薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す4 その1

 これまで、旧司法試験の二次試験・論文式試験憲法第1問(人権)の過去問を見てきた。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回から新しい過去問を見ていく。

 見ていく過去問は平成15年度の憲法第1問である。

 これまでのテーマとして表現の自由に対する内容中立規制」・「政教分離」・「市民会館における集会の自由」とみてみたが、今回のテーマは「男女間の平等」である。

 

1 旧司法試験・論文試験・憲法・平成15年第1問

 まず、問題文を概観する。

 なお、過去問は法務省の次のサイトから入手した。

 

https://www.moj.go.jp/content/000049018.pdf

 

(以下、第1問の過去問を引用)

以下の場合に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

1  再婚を希望する女性が,民法の再婚禁止期間規定を理由として婚姻届の受理を拒否された場合

2  女性のみに入学を認める公立高等学校の受験を希望する者が,男性であることを理由として願書の受理を拒否された場合

(引用終了)

 

 関連条文は次のとおりである。

 

憲法14条1項

 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 

 次に、重要な判例としては次の判例があるだろう。

 

平成25年(オ)第1079号・平成27年12月16日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/547/085547_hanrei.pdf

 

平成4年(オ)第255号・平成7年12月5日最高裁判所第三小法廷判決
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/107/076107_hanrei.pdf

 

2 過去問の背景、再婚禁止規定の背後にあるもの

 この点、過去問の出題が15年以上前(私が司法試験の勉強を始める前)であることから、補足的知識を追加しておく。

 論文試験が行われた平成15年7月当時、再婚禁止期間は離婚後180日間であった。

 そして、再婚禁止期間の背景には「父性推定の重複回避」という問題、つまり、「子供の父親の候補が二人になってしまう問題の回避」という事情がある。

 この点は重要なので少し詳しく説明する。

 

 

 民法は「産まれた子供の父親の決め方」について次の条文を置いている。

 

民法772条

第1項、妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。

第2項、婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。

 

 この結果、「離婚してから300日以内に生まれた子供」は離婚前に懐胎したものと推定され(民法772条2項)、1項により「離婚する前の夫の子供」と推定される。

 逆に、「結婚してから200日後以降に生まれた子供」は結婚中に懐胎したものと推定され、今度は「再婚後の夫の子供」と推定される。

 その結果、ある女性が離婚した日に再婚した場合(仮想事例、現実では婚姻届けが受理されない)、離婚してから201日目から300日目の間に生まれた子供について、父親と推定される人が二人(離婚前の夫と再婚後の夫の両方)となってしまい、どちらの父親になるかを即座に決めることができない。

 その結果、子どもの父親が直ちに決まらず、福祉関係において混乱が生じる。

(この問題は離婚後100日以内に結婚した場合にも生じうる)

 

 この問題を「父性推定の重複」の問題という。

 そして、この重複を回避するため民法では女性について再婚禁止期間を設けている。

 現在の条文は次のとおりである。

 

民法第733条

第1項 女は、前婚の解消又は取消しの日から起算して百日を経過した後でなければ、再婚をすることができない。

第2項 前項の規定は、次に掲げる場合には、適用しない。
 1号、女が前婚の解消又は取消しの時に懐胎していなかった場合
 2号、女が前婚の解消又は取消しの後に出産した場合

 

 ちなみに、当時(違憲判決が出る前)、百日が百八十日になっていた。

 そこで、「最小限の制約でいいなら百日で足りるのに、何故八十日も余分に制限するの?これは必要のない過剰な制限では?」ということが憲法上の問題となるわけである。

 

 

 訴訟上の争点は少し異なるが、設問1と上の2つの事件の憲法上のメイン論点は同じである。

 そして、これらの判例憲法上著名な判例の一つであり、前哨戦たる短答式試験を突破した人間(論文試験を受ける人間)で知らない人間はいない。

 よって、設問1は超基本、設問2が応用ということになる。

 

 今回も、この問題を解くために必要な前提知識を確認し、次に、どのような法的三段論法を使って結論をもっていくかを検討し、最後に、本問や関連判例を読んで考えたことをメモにする。

 

3 憲法14条1項の平等原則が国家権力に要求すること

「国家権力は原則として国民を平等に扱わなければならない」、これを平等原則と言う。

 そして、このことを条文という形にしたのが憲法14条1項である。

 

 

 もっとも、この「平等」についてはいくつか争点がある。

 その際の大事な前提として、平等原則は「神から見れば人間は平等である」というモデルを国家と国民の関係に置き換えたということがある。

 そこで、この前提から「『ルール』を平等に執行しなければならない」という「法適用の平等」を導き出すことができる。

 例えば、行政権や司法権が条件が同じなのに人によって処分や判決を変えてはいけないということはできる。

 

 もっとも、神が創造したルールは各人に平等な結果をもたらすようにはできていない。

『痛快!憲法学』で紹介したが、キリスト教の「平等」とは「機会の平等」でしかなく、「結果の平等」は必ずしも担保されていない。

 そこで、「立法府(国会・議会)は法の内容を平等にする義務を負うのか」という問題が生じる。

 つまり、「法適用の平等」にとどまるのか、それを超えて「法内容の平等」まで含むのかという問題である。

 もっとも、「不合理・不平等な内容の法律を作ってしまえば、それを平等に執行したところで不平等の問題は生じる」ということを考慮すれば、国会にも平等原則の適用はある、つまり、法内容の平等を含むと考えていいだろう。

 この点、憲法が「法内容の平等」を要求することは最高裁判所も認めている。

 

 

 次に、「平等」がどんな平等まで要求しているのかという問題がある。

 この点、「神の下の平等」のモデルケースを見れば、「機会の平等」を要求していることは明らかである。

 では、「結果の平等」についてはどうか。

 実現することが要請されているのか、実現してもいいのか、あるいは、実現してはいけない(禁止)のか。

 

 この点、人はそれぞれ違った性質があり、そのことを前提にするならその違った状況に合わせて異なる対応をした方がいいケースはたくさんあるだろう。

 また、「機会の平等だけでいいのか?その結果、もたらされるものは貧困の自由と空腹の自由だけではないか?」という問題は現実に存在する。

 そこで、現実の社会問題を解決するためには「結果の平等」に向けた一定の政策が必要になる。

 さらに、日本国憲法社会権を保障しており(25条から28条)、社会福祉政策による経済的自由・財産権の制限を予定している(憲法22条1項・29条2項)

 したがって、「平等」とは形式的・機械的平等ではなく、実質的・相対的「平等」を指しているものと考える。

 その結果、「平等」は合理的な理由に基づく「区別」を許し、他方で不合理な理由による「差別」を禁止しているものと考えることになる。

 この点は最高裁判所の考えと同じである。

 

 

 以上をまとめよう。

 

① 平等原則の射程範囲は行政・司法だけではなく立法も含む

 → 法適用の平等だけではなく、法内容の平等を要求

② 平等は形式的・機械的平等ではなく、合理的区別を許容した実質的・相対的平等を指す

 ← 実情への対応の必要性、憲法社会福祉政策を行うことを想定

 

 この大原則は極めて重要である。

 もちろん答案上にも示す必要がある(大展開する必要はないが)。

 

 

 以上を前提として、設問1・2のケースが合理的な区別か不合理な差別かということを考えていくことになる。

 つまり、①合理的な区別と不合理な差別の境界についてどのような基準で考えていくのか(規範定立)、②その基準に従った場合、各ケースの取り扱いの差別はその基準を満たすのか(あてはめ)ということを考えていくことになる。

 しかし、ここまでかなりの分量になったので、それについては次回以降で。

司法試験の過去問を見直す3 その5(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 過去問の検討に関することは前回で終わり。

 今回は過去問から離れて考えたことを書いていく。

 

10 過去の勉強を振り返って

 今回、改めて過去問を検討したが、違憲審査基準と結論は前回と今回で変わらない。

 ただ、改めて過去問を振り返ってみると、過去問は基本的なことを訊いているのであって、別に最先端の知識を知っていないといけないわけではないのだなあ、という感想を持った。

 もちろん、題材が最先端の事件・論点になることはあるとしても。

 

 司法試験の勉強をしていたころの答案において、私は「この過去問が問われていることは敵意ある聴衆の理論と集団暴徒化論である」という認識でいた。

 しかし、この2つの重要性はそれほどでもないように考えられる。

 改めてみた場合、「危険の程度を明白かつ具体的に予見していないが、それで不許可処分を出していいのか」・「『地方自治体の現政策に反対する目的と反対のデモを予定している』だけでを許可処分を出していいのか」ということが問われているように思える。

 

 もちろん、精密に考えるためには上の2つは貴重な材料になる。

 でも、それは細かい事情に過ぎない。

 

 こう考える理由は何か。

 その理由は判例の事案を丁寧に見るようになったからではないか」と考えている。

 言い換えれば、「昔の私は最高裁の事案を丁寧に見ていなかったのだなあ」との感想を持った。

 

11 日本における集会の自由の価値

 今回、結論として合憲と違憲の両方の答案を考えてみた。

 つまり、争いのない事実を前提にして(現実の訴訟は事実関係にも争いがある点は注意)、「団体側の訴訟代理人だったらどのように違憲・違法の主張を組み立てるか」、「自治体側の訴訟代理人だったらどのように合憲・合法を組み立てるか」を考えたことになる。

 そして、この二つのうち採用された方の主張が「裁判所の判決」である。

 

 

 この点、過去問を検討するなら違憲の答案を作成するだけでよかった。

 しかし、今回、合憲の答案を用意したのは理由がある。

 それは、「国民の憲法意思・憲法感情に適合する結論はどちらか?」ということが気になったからである。

 もちろん、「国民の憲法意思・憲法感情」なるものが究極的にはフィクションにすぎないことは分かっているが

 

 合憲と違憲の違いは審査基準の違いがもたらしているに過ぎない。

 つまり、「集会開催によって、『どのタイミング』で『どの程度の危険』の発生を『どのレベルの蓋然性(確率)』で予見したならば、市民会館の自由の利用を拒否していいか?」という問い(審査基準)に対する回答の違いが合憲と違憲の結論を分けていると言ってよい。

 

 この点、市民会館の施設利用拒否が問題になり、かつ、敵意ある聴衆に言及した最高裁判決に上尾市民会館事件という事件がある。

 この判決では、最高裁は次のように述べている。

 

(以下、上記事件の最高裁判決より引用、強調は私の手による)

 主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。ところが、前記の事実関係によっては、右のような特別な事情があるということはできない。なお、警察の警備等によりその他の施設の利用客に多少の不安が生ずることが会館の管理上支障が生ずるとの事態に当たるものでないことはいうまでもない。

(引用終了)

 

