薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 3

 今日はこれらの記事の続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 前回までと同様、私が『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』から学んだことをまとめる。

 

 

4 「第4章 暴力と秩序」を読む

 この章、書いてある内容は理解できた。

 ただ、最近まで正直理解のピントがあっていなかった。

 

 しかし、最近、人生において様々な経験をしたゆえであろうか。

 理解のピントがあってきた。

 その結果、背筋が凍るのを感じた。

 

 第2章の「バシー海峡」では、「失敗に対して敗因分析を怠り、量を増やしてひたすら突進したことで生じた悲劇」が語られている。

 第3章の「実数と員数」では、「『員数』という虚構にしがみつき、現実という「実数」の分析(把握)を怠ったことで生じた悲劇」が語られている。

 

 そして、第4章。

 この章は「共同体(集団)において自らの文化・思想に基づく具体的な秩序を作ることを怠ったことで生じた悲劇」について語られている、と理解している。

 

 この章、敗因21か条と関連するのは次の2条である。

 

(以下、敗因21か条より引用)

十八、日本文化の確立なきため

十六、思想的に徹底したものがなかったこと

(引用終了)

 

 この章で書かれている内容は、PW(戦時の捕虜)が収容されたキャンプで生じた暴力的秩序に関する話である。

 本で紹介されている『虜人日記』の内容を簡単にまとめると、次のようになる。

 

(以下、まとめ)

① 日本人の収容所において、力で有無を言わせずに人を従わせる傾向がある者が組織運営を行った結果、暗黒暴力政治時代になってしまった。

② 収容所を運営しているアメリカ人側も『さすがにこれはまずい』ということで、暴力政治を仕切っている人間を追い出した。

③ その結果、一見民主主義的な組織が出来上がったが、今度はそれに従わない連中が出てきて、秩序はなりたたない。

④ ああ、日本人は情けない。暴力がなければ秩序は成り立たんのか。 

(引用終了)

 

 ざっとまとめてしまったが、似たような話は今でもありそうな気がする。

 少なくても、私がこの現象について他人事であると思うことは全くできない。

 

 

 そして、こうなった背景について話は進む。

 最初に、山本七平氏が指摘しているのは、この収容キャンプにおいて生じた現象の意味付けである。

 山本七平氏は指摘する。

 これは、日本人たちに対して「最低限の衣食住の保障を与える。労働からも解放する。組織も切り離す。だから、お前らは自分たちの思想・文化に基づき組織を構成して自治をやれ」と言われたときに、集団がどうふるまうか調べた結果である、と。

 もちろん、そんな意図は誰もないだろう。

 だが、意図がなくても、意図があった場合に設定する条件が同じであれば、そのような評価は十分可能である。

 

 そのため、収容キャンプで生じた現象(暴力政治)は「日本人が組織から解放された場合に作り出すであろう秩序そのもの」である、と。

 キャンプの運営者たるアメリカ人は暴力政治が目に余るので排除したが、それ以上の関与はしていない。

 そのため、この結果はキャンプの運営者たるアメリカ人の思想によるものではない。

 つまり、この結果はまさに構成員たる日本人によるものであり、言い訳の余地はない。

 

 さらに言えば、この現象は別に一部の現象ではないらしい。

 とすれば、一部の例外を除き、そこそこの妥当性を有するもの、ということになる。

 そして、例外として「職人集団」があった、と書かれている。

 

 

 以上の評価を前提に、「何故?」という問題に進む。

 山本七平氏は指摘する。

 

 日本軍を維持していた秩序は、日本古来の文化も思想にも根差さないメッキだった、と。

 そして、その原因は「文化の確立」も「思想的徹底さ」もなかったためである、と。

 

 山本七平氏が経験した世界は次のような感じだったようである。

 

 各人は様々な考えを持ち、それに基づいて発言した。

 発言自体に問題はない。

 しかし、各人はその発言に伴う行動はせず、その行動は「人間の本性」のままであった。

 さらに、発言と行動の不一致を指摘される(当然の指摘であろう)と、それを認めずに怒る。

 その怒りは混乱・嘲笑・侮蔑・反発となり、最終的には暴力と暴力の応酬に転化する。

 その結果が暴力政治である、と。

 

 文化の確立があれば、「行動と発言が一致しない」ということはある程度回避できたであろう。

「確立」という過程において、不一致の部分が修正されるだろうから。

 思想的徹底さがあれば、行動と発言の不一致を指摘されたら素直に認めて自省しただろうし、また、不一致の程度も修正されたであろう。

 しかし、その両方がなければ、このような結果が生じたとしても不思議ではない。

 

 さらに、「力があること」それ自体は問題ではない。

 思想も文化も他人を強制する力があるという意味では「力」なのだから。

 そして、「力」がなければ秩序はできないのだから。

 しかし、「力」を制御するものがなければ、生身の暴力がそのまま秩序になってしまう。

 それだけのことである。

 

 

 以上のからくりを理解して、私は背筋が凍った。

 なるほど、これは全く克服できていないと言わざるを得ない。

 収容キャンプにおいて弱き者は既に戦死・餓死していた。

 それがいないキャンプでもこんな結果なのである。

 ならば、弱き者が存在する現在の日本ならどうか?

 言うまでもない。

 

 最近、私の近くでこれに似た現象があった。

 もちろん、収容キャンプではないので、その集団から離脱する自由はある。

 だから、誰かが身体上のケガをした、といったことはない。

 しかし、それを見て溜息をつかざるを得なかった。

「なるほどね」と。

 もちろん、遠くから見ると決めて、介入しない自分自身にも批判の矢は刺さる。

 この現象が生じた原因について責任のいくらかは私にあるから。

 

 現在、私が「死んでいる」と判断し、関心がなくなった日本国憲法を見直そうと思ったのは、日本国憲法の理念である自由主義・民主主義・平和主義・資本主義(これはキリスト教に由来する)が日本古来の思想とどの程度重なり合うのかを確認したかったからである。

「全部重なる」、「全く重ならない」ということはないだろう(ひょっとしたらあるかもしれないが)。

 また、自由主義・平和主義・民主主義・資本主義、それぞれ見ても重なり合う程度は違うだろう。

 だが、その点をちゃんと見ておかないと、それがために悲劇が起きるのではないか。

 

 それから、各学問と日本文化との食い合わせも見たいと思っている。

 これは妄想レベルの話だが、数学のような学問と日本文化も食い合わせが悪いような気がするので。

 

 

 最後に。

「背筋が凍った」のはその通りである。

 しかし、これはしょうがない面もある。

 つまり、日本は植民地にならないために必死で西洋の技術や政治システムなどを取り入れた。

 しかし、太平洋戦争は日本が近代化を初めてから100年も経っていない。

 100年未満で日本文化とヨーロッパの思想・技術とリンクさせよ、といってもねえ。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 2

 今日はこの記事の続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 私が『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』から学んだことをまとめる。

 

 

3 「第3章 実数と員数」を読む

「実数と員数」、これまたスパッとした言い方である。

「現実に存在する数」と「帳簿に記載された数」。

 言い換えるなら、「客観と主観」・「現実と演出(虚構)」になる。

 

 また、この章で用いられている敗因21か条の条項は第1条である。

 

(以下、書籍引用)

一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。(以下略) 

(引用終了)

 

「精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事」から始まる条項は第1条にある。

 つまり、これが「(敗因21か条を書いた人が考えた)最も重要な敗因」になる。

 第一条に大事なものを持ってくるのは「十七条憲法」(第1条は「和を以て貴しとなし、(以下略)」)でも後藤田五訓(第1条は「省益を忘れ、国益を思え」)でも同じである。

 

 その内容は「精兵主義の軍隊に精兵がいなかったこと」。

 結構厳しい言葉である。

 そして、多大な反発を招く言葉でもあろう。

 

 例えば、A国において共産主義が浸透しなかったとする。

 それについて「A国で共産主義が浸透しなかった原因は、A国共産党に真の共産主義者がいなかったからである」などと断定され、A国の国民がこれに納得すれば、A国共産党は死刑宣告を受けたのと同じである。

 とすれば、A国共産党(党員)はこの発言には断固抗議せざるを得ない。

 

 

 注意しなければならないのは、「いなかった」という言葉の評価である。

 この文章から「精兵がゼロだった」という事実を認定するのは妥当ではない。

 何故なら、精兵の存在・存在した精兵の善戦ぶりはこの本に引用されている『虜人日記』にも書かれているし、山本七平氏も認めているからである。

 つまり、「精兵がいなかった」とは、「(全体を見て)『いる』と評価できる程の数が存在しなかった」という意味にとらえるのが妥当であろう。

 

 

 本章では「何故、『精兵主義』を標榜しながら、精兵が存在しなかったのか」という原因の分析に話が進む。

 その原因にある発想が「実数と員数」という言葉に込められている。

 

 例えば、①日本政府が「日本は民主主義だ」と発信すること、②現実において日本が民主主義であること、これは同値ではない。

 ①と②が共に真であることもある(当然ある)が、①が正しく②が誤りであることはいくらでもありうる。

 仮に、①の政府の声明を唯一の根拠として、実情を考慮することなく「日本は民主主義」と認定したら、「おいおいおい」となるだろう。

 

 ただ、世情を見渡す限り、「日本は民主主義だ」と標榜すれば「日本はちゃんとした民主主義システム」であり、「精兵主義」を標榜すれば(全体として見て)精兵が存在することになってしまう。

 それが太平洋戦争のときに起きた現象であり、「実数と員数」に込められた意味である。

 

 

