今回もこれまでの続き。
今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。
11 「第11章 不合理性と合理性」を読む
今回が関連する敗因21か条は次の2つである。
(以下、敗因21か条より引用)
敗因三、日本の不合理性、米国の合理性
敗因一一、個人としての修養をしていないこと
(引用終了)
最初に私の話から始める。
司法試験の勉強を始めたとき、私にとってよくわからない概念が「合理性」という概念だった。
当時の言葉で言えば「合理的」といってもいい。
例えば、憲法14条の平等原則は国家による合理的な区別を許容し、不合理な差別を否定すると言われている。
では、ここで言う「合理的」とはなんなのか?
合理と不合理の境界線はどこにあるのか。
文字を見れば「理に合致すること」が合理的ということになる。
しかし、そうなると「『理』とは何か」という問題が発生する。
この点は今もよくわかってない(境界線については特に)。
さて、本章に移る。
まず、本章では従軍牧師、チャプレンに関する故・小松真一氏の日記から紹介されている。
ご存じのとおり、アメリカ軍ではチャプレンが軍の一機関として存在し、予算もついている。
これは日本帝国軍の常識から見れば行いえない、ようである。
というのも、組織(日本帝国軍)に宗教的権威という自分とは別個の権威を持ち込むのだから。
日本帝国軍の組織はすべてが合理的に構成されていて、かつ、完結している。
指揮系統は天皇陛下を頂点とする完全なピラミッドのようになっている。
つまり、「組織編制」としては合理的である。
もっとも、(当然だが)別の面では不合理な面もあった。
本章では、爆撃(空襲)で兵站宿舎にいた人たちが、爆撃を防空演習と誤認したために退避せず、そのために爆死してしまったケースをあげている。
このような事件(事故)が起きた場合、合理的な組織(「近代主義的組織」と言うべきか)ならば原因の調査・遺体の収容などの事後措置が採られる。
しかし、実際は遺体の収容などは行われず、墨痕鮮やかな忠魂碑を建てて終わってしまった。
これは合理的な対処としては極めて不十分であろう。
無論、慰霊の必要性があるので、忠魂碑などを立てる措置は必要であるとしても。
また、極めて合理的組織編制を行った結果、軍人以外の人々の持つ知識・知恵・技術が指揮系統に組み込めないという問題も生じてしまった。
この「よりよい知識・知恵・技術を一切排除してしまうこと」も合理的な対処とは言い難いであろう。
少なくても、戦争に勝つという目的との兼ね合いでは。
以上が日本帝国軍で起きてしまった齟齬(逆転現象)である。
この合理と不合理の逆転の背景には、「目的を実行するのは、組織を構成するのは人間である」ではないかと考えられる。
あと、「現実は不合理である」というのもあるのかもしれない。
本章ではその喩えとして人工語の話が紹介されている。
これまで多くの人工語が作られた。
この人工語の作られた背景には、「言語の不合理性、つまり、意思疎通を阻害する要素を排除して合理的な言語を作れば、人はその言語を活用するだろう」というものがあった。
しかるに、実際に作られた合理的な言語の大半はほとんど使われずに終わった。
唯一残ったのはエスペラント語であるが、この言語は他の人工語と比較してあいまいな点(不合理な点)を多く残している点に特徴があるのだそうである。
形式的合理性が不合理な現実・人間と乖離することにより不合理な結果を招来し、逆に、不合理を含むものがそれを含むがために現実において合理的な結果をもたらす。
なにやら「人生万事塞翁が馬」を同様の響きを感じさせるものである。
では、日本の合理・不合理の逆転の背景には何があるのか。
本章によるとそれは「ものまね」なのだそうである。
ただ、「総ては模倣(ものまね)から始まる」ことを考慮するならば、「権威としての導入」と言った方が適切な気がする。
ものまね・他者を参考にしたケースであっても、自分で一から作った者(他人の行為を一から再現した者)は、作ったものを自由に改良・応用することができる。
この場合、「改良」・「応用」は新たな創作ということになる。
しかし、「権威」として他者の作ったものを導入してしまうと、その形式自体が「権威」になるので、容易に変更できない。
仮に変更できるとしても、それを「純化させる」か「厳しくする」くらいしかない。
事実、日本帝国軍はそのような意味の厳格さを持っていた。
逆に言えば、融通が効かないということでもある。
そして、その厳格さを誇りにしていた。
しかし、前述の現実や運用者(人間)の不合理性を考慮すると、「純化」とか「厳格化」は不合理をもたらす。
この不合理は「現実からの不合理」であり、「日本人の生活常識からの乖離」ということになる。
そのため、軍の組織(日本人の生活常識から乖離された規律によって構成された)は敵軍の攻勢などという強打で崩れ、かつ、組織を構成する人たちが常識で動き出せば崩壊してしまう。
軍の組織が生活常識から乖離していれば、それは自明である。
逆に、生活常識から発展した規律であれば、劣勢になって崩れたとしても常識が組織を支えるので崩壊を食い止められる。
そして、合理的な組織を作った結果、別の悲劇も生まれてしまった。
長年続いた日本の伝統は日本人の気質を生み出している。
また、日本由来の組織の基盤は日本の伝統にあり、それは日本人の気質と同じである。
そのため、日本由来の組織を日本人気質を持つ日本人を動かせば、相乗効果によりプラスに作用する。
しかし、明治の近代化などにより外国にあった組織をそのまま輸入した場合は必ずしもそうなる保証はない。
事実、うまくいかず、外来の組織は人間に緊張をもたらし続けた。
そして、その組織から解放されると人は緊張から解放されるため、大きな開放感を味わうことになり、その結果、自分を緊張させていた組織から常識による組織にスイッチさせることなく、無秩序状態をもたらす、らしい
(本章ではこのように書かれている、もっとも、第4章の記載などを考慮すると、「この無秩序状態こそ日本の伝統に基づく秩序ではないか」と考えられなくもない)。
さて。
この無秩序状態、現在のコロナ騒動に伴う現象に見られる感じがしないではない。
ただ、まだ確証が持てないので、時間が経過した後に精査したいと考えている。
そして、この合理性・不合理性問題は戦後になっても克服していない。
それはコロナ禍を取り上げなくても、色々な例を挙げることができることからも明らかであろう。
しかし、そのためにはどうすればいいのだろうか。
私は最初、「合理的とは何か分からん。文字通り解釈するなら『理に合うこと』となるが、そうすると、『理』とはなんぞやということになる。」と書いた。
これがキーポイントなのかもしれない。
つまり、「理」について知ること。
言い換えれば、日本人の気質・日本の伝統を知ること。
具体的には、歴史に学ぶことになるのかなあ。