 ここで見ておくべきことは最後の部分である。

 要約すれば、「(警備によって生じる利用者・住民・職員の)不安は不許可処分の理由にならない」という点である。

 もちろん、「不安」はストレスとなって精神的健康にもかかわるため「生命・身体」に関連しないわけではないが、「不安」のレベルにとどまる限りは「危険」の範疇に入らないということらしい。

 つまり、「危険の程度(レベル)」に縛りをかけている。

 

 この点、近代立憲主義が持つ「多様性」・「熟議を通した意思形成」・「自由」を前提すれば、他人・他の団体の集会に反対する人間がいること、集会に反対するために合法的な抗議運動を行うことは当然ありうる。

 また、それがなければ近代立憲主義は作動しない。

 

 しかし、それには大小のリスクやコストが伴う。

 最高裁が「危険」から除外した「不安」だって健康、つまり、身体に関連するため、リスク・コストである。

 そして、結果的に講演会と抗議運動が合法的になされたとしても、何かのきっかけで事件になる可能性があり、かつ、将来は未確定である以上、「不安」が消えることは絶対にない。

 このリスクやコスト、それほど大きくはない場合に受忍できるのか

 

 ここで考慮するべきなのは、「コストを代価に得られる利益」、つまり、「他人の集会」に対して国民が考える価値であろう。

 しかし、他人の集会を自分の集会のように大事なものと思えないのであれば、「他人の集会」の価値は高まらず、集会の重要性は下がるだろう。

 いわゆるヴォルテールの名言と言われているものとして有名な「私はあなたの意見に反対だ。しかし、あなたの意見を述べる権利は生命をかけて守る」を前提に行動し、または、コストを受け入れることができるか。

 できないなら最初から賛成しない方がよろしかろう。

「『賛成』するだけで行動しない」という言動不一致を起こすくらいなら、最初から「反対し、かつ、そのように行動しない」という方がマシだろうし、また、この意見を貫くのはかなり大変なので。

 

12 敵意ある聴衆の理論について

 団体Aの不許可処分で前提となっている事実関係に「講演会に反対する団体が押し掛ける」というものがある。

 これを国民の憲法意思・憲法感情に照らしてどのように評価するのか、という点が気になった。

 

 確かに、反対者の実力行使を理由に安易な不許可処分を許せば、反対者は市民会館における集会の開催を安易に阻止できる(実力行使を予告するだけでよい)し、自治体が反対者の阻止行動に加担したことになりかねない。

 この点、反対者(国民)は憲法に束縛されないので、集会を阻止したところで憲法違反にはならないし、合法の範囲の主張・行動である限り法的責任は発生しない。

 一方、自治体は憲法に束縛されるので、それを口実に集会を阻止すれば反対者たちと異なって憲法違反となり、場合によっては国家賠償責任を負うことになってしまう。

 事実、上尾市のケースではそのような展開になった。

(もっとも、賠償したとしても集会を阻止できたなら十分という発想はありうるが、それはさておく)

 

 しかし、敵対者を存在させるような団体の集会(講演会)に重要な価値を見出せるのか、という問題はある。

 いわゆる日本古来から存在する「喧嘩両成敗」との関係である。

 この「喧嘩両成敗」は日本において利用されているところ、この背後には「他人に負の感情をもたらし、よって、紛争を惹起するおそれのある行為をしてはならない」という行動規範がある。

 そのため、反対者の行動を誘発するような集会・講演会は喧嘩両成敗が想定している行動規範に適合しない。

 とすれば、「敵対者が押し寄せるような講演会を(警備をつけたこと等によって生じる)不安感というコストを払ってまで開催させる価値があるのか」という感情があっても不思議ではないように考えられる。

 たとえ、この感情が近代憲法と適合しないとしても。

 そして、このような感情あるならば、近代憲法によってこの感情を押しつぶそうとしても、バッククラッシュをもたらすだけのように考えられる。

「空気」に対する対処がもたらした経過と同様に。

 

 敵意ある聴衆によって集会の開催に影響を及ぼした事件は複数ある。

 市民会館の利用に関しては最高裁の厳格な基準があるが、私人間同士ではこんな基準は適用できない。

 私人に憲法遵守の義務はなく、それどころか、私人の側にも様々な憲法上の権利があるからである。

 我々は、我々の伝統的規範は、敵対的聴衆の問題についてどう考えるのだろう、その結果と最高裁判所のそれとはどの程度一致するのだろう、そんなことを過去問を見て考えた。

 

13 集団暴徒化論について

 もう一つ考えたことに最高裁判所が述べた集団暴徒化論があるので、それについてもメモを残す。

 これが判決文に現れたのは、東京都公安条例事件である。

 判決文は次のとおりである。

 

東京都公安条例事件

昭和35年(あ)112号・ 昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反被告事件・昭和35年7月20日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/694/051694_hanrei.pdf

 

 関連する部分を引用する。

 

(以下、同事件の引用)

 ところでかような集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版等によるものとはことなつて、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によつて支持されていることを特徴とする。かような潜在的な力は、あるいは予定された計画に従い、あるいは突発的に内外からの刺激、せん動等によつてきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団であつても、時に昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によつて法と秩序を蹂躪し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである。

(引用終了)

 

 簡単に述べると、「集団が何らかの表現を行う場合、その集団がどんなに平穏な静粛な集団であっても、集団は内外のなんらかの刺激により暴徒と化して、当事者その他によって制御できなくなる」という経験則のことを指す。

 もちろん、「経験則」であって「暴徒と化す蓋然性が高い」といったような発生確率の極めて高いものではない。

 しかし、経験則として採用した瞬間、「表現を目的とする団体は総て暴徒と化す『おそれ』がある」という認定が可能になる。

 

 約15年以上前、司法試験の勉強をしていたころ、この経験則に対して「そんな大げさな」との感想を持っていた。

 ただ、昨今のネットの炎上その他を見ていると、それほど大げさではないなあと考えさせられた。

 もちろん、当時の最高裁が現実に見ていたものは安保闘争であり、実空間上の人間の衝突があり(実際、死傷者が出ている)、私が見たものよりもっと被害が大きいものであるが。

 

 この集団暴徒化論は、集団の表現の中身、例えば、自治体の政策に反対か賛成かということは関係ない。

 集団に「表現志向」の要素が伴った瞬間、「危険の発生するおそれが生じる」と考えるのだから。

 そして、この経験則を否定するのは現実に即して考えるなら難しいのかな、という気がする。

 

 もっとも、この経験則を肯定したところで、審査基準のレベルが厳しければ、集団暴徒化論を用いて直ちに平穏な集会の開催を阻止できるわけではない。

 ならば、この経験則を肯定しただけで大きな問題を引き起こすことはなく、「危険が発生するおそれさえば制限していい」というような緩やかな基準とこの経験則が競合した場合に問題になる、ということになるのだろう。

 

 

 以上、過去問を改めてみて考えたことをつらつら書いてみた。

 なお、私がメモに残したいことは今回の部分であり、過去問にどう答えるか、とか、基礎的な知識はただの前置きである(今回以外の部分は司法試験予備校のテキストを見れば書いてある内容である)。

 ただ、今回改めて考えたことは山本七平氏や小室直樹先生の書籍から学んだことを利用するという意味で価値があった。

 今後も過去問の検討は続けていこうと考える。

司法試験の過去問を見直す3 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 過去問の基本的な検討は前回で終わり。

 今回は過去問を見ていて気になったことを少し細かめに見る。

 

8 書かれていない事情をどこまで考慮するか

 まず、過去問を確認する。

 

(以下、過去問を引用)

 団体Aが、講演会を開催するためにY市の設置・管理する市民会館の使用の許可を申請したところ、Y市長は、団体Aの活動に反対している他の団体が右講演会の開催を実力で妨害しようとして市民会館の周辺に押し掛け、これによって周辺の交通が混乱し、市民生活の平穏が害されるおそれがあるとして、団体Aの申請を不許可とする処分をした。

 また、団体Bが、集会のために右市民会館の使用の許可を申請したところ、市民会館の使用目的がY市の予定している廃棄物処理施設の建設を実力で阻止するための決起集会を開催するものであることが判明したので、Y市長は団体Bの申請を不許可とする処分をした。

 右の各事例における憲法上の問題点について論ぜよ。

(引用終了)

 

 これまで、いずれの団体の不許可処分においても泉佐野市民会館事件の基準を立て、同基準の「差し迫った危険の発生」について「明白かつ具体的に予見していない」と判断し、違憲と判断した。

 この背景には「集会の自由の重要性」がある。

 さらに言えば、「敵意ある聴衆を理由に不許可処分を広く認めちゃダメ」・「集団暴徒化論を前提として集会目的だけで不許可処分を出したらダメ」といったものがある。

 

 

 ただ、問題文を見ていて気になったがある。

 まず、団体Aの場合から。

 Y市長の予見した危険が「交通の混乱」と「市民生活の平穏に対する危険」であること、危険の発生する確率が「おそれ」のレベルである点は前回書いた通りである。

 そして、問題文の文言を見ればその通りである。

 ただ、「書いてないこと」を理由に「『それ以上のことを予見していない』と認定していいのか?」ということが気になった。

 

 本件では、交通の混乱(この文言だけだと、住民・職員の生命・身体・財産に対する危険は見えてこない)は予見されている。

 しかし、「交通の混乱」があれば「交通事故」の可能性は高まる。

 ならば、「交通事故を予見した」とは言えないか。

 交通事故を予見してれば、「交通事故による付近の住民・通行する住民・運転手の生命・身体・財産に対する危険」が予見されたことになり、予見された危険の内容のレベルは泉佐野市民会館事件と同レベルになる。

 

 次に、問題文の文言を見れば、「市民生活の平穏が害される事」しか予見されていない。

 しかし、「別の団体が実力で講演会を阻止しようと市民会館の周辺に押し掛けること」は予見している。

 そして、「実力で阻止」というのであれば、一定の有形・無形の圧力をかけることになる。

 ならば、「なんらかの乱闘事件(暴行・傷害事件)が発生することを予見した」とは言えないか。

 仮に、乱闘事件を予見したのであれば、「敵対する団体や講演会を主宰する団体の参加者・市民会館の職員・付近の住民の生命・身体・財産に対する危険が予見された」ことになり、これまた予見された危険の内容のレベルは一気に泉佐野市民会館事件と同程度になる。

 

 この点、問題文に書かれていない事情を勝手に追加することは積極ミスである。

 ただ、このレベルの推測ならば極めて容易である。

 ならば、「勝手な追加」と切って捨てていいのか。

 

 もっとも、これらの事情を追加しても結論は変わらない。

 何故なら、推測した分を追加して危険のレベルが上がっても、推測という作業が加わった関係で発生確率は減少し、「危険の発生が明らかである」と予見したことにはならないからである。