 当然のことだが、事実認定(実態調査)において重要なのは、それを裏付ける事実(間接事実)や現実的状況(証拠)である。

 例えば、「日本に精兵がどの程度いるか」を判断したければ、帝国の軍隊の質を客観的に調べる必要がある。

 その際、政府が「日本には精兵がいる」・「日本は精兵主義を採用する」などと発表しても、判断に影響を与えることはほとんどない。

 さらに言えば、(あり得ない話だが)政府が「日本に精兵がいない」と自省の発言をしたところで、軍隊の質が激変するわけではない(士気が下がる程度の影響があるかもしれないが、火器・大砲の威力が激減することはない)。

 この点、「日本がどの程度民主主義であるか」を判断する際、見るべきものが具体的な政治システム・社会的事実であって、政府の発言ではないと同様である。

 

 事実認定(実態調査)において以上の抽象論に反対する人間はいないだろう(ひょっとしたらいるかもしれないが)。さらに言えば、「事実をどう認定したら〇〇主義者」などと言い出せば、「アホか、こいつ」ということにだってなりうる。

 しかし、どうやらこの現象、最近でも続いているようなのである。

 書籍の具体例は春闘の参加人数に関する話だが、ここでは別の事例を挙げたい。

 

 

 私が15年以上見続けている番組に「丸激トークオンデマンド」という番組がある。

 これは私が尊敬するお二方、宮台真司先生と神保哲生さんが配信している番組である。

 

www.videonews.com

 

 丸激では過去の番組のいくつかが無料で見られるのだが、その中に次の放送がある。

 

www.videonews.com

 

 この放送回(129回)のPART1の43分43秒あたりから宮台先生が話した内容を聴いてみてほしい。

 要旨をまとめるとこんなことになる。

 

(以下、まとめ、文字起こしではないので注意すること)

・ある人間(近代主義者と言っているが、別に近代主義者である必要はない)が、(一定の事実により)「この作戦は実りが少ないのでやめ、動かないことで臥薪嘗胆を期した方が良い」、「この作戦は負ける可能性が高いので修正したの方がいい」などと言うと、「貴様ぁぁ、帝国陸軍に負けがあるというのかぁぁ」などと怒鳴られる。

・ある人間が、「ここで強硬姿勢を緩めないと相手国は外交交渉を打ち切ってしまうだろうが、それでいいのか」、「仮に、K国が日本の山手線をめがけて50発のミサイルを撃ち込み、そのうち25発くらい命中するとかなったらまずいですよね」などと言ったら、とある論壇では「そのようなことを言うのは敗北主義である」などと怒鳴られる。

・作戦の成功に関する予測や相手の行動を予測するのは、近代主義的国民益(国益)を考えるなら当然のことである。しかし、そのような予測をすると「貴様ぁぁ」となってしまう。

(まとめ終了)

 

 ちなみに、この部分について文字起こしされてないかなと思い、ネットを巡回していたら、面白い文章を見つけた。

 せっかくなので貼っておく。

 

blog.livedoor.jp

 

 つまり、「作戦の見込みを(事実関係から)予測し、リスクを評価して修正案を提示すること(作戦中止を進言すること)」が、その内容如何によらず「皇軍を侮辱すること」になるらしい。

 また、自分側に不利益な結果を予測し、その旨発言すると、「敗北主義」となってしまうらしい。

 一瞬、「言霊思想か」と思ってしまった。

 多分、そうなのだろう。

 

 もちろん、山手線にミサイル云々というのはいささか非現実的である(この放送は2003年9月5日、拉致問題で世論が沸騰していたころ)。

 よって、「その仮定は現実に発生する可能性が極めて低く、考慮の必要はない」という反論は十分可能であり、そこそこの説得力がある。

 そのため、「敗北主義」を持ち出して批判を封じる必要はどこにもない。

 

 このような現象を見てしまうと、「ああ、昔も今も変わってねーわ」と言われても抗弁できないように思われる。

 まあ、この放送自体約20年前なんだが(というか、こう書いてその時間の隔たりに驚いている)。

 

 最近だと、データ改ざんの問題が挙げられるだろうか。

 でも、これは「実数と員数」以前の問題かな。

 精神構造は類似のものではないかと思われるが。

 

 さて、山本七平氏は春闘の参加者数に関する話を題材にしている。

 ある春闘における参加者数について、主催者発表によると20万、警察発表によると約3万。

 

 では、実際の参加者は?

 メディア(事実報道のスペシャリスト)は何故それを調べないのか?

 このメディアの姿勢は非常に問題であると思われるが、本論から離れるのでこれ以上は触れない。

 

 さて、参加者数(事実)をどう認定するかを踏み絵(資格の問題)にしている。

 曰く、「警察発表を信じるようでは労働記者の資格はない。」など。

 しかし、そんなことをすれば、誰も事実が把握できなくなってしまう(警察側が敢えて虚報を流す動機はなさそうなので、警察が発表した数値が真実に近い値であろう)。

 実態が把握できなくなれば、それは大問題を引き起こすであろう。

 

 その結果、どんな悲惨な結果になったか。

 詳細は本に書いてあるが、おおむね想像のとおりである。

 

 さて、本章のまとめ部分を引用しよう。

 

(以下、本文97ページ以下引用)

「ない」ものを「ない」と言わずに、「ない」ものを「ある」というかいわないかを、その人の資格にしたことであった。

 一言にして言えば「精兵主義はあっても、精兵はいない」という事実を、一つの「事実」としてそのまま口にできない精神構造にあった。

 最後の最後まで「員数」すなわち「虚数」を「実数」としつづけ、そして「実数」として投入された「員数」は、文字通りの「員数」として、戦闘という実質の前に、一方的に消されていったわけである。 

(引用終了)

 

 私は「ない」ものはあっさり「ない」と言ってしまう傾向がある。

 さらに、「実態調査をやろう」と思ったらあっさりとやってしまう。

 最近も、精神的混乱から色々な記録を録りだして態勢を立て直したように。

 少し昔も、あることに興味を持ったが、データがないため、重要なデータも重要ではないデータも片っ端から取りまくったことがあった。

 そのため、「実数」と「員数」を混同してダメージを負った経験はあまりない(細かいダメージはいくらでも負っているだろうが)。

 

 また、自分には「完璧主義」の傾向があったが、だからといって「自分が完璧である」と思うことは全くなかった。

 むしろ、いかに「自分がダメか」を痛感し続け、それがメンタルを崩す原因にすらなっている。

 

 とすれば、この章は、私にとって考え方を明らかにする上で非常に有益であるが、何かを変えなければならないということはあまりなさそうである。

 

 

 ところで、「精兵主義はあっても、精兵はいない」という事実を一つの「事実」としてそのまま口にできない精神構造、これはどこから由来するのだろう。

 これを起源とする背景は、「言霊思想」であろう。

「言葉にしてしまうと、それが実現してしまう。だから口にしない」という発想である。

 

 よく「願い事があるなら、何度もそれを口に出して言え」と言われている。

 これは「口に出すこと」がトリガーになって「願いの成就」に貢献するからである。

 だから、「言霊思想」それ自体が荒唐無稽だとは思わない。

 事実として日本人は言霊に引きずられる(私だって言霊に引きずられることがあるし、それがために失敗したことだってあるだろう)

 さらに言えば、そこから脱却するのは不可能だと考える。

 

 しかし、それゆえ現状を調査させない、または、調査した結果の発表を許さないということになれば、共同体主体で見れば情報が共有されず、惨状を招くことになる。

 共同体統治システムとして民主主義を採用しているならなおさらである。

 

 そう考えると、日本人が持つ言霊思想、これは近代立憲主義とは喰い合わせが悪いのかもしれない。

 もちろん、それは単に評価として「マッチングしねー」と言っているだけであって、「日本人が悪い」ということではない。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 1

0 太平洋戦争の日本の敗因がコンパクトにまとまっている名著

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』という本がある。

 

 

 最近、私は山本七平の書籍を読み漁っている。

 その上で振り返ってみると、この本は「太平洋戦争における敗因分析」が綺麗にまとまっている。

 

 ちなみに、2021年4月4日現在、この本はアマゾン・アンリミテッドに入っている。

 興味のある人は読んでみるといいかもしれない。

 ただし、読めば読むほど暗澹たる気分になるかもしれないので、その点はご注意を。

 

 さて、この本の章を見てみよう。

 

(以下、書籍より引用)

 第1章 目撃者の記録

 第2章 バシー海峡

 第3章 実数と員数

 第4章 暴力と秩序

 第5章 自己の絶対化と反日感情

 第6章 厭戦と対立

 第7章 「芸」の絶対化と量

 第8章 反省

 第9章 生物としての人間

 第10章 思想的不徹底

 第11章 不合理性と合理性

 第12章 自由とは何を意味するのか

 (引用終了)

 

 この章立てを見るだけで、どのポイントで見ればいいのかの起点になっている。

 詳細は本を読んで、、、と言いたいところだが、私が理解したことを示す観点から、各章の要点をまとめてみる。

 

1 「第1章 目撃者の記録」を読む

 本書では、多くのところで故・小松真一氏の『虜人日記』の記載が参照されている。

 

 

  この点、敗因に関する解説は2章以降であり、この章では敗因について触れていない。

 ただ、「信用できる記録とは何か。それは(『見』と『聞』になれ合いのない)『虜人日記』である。」ということを通じて、現在の記録(目撃者の記録)に対するマス・メディアのありようを批判しているように感じる。

 そして、外国の権威を笠に同胞に高圧的に接する日本人にも。

 この辺は私自身にも心当たりがあるので、機会があれば、そのときの私の経験とその背景を探ってみたい。

 

