薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

山本七平氏の書籍に興味を持つ

1 山本七平氏の書籍に興味を持つ

 山本七平(故人)という方がいる。

 

ja.wikipedia.org

 

 最近、私はこの人の書籍に関心を持っている。

 具体的に次の書籍を読み、あるいは、買って読もうとしている。

 以下、リンクを片っ端から貼る。

 

 

 

 

 

  

 あと、山本七平氏の書籍を一覧するために、次の本も読んだ。

  

 

2 興味を持ったきっかけ

 上に書いた本のいくつかはかなり昔に買って、その時に読んだ。

 だから、山本七平氏それ自体のことを知ったのは最近ではない。

 

 確かに、当時の私は本を読んだ。

 また、書いてある内容の一部は私の知識の棚に放り込みもした。

 でも、それだけ。

 それを活かそうとは考えなかった。

「歴史を学んだが、歴史に学ばなかった」と言ってもよい。

 

 最近、これらの本を見直して、強い既視感を感じた。

 敗因分析は今もそのまま使える。

 事実関係を太平洋戦争から今回のコロナ禍に変えるだけで類似の文章が出来上がるのではないか、と。

 

 この点、日本の状況の類似性だけを感じただけなら、「所詮他人事」であり、「知識の棚」が厚くなっただけで終わっただろう。

 しかし、読んでいてもう1個思ったことがある。

 太平洋戦争にかかわる事実をコロナ禍に置き換えれば似た文章が出来上がる。

 しかし、「私の過去の行為に置き換えても似たような文章ができる」と。

 

 つまり、書かれた内容が「他人事」ではなかった。

 確かに、私と太平洋戦争下の日本軍では事実関係は異なる。

 しかし、背景・行動原理が似通っているのである。

 私が日本人であること、日本において真面目に教育された人間であることを考慮すれば、これはただの偶然ではあるまい。

 

 その時思った。

 これらの書籍を理解すれば、自分が理解できる、と。

 それが、山本七平氏の書籍に興味を持ち、内容を理解しようとした最初の理由である。

 

3 「他人事」から「自分のこと」へ

 皆さん、こんな経験はないだろうか。

 

 ある目標に向かって必死に、我武者羅に努力した。

 しかし、武運拙く目標は達成できなかった。

 振り返って思う、「無念である。しかし、やるだけのことをやった。」と。

 

 例えば、東京大学に受かるために、がむしゃらに勉強し、浪人までした。

 でも、合格できなかった。

 結果は残念だ。でも、やるだけのことをやった。

(これはただの例である、念のために述べると、私は現役で東大に合格した)

 

 小さいことでも大きいことでもいい。

 社会的に意味があるか等も気にする必要はない。

 

 確かに、大変だっただろう。

 努力もしただろう。

 その時点で最善の選択をしただろう。

 そのことを否定するつもりは全くない。

 

 しかし、一つだけ質問させてほしい。

「『やるだけのことをやった』と言った。しかし、あなたはその際あらゆる方法を探求し、可能な方法論を試してみましたか?」と。

 

 強調するが、この答えが「ノー」であっても、「それでも『やるだけのことをやった』と言えるのですか?」などという意地の悪い質問をする気はない。

 頑張ったこと、最善を尽くしたことを否定するつもりは全くない。

 非難するつもりもない。

 

 ただ、日本は太平洋戦争やそれ以後、何度も同じようなことを繰り返しているようでである。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』(リンクは上にある)の第2章にそのことが書かれている。

 その具体例として挙げられたのが、「バシー海峡」である。

 

 バシー海峡については次のリンク先を見てほしい。

 

bashi-channel.com

 

 ここではその詳細な説明は省く。

 それは今後書くから。

 というよりも、これを書きたいがためにこのブログを立ち上げたようなものだから。

 

 敗因は他にも書かれている。

 例えば、「員数を尊び、実数を考慮しない」という点もある。

 太平洋戦争時の具体例が紹介されているは当然として、太平洋戦争後の具体例も紹介されている。

 例えば、春闘の参加者数をめぐる関係者(当事者・新聞報道など)の言動である。

 

4 私が遺しておきたいこと

 以上は一例である。

 私の学習自体はまだ終わってない。

 しかし、途中段階でありながら、私は次のようなことを妄想している。

 

① 太平洋戦争の以後、私たちは同じようなことを繰り返している

② 太平洋戦争の以前も、私たちは同じようなことを繰り返した

 

 さらに言うと、次のことも妄想している。

 

③ 太平洋戦争などでは失敗の方向の結果が出たが、前提・条件が異なれば成功の原因にもなり、それにより成功した結果が過去にたくさん存在する

 

 よって、これらの妄想と日本の歴史を照らし合わせ、この妄想がどの程度適合するのかを調べたい。

 ただ、調べただけで終わるのもあれなので、その調べた結果をこのブログに遺していきたいと思っている。

 