 つまり、問題点の検討の実益はほとんどない。

 

 また、「もしも、レベルの高い危険を予見していれば、その危険の予見を主張するだろう」ということを前提とすれば(予見したのに主張しなかったのであれば、それは職務怠慢である)、その対偶をとって「主張していないことは予見していない」という帰結を導くことができる。

 ならば、「書かれていないことを予見していると想定する必要はない」とは言える。

 

 

 次に、団体Bのケースにおいて気になることがあった。

 それは「実力」の法的評価である。

 

「実力を行使」と言うからには、「一同、頭を下げて平穏に中止を請願する」といった態様は採用しないだろう(「集団が一同頭を下げて中止を請願する」という行為は異様であり、その態様が極めて平穏だったとしても相手に与えるプレッシャーは大きくなり、それが「危険」に結びつくことはあるかもしれないが、それはさておく)。

 通常はデモ活動を行い、集団が行進する。

 あるいは、集団で声を出す。

 もちろん、これだけならば合法的な行為である。

 ただ、「実力」という言葉を「合法的なデモに限定して考えていいのか」ということが気になった。

 極端な場合、例えば、「実力」の定義が「違法な行為」だとする(あくまで仮定である)と、危険の評価と発生確率は大きく変わり、これまでの前提も大きく変わってしまう(なお、「実力」の定義は団体Aのケースでも問題になる)。

 

 この点、泉佐野市民会館事件の最高裁の判決文を見ていたところ「違法な実力行使を繰り返し」という言葉があった。

 つまり、実力の前に「違法な」という言葉を用いて使っていた。

 ならば、単に「実力」としか書かれていない場合に、その実力を「『違法な』有形無形の力の行使」と評価することは積極ミスになりそうだ。

 ならば、この点について神経質に悩む必要はなさそうである。

 実力を「合法オンリー」と限定しないとしても。

 

9 合憲の答案構成_広島県暴走族追放条例事件を参考に

 司法試験の場合、原則として、結論のみによって点数が大きく変わることはないと言われている。

 つまり、前提たる法的知識に誤りがなく、法的三段論法の骨格がしっかりしており、事実認定に誤りがなく、事実の評価が著しく不当でなければければ、結論がいずれであっても十分に評価されることになる。

 

 ただ、今回の場合、「泉佐野市民会館事件」という過去問と極めて類似する裁判例がある。

 そして、この規範を前提にして通常通りの事実認定をした場合、合憲にもっていくことが難しいことは前回述べた。

 さらに、前セッションで検討した結果を考慮すれば、実力を違法なものと認定したり、敵対する団体が押し寄せることで交通事故や乱闘事件が起きると評価するのは難しい。

 そのため、事実認定・事実の評価を妥当な範囲で合憲の側に引っ張ることも難しそうである。

 とすれば、もし、合憲の答案を書くためには、泉佐野市民会館事件における最高裁判決の基準を用いないことが前提となる。

 

 もっとも、違憲審査基準は用意しなければならない。

 また、全くゼロから規範を作るのもあれである。

 そこで、使えそうな判例を探してみた。

 そして、使えるかなと考えたのは、広島市暴走族追放条例事件の最高裁判決である。

 

広島市暴走族追放条例事件

平成17年(あ)1819号広島市暴走族追放条例違反被告事件・平成19年9月18日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/114/035114_hanrei.pdf

 

 上告審の主要な争点は「条例の文言の明確性」であり、集会の自由に対る制限の当否それ自体ではない。

 しかし、この事件は集会の自由を制限する条例の適用が問題となったものであり、また、条例の憲法適合性が問われた。

 そして、その制限を正当化する規範として引用された判例泉佐野市民会館事件の最高裁判決ではなく、猿払事件や成田新法事件の最高裁判決であった。

 とすれば、集会の自由を制限する際の違憲審査基準を泉佐野市民会館事件の「明白かつ現在の危険の基準」に固定しなければならないことはない、と言える。

 つまり、集会の自由の制限において泉佐野市民会館事件で用いられた規範(厳格な規範)ではなく、猿払事件の規範(緩やかな基準)を用いることも差し支えないということになる。

 

猿払事件

昭和44年(あ)1501号・国家公務員法違反被告事件・昭和49年11月6日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/800/051800_hanrei.pdf

 

 この点、猿払事件とは公務員の政治的表現の自由の制限が問題になった事件である。

 集会の自由と表現の自由は精神的自由という点、条文が憲法21条1項という点で共通する。

 そして、この事件で用いられた違憲審査基準はいわゆる「合理的関連性の基準」と呼ばれており、次の3つの要件を満たせば憲法上の権利の制限が正当化されると考えるものである。

 

① 規制目的が「正当」であること

(「必要不可欠」や「重要」である必要はない)

② 規制手段が規制目的との間で「合理的関連性」を有すること

(明白な関連性や実質的な関連性を有する必要はない)

③ 規制されることによって失う利益と得られる利益の均衡がとれていること

 

 なお、②の合理的関連性という言葉の定義を箇条書きにまとめると次のとおりになることは、以前の過去問で猿払事件に言及したときのとおりである。

 

・制限される行為によって危険・害悪が発生する「おそれ」があれば合理的関連性がある

・害悪が具体的に発生しない行為を規制しても(抽象的に発生するなら)合理的

・公共の利益を直接的に損なう行為でなくても(間接的に損なう行為であれば)合理的

・具体的な代替手段があるかどうかを検討しなくても合理的

 

 この点は重要なので、猿払事件の該当部分をもう一度掲載する。

 

(以下、猿払事件の「合理的関連性」に関連する部分を引用)

 また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない

(引用終わり)

 

 以下、合理的関連性の基準を用いて、団体Aや団体Bに対する不許可処分の憲法適合性を考えてみる。

 まず、団体Aについて。

 

 第一に、不許可処分の目的は「周辺の交通が混乱すること」と「市民生活の平穏が害されること」の防止である。

 この点、平穏な交通状況や市民生活の平穏は住民の生活・幸福追求の前提となる。

 そして、幸福を追求する権利は憲法13条の解釈によって保障される憲法上の権利である。

 とすれば、不許可処分の目的は住民の幸福追求という憲法的利益の前提の確保することにある。

 したがって、目的は正当である。

 次に、集会の開催により講演会に反対する者が押し掛ければ、市民会館の周辺に多くの人が集まることになる。

 そうなれば、付近の交通が渋滞・混乱し、また、市民生活の平穏が害されるするおそれが発生することは否定できない。

 よって、不許可処分によって集会の開催を中止させることは目的との間で合理的な関連性があると言える。

 猿払事件最高裁の言葉を援用するならば、「たとえ、集会の開催に際して警備を行うことで交通の混乱、市民生活の平穏が害されるおそれがなくなる(危険がなくなる)としても、または、集会の実行によって具体的な危険が発生しないとしても、(危険が発生するおそれがある以上は)合理的な関連性が失われることはない」ということになるだろう。

 これで、①目的の正当性・②手段と目的との合理的関連性の要件が満たされた。

 最後に、③利益の均衡について問題になるところ、不許可処分が出されても市民会館で集会が開けなくなるだけで他の場所の集会の開催が可能であるから、不許可処分による集会の自由に対する制限が付随的・間接的な制限に過ぎないこと、その一方で集会のその制限によって市民会館周辺に住む多数の住民の利益が確保されることを強調する。

 その結果、③利益の均衡はとれているということができる。

 もちろん、市民会館で集会を開くことの重要性を強調することで「利益の均衡が取れてない」と主張するは十分可能であり、結論を違憲に持っていくことは可能であるが、それについては割愛する。

 以上のように考えることで、団体Aに対する不許可処分は「合理的関連性の基準」を満たし、合憲とすることができる。

 

 次に、団体Bの場合を考える。

 この点、団体Bの集会の目的が判明したことにより不許可処分にしている。

 つまり、集会の内容自体に着目した不許可処分になっており、危険の発生とは関係ないように見える。

 また、発表の内容に注目して行政権が事前にその発表を禁止する行為として「検閲」があり、憲法21条2項前段が検閲を禁止しているところ、集会の目的をもって集会を規制する行為はこの検閲に準じる事前抑制になるとも言える。

 そのため、そもそも「目的の正当性」の要件が満たされないようにも見える。

 しかし、集団暴徒化論と集会の目的を組み合わせることで、不許可処分の目的を「付近の交通秩序の維持、付近の住民の平穏な生活環境の保護」というようにもっともらしい目的に認定してしまうこと不可能ではない。

 そして、不許可処分の目的をそのように認定してしまえば、目的の正当性・手段の合理的関連性・利益の均衡は団体Aのケースと同様に認められるので、同様に合憲に持っていける。

 もちろん、目的の要件や利益の均衡の要件で違憲にしてしまうことは可能であるが、それについては割愛。

 以上で合憲の答案は完成である。

 

 

 ここで、「合理的関連性の基準」を使ったあてはめを具体的に見てみた。

 具体的に見ることで、以前の過去問検討の際に、私が「表現の自由に関する内容中立規制において、規制目的が正当であり、規制手段が規制目的との間に合理的関連性があれば刑事罰を科してもよい」という見解に反対した理由もみえるだろう。

「合理的関連性がない」と判断される事は基本的にない(目的と手段が無関係というような、よっぽど頓珍漢な規制手段でも用いない限り)。

 また、「目的が正当でない」と判断される事もない(もっともらしい目的さえあれば「目的は正当」と判断される)。

 猿払事件の基準の場合は「利益の均衡」という要件が追加されているため、そこをてこに結論をひっくり返すことが可能だが、平成3年度の過去問の見解には「利益の均衡」という要件はなかったので、そのようなことも不可能である。

 まあ、「利益の均衡」という要件があっても、マイノリティの精神的自由が問題になる場合、「多数者の権利によって得られる利益VS少数者の権利を制限することによって得られる利益」という形になってしまい、多くの場合は前者が勝ってしまうのだが。

 

 

 あと、試験の場合、書いた答案が試験の合否のために評価されても、その内容が漏れることはほとんどない。

 しかし、リアルでこの主張した場合、猿払事件に対する批判と同様の批判を浴びることになるだろう。

 具体的に列挙すれば次のような感じである。

 

・精神的自由の一内容たる集会の自由を軽視するものである

・付随的な制限・間接的な制限だというが、別の場所で同様の集会が開ける可能性が現実的に存在するのか

・広島の条例が規制することを想定している団体と団体A・団体Bは性質が全然違うのにそれを同一視していいのか

・(団体Aの場合)講演会は平穏を害する態様で開催する予定はなく、平穏を害するのは別の団体なのに、その責任(不利益)を団体Aに押し付けて良いのか

・(団体Bの場合)自治体の政策に反対していることが理由になっているようにも見えるのに合憲としていいのか

 