2 「第2章 バシー海峡」を読む

 実を言うと、私は「バシー海峡」の意味を理解するのに時間がかかった。

 ただ、その意味を理解したときに背筋が凍る思いをしたことは覚えている。

 

 小松真一氏も山本七平氏もバシー海峡に日本の敗滅の原因を置いている。

 

(以下、小松真一氏が掲げた敗因21か条より引用)

 十五 バアーシー海峡の損害と、戦意喪失  

(引用終了)

 

 バシー海峡は太平洋戦争当時、いや、現在においても重要なルートである。

 日本と南方を結ぶためのルートとして。

 

 よって、太平洋戦争(特に、末期)においてはアメリカの潜水艦が待ち構えており、通行する輸送船などを次々と沈没させていったのである。

 この海峡を「魔の海峡」・「輸送船の墓場」というのはそのためである。

 

 ところで、「バシー海峡の損害と戦意喪失の背景」に何があるのか。

 それについて書いてあるのが、第2章である。

 

 乱暴にまとめてしまえば、次のようになる。

 

「失敗したときに、ただただ量を増してやり直すだけで、(目的を再確認して)代替手段を検討しないメンタリティ」

 

 この意味が分かったとき、私は背筋が凍るのを感じた。

 私にも似た経験があるからである。

 私の場合、量を積み重ねるだけで複数の難関を突破しており、成功体験がある分、さらに質が悪いのかもしれない。

 

  

 また、この章ではバシー海峡以外に2つのことに言及している。

 一つは「目的不在」、もう一つは「技術的知識」の軽視である。

 

「目的不在」とは何か。

 これは、第二次世界大戦の枢軸国、ドイツと対比させることではっきりわかる。

 

 第二次世界大戦のとき、ドイツは明確な目標を以てヨーロッパ各地に攻勢を仕掛けた。

 その所業をどう評価するかはさておき、明確な「目標」と目標を達成するための「手段」があったことは否定できない。

 さらに言えば、第二次世界大戦で連合国側になったアメリカ(フランクリン・ルーズベルト)・イギリス(ウィンストン・チャーチル)・ソ連ヨシフ・スターリン)・中国(共産党毛沢東)の指導者は、皆、目的意識がはっきりしていた。

 

 しかるに日本はどうか。

 日華事変こと日中戦争以降、対外的な目的・目標はなかったのではないか、と思われる。

 その意味では日露戦争とは大違いである。

 

 目的が不在・不明確であれば、手段の合理性など検討しようがない。

 手段の合理性は目的との兼ね合いで決まるのだから。

 

 この「目的不在」、これも私にとって耳の痛い話である。

 目的が明確な場合はうまくいったが、それが漠然となった途端にうまくいかず破綻してしまうのである。

 また、漠然と持っている程度では、日常生活に紛れて消えてしまい、不明確になって雲散霧消してしまう。

 それゆえ、最近では常に「今行っている行為の目的が具体的にどこにあるのか」を意識しているようにしている。

 そうすることで、手段の合理性も検討できるし、リソース配分も検討できるので。

 

 あと、この章で現れるものとして、「技術的知識」の軽視がある。

 ただ、この話は第11章にも触れられているので、ここではこれ以上触れない。

 

 

  山本七平氏は戦後の色々な場面でも同様のことが起きている旨書いている。

 そして、私が改めてみるに、現在の政治でもなんか似ている印象を受ける。

 とすれば、書籍でも書いてある通り、この点は克服されていないのだろう。

 

 もちろん、「克服すること」は簡単な話ではない。

 克服できない点をとがめるつもりはないし、私にはそんな資格はない。

 

 だから、将来のために記録を遺そうと思っている。

 それが変えられなくても、「我々にはこういう傾向がある」ことを知っていれば、対処しうる可能性も増えるのだから。

司法試験の過去問を見直す2 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回から少し風呂敷を広げた妄想話をする。

 だから、今回以降は過去問に言及しない。

 

 今回は、所謂「目的効果基準」について考えたことをつらつら書いていく。 

 

14 政教分離の目的と目的効果基準

 憲法学の基本書を開くと、政教分離の趣旨として次の3つが掲げられる。

 

① 個人の信教の自由を補強(宗教弾圧の防止)

② 政府を破壊から救う

③ 宗教団体の堕落の防止

 

 政教分離カトリックプロテスタント宗教戦争から生まれたことを考慮すれば、①は当然だろう。

 ③は立憲民主主義を背景とする政府がやることとしては「おせっかい」な気がするが、宗教(宗教団体)の社会的必要性と影響力を考慮すれば、宗教団体が堕落されたら社会(共同体)が困るのでやむを得ないというのはあるのかもしれない。

 

 ここで大事なのは②である。

「破壊」とは大げさな表現だが、何を意味するのか書くと次のとおりになる。

 

 立憲民主主義(多数決民主主義ではない)を前提としている国家は、政治的決定を多数決という手段によって行う。

 しかし、この背景には「熟議」がある。

 つまり、「利害が対立する当事者たちが議論を交わし、社会的事実を調査し、当事者らの考え・利害を明らかにし、妥協できるところは妥協しながら結論を出し、政策決定等にもっていく」ことを前提としている。

 

 歴史的経緯を踏まえれば、これは的外れなものではない。

 というのも、昔は多数決ではなく、全会一致だった。

 ただ、全会一致を要求していたら、リソース(時間も含む)が足らない。

「緊急事態にリソースがなくて政策決定できず、結果として大ダメージを負いました」それではシステムとして役に立たない。

 そこで、「全会一致」は「〇〇%以上の賛成」という形に変容した。

 また、「全員参加」は「代表者による議論」へと変容した。

 この点は、以前紹介した『痛快!憲法学』に分かりやすく書かれている。

  

 

 

 さて、立憲民主主義において、「決定は多数決だが、その背景には熟議がある」旨話した。

 しかし、この熟議は宗教団体が絡むことで作動が停止しかねない。

 

 例えば、A教の教祖が「A教の教義に従えば、議会が作ろうとしているB法はとても容認できない。信者は断固反対し抗議せよ。反対・抗議しなかったものは背教者として破門する」などと指示したとしよう。

 また、他の事情から見て「廃案が理にかなっている」ものと仮定する。

 

 しかし、もしその指示に従って「絶対反対・妥協しない」とされたら、どうなるだろうか(もちろん、反対運動等は言論等合法の範囲で行うものとする)。

 立憲民主主義が前提としている熟議が成立しなくなってしまう。

 

「(立憲民主主義の)政府を破壊から救う」とはこれを意味している、と考えている。

 

 

 さて。

 次に、目的効果基準についてみる。

 目的効果基準を簡略化すると、「目的」と「効果」のいずれかが正当化されれば合憲という基準だった。

 

 もっとも、上の目的に照らすと、重要なのは「効果」である。

 というのも、「結果として、特定の宗教を優遇・冷遇した」となれば、これこそ政教分離の趣旨が全うできなくなるからである。

 

 そして、「効果」に比べれば、「目的」やレモンテストの「関係」の要件は影響度が相対的に薄い。

 目的が宗教に対する援助であっても、結果が不発なら害悪は発生しない(もちろん、結果は運によるところもあるため、目的を考慮しないことがあり得ないとしても)。

 さらに、レモン・テストにある「関係」の要件も、ただ関係を持つだけなら害悪は発生しない(もちろん、関係がずぶずぶになればまずいので予防の必要性はあっても)。

 逆に、関係を完全に断ち、その宗教団体の持つ知恵を政策に反映できなければ、政府にとってまずい結果になるということすらありうる。

 

 最高裁政教分離違反になる行為(憲法20条3項の「宗教的活動」)を「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」と定義していた。

 一見すると、「目的がアウトで、かつ、効果がアウト」というように並列しているように見える。

 しかし、「(目的と効果は)諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」としていること、そもそも「我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さない」旨述べていることを考慮すると、メインは「効果」であって「目的」はサブではある。

「目的」でさえ「効果」の一要素と言ってもいいのかもしれない。

 

 それから、「目的効果基準」については批判があった。

 曰く「緩い(例外が広い)」とか。

 あるいは、「境界が分からん」とか。

 

 確かに、政教分離の原則論を貫くのであれば前者の批判は妥当だろう。

 しかし、改めて今考えると、「そんなもんじゃねーの?」という気がする。

 

 この点、津地鎮祭訴訟において最高裁が高々とあんな理想論を判決理由に書いており、それを見ると「どうなん?」とならないことはない。

 しかし、政教分離規定を制度的保障と解し、かつ、宗教的儀式への参加の強制を20条2項で縛っていること、そもそも論として司法の介入は例外と考える(所謂「司法消極主義」)ことを考慮すれば、20条3項が緩くなるのはしょうがない面があるのかもしれない。

 

 それから、「境界が分からん」という批判もあった。

 でも、そもそも境界をくっきり分けることは可能なのだろうか?

 さらに、裁判所がその境界線を明快に引くことが妥当なのだろうか?

 本来、境界線の議論は憲法制定時にやるべきことではないのか?

 そう考えると、「境界が分からん」という批判、分からないではないけど、「そもそも無理じゃね?」という気がする。

 

 私も穏やかになったのだろうか?

