薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 11

 今回もこれまでの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

  今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。

 

 

 本書もついに最終章である。

 はるか昔、この本を初めて読んだときはさらっと読み、最近改めて読んだときは色々と気付かされ、今回はメモ(このブログ)を作りながら読んでいる。

 読むたびに新たな発見がある。

 

 また、「ブログにメモを書きながら読むこと」がこんなに大変だとは思わなかった。

 ただ、メモにすることで深く理解し、考えることができたので、これ自体は続けていきたい。

 

13、第12章 自由とは何を意味するのか

 本章は、小谷秀三氏の文章から始まる。

 この方はフィリピンのルソンに派遣された鉄道技師であり、故・小松真一氏と非常に似た境遇にあった人である。

 この点、両者は面識はない。

 しかし、小谷氏と小松氏の感想は非常に似たようなものになっている。

 

 そこから2点の問題点が浮かび上がってくる。

 一点目は、両名の潜在的意見、そして、これはおそらく国民の多数派の常識的意見と言えるものであるが、なぜ世論にならなかったか?

 言い換えれば、「国民の常識が何故判断の基準にならなったか。」

 二点目は、この事実が戦後正確に延べ伝えられなかったか。

 換言すれば、「何故、現代に生きる我々が戦前からの常識の延長線上にいると考えなかったのか。」

 

 そして、本書によると「そのカギは小松氏の態度にある」といい、その分析へ進む。

 

 

 一般に、人間はある日常性(通常性)の元で生活をしており、すべての人の日常性には大差はない。

 また、人間が生活をしていると様々な出来事が生じるが、それらの事件はその日常性がもたらしたものに過ぎない。

 そのことを類推すると、日華事変から始まる太平洋戦争の敗戦は異常事態による崩壊と言うよりは、明治以来の日本の日常性がもたらした一つの結末に過ぎない。

 つまり、「明治以降の日本の日常性こそが日本の崩壊をもたらした火薬であり、戦争は崩壊の引き金に過ぎない」と言えばわかりやすいか。

 そのため、敗戦の原因を考慮するなら、戦争前夜の状況よりも日本人の持つ通常性の研究の方が重要になる。

 

 そして、本書では『旅』という旅行雑誌の昭和12~13年ごろの記事の内容が紹介されている。

 その内容にはニュース(意外性)が含まれている。

 しかし、そのニュースは「相手(我々はよく知らない)の通常性にスポットをあて、それが我々と違う(これは当然である)こと」を「意外性」として取り上げている。

 そのため、この旅行雑誌の記事と当時の新聞記事を比較すれば、その内容に大きな差がある。

 というのも、当時の新聞記事のフェイクのひどさは山本七平氏の『私の中の日本軍』にあるところ(この本は私も読み、結果、「これはひどい」という評価を持たざるを得なかった、また、第8章でも軽く触れられている)、これらの新聞記事は『旅』の記事と異なり、フェイクによって意外性を作り出しているからである。

 そして、このフェイクを生み出したもの、それが小谷氏のいう「日本人を貫いている或る何かの力」である。

 言い換えれば、「軍人などが本来有する彼らの性格を歪め、日本の悲劇を生む行動をとらせた力」である。

 

 まとめればこのようになる。

 

 当時の新聞記事・大本営発表→日本人を貫いている或る力が効いている→プロパガンダになっている

『虜人日記』・『旅』の記述→その力が(相対的に)働いていない→日本の通常性がそのまま記されている→事実が書かれている

 

 そのため、「日本人を貫いている或る力」によって事実が歪曲されてしまう、ということになる。

 そして、「日本人を貫いている或る力」が働いた結果、「日常性という現実を意識させない」という通常性を生み出し、そのれがために、「現実が把握できなくなってしまった」。

 これが悲劇の原因であろう。

 

 では、この「力」とは何か。

 戦後の日本は「軍部に騙され云々」というストーリーを流布したが、これは「『力』によって騙される状態に陥った」ことを意味する。

 よって、原因を追究するには「(将来、騙されないためにも)何故騙されたか」ということを考える必要がある。

「軍部の責任を追及しただけで終わり」では再び同じ悪夢が起きても不思議ではないから。

 

 さて、この「力」。

「日本人をして現実を意識させないことを常態とさせた力」。

 この力は戦後の様々な事件を見る限り、続いているようである。

 私自身もこの「力」と思われるものに支配され、大失敗を繰り返している。

 だから、私自身、他人のことをとやかく言える立場にない(だからこそ、真剣にこの本と歴史から学んでいるわけだが)。

 