 などなどなど。

 まあ、これらの批判については次回に言及するし、また、私自身、猿払事件の規範を使うことはないので、これらの批判を覚悟する必要はないけどね。

 

 

 以上、過去問について回答とは別で気になったことを書いてみた。

 ここからは試験問題という点から離れて考えたことについて書く。

 ただ、既に分量がかなりの量になったので、これ以降は次回。

司法試験の過去問を見直す3 その3

 今回は次のシリーズの続き。

 

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 前回までで違憲審査基準まで述べてきた。

 今回は判例の事例を検討し、本問の検討に移る。

 

5 泉佐野市民会館事件

 最高裁判所の判決として重要なものが泉佐野市民会館事件の最高裁判決である。

 違憲審査基準の設定についてはこの判決に沿って説明した。

 

 結論において、最高裁判所はこの事件の不許可処分を合憲・適法と判断する。

 最高裁判所が認定した事実の中で重要なものは次の点である。

 

① 集会を開催する団体を支配している団体(申請者それ自体ではない)は空港建設工事の着手に反対であった

② また、激しい実力行使によって工事の着手を阻止する方針を採用していた

③ ①に基づき、東京・大阪で爆破事件を起こしていた

④ 不許可処分になった集会は①の反対運動の山場として考えていた

⑤ この団体対立するグループと緊張関係を持っていた

 

 以上の事実を認定して次のように結論を出した。

 

(以下、判決の引用)

 本件会館で開かれたならば、対立する他のグループがこれを阻止し、妨害するために本件会館に押しかけ、本件集会の主催者側も自らこれに積極的に対抗することにより、本件会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、グループの構成員だけでなく、本件会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害されるという事態を生ずることが、客観的事実によって具体的に明らかに予見されたということができる。

(引用終了)

 

 最高裁判所はかなり厳しい基準を設けたが、基準に対応する事実があったことも認めている。

 

 

 ところで、この事例で最高裁「集会が開かれたら、対立する団体が押し寄せて大混乱が生じる」という趣旨を述べ、反対派の実力行使を理由に不許可処分を許しているようにも読める。

 そこで、最高裁判所はこれに対してフォローを述べているので、その部分も見ておく。

 

(以下、判決の引用)

 主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条に反対する他のグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法二一条の趣旨に反するところである。しかしながら、(中略)これを被上告人が警察に依頼するなどしてあるかじめ防止することは不可能に近かったといわなければならず、平穏な集会を行おうとしている者に対して一方的に実力による妨害がされる場合と同一に論ずることはできないのである。

(引用終了)

 

 いわゆる「敵対的聴衆」とか「敵意ある聴衆の理論」と呼ばれているものである。

 これについては最高裁判所は敵意ある聴衆を理由とする不許可処分を違憲・違法としつつ、次の2つのケースを例外として考えているようである。

 

① 実質的な主催者たる団体が平穏な集会を行うことを目的としていないこと

② 警備によっても混乱が防げないこと

 

 これは過去問を解く際に加点事項となりうるように思われる(ただ、この点を外したとしても問題自体は解けるように思われる、理由は後述)。

 ちなみに、①と②を満たさなかった上尾市民会館事件において不許可処分は違法(違憲)となった。

 

 

 以上を見ながら、過去問を見ていこう。

 

6 団体Aのケース

 さて、過去問を見直してみよう。

 

(以下、過去問全文引用)

 団体Aが、講演会を開催するためにY市の設置・管理する市民会館の使用の許可を申請したところ、Y市長は、団体Aの活動に反対している他の団体が右講演会の開催を実力で妨害しようとして市民会館の周辺に押し掛け、これによって周辺の交通が混乱し、市民生活の平穏が害されるおそれがあるとして、団体Aの申請を不許可とする処分をした。

 また、団体Bが、集会のために右市民会館の使用の許可を申請したところ、市民会館の使用目的がY市の予定している廃棄物処理施設の建設を実力で阻止するための決起集会を開催するものであることが判明したので、Y市長は団体Bの申請を不許可とする処分をした。

 右の各事例における憲法上の問題点について論ぜよ。

(引用終了)

 

 不許可処分の理由のところだけ抜き出すと次のようになる。

 

① 団体Aの活動に反対している他の団体が右講演会の開催を実力で妨害しようとして市民会館の周辺に押し掛ける

② ①によって周辺の交通が混乱し、市民生活の平穏が害される

③ ②の発生確率は「おそれ」

 

 泉佐野市民会館事件のケースと対比すると、予見した危険のレベルが泉佐野市民会館事件と比較して低い。

 まず、予見した危険の内容が「交通の混乱」と「市民生活の平穏」である。

「交通の混乱」を予見しているが、「交通事故」を予見しているわけではないようだ

 また、「市民生活の平穏」それ自体、幸福追求権の一内容として憲法13条によって保障されるべきものではあるが、「生命・身体・財産」といったものと比べれば、予見された危険のレベルが低い。

 

 さらに言ってしまえば、危険が発生する可能性も「明らか」といったレベルではない。

「蓋然性」のレベルすらなく、「おそれ」(一般的抽象的可能性)しかない。

 

 このように考えれば、泉佐野市民会館事件の基準を用いるのであれば、「この予見では完全に甘い」ということになり、到底正当化できないことになる。

 つまり、不許可処分は「公共の福祉による制限」として正当化しえず、違憲ということになる。

 

 

 もちろん、合憲の答案が書けないということはない。

 しかし、最高裁判所の基準を用いて、かつ、事実関係をそのまま素直に考えた場合に合憲にもっていくのは難しいように思われる。

 よって、合憲の答案を書くためには最高裁判所の基準を批判したうえで緩やかな基準を採用する(規範定立の根拠を述べる際に、集会の自由の制限の程度を軽くし、内容中立規制のように考えるといった方法がある)という手法を採った方がいいだろう(事実関係については後述)。

 

 そして、このように見た場合、「敵意ある聴衆」に対する評価はさほど重要ではないと言える。

 もちろん、この点に少し触れることは良いことではあるが、深入りは避けた方がよさそうである。

 

7 団体Bのケース

 では、団体Bに対する不許可処分についてはどうか。

 こちらも不許可処分の理由を抜き出すとこのようになる。

 

 使用目的がY市の予定している廃棄物処理施設の建設を実力で阻止するための決起集会を開催するものであるため

 

 ここで気になるのは、目的しか認定していないことである。

 確かに、集会の目的から危険の発生の可能性を認めることはできる。

 例えば、集団暴徒化論と集会の目的を組み合わせることで、「実力を行使することを予定している彼らが暴徒になって市民会館周辺に混乱を起こし、施設の職員や周辺住民の生命・身体・財産などに対して危険が及ぶ可能性(おそれ)がある」があるということはできるし、その可能性がゼロであるということは不可能である。

 

 ただ、最高裁判所の基準を採用するなら「予見のプロセスが甘い」ということになってしまうだろう。

 最高裁判所泉佐野市も不許可処分に対して背景事情を細かく認定している。

「集会の目的だけ認定して不許可」等と言ったことはしていない。

 

 そのように考えるなら、「具体的な危険」を予見したとは言えないだろう

 さらに追加すれば、「客観的事実に照らして」予見したとも言い難いであろう。

 というのも、上の集団暴徒化論は一般論に過ぎず、具体的な団体Bの特徴を挙げて暴徒化する可能性を吟味したとも言い難いからである。

 よって、こちらの不許可処分も原則通り違憲・違法ということになる。

 少なくても最高裁判所の審査基準を前提にするならば。

 

 

 以上、過去問について私が答案を書く場合を想定して検討した。

 ただ、私は別に過去問を検討したいのではなく、「過去問を見て考えたこと」の方が重要である。

 そこで、次回以降はそれについてメモにしていく。

司法試験の過去問を見直す3 その2

 今回は次のシリーズの続き。

 

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 前回は原則部分(憲法上の権利の制限)についてみてきた。

 ここからは例外についてみていく。

 

3 「公共の福祉」について

 前回、原則論として不許可処分が憲法21条1項で保障されるそれぞれの団体の集会の自由を制約しうることになることは示した。

 しかし、あらゆる不許可処分が違憲になるわけではない。

 いわゆる「集会の自由も無制限ではない」ということである。

 

 この点、権力(政府・自治体)が個人の人権を制約する以上、憲法上の根拠が必要であるところ、その根拠となるのが「公共の福祉」(憲法12条、13条)である

 しかし、集会の自由も無制限ではないように、「公共の福祉」に基づく制約も無制限ではない。

 そこで、「集会の自由」と「公共の福祉」の調整が問題となる。

 

 

 そもそも「公共の福祉」とは何か。

 通説による「公共の福祉」の定義は「人権相互の矛盾・衝突を回避するための実質的公平の原理」である。

 言い換えれば、「公共の福祉」とは「問題となっている憲法上の権利が行使されることによって制限される他の人権」である。

 本件ならば、団体の集会によって制限される他者の人権(生命・自由・財産)になる。

 

 具体例を出そう。

 例えば、同じ日、同じ時間に同時に2つの団体が市民会館の施設(その施設は1つだけとする)の利用の申請をしたとしよう。

 施設は1個しかないので2つの団体のうち一方しか施設を使うことができず、もう一方の団体には必ず不許可処分を出すことになる。

 とすれば、施設が使えない団体から見れば、不許可処分によって集会の自由が制約されるわけだが、この不許可処分の背後には(使う予定の団体の)集会の自由という憲法上の人権が背後にあり、これが「公共の福祉」の具体的な内容になる。

 

 または、ある地元の神社が付近の住民と一緒に「車道において神輿を担いで歩く」というイベント(祭り)を行うことを考えよう。

 神社と付近の住民(氏子)が「神輿を担ぐ」という行事を行うことは宗教的儀式を行うことであり、信仰の自由を定めた20条1項で保障される。

 また、住民が「一緒になって神輿を担ぐというイベントを行うこと」は集会の自由(憲法21条1項)によっても保障される。

 もっとも、車道で無制限に神輿を担いで歩き回れば、車道を通る車と住民が接触事故を起こし、住民や運転手の生命・身体・財産(憲法13条・18条・29条などで保障されている)などが害される可能性がある。

 そこで、地方自治体は無許可に行うことを禁止したり、あるいは、条件を付けて許可を付けることもできる。

 もちろん、市民会館の使用が競合した場合と異なり、無許可で行うことで必ず事故が発生するわけではない。

 ただ、事故の可能性が高いため無許可で行うことを禁止したりするのである。

 