 それは分からない。

 

 さて。

 愛媛玉ぐし訴訟の後、北海道の砂川にて政教分離違反の判決が出た。

 また、最近、那覇孔子廟についても同様の判決が出た。

 よって、次回はその2つの判決についてみてみたい。

 そして、次々回は政教分離を日本に適用することについて思うことについて書いていく。

令和3年の4分の1が終わる

1 令和3年も4分の1が終了

 3月が終わり、4月になった。

 つまり、令和3年も4分の1が終了したことになる。

 

 この3カ月間、体重・行動・運動(ウォーキング)の記録を録った。

 また、2月下旬からだが、睡眠の記録も録り始めた。

 そこで、これらの記録を見ながら3カ月を振り返ってみる。

 

2 充実していた3カ月間

 見直してみると、色々なことをした3カ月間だった。

「ミッションリストを作成して完了したものにチェックを入れた」関係で「しようとしたこと、結果的にしたこと」が分かる。

 そして、ミッションリストを見たところ、約7割のミッションが完了していた

 

 具体的に書くことで、やったことが分かる。

 例えば、

 

 5冊のプログラミングの書籍を写経しながら読んだ。

 習慣としての読書を始め、20冊(週1.5冊)読んだ。

 ブログを開設し、3カ月間で約30個の記事をアップした。

 資格(統計検定2級)をゲットした。

 その他についてもごにょごにょ。

 

 こうやって記録を作成したことで、「無意味に過ごした3カ月ではなかった」ことが分かる。

 記録を残してよかった。

 

 このように、主観的な感想は「充実した3カ月だった」になる。

 

3 もう少し合理的に振舞えたか

 この点、「この3か月間は完全」ではない。

 ミッションの3割は残っているし。

 よって、もう少し真面目に行動すればミッションの消化ができたのではないか、とは考えている。

 

 例えば、「プログラミングの本を写経した」と言ったものの、未消化の本が5冊残っている。

 また、統計検定2級の勉強についても、「精読して演習問題を解こう」と考えていた1冊をほとんど見ないで合格してしまった。

 さらに、「プログラミングのアウトプット」として行う予定の研究・結果の公開はほとんど進んでいない。

 AI研究は完全未消化。

 最後に、別の研究も遅々として進まず。

 

 さらに、実際のミッションに対する活動時間もそれほど高くない。

 想定していた時間の約50%である。

 

 100%にすることは不可能かもしれないが、もう少し増やしたいところである。

 でも、時間(量)それ自体は昔録ったときの活動時間と同程度。

 ならば、私の活動時間を増やすことは難しいのかもしれない。

 量よりも質を改善した方がいいのかもしれない。

 

4 1日8時間睡眠

 睡眠時間の記録を開始して、まだ数週間しか経過していないものの、記録によると私は1日8~8.5時間寝ているらしい

「自分は過眠ではないか」と疑っていたことがあったが、現段階ではそうではないらしい。

 ホッとした。

 

 でも、1日8時間は少し長いようにも感じている

 自分の活動時間を増やす観点から見れば、もう少し睡眠時間を減らしたいところ。

 短眠に関する情報を集めて実践するかなあ。

 

5 体重は増えも減りもせず

 去年の秋、血液検査の結果がまずかった。

 その影響か体調それ自体が非常に悪かった。

 そこで、体重を減らすことにした。

 そして、去年の11月・12月で体重を6キロ減らした。

 

 しかし、この3カ月間は体重は一定のまま。

 増えもしないが減りもしていない。

 

 個人的にはもっと体重を減らしたいところ。

 実感として去年の夏よりも体調はいいし、医者からも特に何も言われていないのだが、もっと快適になりたい。

 

6 ブログについて

 1月にこのブログのアカウントを作成したが、「ブログの方針も決めずに書き出しても意味がない」と放置していた。

 3月になって、「そろそろ始めないとなあ。思ったことをメモ代わりにすればいいか」と腰を上げてスタート。

 

 最初に決めたのは、「1記事2000文字以上、3カ月で26記事、年間約100記事」というノルマ(ノルマでもあるが、「ブログにこれ以上時間をかけない」という縛りでもある)。

 どうやら、そのノルマは消化しつつある。

 

 当初のブログのネタは

 

山本七平の書籍を読み、勉強したことをまとめる

・プログラミングの勉強状況についてメモする

・その他ごにょごにょ

 

であったが、憲法について考える」というネタを追加してしまって、一気に重たくしてしまった。

 もっとも、リソースはこれ以上増やすわけにはいかないので、気長にやる予定である。

 

7 次の3カ月間について 

 4月から6月も無理のない範囲でやれることをやる予定。

 

 最低でも、プログラミングの写経は全部終わらせたい。

 できれば、プログラミングのアウトプットを具体化させたい。

 AIに関する研究についてのインプットを始めたい。

 AI研究の場に関するインプット・アウトプットも始めたい。

 山本七平に関するインプット・ブログへのアウトプットは気長にやりたい。

 その他についてもごにょごにょ。

 

 そして、体重を減らしたい。

 そのために運動する習慣も身に着けたい。

 

 、、、などと書きまくったが、こりゃ消化不良を起こすな。

 私がセーブしないといけないのは「やりたい」という欲求それ自体なのかもしれない。

「統計検定2級」、資格取得奮戦記

1 はじめに

 先日、CBT方式で「統計検定2級」を受験し、合格した。

 そこで、後で振り返ることができるよう、このブログに記録を遺しておく。

 

2 動機

 遠い遠い昔、私は「プログラミングを使ってデータを録り、その結果を発表する」ということをしていた。

 もちろん、「データを録る」といっても「集計して確率・平均・期待値を出す」というレベルであり、極めて初歩的なものであったが。

 

 この点、私は大学1年のときに「統計学入門」という講義の履修登録をしたが、授業はほとんど受けず、試験を受けて単位を取っただけであった。

 その後も、気になることがあるときに大学時代に買った教科書(東京大学出版会の『統計学入門』)をパラパラ見てはいたが、それ以上のことはしていない。

 つまり、真面目に勉強することはなかった。

 

 ただ、せっかく「データを録って、それを発表する」ということをしていたのだ。

統計学」について無知なのはもったいない。

 そこで、一度真面目に勉強しよう、インプットだけだと真面目にやらないからアウトプットを形に残そう、そのために資格を取ろう。

 そのような流れで、統計検定2級を受けることにした。

 なお、2級を選択したのは、レベルが「大学教養課程程度(1・2年)」と書かれていたため。

 とりあえず目指せるラインを目標に置くことにした。

 

3 申込

「統計検定2級を受ける」と決めたはいいものの、現在、「コビット・ナインティーン」の影響で試験が中止になる可能性があった(現に、私は去年申し込んだとある資格の試験自体が中止になり、受験料が返還された)。

 また、さっさと受験してしまいたい、という思いもあった。

 そこで、CBT形式の受験を選択した。

 

 CBT方式とは、こちらが選択した会場(住所の近くの会場)に行き、PCを使って試験を受ける形式のものである。

 会場の空き具合如何によっては原則としていつでも受けることができる。

 

www.toukei-kentei.jp

 

 3月中旬、統計学の入門書を読んだ私は「さっさと統計検定2級を受けて、合格するぞ」と決めて受験の申し込みをし、会場の指定をする。

 その会場は新幹線が止まる駅から歩いて10分以内の場所にあり、交通の便は極めて優秀であった。

 また、予約状況は「直近2週間は満席だが、その後はちらほら空きがある」という状況であった。

 なんとか3月中に受験したいと思っていた私は3月下旬に日程を指定する。

 

 そして、受験料を指定振込先に振込む。

 この点、CBT方式は一般の受験方式よりも高い。

 しかし、日程は自由・合否は直ちに分かるなどの便宜を考慮すれば全然気にならなかった。

 

4 直近過去問を解く

 試験の申し込みから数日間。

 私は何も勉強せず、対策もしなかった。

 しかし、「このままではまずい」ということで直近の過去問を解いてみた。

 過去問がどんな感じか分からなければ、何をすべきかも分からないからである。

 

 このとき、私は「大学教養レベル」と書かれたハードルを高く見ていた。

 そのため、「自分のレベルを把握する」という観点から統計検定4級や3級の直近過去問(19年11月に実施されたもの、次のサイトで公開)を入手し、それらも解いてみることにした。

 

www.toukei-kentei.jp

 

 時間を測って試験に挑戦する。

 結果は・・・(ドラムロール)。

 

4級 30問中27問正解(正答率90%)

3級 30問中25問正解(正答率83%)

2級 35問中25問正解(正答率71%)

 

 サイトに記載されている2級の合格ラインは「正答率70%」。

 よって、現状は合格ラインのボーダー上にいると推測できる。

 つまり、「急ピッチで猛特訓しないといけない」わけではない。

 そんな結果が出て、とりあえず安堵する。

 

 また、「以前買った過去問集(統計検定2級の過去問集、私が持っているのは16年から18年までの過去問が掲載されているもの)をこなせば十分であり、追加の問題演習は不要である」とも判断する。

 現時点で既にボーダー上にいるのだから。

 

 その後、CBT形式の受験が初めて、ということで、試験の方法について調べた。

 その結果、あることに気付く。

 

 問題はPCのディスプレイに表示され、問題用紙は配布されない。

 計算用紙は渡されるが、どの程度か不明。

 

 というわけで、不安になる。

 問題用紙に書き込みながら問題を解くことができない、と。

 計算用紙があるといってもそんなに枚数があるわけではないだろう、と。

 これは内容の学習とは別の対策が必要ではないか、と。

 

5 試験前夜、徹夜で過去問を解きまくる

 不安にはなったが、直近の過去問を解いて、現段階で既に合格ボーダー上にあると分かってホッとしてしまったのだろう。

 直近過去問を解いてから試験前日まで、過去問集にある過去問は一切解かなかった。

 

