今回はこのシリーズの続き。
今回から少し風呂敷を広げた妄想話をする。
だから、今回以降は過去問に言及しない。
今回は、所謂「目的効果基準」について考えたことをつらつら書いていく。
14 政教分離の目的と目的効果基準
憲法学の基本書を開くと、政教分離の趣旨として次の3つが掲げられる。
① 個人の信教の自由を補強(宗教弾圧の防止)
② 政府を破壊から救う
③ 宗教団体の堕落の防止
政教分離がカトリックとプロテスタントの宗教戦争から生まれたことを考慮すれば、①は当然だろう。
③は立憲民主主義を背景とする政府がやることとしては「おせっかい」な気がするが、宗教(宗教団体)の社会的必要性と影響力を考慮すれば、宗教団体が堕落されたら社会(共同体)が困るのでやむを得ないというのはあるのかもしれない。
ここで大事なのは②である。
「破壊」とは大げさな表現だが、何を意味するのか書くと次のとおりになる。
立憲民主主義(多数決民主主義ではない)を前提としている国家は、政治的決定を多数決という手段によって行う。
しかし、この背景には「熟議」がある。
つまり、「利害が対立する当事者たちが議論を交わし、社会的事実を調査し、当事者らの考え・利害を明らかにし、妥協できるところは妥協しながら結論を出し、政策決定等にもっていく」ことを前提としている。
歴史的経緯を踏まえれば、これは的外れなものではない。
というのも、昔は多数決ではなく、全会一致だった。
ただ、全会一致を要求していたら、リソース(時間も含む)が足らない。
「緊急事態にリソースがなくて政策決定できず、結果として大ダメージを負いました」それではシステムとして役に立たない。
そこで、「全会一致」は「〇〇%以上の賛成」という形に変容した。
また、「全員参加」は「代表者による議論」へと変容した。
この点は、以前紹介した『痛快!憲法学』に分かりやすく書かれている。
さて、立憲民主主義において、「決定は多数決だが、その背景には熟議がある」旨話した。
しかし、この熟議は宗教団体が絡むことで作動が停止しかねない。
例えば、A教の教祖が「A教の教義に従えば、議会が作ろうとしているB法はとても容認できない。信者は断固反対し抗議せよ。反対・抗議しなかったものは背教者として破門する」などと指示したとしよう。
また、他の事情から見て「廃案が理にかなっている」ものと仮定する。
しかし、もしその指示に従って「絶対反対・妥協しない」とされたら、どうなるだろうか(もちろん、反対運動等は言論等合法の範囲で行うものとする)。
立憲民主主義が前提としている熟議が成立しなくなってしまう。
「(立憲民主主義の)政府を破壊から救う」とはこれを意味している、と考えている。
さて。
次に、目的効果基準についてみる。
目的効果基準を簡略化すると、「目的」と「効果」のいずれかが正当化されれば合憲という基準だった。
もっとも、上の目的に照らすと、重要なのは「効果」である。
というのも、「結果として、特定の宗教を優遇・冷遇した」となれば、これこそ政教分離の趣旨が全うできなくなるからである。
そして、「効果」に比べれば、「目的」やレモンテストの「関係」の要件は影響度が相対的に薄い。
目的が宗教に対する援助であっても、結果が不発なら害悪は発生しない(もちろん、結果は運によるところもあるため、目的を考慮しないことがあり得ないとしても)。
さらに、レモン・テストにある「関係」の要件も、ただ関係を持つだけなら害悪は発生しない(もちろん、関係がずぶずぶになればまずいので予防の必要性はあっても)。
逆に、関係を完全に断ち、その宗教団体の持つ知恵を政策に反映できなければ、政府にとってまずい結果になるということすらありうる。
最高裁は政教分離違反になる行為(憲法20条3項の「宗教的活動」)を「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」と定義していた。
一見すると、「目的がアウトで、かつ、効果がアウト」というように並列しているように見える。
しかし、「(目的と効果は)諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」としていること、そもそも「我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さない」旨述べていることを考慮すると、メインは「効果」であって「目的」はサブではある。
「目的」でさえ「効果」の一要素と言ってもいいのかもしれない。
それから、「目的効果基準」については批判があった。
曰く「緩い(例外が広い)」とか。
あるいは、「境界が分からん」とか。
確かに、政教分離の原則論を貫くのであれば前者の批判は妥当だろう。
しかし、改めて今考えると、「そんなもんじゃねーの?」という気がする。
この点、津地鎮祭訴訟において最高裁が高々とあんな理想論を判決理由に書いており、それを見ると「どうなん?」とならないことはない。
しかし、政教分離規定を制度的保障と解し、かつ、宗教的儀式への参加の強制を20条2項で縛っていること、そもそも論として司法の介入は例外と考える(所謂「司法消極主義」)ことを考慮すれば、20条3項が緩くなるのはしょうがない面があるのかもしれない。
それから、「境界が分からん」という批判もあった。
でも、そもそも境界をくっきり分けることは可能なのだろうか?
さらに、裁判所がその境界線を明快に引くことが妥当なのだろうか?
本来、境界線の議論は憲法制定時にやるべきことではないのか?
そう考えると、「境界が分からん」という批判、分からないではないけど、「そもそも無理じゃね?」という気がする。
私も穏やかになったのだろうか?
それは分からない。
さて。
愛媛玉ぐし訴訟の後、北海道の砂川にて政教分離違反の判決が出た。
よって、次回はその2つの判決についてみてみたい。
そして、次々回は政教分離を日本に適用することについて思うことについて書いていく。