 後者の例を見れば分かるように、不許可処分によって団体の集会を阻止した場合、集会の自由は確実に制限される。

 他方、集会の自由を行使させた場合、「誰かの人権が100%害される」かどうかは未定である。

 そこで、公共の福祉による制限の是非を問う際は、不許可処分によって制限される「集会の自由」の価値や制限の程度を評価する必要があると共に、公共の利益(福祉)の具体化された内容として「誰の人権がどの程度の可能性・蓋然性(確率)で害されるのか」を検討することが必要になる。

 つまり、危険の内容だけではなく、危険発生の確率の程度も問題になるのである。

 

 

 この点について、最高裁判所泉佐野市民会館事件で次のように述べている。

 

(以下、泉佐野市民会館事件の判決から引用)

 右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。

(引用終了)

 

 このように考えれば分かる通り、「公共の福祉」による制約が認められるかどうかは実質的に判断することになる。

 このことからも「公共の福祉」を持ち出せばなんでも制限できるわけではないことが裏付けられる。

 

4 「『公共の福祉』による制約」として正当化されるための具体的な違憲審査基準

 以上を前提にして、「市民会館の不許可処分」に事例を戻す。

 違憲審査基準の設定で座標になるものは、

 

① 一般市民が市民会館で集会を開くことの価値

② 不許可処分による集会の自由が制限される程度

③ 市民会館で集会を開く場合に危害が加わるであろう他の人権

④ 人権が害される可能性(確率の大小)

 

 この4つを見ながら、「どんな危険をどんな確率で発生する」と予見した場合に不許可処分が正当化されるのかを考える。

 そして、基準の設定にあたっては①と②が重要になる。

 何故ならば、①が重要であればあるほど、また、②の強度の制約になればなるほど、③と④のハードルが高くなるからである。

 

 

 まず、①についてみてみよう。

 最高裁が触れていることに基礎知識を追加して書くと次のようになる。

 

 集会の自由は精神的自由に属する権利であり、経済的自由等に対する制限のときに存在する政府(国会・政府・自治体)の裁量はないので、「厳格な基準」によって判断する。

 

 これは簡単に言えば、「二重の基準論」それ自体を、少なくても、「二重の基準論」の精神を最高裁判所は採用するぞ、ということである。

 要は、表現の自由と同様に考える、ということである。

 

 

 次に、②についてみてみよう。

 市民会館は「公の施設」であり、自治体の所有であって、参加者や団体の所有ではない。

 また、市民会館で集会を開けなかったとしても、別の場所で集会を開くことは自由である。

 この2点から集会の自由に対する制限の程度は弱く、逆に、不許可基準のハードルは緩やかにしてもよいと考えることができそうである。

 

 しかし、この2点に対しては次のように反論できる。

 まず、「自治体の所有」とは言うものの、それは「自治体の多数派の所有」や「自治体を構成する政治家(市長・地方議会議員・地方公務員)の所有」を意味するものではない。

 むしろ、「住民の共有物」と考えれば、「参加する住民のもの」とみることもできる。

 ならば、共有物の使用規制に準じて考えるべきであって、権力者や多数派の恣意が入りやすい緩やかな基準によるのは妥当ではないということができる。

 

 さらに、「他所で開けるから制限のレベルは低い」という点も、現実的に考えた場合に一般の市民(金持ちではない庶民)がそう簡単に市民会館以外の場所で集会を開ける場所が用意できるかという容易ではない。

 そもそも、簡単に別の場所で開けるならば市民会館のような公の施設は必要ないだろう。

 

 以上を考慮すると、「不許可処分による集会の自由に対する制限の程度は弱い」という主張は少し苦しいと言える(後で述べるが、最高裁はかなり厳格な基準を設定している)。

 最高裁判所はこの辺りについて地方自治法を踏まえながらも次のように言及している。

 

(以下、泉佐野市民会館事件を引用、強調は私の手による)





 地方自治法二四四条にいう普通地方公共団体の公の施設(私の注、市民会館は地方自治法にいう「公の施設」にあたる)として、本件会館のように集会の用に供する施設が設けられている場合、住民は、その施設の設置目的に反しない限りその利用を原則的に認められることになるので、管理者が正当な理由なくその利用を拒否するときは、憲法の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれが生ずることになる。したがって、本件条例七条一号及び三号を解釈適用するに当たっては、本件会館の使用を拒否することによって憲法の保障する集会の自由を実質的に否定することにならないかどうかを検討すべきである。

(引用終了)

 

 

 もちろん、そのような重要な権利行使(集会の開催)であっても、集会によって害される人権とその可能性(確率)によっては、不許可処分が許される場合もありうる。

 極端な例を掲げれば、「その団体を憎む組織が送り込んだテロリストによって原発が占拠され、12時間以内に集会を不許可にしなければ原発を爆発させる(もちろん放射能が汚染し、原発付近の住民の生命・身体・財産が害される)」と自治体が脅迫された場合を考えればいい。

 不許可処分を出さなければ、原発付近の住民の生命・身体・財産がほぼ明らかに(ほぼ100%の確率で)害される」ということになれば、「やむを得ない」という結論は十分ありうるだろう。

 

 逆に、危険の生じる可能性が低い場合もある。

 例えば、最高裁判所が東京都公安条例事件で持ち出した「集団暴徒化論」についてみてみよう。

 これは「人は群れると暴徒と化す」ということを経験則化したものである。

 この経験則は100%成立するものではない。

 ただし、絶対生じないと言えるものでもない。

 

 そして、集会とは人が集合するものであるものであるから、この理論を採用すれば、「集会によって集合した人々は暴徒と化す可能性」があることになる。

 そして、暴徒と化せば暴徒の暴力によって市民会館周辺の住民の身体・財産(家の塀、家それ自体、庭の設置物その他、駐車している車両等)が害される可能性がある。

「可能性」の程度をどうするかはさておき、「可能性がゼロ」と言えるものでもない。

 だから、審査基準のハードルが低ければこれを持ち出しても合憲・適法ということになる。

 

 以上、イメージのために両極端な例を出してみた。

 実際に起きる問題はこんな簡単ではないだろう。

 

 

 では、最高裁判所はどのように述べたか。

 結論から言えば、最高裁判所はかなり厳格な基準を示した。

 具体的な基準を見てみよう。

 

(以下、泉佐野市民会館事件より)

 その危険性の程度としては、(中略)単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解する(中略)。

 そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。

(引用終了)

 

 最高裁判所は、市民会館で集会を開くことの価値が大きいこと等を理由に上のように述べた。

 これを箇条書きにすると次のようになる。

 

①、危険の発生が確実(明らか)でなければならない(蓋然性がある、イメージするなら約60%の確率で生じるというレベルでは足りない)

②、差し迫った危険が生じなければならない(事後的な悪影響などは「危険」に入らない)

③、客観的な事実(証拠)によって予見されなければならない(主観による推測は許されない)

 

 その危険(集会によって害される人権)は集会を開くことによって直ちに生じるものであり、また、危険の発生の可能性は明白(発生確率はほぼ100%)でなければならず、さらに、一般論による推測ではなく客観的な事実から具体的に予見されたものでなければならない。

 

 今見返せば、おそろしく厳格である。

 ちなみに、この基準の元ネタは「明白かつ現在の基準」と呼ばれ、英訳すると「Clear_and_Present_Danger」となり、これは今そこにある危機と訳されている映画のタイトルである。

 

ja.wikipedia.org

 

 最高裁判所がこのように考える背後には、集会の自由、つまり、人が会ってコミュニケートし、それぞれの意見を洗練させ、あるいは、その意見を発表することにによって民主制に寄与するという自己統治の価値がある、と思われる。

 

 

 以上、違憲審査基準まできた。

 次回は、事例へのあてはめにおいて最高裁判所が述べたことを確認し、本問はどう考えるかについてみていく。

司法試験の過去問を見直す3 その1

 これまで旧司法試験の論文試験の憲法第1問の過去問を見てきた。

 

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 今回から新しい過去問に目を向けることにする。

 

1 旧司法試験・論文試験・憲法・平成8年第1問

 今回から見ていく過去問は平成8年度第1問である。

 具体的な問題文は次のとおりである。

 

(以下、過去問の問題文を引用、引用元は『司法試験対策講座5・憲法・第2版』(伊藤真著・弘文堂・1998)より)

 団体Aが、講演会を開催するためにY市の設置・管理する市民会館の使用の許可を申請したところ、Y市長は、団体Aの活動に反対している他の団体が右講演会の開催を実力で妨害しようとして市民会館の周辺に押し掛け、これによって周辺の交通が混乱し、市民生活の平穏が害されるおそれがあるとして、団体Aの申請を不許可とする処分をした。

 また、団体Bが、集会のために右市民会館の使用の許可を申請したところ、市民会館の使用目的がY市の予定している廃棄物処理施設の建設を実力で阻止するための決起集会を開催するものであることが判明したので、Y市長は団体Bの申請を不許可とする処分をした。

 右の各事例における憲法上の問題点について論ぜよ。

(以上、過去問終了)

 

 この問題に関係する憲法の条文は次のとおりである。

 

憲法21条1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

憲法13条後段 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

 また、憲法とは関係ないが、地方自治法の関連条文は次のとおりである。

 

地方自治法244条1項 普通地方公共団体は、住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するための施設(これを公の施設という。)を設けるものとする。
同2項 普通地方公共団体(次条第三項に規定する指定管理者を含む。次項において同じ。)は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。
同3項 普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。 

 

 さらに、関連する判例としては次の2つが挙げられる。

 

泉佐野市民会館事件(国家賠償訴訟、原告敗訴)

平成元年(オ)762号損害賠償事件・平成7年3月7日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/449/052449_hanrei.pdf

 

上尾市民会館事件(国家賠償訴訟、原告事実上勝訴)

平成5年(オ)1285号国家賠償事件・平成8年3月15日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/875/055875_hanrei.pdf

 

「講演会に反対し、デモ等を使って阻止しようとする人間たちがいる」ということを理由に市民会館の利用を拒否できるか(拒否した場合、賠償金を払う義務を負うか)。

 自分の市の政策に反対し、デモなどの実力行使まで考えている団体の市民会館の利用を拒否できるか。

 以下、答案を作成するために必要な前提知識を述べていく。

 

2、団体の集会の自由

 憲法上の問題が問われている以上、第一段階として「不許可処分によって『各団体の憲法上の権利』が制限されうる」と言える必要がある。

 というのも、不許可処分によって憲法上の権利が制限されていなければ、そもそも憲法上の問題にならないからである。

 