 試験前夜、「さすがに何も解かないで試験を受けるのはまずい、不合格になったら後悔しきれん」ということで過去問集掲載(過去問集は下のリンクのとおり)の6回分の過去問を解くことにした。

 また、本番がCBT形式であることを考慮し、「試験時間は75分しかない」と仮定して過去問を解くことにした。

 これなら問題用紙に直接書き込めず、問題文の確認などに時間がかかっても対処できるからである。

 

 

 そして、徹夜で過去問集を解く。

 6回のうち1回でも7割切るのはイヤだと考えていたが、総て70%以上の正答率を叩き出した。

 過去問演習の結果とCBT方式ならボーダーが正答率60%になることを考慮し、安心する。

 これなら、「会場に行くことができ、試験本番に眠くならなければ受かる」と。

 

6 本番

 次の日。

 私は新幹線に乗って試験会場に向かう。

 そして、会場付近の喫茶店にて最後の確認をする。

 

 そして、受験開始。

 そして、合格。

 

 試験本番、眠くはならなかったものの、集中力は途切れ気味であり、苦労した。

 これは一夜漬けの副作用である。

 ちゃんと計画的に勉強しなきゃいけなかったと反省する。

 

 合格証は1カ月半くらい後に送られてくるらしい。

 今から楽しみである。

 

 さて、統計検定2級をゲットし、「資格を取る」というノルマの一部を達成した。

 次は、お金の勉強をする関係から、FP3級の資格を取ろうと考えている

(既に、申し込みはした、受験は5月23日)。

司法試験の採点実感を読む

1 「採点実感」というマジックアイテム

 司法試験が現在のシステムに変更されてから、「採点実感」という採点者のコメントが発表されるようになった。

 例えば、去年(令和2年)の試験に関してはこんな感じで公開されている。

 

www.moj.go.jp

 

 当然だが、司法試験に合格したい者は必ず読まなければならない。

 この点、予備校・法科大学院等の講義・教材はこれらの採点実感を踏まえているはずなので、それらに接していれば間接的に採点実感に触れていることにはなる。

 しかし、訴訟法における「直接主義」の点を考慮すれば、というか、そんな大げさなものを持ち出すまでもなく、直接見るべきものである。

 

 さて、私が司法試験の勉強をしていた当時は、新旧両方の試験が行われていた(試験勉強期間中に現在のシステムの司法試験がスタートした)。

 そして、私が受験し、合格したのは昔のシステムの方。

 

 昔のシステムでは、こんなコメントは公開されなかった。

 出題趣旨が数行発表されるだけである。

 だから、採点実感の公開については「うらまやしー」という気持ちを抱いていた。

 

 この点、私は新司法試験を受験する全くなかった。

 しかし、当時の試験の採点実感はちゃんと読んだ。

 試験の形式は異なるとはいえ、同じ司法試験。

 採点者の思考・感想は極めて重要だからである。

 

2 「判読困難な~」というコメント

 さて、久々に採点実感を読んでみた。

 約10年ぶりであろうか。

 

 採点実感を見ると、「判読困難な答案がある」旨コメントしている科目が複数あった。

 必修科目(7科目)のうち憲法行政法民法、商法、民事訴訟法、刑法に同趣旨のコメントが見られた(刑事訴訟法にはなかったらしい)。

 

 この「読めん文字で答案を書くんじゃない」という趣旨のコメントは昔もあった。

 その点は昔も今も変わらないということか。

 

 さて、冷静に考えてみると、これは異様である。

 解答の内容以前の問題なのだから。

 そして、受験者は大学を卒業して法科大学院に合格し、卒業した者たちなのだから。

 司法試験は高校入試・大学入試ではない。

 

 この点、現在の人はスマホ・PC等の電子機器を活用しており、手を使って文章を書く機会は昔より明らかに少ない。

 そして、社会においても手で文章を書かなければならない機会は少ない。

 そう考えると、試験のシステムの方を変えた方がいい気がする。

 まあ、受験者全員分のPCを司法試験委員会が用意するとなるとそれはそれで大変であり、変更はかなり難しいのかもしれないが。

 

 また、当時も、そして、今は「さらに」というべきであろうが、司法試験の論文試験は時間が足りない。

 採点実感に「時間が足らないのは理解できるが~」と書いてある科目があったが、それはどの科目にも言えることであり、本当に時間が足りない。

 過去も昔もそうなのであれば、いっそ試験時間を増やした方がいいのではないか。

 別に、司法試験は10将棋や100メートル走ではないのだから。

 

3 憲法の採点実感を読む

 採点実感には採点者が答案に求めていることが書かれている。

 よって、それを読むことで「どんな答案を書けばいいか」が分かる。

 その結果、勉強法も分かる。

 さらに言えば、司法試験は「法律実務」に携わる者が合格しなければならない試験であるから、実務で求められているものなどについても分かる。

 というわけで、ここに込められている情報量は膨大である。

 

 このブログでは、「旧司法試験の憲法の人権の過去問を振り返ってみよう」という趣旨でいくつかの過去問を見直そうとしているので、憲法について読んでみた。

 求められる能力は過去も今も大差ない以上、これを踏まえることは過去問を振り返る上でも有益だからである。

 

 感想は次の2点。

 昔、色々と口酸っぱく言われていたことのいくつかは正しかったのだな、と。

 例えば、「どんな自由が侵害されているのか認定し、その自由が憲法上の権利として保障されていることを明示せよ(厚く展開しなくてもよいが)」というもの。

 あるいは、「規制目的を掲げ、直ちに、「正当(重要、または、合理的)」などと結論を出さず、規制目的を評価して、その評価を明示せよ」とか。

 この辺は、この採点実感を見る限り正しかったのだな、ということが分かる。

 

 他方、異なる部分もある。

 

 まず、違憲審査基準を立てるまでの過程。

 また、判例に対する評価。

 この2点はなんか違う感じがある。

 

 ブログで過去問を取り上げる際には、この2点を踏まえているが、この2点は昔とスタンスが異なる。

 ただ、昔と今でどうして違うのか、その原因は分からないが。

 

4 さいごに

 最後に、風呂敷をかなり広げた感想を。

 

 採点実感というのは極めて有益な情報である。

 採点に関して緻密な情報を提供し、試験の目標・勉強の方針を具体的に明示している。

 

 しかし、ここまで明示していいのか、という疑問がある。

 もちろん、司法試験委員会(採点者)が具体例を示しつつ「こういう勉強をしろ」と言い、他方、受験者が「はい、わかりました」とそれに対応した勉強するのは非常に効率がいい。

 そして、司法試験の対象の広さを考慮すれば、効率を求めることが悪いことではないことも間違いない。

 しかし、過去問の情報以上に採点実感等としてこんなに情報を与えてしまえば、受験者側は「出題者の意図を断片情報から推測する」努力が不要になってしまう。

 それは、重大な副作用を生むのではないか。

 

 もちろん、採点実感を公開する背景・司法試験のシステムを変更した背景を振り返れば、「この措置がやむを得ないものである」という認識はある。

 だから、「やめるべき」とは言わない。

 ただ、「正解を与えすぎではないか」という気がするのである。

 

 それからもう一つ。

 昭和の時代、司法試験の合格者はかなり絞られていたと言われている。

 そして、それは制度改革の出発点となった。

 しかし、人数を増やしても質が悪化したら意味がない。

 そして、この採点実感を見る限り、「質は大丈夫なのか」という疑問を持たざるを得ない(私が合格した当時だって「質が云々」というコメントは多々あった)。

 

 この点、太平洋戦争の敗因の一つとして故・山本七平氏らは「員数主義」を示した。

 簡単に説明すると、「形式的に数があれば、あとはどうとでも」という考え方である。

 

 この「員数主義」は太平洋戦争後の様々な場所で見られているらしい。

 そして、私は法科大学院に携わる制度改革においても現れているのではないかと感じている。

 この点は、もう少し資料を集めて検討したい。

久々に市の図書館に行く

1 湯水のごとくあふれ出た好奇心

 最近、湯水のように好奇心が沸き、様々なものに対して関心を持っている。

 

 まず、故・山本七平氏関係。

 彼の本を読む目的は、「彼の太平洋戦争の体験などを通じて得られた彼の評価関数・分析を学び、よって、私個人や日本を理解すること」にあった。

 しかし、故・山本七平関係の書物をあたれば、色々と周辺事項を知りたくなる。

 その結果、日本の歴史と日本の思想(尊王思想)について興味を持った。

 また、日本の思想の背景にある日本神話にも興味を持った。

 

 その一方で、メモ書きの裏側にプリントされていた旧司法試験・論文試験・憲法の過去問を見ることで、近代憲法についても関心を持った。

 とはいえ、興味を持つのは各論ではなく総論である。

 だから、憲法それ自体ではなく、キリスト教(聖書)・西洋史にも興味を持つことになる。

 

 そして、私が漫画を通じて親しんでいた神話であるギリシャ神話。

 これにも興味を持った。

 

 以上のように、現在、日本史・日本思想(尊王論)・日本神話・キリスト教(聖書)・ヨーロッパ史憲法ギリシャ神話に興味を持ってしまった。

 来週の水曜日に受験予定の「統計検定2級」や現在学習中のプログラミングなどはどこへ行ったのやら、という状態である。

 

2 そうだ、図書館へ行こう

 さて、日本史・日本思想・日本神話・キリスト教ヨーロッパ史憲法ギリシャ神話等と色々な興味を持ったので、とっかかりとして入門書を読みたいところである。

 しかし、分野の数が多い。

 そのため、本を一気に買い求めれば、お金が結構飛んでしまう。

 そこで、私が住んでいる市の図書館に行って様子を見ることにした。

 