 でも、それ以上の何かは望まないようにする。

 確かに、歴史上の悲劇を学べば、自分が失敗すれば、その失敗を回避したい・損害を減らしたいと思う。

 類似の失敗を回避できるなら、失敗に対する損害を軽減できるならそれに越したことはない。

 

 しかし、その前には巨大な壁が立ちふさがる。

 

 まず、歴史に学ぶにはその前提として事実を知る(調査する)必要があるが、これはしんどいし、リソースが必要である。

 まず、本を読み、理解するための時間と知的訓練が必要である。

 さらに、事実を調査するとなると時間と金と技術が要る。

 リソースに余裕がなければ到底出来まい。

 

 また、この文章を書いている際、山本七平氏のいわゆる日本軍三部作を読んでいたのだが、私は気分が滅入ってしまい、果てには気持ち悪くなってしまった。

 今、そんな状況でキーボードをたたいている。

 

 さらに、失敗の原因が分かったところで、改善できるのかという問題がある。

 この点、個人が自分の失敗を次に活かすということなら十分可能だろう。

 でも、それでさえ完璧に活かしきることは極めてまれだ。

 ならば、一部は活かせず、類似の失敗を繰り返すだろう。

 

 個人でさえこれなのだ、まして集団をや。

「歴史は繰り返す、一回目は悲劇として、二番目は喜劇として」と言われる。

 これは歴史に学ばない人間をあざ笑っているように見える。

 しかし、実際、二度目を回避するのは容易ではない。

 

 さらに、原因が判明し、実現可能な改善策が存在したとして最後に立ちはだかる壁が「それを望むのか」という問題である。

 先に述べた通り、失敗の原因をもたらしたものは条件が変われば成功の原因にもなる。

 たまたま私が手に取ってきた山本七平氏の書籍は失敗にスポットをあてているが、山本七平氏は成功した事象にもスポットをあてている。

 だから、改善策を実行することで別の副作用(成功の阻害)を生むことは十分ありうる。

 

 例えば、私はある失敗をした。

 過去にも同じ原因で類似の失敗をしていることが分かった。

 原因は分かり、対策もある程度わかった。

 しかし、視点を広げれば、「その原因は別の機会に成功の要因」にもなっていた。

 ならば、その原因を改善すれば、成功の要因をも潰すことになる。

 それでいいのか。

 それについては、現在も答えを留保している(だから、今後も似たようなことは起きると思っているし、それ自体は諦めている)。

 

 最後の問題は難題である。

 最近強く考えるのが、「短期的に生じた成功・失敗がそのまま長期的な成功・失敗になるとは限らない」というものである。

 ことわざで言えば、「人生万事塞翁が馬」。

 ならば、「歴史に学ぶ必要はない。めんどくさいし、しんどい。過去のことなんか水に流して、『後は野となれ山となれ』でいいではないか」という選択肢だって十分ありうる。

 集団としてそのような決定を下すことは全然ありうるし、それを非難できるかは正直微妙である。

 

 これは「何をしたいのか」という自己決定の問題であり、能力の問題ではない。

 宮台真司先生はよく「知の劣化ではない、感情の劣化だ」と述べているが、その通りである。

 最後の問題は知性は関係がない。

 知性が関係するのは1番目と2番目である。

 

 最初の壁なら私のリソースで何かできるかもしれない。

 しかし、残り2つの壁に対してできることは何もない。

 だから、私の目的は、山本七平氏の評価関数と太平洋戦争当時の事実を把握すること、それをもとに他の歴史的事実や現代の事情を見直すこと、そして、それを後世に書き送ることに限定している。

 でないと、発狂して挫折し、最初の目的すら達成できなくなるから。

 

 学んだ内容、現代への適用結果などの各論はこれから書いていく。

 ただ、何故、私がこのような行為を始めたのか、私の背景を明記しておく。

 途中で発狂したときにこの原点を忘れないために。

 

 最後に。

 これはパブリック・マインドなどではない。

 ただの個人の私情である。

 すべきだからするのではなく、したいからするのである。

(だから、途中で興味がなくなったり、忙しくなったりすれば中断するかもしれない、それでもいいと思っている)

 

 福沢諭吉が『痩せ我慢の説』で述べた。

「立国は私なり、公にあらざるなり」と。

 なるほどな、と思う。

 

www.aozora.gr.jp

 

 あと、山本七平氏の一節を最後に残しておく。

 

 (以下、『私の中の日本軍(下)』・山本七平著・文春文庫・1983より引用)

 誤っていることがあるなら、自分の誤りも含めて、それを申し送って行くことは、一面そういう運命に陥った者に課せられた任務でもあろう。消えてしまうなら、消えてしまうでよい。しかし、いつの日かわからず、また何十年あるいは何百年先かそれも分からないが、自分が全く知らず、生涯一度も会ったことのない、全然「縁もゆかりもない」「見ず知らず」の人間が、それを取り上げて、すべてを明らかにしてくれることがないとは、絶対に言えないからである_現に、ここにある。 

(引用終了)