 なお、前提として団体(法人)に人権享有の主体性があるかという問題はある。

 団体は人々の集合であって共有主体たる人間それ自体ではないからである。

 しかし、最高裁は「性質上可能な限り肯定される」と人権共有主体性をあっさり肯定しているので、ここでもあっさり肯定して良い。

 なお、肯定する理由としては、①現代社会において団体(法人)は社会的に実在する重要な構成要素となっていること、②団体に人権の享有主体を認めることで団体に所属する個人の人権の確保につながること、などである。

 もっとも、団体の人権共有主体性を否定しても、不許可処分によって参加者個人の憲法上の権利が阻害されると言いうるので、この争点を論じる実益はほとんどない。

 

 

 次に、不許可処分は各団体の憲法上の権利を制限しうるのか、という問題点がある。

 

 不許可処分によって団体A(団体Aの構成員)は講演会を開けなくなった。

 不許可処分によって団体B(団体Bの構成員)は集会を開けなくなった。

 いずれにおいても、人々が集まって行動(公演を聴く、集会を開く)する機会が奪われてしまったのである。

 そして、人々の集合・結集を保証したのが憲法21条1項の「集会の自由」である。

 したがって、いずれの団体も不許可処分によって集会の自由が制限されうることになった、と言える。

 

 この権利の制限に関する認定、分量は多くする必要は全くないが、必ず書く必要がある。

 ここがまさに原則部分だからである。

 

 

 そして、原則として「集会の自由の制限」が認定された以上、例外的な事情がない限り不許可処分は共に違憲・違法になる。

 では、例外が生じるにはどのような具体的な基準を満たせばいいか、そして、それぞれの団体に関して不許可処分はその基準を満たすかのか。

 次回以降でそれらを見ていく。

司法試験の過去問を見直す2 その5(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回は政教分離に関するその後の最高裁判例に目を向けてみる。

 一つは砂川市のケース、もう一つは那覇市のケースである。

 

15 砂川政教分離訴訟

 まずは、砂川政教分離訴訟についてみてみる。

 この訴訟は地方自治体(砂川市)の二つの行為が政教分離規定(憲法89条前段や憲法20条1項後段)に抵触しないかが問題になった事例である。

 そして、一方(土地の無償譲渡)は合憲と判定され、他方(土地の無償利用)は違憲と判断した(結論は破棄差戻)。

 なお、違憲と判断した判決(所謂、空知太神社に関するもの)はこちらである。

 

平成19年(行ツ)260号・ 財産管理を怠る事実の違法確認請求事件・平成22年1月20日最高裁判所大法廷判決

 

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/347/038347_hanrei.pdf

 

 

 違憲と判断した最高裁判決の特徴、特に、規範定立部分に関する特徴はいわゆる「目的効果基準」を採用しなかったことである。

 そのため、「最高裁判所政教分離に関する従来の考え方を変更したのか、あるいは修正したのか」ということが話題になった、らしい。

 

 私も最高裁判所の判決全文を見てみた。

 確かに、規範定立の部分に目的効果基準に関する文言がない。

 しかし、「変更・修正の程度が大きい」とまでは言えないような気がする。

 そして、「大きいと評価するか」については規範定立までの筋道の違いによるのかなあ、と考えられる。

 

 

 私が司法試験の過去問に用いた規範定立までのロジックを使うとこうなる。

 

① 宗教と政治の分離は完全になされることが原則

② 現実において完全分離を貫けば弊害が多い

③ また、政教分離は人権規定ではなく制度の規定(制度的保障)

④ そこで、例外に当たるか否かを「目的効果基準」という規範を用いて考える

 

 つまり、原則修正パターンに乗せて「目的効果基準」までもっていった。

 もちろん、「目的効果基準」の部分を「レモンテスト」にしても構わない。

「レモンテスト」の場合、④のところに「原則に忠実にあるべき点を考慮して」が加わるくらいである。

 

 他方、津地鎮祭事件・愛媛玉串訴訟における最高裁のロジックを見るとこのような形になる。

 

① 歴史経緯によると完全分離が理想

② 完全分離は現実において弊害を招く

③ 政教分離は制度保障であり、かつ、個人の宗教的儀式の強制は別の条項で担保(憲法20条2項)

④ 「国(自治体含む)と宗教団体かかわりあいが相当と超えるもの」は政教分離違反

⑤ ④を前提にして、憲法20条3項の「宗教的活動」に該当するかの判断は目的効果基準に従う

⑥ 目的効果基準の「目的」と「効果」は客観的に判断すること

 

 大きな違いは、目的効果基準の前に④のクッションがあることである。

 つまり、「相当性」という大きな規範があり、相当性の判断要素が目的効果基準であり、その目的と効果を客観的に判断することになる。

 そして、今回の事件でも①~④までは変わっていない。

 変わったのは⑤以降である。

 

 そして、従来の事件は地方自治体からの公金支出(作為)が問題になったのに対して、今回は土地の使用料の不請求(不作為)が問題になっている。

 作為と不作為の差を大きいと考えれば、判例の態度は部分修正に過ぎない、という気がする。

 

 もっとも、「変更・修正の大小の評価」については学者の方が緻密な判断ができるだろう。

 だから、以上は私の直感的な感想である。

 

 

 ところで、私のメモブログは「司法試験の過去問を見直すこと」。

 この事件を踏まえて、前述の過去問(平成4年度の論文試験・憲法第1問)の規範を変えるかと言われると、「変えても変えなくてもいい、よって、(めんどくさいので)変えない」になる。

 また、規範によって結論が変わることもないように考えられる。

 さらに、補足意見として藤田裁判官(学者出身)が「例えば、公的な立場で寺社に参拝あるいは寄進しながら、それは、専ら国家公安・国民の安全を願う目的によるものであって、当該宗教を特に優遇しようとする趣旨ではないから、憲法にいう『宗教的活動』ではない、というような弁明を行うことは、上記目的効果基準の下においても到底許されるものとはいえない」と書いてあったことは、参考になった。

 つまり、私がこのブログで書いた目的の認定方法は間違ってない(目的の認定の際、自治体等の言い分を形式的に認定・適用するのではなく、その背景などを加えて実質的に認定しても問題ない)こともわかった。

 その意味で勉強になった(もっとも、私は今後司法試験を受験することはないが)。

 

16 孔子廟訴訟

 そして、ニュースを見ていた私の目を引いた訴訟が那覇市孔子廟の訴訟である。

 こちらの最高裁判決は次のURLの通り。

 

令和元年(行ツ)222号・固定資産税等課税免除措置取消(住民訴訟)請求事件・令和3年2月24日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/039/090039_hanrei.pdf

 

 かなり時間が経過しているので、当時の私の感想は既に記憶にない。

 そこで、今、この訴訟を見た感想をここで述べる。

 

 一つ目に考えたことは儒教は宗教か」ということである。

 定義から考えて儒教が宗教でなければ、世俗化・習俗化の検討をするまでもなく政教分離規定との摩擦が発生しないからである。 

 もっとも、多数意見はこの点を肯定しているし、反対意見も過去の宗教性までは否定していない。

 まあ、私は儒教は宗教(一神・非人格・集団救済目的)と考えているので、私の考えていたことと適合するということになるが。

 

 二つ目に考えたことは、「この問題は政教分離の問題というよりも財政問題であり、かつ、地方自治の債務免除(費用の不請求)のハードルが厳しくなった点が政教分離に影響したのかなあ」ということである。

 

 この点、津地鎮祭訴訟・愛媛玉串訴訟は儀式に対して公金を支出している。

 つまり、「自治体や政府による宗教活動(地鎮祭等)への関与」等が問題となっていた。

 前者は、形式的には宗教的儀式ではあるが実質的には世俗的行事であると判断して公金の支出を認め、後者は形式的にも実質的にも宗教的儀式・宗教的行事であるとして公金の支出を違憲と判断した。

 

 それに対して、砂川政教分離訴訟や孔子廟の事件は団体の活動基盤となる土地の無償利用の許可(使用料の免除・不請求)が問題となっている。

 個々の儀式ではなく活動基盤にかかわる便宜供与であるから自治体と団体との関与(援助)の程度は強くなる。

 その一方で、団体の習俗化の程度は高い。

 つまり、「習俗化が高くなり、宗教性が希薄になった団体それ自体への援助」が問題となっている。

 もちろん、「宗教性は希薄になっても、無償利用を許すことは団体の運営それ自体に対する援助であり、関わりあいは相当性を超える、だから違憲」とも言いうるので、結論自体に異議があるわけではないが。

 

 そして、これに地方自治体の債務免除の問題が絡んでいる

 地方自治体の財政問題は債務免除へのハードルを上げる。

 最高裁自治体の長による債務免除の裁量をほとんど認めていない(この事件でもその判例は引用されている)。

 砂川政教分離訴訟はさておき、孔子廟訴訟にはその背後に財政問題を感じてしまった(実際は分からない)。

 だから、この訴訟は「債務免除を容認できないという結論が主としてあり、政教分離違反は従かなあ」という感想を持った。

 その感想を裏付けているのが、反対意見を述べた林裁判官(行政官出身)の「本件において、(中略)比較的裕福な団体であることがうかがわれるのに、当時の市長が年500万円以上にものぼる使用料を全額免除したこと自体は、公的支援として過ぎたるものではないかという違和感を覚えるものではあるが、本件免除が無効であるということまではいえない以上、第1審原告の請求は棄却するほかない」という部分である。

 

 

 以上、過去問を検討し、さらには、政教分離に関する最近の判例もみた。

 政教分離に関しては思うことはあった(だから、2問目にこれを選んだ)のだが、それについて触れると長くなること、それを書く意欲がかなり減退したので、この過去問に言及するのはこれまでにする(書きたかったことは平成10年の過去問で改めて言及する)。

 次回は、平成8年の憲法第1問について検討しようと考えている。

『参謀は名を秘す』を読む 3(最終回)

 今回のメモは次のシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『参謀は名を秘す』を読んで考えたことをメモにする。

 なお、このメモは本書の内容に対して否定的なことを書いている。

 しかし、参謀の機能に関する本書の説明は私にとって参考になるところが大であった。

 その点は強調しておきたい。

 

 

5、「参謀待望論」の背後にあるもの

 本書の第1章では、「名参謀・名軍師」として我々に人気のある武将たちに対して「彼らは本当に能力があるのか?彼らのなした成果はいいものか?」と疑問符を付けている。

 そして、その内容について私が考えたことはこれまでに書いた通りである。

 まとめると、「人間に要求する基準、人間に対する基準として合理性を欠くのではないか?」になる。

 

 また、「個別の武将に対する筆者の意見(名軍師・名参謀失格)に同意するか」という点についてはグラデーションがある。

 これは「主君との距離」と「結果回避可能性」の両方によって差が生じている。

 同意の傾向が強い順に並べれば、

 

山中鹿之助山本勘助直江兼続>>>楠木正成真田幸村竹中半兵衛

 