3 新鮮な気分を味わう

 市の図書館に到着する。

 正面玄関前に、ポスターが貼ってある。

 なんだろうと思ったら、マクドナルドのバイト募集のポスターであった。

 

 よくみると、図書館のサポート企業ということらしい。

 そんなシステムができたのか、と新たな知識が得られる。

 

 あと、興味深かったのが、入口正面に入ってとあるアイドルのブースがあったことである。

 私はアイドルのことに全然疎く、詳細は知らないが、新鮮であった。

 

 さて、図書館のことはさておき、本を探す。

 ギリシャ神話でいい本はないかな、日本神話でいい本はないかな、聖書についていい本はないかななどと思ったら、思いもがけない本が見つかった。

 例えば、これ。

 

 

 著者の福田博という方(大学の先輩にあたる)は私が司法試験の勉強をしていたころの最高裁の裁判官である。

 そして、議員定数不均衡訴訟(所謂「一票の格差」訴訟)では反対意見を書き続けた裁判官でもある。

 さらに、この方は外交官出身である。

 そのため、外国の事情に精通しており、(日本独自のしがらみにとらわれず)原則に忠実なことを述べられている。

 一部紹介したい。

 

 判決の事件番号・判決全文は次のとおりである。

 

 事件番号等・平成15(行ツ24)、最高裁大法廷判決、平成16年1月14日、民集第58巻1号56頁

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/391/052391_hanrei.pdf

 

(以下、平成16年に出された参議院議員定数不均衡訴訟の判決にある福田裁判官の追加反対意見より引用、なお、一部は省略する、さらに、強調は私の手によるもの)

 現実に国会が制定し改正を重ねてきた公職選挙法は,(中略)双方の選挙区選挙において地域的要素を加味ないし維持することにより,投票価値の平等の要請から離れた形の選挙制度を維持し続けており,投票権の平等を実現しようとはしない。最高裁判所も,累次の大法廷判決において,衆議院議員の選挙区選挙については最大3倍,参議院議員の選挙区選挙においては最大6倍までの較差の存在を合憲とする判断を重ねてきており,今回もその基本的な傾向は変わらない。

 このような較差の存在を合憲とする多数意見が理由とするところは,立法裁量の範囲内とするもの,地方自治の重要性を強調するもの,選挙訴訟の性質を理由とするものなど様々であるが,いずれも憲法が定める投票権の平等の本質的重要性を理解しないものであり,(中略)全く認めることはできない。
 現在の衆参両院の議員選挙について等しくいえることは,国会は,民主主義の統治システムの要であり,国の将来を定めていく上で最も重要な役割を担っているにもかかわらず,選挙区選挙に関する限り,長年にわたる投票価値の不平等の問題を解決することなく放置し,せいぜい不十分な修正を行うのみで,歪んだ形での選挙制度を温存することにより,基本的に現職に有利な体制を維持し続けているということである。
 これは憲法14条1項に定める法の下の平等に反するのみならず(14条1項を前後段に分け,後段に「住所」が特記されていないので,住所により投票価値に差が出ても,違憲の問題とはならないというような議論は,法の下の平等の本質を理解しないものである。もしそのような解釈で良ければ,例えば所属する「政党」(14条1項には特記されていない。)によって投票価値に差を設けても,憲法上の問題とはならないはずであるが,そのような説が受け入れられないことは現代の民主政治体制の下ではもとより当然のことである。なお,全く念のために一言すると,「政党」が14条1項に特記する「信条」によって形成されるものに限らないことは,我が国の現状を見ても疑う余地がない。),(中略)憲法15条1項,3項の定める国民の選挙権そのものを否定しているといえる。(中略)

 なお,一言付言すると,反対意見の中には現在の公職選挙法で認められている1票の較差を違憲とするものの,最大較差2倍までを合憲として許容する立場のものも多い。この考えは,長年にわたり大きな較差が存続している情況の中で,較差の是正に向けて,やや現実との妥協を図って提案されているものであり,それなりに好意的な受け取めをされることがある。(中略)しかし,この提案は,やはり正しくないというのがその後の私の考えである。すなわち,現代民主主義政治における投票価値の平等とはあくまでも1対1を基本とするもので,1対2は1対1ではない(別の言い方をすると,1対2が認められるのであれば,どうして1対3や1対4が認められないのかは,理論的に説明できない。)。

 就中,最も問題であるのは,仮にある程度の較差は認めることができるという司法判断があると,国会は,それを奇貨として,更にその例外を温存することに邁進するのが現実であることである。(中略)

 国会が投票価値の平等の実現に熱心ではない現実の前では,司法はその義務を厳格に果たさなければならない。これまでの司法の対応は,時の権力に奉仕,追従し続けるものにほかならないとの批判には理由がある。現状を見る限り,選挙制度について,最高裁判所違憲審査権を適切に行使する責任を果たしておらず,憲法に定める我が国の民主主義体制を維持するための所定の役割を果たしていない。(後略)

(引用終了)

 

 この判決文を直接目にしたのはこの判決が出た平成17年の春ころであるが、内容の是非はさておきカッコいいことが書いてある。畏まった法的な文章を日常語に意訳する(あるいは、「私釈三国志」風に意訳する)なら次のとおりになる。

 

(以下、意訳)

憲法14条に「住所」と書いてないから、住所によって投票の価値に差が生じても違憲ではないというのは「下手の考え休むに似たり」で話にならん。それなら、所属政党によって票の価値に差を付けても(「所属政党」は憲法14条に記載されてないから)憲法上問題ないということになるが、それが民主主義では認められないことは明らかだ。さらに、バカのために言い添えておくが、所属政党は「信条」によるものとは限らないから、政党差別は信条差別と直結しないぞ。

・反対意見の中には「2倍以内ならまあ合憲」という基準があり、妥協案として好意的に受け止めている人もいる(私も同意したことがある)。しかし、原理的に見れば正しくないこと、現在、国会は最高裁判所が例外を認める合憲判決を書くと、その判決を奇貨としてその例外を温存しようと邁進することを考えれば、妥協案としても疑問がある。

・外野では「最高裁は国会・内閣に阿っている」という批判があるが、選挙制度に関する最高裁の態度についてはこの批判はもっともである。

(意訳終了)

 

 言いたい放題である。

 内容の是非はさておき、(当時の)私のハートを揺るがしたことは間違いない。

 

 というわけで、即座に借りることにした。

 さっさと読み切ってしまう予定である。

 

 次に、キリスト教関係で本を探していたら、次の本が見つかった。

 

 

 

 この人は安土桃山から江戸初期の人であり、キリスト教を受容し、かつ、棄教した人であり、この人についても非常に興味があったので、借りてきた。

 

 あと、日本神話やギリシャ神話や水戸学や歴史の本を借り、さらに次の本が見つかった。

 

 

 明治憲法制定経緯を知るならこれを読む必要があるだろう。

 よって、これも借りる。

 

 しかし、色々本を物色していると、持ち運ぶ本が重い。

 だから、カートを借りて運んだ。

 図書館でカートを引きながら動き回るのは初めてである。

 新鮮な経験であった。

 

 というわけで、借りてきた本。

 他にやることがたくさんある関係でどこまでやれるかは分からない。

 ただ、時間が許せば、メモくらいは残そうと考えている。

山本七平氏の書籍に興味を持つ

1 山本七平氏の書籍に興味を持つ

 山本七平(故人)という方がいる。

 

ja.wikipedia.org

 

 最近、私はこの人の書籍に関心を持っている。

 具体的に次の書籍を読み、あるいは、買って読もうとしている。

 以下、リンクを片っ端から貼る。

 

 

 

 

 

  

 あと、山本七平氏の書籍を一覧するために、次の本も読んだ。

  

 

2 興味を持ったきっかけ

 上に書いた本のいくつかはかなり昔に買って、その時に読んだ。

 だから、山本七平氏それ自体のことを知ったのは最近ではない。

 

 確かに、当時の私は本を読んだ。

 また、書いてある内容の一部は私の知識の棚に放り込みもした。

 でも、それだけ。

 それを活かそうとは考えなかった。

「歴史を学んだが、歴史に学ばなかった」と言ってもよい。

 

 最近、これらの本を見直して、強い既視感を感じた。

 敗因分析は今もそのまま使える。

 事実関係を太平洋戦争から今回のコロナ禍に変えるだけで類似の文章が出来上がるのではないか、と。

 

 この点、日本の状況の類似性だけを感じただけなら、「所詮他人事」であり、「知識の棚」が厚くなっただけで終わっただろう。

 しかし、読んでいてもう1個思ったことがある。

 太平洋戦争にかかわる事実をコロナ禍に置き換えれば似た文章が出来上がる。

 しかし、「私の過去の行為に置き換えても似たような文章ができる」と。

 

 つまり、書かれた内容が「他人事」ではなかった。

 確かに、私と太平洋戦争下の日本軍では事実関係は異なる。

 しかし、背景・行動原理が似通っているのである。

 私が日本人であること、日本において真面目に教育された人間であることを考慮すれば、これはただの偶然ではあるまい。

 

 その時思った。

 これらの書籍を理解すれば、自分が理解できる、と。

 それが、山本七平氏の書籍に興味を持ち、内容を理解しようとした最初の理由である。

 

3 「他人事」から「自分のこと」へ

 皆さん、こんな経験はないだろうか。

 

 ある目標に向かって必死に、我武者羅に努力した。

 しかし、武運拙く目標は達成できなかった。

 振り返って思う、「無念である。しかし、やるだけのことをやった。」と。

 

