今日はこの記事の続き。
私が『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』から学んだことをまとめる。
3 「第3章 実数と員数」を読む
「実数と員数」、これまたスパッとした言い方である。
「現実に存在する数」と「帳簿に記載された数」。
言い換えるなら、「客観と主観」・「現実と演出(虚構)」になる。
また、この章で用いられている敗因21か条の条項は第1条である。
(以下、書籍引用)
一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。(以下略)
(引用終了)
「精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事」から始まる条項は第1条にある。
つまり、これが「(敗因21か条を書いた人が考えた)最も重要な敗因」になる。
第一条に大事なものを持ってくるのは「十七条憲法」(第1条は「和を以て貴しとなし、(以下略)」)でも後藤田五訓(第1条は「省益を忘れ、国益を思え」)でも同じである。
その内容は「精兵主義の軍隊に精兵がいなかったこと」。
結構厳しい言葉である。
そして、多大な反発を招く言葉でもあろう。
例えば、A国において共産主義が浸透しなかったとする。
それについて「A国で共産主義が浸透しなかった原因は、A国共産党に真の共産主義者がいなかったからである」などと断定され、A国の国民がこれに納得すれば、A国共産党は死刑宣告を受けたのと同じである。
とすれば、A国共産党(党員)はこの発言には断固抗議せざるを得ない。
注意しなければならないのは、「いなかった」という言葉の評価である。
この文章から「精兵がゼロだった」という事実を認定するのは妥当ではない。
何故なら、精兵の存在・存在した精兵の善戦ぶりはこの本に引用されている『虜人日記』にも書かれているし、山本七平氏も認めているからである。
つまり、「精兵がいなかった」とは、「(全体を見て)『いる』と評価できる程の数が存在しなかった」という意味にとらえるのが妥当であろう。
本章では「何故、『精兵主義』を標榜しながら、精兵が存在しなかったのか」という原因の分析に話が進む。
その原因にある発想が「実数と員数」という言葉に込められている。
例えば、①日本政府が「日本は民主主義だ」と発信すること、②現実において日本が民主主義であること、これは同値ではない。
①と②が共に真であることもある(当然ある)が、①が正しく②が誤りであることはいくらでもありうる。
仮に、①の政府の声明を唯一の根拠として、実情を考慮することなく「日本は民主主義」と認定したら、「おいおいおい」となるだろう。
ただ、世情を見渡す限り、「日本は民主主義だ」と標榜すれば「日本はちゃんとした民主主義システム」であり、「精兵主義」を標榜すれば(全体として見て)精兵が存在することになってしまう。
それが太平洋戦争のときに起きた現象であり、「実数と員数」に込められた意味である。
当然のことだが、事実認定(実態調査)において重要なのは、それを裏付ける事実(間接事実)や現実的状況(証拠)である。
例えば、「日本に精兵がどの程度いるか」を判断したければ、帝国の軍隊の質を客観的に調べる必要がある。
その際、政府が「日本には精兵がいる」・「日本は精兵主義を採用する」などと発表しても、判断に影響を与えることはほとんどない。
さらに言えば、(あり得ない話だが)政府が「日本に精兵がいない」と自省の発言をしたところで、軍隊の質が激変するわけではない(士気が下がる程度の影響があるかもしれないが、火器・大砲の威力が激減することはない)。
この点、「日本がどの程度民主主義であるか」を判断する際、見るべきものが具体的な政治システム・社会的事実であって、政府の発言ではないと同様である。
事実認定(実態調査)において以上の抽象論に反対する人間はいないだろう(ひょっとしたらいるかもしれないが)。さらに言えば、「事実をどう認定したら〇〇主義者」などと言い出せば、「アホか、こいつ」ということにだってなりうる。
しかし、どうやらこの現象、最近でも続いているようなのである。
書籍の具体例は春闘の参加人数に関する話だが、ここでは別の事例を挙げたい。
私が15年以上見続けている番組に「丸激トークオンデマンド」という番組がある。
これは私が尊敬するお二方、宮台真司先生と神保哲生さんが配信している番組である。
丸激では過去の番組のいくつかが無料で見られるのだが、その中に次の放送がある。
この放送回(129回)のPART1の43分43秒あたりから宮台先生が話した内容を聴いてみてほしい。
要旨をまとめるとこんなことになる。
(以下、まとめ、文字起こしではないので注意すること)
・ある人間(近代主義者と言っているが、別に近代主義者である必要はない)が、(一定の事実により)「この作戦は実りが少ないのでやめ、動かないことで臥薪嘗胆を期した方が良い」、「この作戦は負ける可能性が高いので修正したの方がいい」などと言うと、「貴様ぁぁ、帝国陸軍に負けがあるというのかぁぁ」などと怒鳴られる。
・ある人間が、「ここで強硬姿勢を緩めないと相手国は外交交渉を打ち切ってしまうだろうが、それでいいのか」、「仮に、K国が日本の山手線をめがけて50発のミサイルを撃ち込み、そのうち25発くらい命中するとかなったらまずいですよね」などと言ったら、とある論壇では「そのようなことを言うのは敗北主義である」などと怒鳴られる。