になる。

 

 ただ、これは「基準が違う」ところから生じたものに過ぎない。

 逆に、「彼らは参謀・軍師として優秀だが、完全無欠ではなかった」という主張なら私も反対しないだろう。

 また、私の基準に対して「恣意的」との批判をありえるし、この批判を回避することは困難だろう。

 私自身、自説に固執する気はあまりない。

 

 

 ところで、ここまでは評価される側の武将の事情を見てきた。

 ここからは本書では触れられていない評価する側、つまり、我々に焦点を変える。

 というのも、本書は「我々の『参謀・軍師に対する誤った信仰』を粉砕し、『参謀待望論』を雲散霧消させること」を目標にされていると考えるからである。

 また、一方で「参謀・軍師の匿名性」を求めていながらも、終章において「個々の参謀・軍師に対してそれを求めることは無理である」とも述べており、参謀サイドのみに問題があるとも考えていなさそうだからである。

 つまり、この問題は「過去の武将を見る現代人(我々)」の問題であって、過去の軍師・参謀たちの問題ではないからである。

 

 

 ここで諸葛孔明楠木正成を名軍師・名参謀と崇める背景」を見てみよう。

 諸葛孔明の特徴として本書は次の4つを挙げている。

 

① 主君への絶対的忠誠心

② 凡人を卓越する能力とその能力を用いた部分的な勝利

③ 豊かな人間性

④ 悲劇的な最期

 

 この4つによって作られた基準は無能な主君から見れば有難すぎる基準である。

 それは、①から④をひっくり返してみればわかる。

 

①「情況により他所に転がり込む軍師・参謀」は名軍師・名参謀ではない。

②「完全無欠の能力を持つ軍師・参謀」は名軍師、名参謀ではない。

③「人間性の豊かでない軍師・参謀」は名軍師・名参謀ではない。

④「悲劇的な最期を受容できない軍師・参謀」は名軍師・名参謀ではない。

 

 ①と④から主君の自分から離れた者、特に、自分の零落・衰退を原因として離れた者の名軍師・名参謀性を否定できる。

 例えば、「自分に仕え続けたら軍師自身が滅ぶこと」が離れる原因であっても、自分に見切りをつけた者はもう名参謀・名軍師ではないのだ。

 また、②と③から人間離れした(完全な)能力を持った者の名軍師・名参謀性を否定できる。

 人間性の否定など恣意的にできるから、これまた自分の気に入らない者の名軍師性・名参謀性を否定できる。

 

 そして、現代のわれわれが自分自身を主君の位置に置くなら、参謀の理想をこのように掲げるのは妥当(凡人である自分たちに都合がよい)ということになる。

 もちろん、その結果、自分の身を滅ぼすことになるとしても。

 

 私自身、「参謀待望論を粉砕したいのであれば、武将たちの無能力性を挙げるよりも、『参謀待望論者』の掲げる基準の欺瞞性を指摘した方がよろしいのではないか?」との感想を持つこともある。

 もっとも、そんなことをすれば我々の感情を逆なですることは必至であり、本の売り上げにも響くであろう。

 したくてもできない、しょうがないとも言える。

 

 

 一方、「『参謀待望論』による名参謀・名軍師の基準」は熟慮の末に決定した基準ではない。

 つまり、「このような基準を作れば、我々は軍師・参謀に対して有利になる」などと考えて採用した基準ではない。

 そもそも、欧米人と異なり、日本人は基準をそのように使いこなすメンタリティを持ち合わせてはいない。

 付け加えて、この基準は「君、君足らずとも、臣、臣たれ」という日本的儒教と親和的である。

 ならば、この基準の背後には日本に通底する何かがあると考えられる。

 そこで、その「何か」について考えてみる。

 そして、その「何か」こそ、私がこのメモを書こうとした原動力である。

 

 なお、補助線となっているのは次の2つの本である。

 

 

 

 ここで見るべきなのは、幕末・維新の志士たちのバイブルとなった『靖献遺言』(せいけいいげん)である。

 著者は浅見絅斎(あさみけいさい)、師匠である山崎闇斎「湯武放伐論・易姓革命の否定」を突き詰めていった人である。

 

 この『靖献遺言』は「『王朝に敵対する者に対しては、講和などは絶対せず、自分の生命のことも全く考えず徹底抗戦あるのみ』という生き方が正しい」という主張を8人の中国人の評伝を通じて記したものである。

 ここで、「王朝」を天皇家、「王朝に敵対する者」を徳川幕府とすれば、これが幕末志士たちのバイブルになった理由も理解できるだろう。

 そして、この本に登場する8人の中に諸葛孔明がいる(他に有名なものとしては、元のフビライに仕えるのを拒否して刑死した文天祥、明の永楽帝に処刑された方孝孺がいる)。

 

 この点、『靖献遺言』には日本人がいない。

 しかし、日本人の中で『靖献遺言』の生き方を体現した人がいる。

 それが楠木正成であり、また、浅見絅斎が絶賛した赤穂浪士達である。

 

 

 この『靖献遺言』にある生き方と「参謀待望論」による名参謀・名軍師の基準の①と④は符合する。

 とすれば、①と④は「主君(つまり、我々)によって都合がよすぎるから採用した」わけではなく、日本に通底するものからもたらされたと考えることができる。

 そして、仮に、①の④が日本に通底するものからもたらされた場合、これを払しょくすることは極めて困難であろう。

 これは信仰・思想の問題であり、「能力的に問題があり、結果が振るわなかった」と技術的・客観的な要件を論じたとしても有効ではないからだ。

 

 

 では、どうすればいいのだろうか?

 軍師たちの失敗、生じた結果の悲惨さを主張しても、我々は軍師たちから「名」の称号をはく奪することをしないだろう。

 これは、「名」を付加する理由が能力だけの問題ではないからだ。

 私にしても、参謀・軍師と思っていなかった楠木正成真田幸村について、「名将」のうちの「名」の部分を湊川の合戦や大坂の陣の敗戦を理由に外すかと言われれば、「ノー」と言うしかない。

 その原因が能力に起因するとしても、である。

 

 では、事大主義で吹き飛ばすか。

「勝者ではなく、敗者をリスペクトするなんて、なんと愚かな」と。

 でも、これも日本人の信仰・思想に抵触するから、炎上必至だなあ。

 

 あるいは、、、。

 その辺は分からない。

 ただ、日本の古来のメンタリティに対する手当を考えずして、その解決は困難な気がする。

 

 

 以上、本書の感想をメモにまとめた。

 私がこの本を読み、関心を持ち、メモにしておこうと思ったのは、本書の内容よりも「参謀待望論」の背景にひっかかったからである。

 その意味でもこの本は非常に私のためになった。

 その意味で、私は本書と著者には感謝している。

『参謀は名を秘す』を読む 2

 今回のメモは次のシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『参謀は名を秘す』を読んで考えたこと(学んだことではない)をメモにする。

 この点、このメモは本書の内容に対して否定的なことを書いている。

 しかし、参謀の機能に関する本書の説明は私にとって参考になるところが大であった。

 その点は強調しておきたい。

 

 

4、結果の過大評価と不可能の要求

 次に、「主家を滅亡・危機に追いやったから名軍師・名参謀たりえない」という点を考えてみる。

 この点、著者は「酷かもしれないが」という趣旨の言葉を何回も述べている。

 よって、ここから述べることは「『著者の自説・内心』に対する意見」という認識は捨て、「『著者がたたき台として作った仮説』に対する意見」という認識を強く持った方がよさそうである。

 

 

 大事なことだが、「能力を査定する際、結果は重要」である。

 そして、諸葛孔明は北伐を成功することができず、結果、蜀漢孔明の死後に滅亡する。

 直江兼続関ケ原で西軍に着いたので、上杉家は会津120万石から米沢30万石になる。

 川中島において、山本勘助は自分の作戦を上杉方に見破られ、主君の弟(武田信繁)が討死し、また、自分自身も討死する。

 山中鹿之助は尼子氏の再興を果たせなかった。

 楠木正成後醍醐天皇に献策したが受け入れられず、自分自身は自刃する。

 その後、後醍醐天皇南朝は維持できなって北朝に吸収される。

 真田幸村大坂の陣で奮戦するが討死し、豊臣家は滅亡する。

 だから、「主家を滅亡させたり、危機に陥れた彼らに名軍師・名参謀の資格があるのか?」という問題提起は正しい。

 

 

 しかし、「主家を危機に陥れたならば、名軍師・名参謀ではない」という命題を設定すると、「一度も主家を危機に陥れない」ということが名軍師・名参謀の条件になる(対偶)。

 こんなことは現実的・具体的に可能なのだろうか?

 例えば、戦国時代を終焉させた織田信長は金ヶ崎にて浅井家の寝返りにより敵中に孤立し、主家の危機を招いた。

 また、徳川家康は三方ヶ原で武田信玄に大敗し、これまた、主家の危機を将来させた。

 しかし、このことを減点材料にして「名大名の一覧リスト」から信長や家康を除外するかと言われれば「ノー」と言うしかなかろう。

 逆に、こんなことを言い出せば、名大名のリストに残る大名は誰もいなくなるだろう。

 

 つまり、「主家を危機に陥れた」だけで名軍師・名参謀から除外すれば、その条件を満たせる人間はほとんどいなくなる。

 戦前の陸軍の大秀才、東条英機の戦陣訓には「百戦百勝の伝統に対する己の責務(以下略)」という部分があるが、「百戦百勝」というのは秀才の脳内の産物でしかなく、現実には無理である。

 あるいは、「主家を危機に陥れない方法は大勝負に出ないことであり、大勝負に出なかった者こそ名参謀・名軍師である」ということになりかねない。

 この辺を考慮すると、直江兼続関ケ原の敗戦後の立ち回りは見事とも言え、この立ち回りこそ名軍師たらしめているとすら言えそうである。

 

 ただ、主家の危機の際に死亡してしまった軍師・参謀はその後の再興に関与しない以上、「一度の失敗で(以下略)」という批判は回避しがたい。

 その点から見れば、山本勘助についてはこの批判を回避するのは難しいかもしれない。

 

 

 他方、「危機」で済まず、「主家を滅亡させて(その後、再興できなかった)」場合については「一度の失敗で(以下略)」という批判は回避しがたい。

 これは諸葛孔明楠木正成山中鹿之助真田幸村のケースである。

 ただ、その場合、別の見方ができる。

「実際問題、滅亡は回避できたのか」という問いである。

 滅亡が回避できなければ、滅亡の原因を当人の責任にできないからだ。

 