 例えば、東京大学に受かるために、がむしゃらに勉強し、浪人までした。

 でも、合格できなかった。

 結果は残念だ。でも、やるだけのことをやった。

(これはただの例である、念のために述べると、私は現役で東大に合格した)

 

 小さいことでも大きいことでもいい。

 社会的に意味があるか等も気にする必要はない。

 

 確かに、大変だっただろう。

 努力もしただろう。

 その時点で最善の選択をしただろう。

 そのことを否定するつもりは全くない。

 

 しかし、一つだけ質問させてほしい。

「『やるだけのことをやった』と言った。しかし、あなたはその際あらゆる方法を探求し、可能な方法論を試してみましたか?」と。

 

 強調するが、この答えが「ノー」であっても、「それでも『やるだけのことをやった』と言えるのですか?」などという意地の悪い質問をする気はない。

 頑張ったこと、最善を尽くしたことを否定するつもりは全くない。

 非難するつもりもない。

 

 ただ、日本は太平洋戦争やそれ以後、何度も同じようなことを繰り返しているようでである。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』(リンクは上にある)の第2章にそのことが書かれている。

 その具体例として挙げられたのが、「バシー海峡」である。

 

 バシー海峡については次のリンク先を見てほしい。

 

bashi-channel.com

 

 ここではその詳細な説明は省く。

 それは今後書くから。

 というよりも、これを書きたいがためにこのブログを立ち上げたようなものだから。

 

 敗因は他にも書かれている。

 例えば、「員数を尊び、実数を考慮しない」という点もある。

 太平洋戦争時の具体例が紹介されているは当然として、太平洋戦争後の具体例も紹介されている。

 例えば、春闘の参加者数をめぐる関係者(当事者・新聞報道など)の言動である。

 

4 私が遺しておきたいこと

 以上は一例である。

 私の学習自体はまだ終わってない。

 しかし、途中段階でありながら、私は次のようなことを妄想している。

 

① 太平洋戦争の以後、私たちは同じようなことを繰り返している

② 太平洋戦争の以前も、私たちは同じようなことを繰り返した

 

 さらに言うと、次のことも妄想している。

 

③ 太平洋戦争などでは失敗の方向の結果が出たが、前提・条件が異なれば成功の原因にもなり、それにより成功した結果が過去にたくさん存在する

 

 よって、これらの妄想と日本の歴史を照らし合わせ、この妄想がどの程度適合するのかを調べたい。

 ただ、調べただけで終わるのもあれなので、その調べた結果をこのブログに遺していきたいと思っている。

 

 でも、それ以上の何かは望まないようにする。

 確かに、歴史上の悲劇を学べば、自分が失敗すれば、その失敗を回避したい・損害を減らしたいと思う。

 類似の失敗を回避できるなら、失敗に対する損害を軽減できるならそれに越したことはない。

 

 しかし、その前には巨大な壁が立ちふさがる。

 

 まず、歴史に学ぶにはその前提として事実を知る(調査する)必要があるが、これはしんどいし、リソースが必要である。

 まず、本を読み、理解するための時間と知的訓練が必要である。

 さらに、事実を調査するとなると時間と金と技術が要る。

 リソースに余裕がなければ到底出来まい。

 

 また、この文章を書いている際、山本七平氏のいわゆる日本軍三部作を読んでいたのだが、私は気分が滅入ってしまい、果てには気持ち悪くなってしまった。

 今、そんな状況でキーボードをたたいている。

 

 さらに、失敗の原因が分かったところで、改善できるのかという問題がある。

 この点、個人が自分の失敗を次に活かすということなら十分可能だろう。

 でも、それでさえ完璧に活かしきることは極めてまれだ。

 ならば、一部は活かせず、類似の失敗を繰り返すだろう。

 

 個人でさえこれなのだ、まして集団をや。

「歴史は繰り返す、一回目は悲劇として、二番目は喜劇として」と言われる。

 これは歴史に学ばない人間をあざ笑っているように見える。

 しかし、実際、二度目を回避するのは容易ではない。

 

 さらに、原因が判明し、実現可能な改善策が存在したとして最後に立ちはだかる壁が「それを望むのか」という問題である。

 先に述べた通り、失敗の原因をもたらしたものは条件が変われば成功の原因にもなる。

 たまたま私が手に取ってきた山本七平氏の書籍は失敗にスポットをあてているが、山本七平氏は成功した事象にもスポットをあてている。

 だから、改善策を実行することで別の副作用(成功の阻害)を生むことは十分ありうる。

 

 例えば、私はある失敗をした。

 過去にも同じ原因で類似の失敗をしていることが分かった。

 原因は分かり、対策もある程度わかった。

 しかし、視点を広げれば、「その原因は別の機会に成功の要因」にもなっていた。

 ならば、その原因を改善すれば、成功の要因をも潰すことになる。

 それでいいのか。

 それについては、現在も答えを留保している(だから、今後も似たようなことは起きると思っているし、それ自体は諦めている)。

 

 最後の問題は難題である。

 最近強く考えるのが、「短期的に生じた成功・失敗がそのまま長期的な成功・失敗になるとは限らない」というものである。

 ことわざで言えば、「人生万事塞翁が馬」。

 ならば、「歴史に学ぶ必要はない。めんどくさいし、しんどい。過去のことなんか水に流して、『後は野となれ山となれ』でいいではないか」という選択肢だって十分ありうる。

 集団としてそのような決定を下すことは全然ありうるし、それを非難できるかは正直微妙である。

 

 これは「何をしたいのか」という自己決定の問題であり、能力の問題ではない。

 宮台真司先生はよく「知の劣化ではない、感情の劣化だ」と述べているが、その通りである。

 最後の問題は知性は関係がない。

 知性が関係するのは1番目と2番目である。

 

 最初の壁なら私のリソースで何かできるかもしれない。

 しかし、残り2つの壁に対してできることは何もない。

 だから、私の目的は、山本七平氏の評価関数と太平洋戦争当時の事実を把握すること、それをもとに他の歴史的事実や現代の事情を見直すこと、そして、それを後世に書き送ることに限定している。

 でないと、発狂して挫折し、最初の目的すら達成できなくなるから。

 

 学んだ内容、現代への適用結果などの各論はこれから書いていく。

 ただ、何故、私がこのような行為を始めたのか、私の背景を明記しておく。

 途中で発狂したときにこの原点を忘れないために。

 

 最後に。

 これはパブリック・マインドなどではない。

 ただの個人の私情である。

 すべきだからするのではなく、したいからするのである。

(だから、途中で興味がなくなったり、忙しくなったりすれば中断するかもしれない、それでもいいと思っている)

 

 福沢諭吉が『痩せ我慢の説』で述べた。

「立国は私なり、公にあらざるなり」と。

 なるほどな、と思う。

 

www.aozora.gr.jp

 

 あと、山本七平氏の一節を最後に残しておく。

 

 (以下、『私の中の日本軍(下)』・山本七平著・文春文庫・1983より引用)

 誤っていることがあるなら、自分の誤りも含めて、それを申し送って行くことは、一面そういう運命に陥った者に課せられた任務でもあろう。消えてしまうなら、消えてしまうでよい。しかし、いつの日かわからず、また何十年あるいは何百年先かそれも分からないが、自分が全く知らず、生涯一度も会ったことのない、全然「縁もゆかりもない」「見ず知らず」の人間が、それを取り上げて、すべてを明らかにしてくれることがないとは、絶対に言えないからである_現に、ここにある。 

(引用終了)

司法試験の過去問を見直す2 その3

 今回のブログはシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 前回と前々回で「過去問を解くための必要な前提知識」を示した。

 よって、それらの前提事実を踏まえ、著しく不合理・不自然な事実認定・事実評価をすることなく論理的な文章を展開すれば、十分な評価が得られる。

 結論それ自体に右往左往する必要はない。

 

10 過去問を確認する

 では、過去問に挑戦する。

 改めて過去問を見直そう。

 

(以下、過去問を転記)

A市は、市営汚水処理場建設について地元住民の理解を得るために、建設予定区にあって、四季の祭りを通じて鎮守様として親しまれ、地元住民多数が氏子になっている神社(宗教法人)境内の社殿に通じる未舗装の参道を2倍に拡張して舗装し、工事費用として100万円を支出した。なお、この神社の社殿に隣接する社務所は、平素から地元住民の集会場としても使用されていた。A市の右の措置について、憲法上の問題点を挙げて論ぜよ。 

 (転記終了)

 

 事実(判決事実)関係をまとめると次のようになる。

 

・A市は宗教法人が利用する神社の舗装工事の工事費用100万円を支出した。

・支出の目的は所謂迷惑施設(市営汚水処理場建設)について地元住民の理解を得ること

・地元住民の多数がその神社の氏子になっている

・費用を負担した工事によって、神社の社殿に通じる参道は舗装されたうえ、かつ、2倍に拡張された

・神社に隣接する社務所は平素から住民の集会場として利用されていた

 

  まず、目を引く事実を見ると、「100万円」という額が見える。

 この額は前提知識に出てきた判例の額よりもずっと多い。

 特に、違憲と判断した愛媛玉ぐし訴訟の額よりも多い。

 とすると、注釈なく「100万円は少額だから些末」という方向に持っていくのはよろしくないだろう。

(もちろん、私学助成等の額に比べれば100万円は小さいと評価することは可能である、ただし、そう評価するならその点をはっきりと明示する必要があるだろう)

 