 さて。

 この力は連綿と続いている。

 そのため、「この力は日本の通常性に基づく力ではないか」という疑問がわく。

 ただ、この力自体は日本人の通常性とは無関係のようである。

 というのも、『虜人日記』には終戦時の状況に関する意外な、面白い記載があるからである。

 それは、軍国主義の権化として振舞っていた人間が、敗戦を聴けば途端に自害しそうな人間が、敗戦の報告を聴いた瞬間豹変する記録である。

 また、本書から離れるが、私もとある映画で似たような状況を拝見している。

 今風の言葉で言えば、「『アタマの切り替え』が発生したときの目撃記録」と言えばいいか。

 

 つまり、日記に記載されていた彼らの振る舞いは「軍国主義者の権化」ではなく、「小市民的価値観を絶対とする典型的な小市民的態度」であった。

 そして、それに類する態度は当時の『旅』などの記事で見られた振る舞い、また、学生運動に参画した学生たちに見られた態度と同様であった。

 とすれば、彼らの日常性は敗戦直後の態度、つまり、「小市民的価値観を絶対とする典型的な小市民的生活態度」にあったとした方がよいのだろう。

 そして、それは現代まで続いている。

 

 

 以上の分析を基礎に、本章では問いかけがなされる。

 では、この小市民的態度は恥ずべきことか、と。

 または、その力に拘束されることは恥ずべきことか、と。

 

 それに対する筆者(山本七平)の答えは次のとおりである。

 

 自分が信じるものをそのまま信じて、その信じたとおりの言動を取ればいい、と。

 信じてないものを信じているふりをして、それを他人に強制するのは許されない、と。

 

 もっとも、ある「力」が前者の行動をとらせないでいた。

 それは、現在も続いている。

 

 

 では、「この力を解除するためには何が必要か」と述べ、この力を解除するためのキーワード、それは「自由」である、と述べている。

 つまり、『虜人日記』の記載は、何も拘束されず、どの立場も考慮することなく、見たまま、聴いたまま、感じたまま、それを全く自由に記載された結晶である。

 そして、このような自由な談話(フリー・トーキング)が総ての人にできていたら、今回の悲劇は起きなかっただろう。

 本書は、そのように結論付けている。

 

 

 本書の最後では、このフリー・トーキングの重要性を示すために、一つのエピソードが紹介されている。

 意訳すると、次のとおりになる。

 

 人間は自由自在に考え、妄想する生き物である。

 その妄想の中には、適法性・妥当性を欠く内容も含まれるだろうが、自由に妄想すると自体に責任はない。

 事実、もし妄想の内容が自動的にレコードされた上、公表されたら社会は維持できないし、妄想する当人にとってもただ事では済まないだろう(現状のツイッターがもたらしている状況はまさにこれではないかと思われる)。

 また、自由(フリー)という言葉は無責任、つまり、責任を負わないということも意味する。

 今、数人が集まり、自分の妄想・思考を自由・無責任に出し合い、それを通じて議論・思考をしようとすれば、そのフリー・トーキングの結果、その数人の知識・知恵が結晶化し、素晴らしいものが出来上がるであろう。

 だから、その過程の一部をレコードして公表されたら、無責任という前提が成り立たず、また、出来上がるであろう素晴らしいものも出来上がらない。

 そのため、フリー・トーキングをレコードして公表する行為はやってはならず、そのようなことをやる人間は思考の自由に基づく表現の自由について全く理解できない愚者なのだ、と。

 

 

 私は司法試験を受ける際、「憲法の目的は個人の自由の確保にある」と教えられた。

 ただ、(これは教わってないことだが)「個人の自由を確保する目的は何か」と言えば、①個人の幸福に寄与することと②社会福祉の増進に寄与することの両方を掲げる必要があるだろう。

「個人の自由を確保すれば、それは社会福祉の増進にも寄与する」という命題が(信仰やフィクションであるとしても)成り立たなければ、共同体として個人主義を採用することはできないから。

 要約された話はこのことと関連しているように思われる。

 

 

 以上、最終章まで読み、学んだことをメモにしてきた。

 以後は、学んだ内容をまとめ、かつ、今後何をしていくべきかということを考える。