・作戦の成功に関する予測や相手の行動を予測するのは、近代主義的国民益(国益)を考えるなら当然のことである。しかし、そのような予測をすると「貴様ぁぁ」となってしまう。
(まとめ終了)
ちなみに、この部分について文字起こしされてないかなと思い、ネットを巡回していたら、面白い文章を見つけた。
せっかくなので貼っておく。
つまり、「作戦の見込みを(事実関係から)予測し、リスクを評価して修正案を提示すること(作戦中止を進言すること)」が、その内容如何によらず「皇軍を侮辱すること」になるらしい。
また、自分側に不利益な結果を予測し、その旨発言すると、「敗北主義」となってしまうらしい。
一瞬、「言霊思想か」と思ってしまった。
多分、そうなのだろう。
もちろん、山手線にミサイル云々というのはいささか非現実的である(この放送は2003年9月5日、拉致問題で世論が沸騰していたころ)。
よって、「その仮定は現実に発生する可能性が極めて低く、考慮の必要はない」という反論は十分可能であり、そこそこの説得力がある。
そのため、「敗北主義」を持ち出して批判を封じる必要はどこにもない。
このような現象を見てしまうと、「ああ、昔も今も変わってねーわ」と言われても抗弁できないように思われる。
まあ、この放送自体約20年前なんだが(というか、こう書いてその時間の隔たりに驚いている)。
最近だと、データ改ざんの問題が挙げられるだろうか。
でも、これは「実数と員数」以前の問題かな。
精神構造は類似のものではないかと思われるが。
さて、山本七平氏は春闘の参加者数に関する話を題材にしている。
ある春闘における参加者数について、主催者発表によると20万、警察発表によると約3万。
では、実際の参加者は?
メディア(事実報道のスペシャリスト)は何故それを調べないのか?
このメディアの姿勢は非常に問題であると思われるが、本論から離れるのでこれ以上は触れない。
さて、参加者数(事実)をどう認定するかを踏み絵(資格の問題)にしている。
曰く、「警察発表を信じるようでは労働記者の資格はない。」など。
しかし、そんなことをすれば、誰も事実が把握できなくなってしまう(警察側が敢えて虚報を流す動機はなさそうなので、警察が発表した数値が真実に近い値であろう)。
実態が把握できなくなれば、それは大問題を引き起こすであろう。
その結果、どんな悲惨な結果になったか。
詳細は本に書いてあるが、おおむね想像のとおりである。
さて、本章のまとめ部分を引用しよう。
(以下、本文97ページ以下引用)
「ない」ものを「ない」と言わずに、「ない」ものを「ある」というかいわないかを、その人の資格にしたことであった。
一言にして言えば「精兵主義はあっても、精兵はいない」という事実を、一つの「事実」としてそのまま口にできない精神構造にあった。
最後の最後まで「員数」すなわち「虚数」を「実数」としつづけ、そして「実数」として投入された「員数」は、文字通りの「員数」として、戦闘という実質の前に、一方的に消されていったわけである。
(引用終了)
私は「ない」ものはあっさり「ない」と言ってしまう傾向がある。
さらに、「実態調査をやろう」と思ったらあっさりとやってしまう。
最近も、精神的混乱から色々な記録を録りだして態勢を立て直したように。
少し昔も、あることに興味を持ったが、データがないため、重要なデータも重要ではないデータも片っ端から取りまくったことがあった。
そのため、「実数」と「員数」を混同してダメージを負った経験はあまりない(細かいダメージはいくらでも負っているだろうが)。
また、自分には「完璧主義」の傾向があったが、だからといって「自分が完璧である」と思うことは全くなかった。
むしろ、いかに「自分がダメか」を痛感し続け、それがメンタルを崩す原因にすらなっている。
とすれば、この章は、私にとって考え方を明らかにする上で非常に有益であるが、何かを変えなければならないということはあまりなさそうである。
ところで、「精兵主義はあっても、精兵はいない」という事実を一つの「事実」としてそのまま口にできない精神構造、これはどこから由来するのだろう。
これを起源とする背景は、「言霊思想」であろう。
「言葉にしてしまうと、それが実現してしまう。だから口にしない」という発想である。
よく「願い事があるなら、何度もそれを口に出して言え」と言われている。
これは「口に出すこと」がトリガーになって「願いの成就」に貢献するからである。
だから、「言霊思想」それ自体が荒唐無稽だとは思わない。
事実として日本人は言霊に引きずられる(私だって言霊に引きずられることがあるし、それがために失敗したことだってあるだろう)
さらに言えば、そこから脱却するのは不可能だと考える。
しかし、それゆえ現状を調査させない、または、調査した結果の発表を許さないということになれば、共同体主体で見れば情報が共有されず、惨状を招くことになる。
共同体統治システムとして民主主義を採用しているならなおさらである。
そう考えると、日本人が持つ言霊思想、これは近代立憲主義とは喰い合わせが悪いのかもしれない。
もちろん、それは単に評価として「マッチングしねー」と言っているだけであって、「日本人が悪い」ということではない。