11 答案の構成・規範定立まで

 以上の事実を見ながら、どう答案に書いていくか考えよう。

 問いは、「A市の措置(公金支出)について憲法上の問題点を挙げて論ぜよ」である。

 だから、スタートラインは「A市の公金支出は憲法に反しないか」という形になる。
 もちろん、「憲法」だけでは特定できていないので、「A市の公金支出は89条前段に反しないか」という形で具体的に条文を「挙げ」る必要があるだろう。

 

 法律実務の文章は、「①問題点を指摘し、②(定義・趣旨・条文から)規範を定立し、③事実を認定し、認定事実を規範に照らして評価し、④結論を出す」という体裁をとる。

 この形式を「法的三段論法」とか「アイラック」とか言う。

「論理的な文章である」と認められるためにはこの書式に従わなければならない。

 

 さて、問題点は「A市の支出が憲法89条前段で禁止している公金支出にあたるか」である。

 そして、憲法89条前段の趣旨が政教分離を金銭面で担保するものだと指摘して、政教分離についてその意義を論じていく必要がある。

  このように「政教分離」について論じるのは理由がある。

 条文と政教分離の関係を明示することなく、「政教分離」に飛びつくのはやめた方がいい。

 

 政教分離に関する法的な説明・規範定立については、①制度趣旨(原則論)を述べ、②不都合な点を指摘し、③制度的保障で例外を正当化し、④ルールを立てればいいだろう。

 この部分は所謂「原則修正パターン」であり、「法的文章の基本構造」の一つである。

 ここは素直にこの順番で書けばいい。

 

 日本の事例が問題になっていることから、規範は最高裁目的効果基準を用いる。

 もちろん、最高裁が述べたとおり「主観をそのまま鵜呑みにするのではなく、社会通念に従い客観的に判断する」目的効果基準である。

 というのも、この限定を付さない目的効果基準だと、「目的は迷惑施設誘致に対する住民の理解を得ることであり、神社を有する宗教法人の勢力拡大を目的にしていないため、世俗的である。」となって答案が単純化してしまうし、(ルール的にも)政教分離の趣旨が貫徹できないからである。

 ただ、事実認定においては、レモン・テストを使って答案を書く場合にも考慮し、「効果」と「目的」だけではなく、「関係」についても検討する。

 目的効果基準の場合は、「関係」は「効果」か「目的」のところで触れればいいだろう。

 

12 事実認定と事実の評価

 次に、事実認定の部分に移る。

 主要な事実関係は上に述べた通りで、これを動かすことは積極ミス(著しく不合理な事実認定)になるので、それを動かすことなく、目的・効果・関係の3つの点から評価しかなければならない。

 

 

 まず、一番クリアしづらい要件と考えられる「効果」から書く。

 支出額である100万円が(世情の感覚から見て)多額だということは上で述べた。

 また、工事の結果、未舗装だった参道が舗装される上、その参道は2倍に拡張される。

 既に舗装されている道の修理である、参道の幅は変わらない、等の事情があれば、「分かりにくい」かもしれないが、これだけ変化すれば外見の変化は明らかである。

 そうなれば、住民はこう思うだろう。

「結果だけ見れば、『A市は神社を優遇・援助した』ように見える」と。

 となれば、支出の効果は神社に対する援助・助長・促進にあたることになり、「効果」の点をクリアするのは難しい。

 

 反論はある。

「地元住民が日常的に利用している社務所への通路になっている(隣にある)神社の参道がミゼラブルなままでいいのか」と。

 、、、さすがに砕けた言い方なので、真面目に書き直そう。

「参道の舗装は社務所(多数の住民が集会などで日常的に使用)の便益にも資するから『神社に対する優遇である』という印象を住民は持たない」と。

 効果の点を否定するなら、この点を強調する必要があるだろう。

 

 しかし、これを押し切るのは微妙な気がする。

 何故なら、それを前面に押し出すなら、別の方法があるからである。

 例えば、参道の修理費ではなく、「社務所、特に、住民が日常的に利用している箇所の管理維持費や修理費などの費用」を支出するという手段があるからである。

 所詮お金に色は付けられない。

 ならば、神社に対して「いつも住民のために社務所を開放してくださりありがとうございます。市が社務所の修理・管理費用を援助します(ので、浮いたお金で参道を補修してください)」ともっていくことは可能である。

 露骨にやれば問題になるが、この場合なら、現実に発生した効果が同じだったとしても、効果に対する評価は幾分変わるだろう。

 もちろん、管理維持費などで100万円も計上できるかは微妙ではあるが。

 

 よって、「効果」の点をクリアすることは難しい。

 また、目的効果基準を採用したうえで結論を合憲にする場合、目的の部分で正当化すればいいことを考慮すれば、この違憲を裏付ける事情のあっさりを認めてしまうのもありである。

 そうすれば、「反対側の事情にも配慮している」ことが答案上に表現されるのだから(こざかしいと思うかもしれないが、判決などで反対利益への配慮が要請される以上、これは必要である)。

 

 

 次に、レモン・テストを用いた場合を想定して、「関係」の点を見てみよう

目的効果基準で検討するならば、効果の部分に含めて考えることになる)。

 今回の費用の名目は修理費である。

 1回きりのものを想定しており、継続的なものではない。

 この「1回きり」という点を強調すれば、「過度のかかわりあいにならない」と評価することはできる。

 

 しかし、支出の目的を加えて考えると景色が変わる。

 支出の目的は「迷惑施設誘致のための住民理解(説得)」である。

 そのため、「工事費を払ったら神社との付き合いはお終い」となる保証はない。

 

 例えば、氏子のうちの幾人かは「このような便宜をしてくれたんだから、迷惑施設を受け入れます」となるかもしれない(これは自然な感情であり、不思議ではない)。

 しかし、氏子でない住民からすれば「なんでやねん!」となるかもしれない。

 または、一部の氏子は「それでもやだ」と反対の意思を翻さないかもしれない。

 その場合、反対に回った人たちに対してA市は何をするのだろう。

 氏子以外の人にも便益を提供する?

 そうするくらいなら、最初から工事費を支出しないだろう。

 工事費を支出した意味がないから。

 そうなれば、舗装工事を支出した神社に協力を頼むことにならざるを得ない。

 この場合、神社とA市は今後も一定の関係を持ち続けることになる。

 

「関係」の点をクリアするかはこの点をどう評価するかによる。

 これを高く評価すればクリア不可、些末と見ればクリアと見ることになる。

 私は「クリアせず」と評価するが、以上の考えを「考えすぎだ」というのはあり得ない話ではない。

 

 

 さて、最後に目的の点が残っている。

 目的効果基準で考えるなら、この部分もアウトにしなければ違憲にならない。

 逆に、ここがクリアできれば合憲にもっていける。

 

 問題文ではこう明示されている。

「目的は迷惑施設誘致に対する住民の理解(説得)である」と。

 

 これが直接の目的であることは「絶対に」否定できない(「これは虚偽である」と認定すればそれは積極ミスになる)。

 そして、この点を強調すれば、目的の点がクリアされ、他の部分がどれだけアウトであっても合憲になる。

 

 では、違憲の結論は目的効果基準から出せないのか。

 実は可能である。

「見えない目的」を追加して考えれば。

 

 ここで、目的と手段をつなげてみよう。

「①迷惑施設誘致に対する住民理解のため、②多数の住民が氏子になっている神社の工事費100万円を支出した」

 ①と②の間をじっと見つめている。

 何故、②によって①が何故達成できる?

 

 ここまで言えばわかるだろう。

 ②によって、「宗教法人(多数が氏子)の勢力を強め、これを利用することで」、住民を説得する、これが①と②をつなぐ「見えない目的」である。

 確かに、直接の目的は「迷惑施設受け入れの説得のため(世俗的目的のため)」なのだろう。

 その部分に嘘はない。

 

 しかし、隠れた部分も加えた目的、「(神社に便益を提供することで神社を味方につけ)、住民を説得する」、この意図も否定できない。

 この意図がないなら神社に支出しないで別の手段を考えるだろうから。

 

「目的をクリアしない」と認定するなら、この「見えない目的」を明示する必要がある。

 一目見て出てくる事情じゃないから。

 

「目的」をクリアさせるかは、この部分を詳細に検討し、それが答案上に表現できるか、による。

 今回は、「本番は時間がないから(これは重要なことである)、ここまで詳細な分析はできない」と考える必要がないので、ちょっと踏み込んでみた。

 

13 さいごに

 拾うべき事実は拾い、評価は終わった。

 あとは、評価にもとづいてあてはめを行い、結論を出すだけである。

 

 なお、現段階でも、私なら結論を違憲にした答案を作ろうとする。

 その方が事情を細かく評価できて、点数が稼げそうなので。

 そもそも、昔準備した答案は最高裁の基準を批判してレモンテストを採用した上、「目的」をクリアさせ、「効果」と「関係」の点をアウトにしたくらいなので。

 

 一方、「合憲の答案が書けないか」と言われれば、目的効果基準を用いれば無理ではないようである。

 ただ、この事案は「宗教団体に便益を提供し、宗教的権威を利用して、政治問題を解決しようとした(世俗的目的を達成しようとした)事案」になる。

 つまり、「政治による宗教の利用」である。

 よって、「これについてどう考えるのか」という視点は合憲に結論を持っていく場合はより重要になりそうな気がする。

 

 以上、過去問について検討した。

 なお、この問題について考えるきっかけを与えたのは、最近、那覇市の件で政教分離に関する最高裁判決が出たことによる。

 また、私が合格した後、2010年頃に政教分離に関する重要な判例が出ているらしい。

 よって、それを踏まえながら、今改めて政教分離などについて考えたことをメモに残す。

 

 では、次回。