した。

 

6 第5章 自己の絶対化と反日感情

 この章と関係する21か条は次のとおりである。

 

(以下、敗因21か条より引用)

敗因20、日本文化に普遍性なき為

敗因13、一人よがりで同情心が無いこと 

(引用終了)

 

 この章を読んで思い出すのが、『孫子』の次の部分である。

 

(以下、『新訂孫子』(金谷治訳注、岩波文庫、2000)の51ページ以下の一部を引用)

 故曰、知彼知己者、百戦不殆、不知彼而知己、一勝一負、不知彼不知己、毎戦必殆。

(故に曰わく、彼れを知りて己を知れば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし)。

(引用終了)

 

 所謂「百戦して危うからず」の部分である。

 意訳してみるとこんな感じか。

 

(以下、意訳)

 よって、「敵と自分の状況を十分把握していれば負けはなく(そもそも勝てる状況でなければ戦を回避するため)、自分の状況を把握して敵の状況を把握していなければ買ったり負けたりし、敵と自分の状況を十分把握していなければ敗北の山を築くことになる」と言われるのである。 

(意訳終了)

 

 この章を読んでみると、「当時の帝国陸軍アジア・太平洋戦争を行うにあたり、(戦地にして占領地であった)フィリピンと自分たちのことの両方を把握していなかった」と言われても抗弁できないように思われる。

 もちろん、大正から昭和初期にかけて陸軍の仮想敵は大陸側、つまり、中華民国(中国)とソビエト連邦(ロシア)であったから、南方のことを把握していなかったとしてもしょうがないのかもしれないけれども。

 

 この章の最初で一般論についてこう書かれている。

 

・文化的な相互理解を実現するためには、①自分の文化を理解して、それを表現できること、かつ、②相手の事情を把握して理解すること、この2条件が成立する必要がある。

・また、自分側に相手側を矯正することを実現するためには、少なくても相手に説明し、説得することが必要となるが、この場合であっても①自分の文化を理解して、表現できることが必須である。

・さらに、相手と自分を「対等な立場」と割り切って話し合うのであれば、自分の立場を理解して、それを表現できなければならない(相手の立場を理解するだけでは、自分が相手に隷属してしまうので、「対等な立場」たりえない)

 

 つまり、相手にどう応じるか、どの選択肢を選ぶにしても「自分の文化を理解して、それを表現できること」が必須になる。

 それができなければ、これらは達成できない。

 この「自分の文化を理解して、表現」できない状態、これが「日本文化に普遍性がない」場合である。

 

 

 ここまでは「(日本サイドの)自分自身の理解」に関することを書いたが、問題は「(日本サイドの)相手側への視線」についてもある。

 一言で言いきってしまえば、「切断操作」というものであろう。

 これは、「相手は自分と同じ人間ではない」という感情である。

 

 確かに、「相手と自分は同一ではない」。

 言葉も文化も宗教も色々な点で異なる。

 しかし、「相手の存在を自分と同程度に認めない」のであれば、相手を理解したり、説得したりしようとはせず、ただ討伐するか隷属を要求するかのいずれかになってしまうだろう。

 もちろん、自分が下で相手が上であれば(すぐさま)不都合は生じない(ただし、自分と相手以外の第三者が発生すれば問題が表面化するが)が、自分が上で相手が下になれば問題が発生しないはずがない。

 

 

 この2つ、つまり、自己理解の不十分・相手の立場の否認、これが帝国陸軍のフィリピンにおける悲劇になってしまった、と結論付けている。

 もっとも、帝国陸軍に属していた人間の総てがこうだったわけではない。

 故・小松真一氏はそうではなかったし、『虜人日記』には例外だった人間がたくさんあり、その人たちに対しては収容所においてフィリピン人からの差し入れがあった旨書かれている。

 よって、この章は「個人では十分なしうることが全体になると何故できなくなるのか」という問題提起で終わっている。

 

 

 この章、結構、耳が痛い。

 私も似たり寄ったりのことをしているからである。

 私の場合、深入りする前に自分側の事情で撤退したこと、相手側に具体的な便益を提供できたこと、相手に対して拝跪を要求したわけではないことなどから自分に対する悪感情を惹起しないで済んだが、下手に深入りしていたらどうなっていたかは分からない。

 

 また、これに似た話として戦後の例を挙げれば「外国人技能実習生」の問題が挙げられるだろう。

 約12年前、私はあるきっかけで外国人技能実習生の問題に取り組む弁護士の先生と接したり、当事者(外国人の方)の話を聴くきっかけがあった。

 そのときの話とこの章で書かれたことを思いだすとぞっとする。

 

 さらに言えば、今、移民をどうするかという問題が叫ばれている。

 ただ、この問題は到底克服されていない以上、どうなることやら。

 まあ、日本の国力が減退しているので、あまり大問題にならないかもしれないが。

 

 

 この章をまとめると「コミュニケーション不全による悲劇」と言えるだろうか。

 とすれば、克服方法は「コミュニケーション」しかない。

 具体的な方法は、①相手の立場を認め、相手の状況を理解すること、②自分の事情を把握し、かつ、それを表現することの2点になる。

 

 この点、①が大事なことは言うまでもないが、②も劣らず重要である。

 というのは、①しかなく②をしないと相手に隷属することになってしまう。

 自分と相手の二者であればさほど問題がないが、第三者が現れたときに問題になってしまうからである。

 

 そして、②を適切に行うためには「自分の尊厳が確保されていることが重要かなああ」という気がする。

 尊厳が確保できていなければ、自分を見るのも、自分について表現するのも嫌になってしまうので。