 真田幸村は権力の中枢から遠かったということは述べた。

 そのため、「彼らのバトルで挽回できてもそれには限界がある」ことは主体性の問題で述べた通りである(これに対して、「『権力の中枢に入ろうとしなかったこと』が名参謀・名軍師失格の原因である」と言いうることも前述のとおり)。

 それに加えて、「(幸村が豊臣家にはせ参じた大坂の陣以降において)豊臣家を維持することができたか」と言われるとこれまた微妙である

 この点、徳川の天下を豊臣側に引き寄せることはかなり難しいだろう。

 他方、大坂の冬の陣の講和の際、徳川家に降伏(屈服)し、大坂城を明け渡すことくらいをすれば1万石程度の大名として生き残ることはできたかもしれない。

 もっとも、それは「主家を危機から救った・主家を維持した」ということになるのか。

 仮に、そのように評価するなら、前述の直江兼続は参謀・軍師として完全に合格になる。

 

 次に、楠木正成の場合はどうか。

 権力の中枢への遠さは幸村ほどではないが、それでも遠いということは前述のとおりである。

 また、「二条河原の落書」や「顕家諫争文」を見る限り、建武の新政の評価は微妙である(前者が建武の新政だけをターゲットにしていないとしても)。

 ならば、、、と思えなくもない。

 

 さらに、山中幸盛(鹿之助)の場合はどうか。

 月山富田城が落城した後、山中鹿之助尼子勝久を奉じて、尼子家の再興を図る。

 そして、毛利家に対して局所的に勝利するものの、尼子家を維持することはできなかった。

 やがて、尼子家は織田家の傘下に入るが、上月城の戦いの結果、尼子勝久親子は自刃、山中鹿之助自身も同時期に殺される。

 この点、諸葛孔明劉禅を補佐して漢王朝の再興のために魏を討つ)とある種の共通性がありそうである。

 山中幸盛の件は、主体性・結果の両面から名軍師・名参謀の要件を満たさないという批判はある程度あたっている。

 

 

 最後に、異質な点から名軍師・名参謀に疑問符がつけられている武将に目を向けよう。

 それは竹中半兵衛である。

 本書による名参謀・名軍師失格の原因は「病気(健康)」と「功績の不明瞭さ」である。

 特に、「病気(健康)」の点を強調されている。

 もちろん、「酷かもしれない(厳しいかもしれない)」という趣旨の言葉はある。

 

 ここで興味深いのは当時の世情から見てどうにもならない「病気」を原因にしていることである。

 さらに、「代わりの者を探し出して、自分は辞退するべき」と述べている点である。

 

 しかし、これは「不可能なことの要求」である。

 そして、ここで「不可能なことの要求」を持ち出したことから、他のところでも「不可能なことを要求している」という推測が成り立つ。

 というのも、竹中半兵衛にのみ不可能を要求し、他の者には不可能を要求しないというのは規範・基準として公平ではないからである。

 

 しかし、不可能なことを要件とし、その要件を満たさないことをもって名参謀・名軍師の要件から外して行ったら、誰も残らないだろう。

 確かに、このように作られた要件は極めて明快であり、分かりやすい。

 他方、一定の例外等を設けて複雑にした要件は、恣意的に見え、あるいは、分かりにくい。

 また、「参謀待望論」を雲散霧消させたければ、「名参謀・名軍師のリストから全員を除外してしまう」という手段は合理的である。

 ただ、「その基準は基準として用をなすのか」という問題は残る。

 

 

「基準として用をなすのか」という抽象論をケーススタディに変換しよう。

 時代は太平洋戦争、アメリカで高評価を受けている参謀として八原博通参謀という人がいる。

 

ja.wikipedia.org

 

 この人は太平洋戦争で沖縄戦を戦った参謀である。

 この人の採用した作戦は敵方だったアメリカにおいて高く評価されている。

 しかし、その代償に地元沖縄に多大な犠牲を強いることになり、その点の批判は決して少なくない。

 また、沖縄戦は日本の敗北で終了し、また、その後、間もなく、日本はポツダム宣言を受諾することになる。

 

 さて、この本の著者はこの八原参謀をどう評価するのだろうか。

 同じ基準で考えるならば、この人も「(厳しいかもしれないが)名参謀失格」となるだろう。

 しかし、アメリカ側の評価に対する反論として説得力を持つだろうか?

 

 この点は、硫黄島を戦った栗林中将についても同じことが言える。

 

ja.wikipedia.org

 

 これについてはどう反論するのだろう。

 

 

 法格言として存在し、現在の法でも適用されている前提として、「法は不可能を要求しない」というものがある。

 著者の基準は「人間に対する行動の要求」として、「法」として見た場合、不可能を要求するものであり、「規範・基準として」妥当なものとは言えなさそうである。

 山本七平の「敗因21か条」に引き付けて書くならば、「『生物学的常識がない』点、『日本の不合理性、米国の不合理性』の点をそのまま引き継いでしまっている。」ということになる。

 

 誤解してほしくないので強調するが、筆者の分析や評価は神視点から見れば間違ったものではない。

 神や道具であれば筆者の評価は正しい。

 また、名参謀・名軍師の分析をしたいのであれば、「神や道具である」と仮定して分析することは必要不可欠であり、その点からも妥当である。

 さらに、「具体的に、このように振舞えば歴史的経過と異なる結果が出せた。彼らにそれができなかったのは残念であり、能力不足だった」という主張自体に問題は全くない。

 

 しかし、「人間である名軍師・名参謀に要求する基準(法規範)として適正なのか」と言っているだけである。

 さらに言えば、もしも、「不可能を要求し、結果的に不成功だったことをもって参謀・軍師失格の烙印を押し、それによって『参謀待望論』を粉砕する」というのが筆者の狙いならば、それは成功しないだろう。

 

 最後に、筆者も筆者自身の分析に対して私が書いたような批判が返ってくることは十分承知しているだろう。

 また、私自身、筆者の分析に学ぶことは大であったので、その点は非常に意味があると思っている。

 

 

(「5、参謀待望論の背後にあるもの」に続く)

『経済学をめぐる巨匠たち』を読む 14(最終回)

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『経済学をめぐる巨匠たち』を読み、経済学に関して学んだことをメモにする。

 なお、今回が最終回である。

 

 

18 感想

 この書籍を読んだ理由は経済学の概要を学ぶことであった。

 そして、「単に読む」だけではなく「このブログでメモを作る」という作業を行うことで、この目的は達成できたと考えている。

 ただ、この本を読んだ感想(学んだ内容ではない)について頭に浮かんだことがいくつかあるので、最後にそれらについてメモにしておく。

 

 

 第一の感想は「キリスト教すげー」である。

『痛快!憲法学』で資本主義の背後にキリスト教であることは知っていたが、改めてそれを確認するとともに、キリスト教(新教)のすごさを確認した。

 ジャン・カルヴァンによる聖書の解釈とそれが及ぼした影響についてはすごいなあ、と。

 もちろん、ジャン・カルヴァンの聖書解釈に影響を受けて、邁進していった人たちもすごいというしかない。

 

 さらに抽象化させると、キリスト教イスラム教等の宗教(個人を対象とする一神教)はすごいというべきか。

 宗教的情熱・不合理についても私はもっと知るべきなのかもしれない。

 あるいは、渋沢栄一の言う「論語と算盤」のうちの「論語」についてもっと知るべき、と言うべきか。

 

 ところで、資本主義の背景にはキリスト教があることは確認した。

 しかし、そうだとすると、日本にヨーロッパ・アメリカのいうところの資本主義が根付くのかは微妙だなあ、という感想を抱いた。

「勤勉は美徳」という精神はなくはないが、資本主義的な観点から見れば「目的合理性精神」と「勤勉は美徳」の両方の精神が必要だし(「目的合理性精神」はトップの人たちがもち、トップ以外の人はただトップに従うという方法で多少はフォローできるだろうが)、利潤の正当化については完全に怪しい。

 ただ、それはしょうがない気がする。

 

 

 次に、経済学の背後にある「思想の重要性」を改めて実感した。

 もちろん、経済学を使ってあれこれ論じるのであれば、理論の具体的な結果や道具の使い方を知らなければ話にならない。

 でも、道具の使い方と理論の結果しか知らなければ、道具に不具合が生じた場合に右往左往することになる。

 理論による結論と現実の乖離の原因、理論の修正の方法などが分からないからだ。

 この部分に、日本のファンディがもたらす欠点、あるいは、いわゆる「敗因21か条」の思想的不徹底の部分を思い出さざるを得なかった。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 さらに、「資本主義というのは優曇華の花である」という感想も持った。

『痛快!憲法学』に「民主主義は優曇華の花である」ということが書いてあった。

 しかし、資本主義も民主主義に負けず劣らず優曇華の花だなあ、と感じざるを得なかった。

 この点、資本主義以外のシステム、例えば、前期的資本によって資本主義が作り出した富以上の富を生み出すことができるならば、あまり気にする必要はない。

 しかし、前期的資本では資本主義以上の富を生み出せないならば、この「優曇華の花」を維持しなければならないことになる。

 その辺はどうなのだろう。

 この点について知るために、ソ連や中国についてもっと見る必要があるのかもしれない。

 あるいは、イスラム社会についても。

 

 

 最後に、未来を考える上で役に立つものを学ぶことができた。

 例えば、「社会の前提に『経済と宗教』がある」という前提を置いたマックス・ウェーバー

 また、「資本主義は成功によって滅びる」と述べたヨーゼフ・アイロス・シュンペーター

 この「成功によって滅びる」というのは資本主義だけに当てはまる話ではなく、射程の範囲が広そうである。

 さらに、弟子・後継者に恵まれなかったカール・マルクス

 

 この点、資本主義は早晩限界を迎えるものと思われる。

 というのも、資本主義のもたらす環境負荷に地球が耐えられないと考えられるからである。

「そのためにどうするのか」ということを考える際、今回学んだ思想は大いに役に立つだろう。

 まあ、日本のファンディはこの「思想」の部分を見ないだろうから、日本が思想を活かせるかと言われれば甚だ怪しいと言わざるを得ないが。

 

 

 以上、この本から様々な知識を得ることができた。

 また、新たな知識を獲得することで私は猛烈な強度を獲得することができた。

 しかし、「強度の獲得」だけで終わらせるには少々もったいない。

 また、これまでの私の経験を今回得られた知識を使って評価することで違った面を見ることが出来そうな気がする。

 そこで、この「違った面」についてその内容をまとめて発表するのも面白いのではないかと考えている。

 もっとも、その内容はこのメモブログでは発表しないが。

 

 なお、来週からは司法試験の過去問等の途中で終わっている記事を最後まで完成させていこうと考えている。

 山本七平小室直樹関係の書物を読んでメモを作ることは来年になってから始める予定である。

 ただ、次はこの本に挑戦しようと考えている。