薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す3 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 過去問の基本的な検討は前回で終わり。

 今回は過去問を見ていて気になったことを少し細かめに見る。

 

8 書かれていない事情をどこまで考慮するか

 まず、過去問を確認する。

 

(以下、過去問を引用)

 団体Aが、講演会を開催するためにY市の設置・管理する市民会館の使用の許可を申請したところ、Y市長は、団体Aの活動に反対している他の団体が右講演会の開催を実力で妨害しようとして市民会館の周辺に押し掛け、これによって周辺の交通が混乱し、市民生活の平穏が害されるおそれがあるとして、団体Aの申請を不許可とする処分をした。

 また、団体Bが、集会のために右市民会館の使用の許可を申請したところ、市民会館の使用目的がY市の予定している廃棄物処理施設の建設を実力で阻止するための決起集会を開催するものであることが判明したので、Y市長は団体Bの申請を不許可とする処分をした。

 右の各事例における憲法上の問題点について論ぜよ。

(引用終了)

 

 これまで、いずれの団体の不許可処分においても泉佐野市民会館事件の基準を立て、同基準の「差し迫った危険の発生」について「明白かつ具体的に予見していない」と判断し、違憲と判断した。

 この背景には「集会の自由の重要性」がある。

 さらに言えば、「敵意ある聴衆を理由に不許可処分を広く認めちゃダメ」・「集団暴徒化論を前提として集会目的だけで不許可処分を出したらダメ」といったものがある。

 

 

 ただ、問題文を見ていて気になったがある。

 まず、団体Aの場合から。

 Y市長の予見した危険が「交通の混乱」と「市民生活の平穏に対する危険」であること、危険の発生する確率が「おそれ」のレベルである点は前回書いた通りである。

 そして、問題文の文言を見ればその通りである。

 ただ、「書いてないこと」を理由に「『それ以上のことを予見していない』と認定していいのか?」ということが気になった。

 

 本件では、交通の混乱(この文言だけだと、住民・職員の生命・身体・財産に対する危険は見えてこない)は予見されている。

 しかし、「交通の混乱」があれば「交通事故」の可能性は高まる。

 ならば、「交通事故を予見した」とは言えないか。

 交通事故を予見してれば、「交通事故による付近の住民・通行する住民・運転手の生命・身体・財産に対する危険」が予見されたことになり、予見された危険の内容のレベルは泉佐野市民会館事件と同レベルになる。

 

 次に、問題文の文言を見れば、「市民生活の平穏が害される事」しか予見されていない。

 しかし、「別の団体が実力で講演会を阻止しようと市民会館の周辺に押し掛けること」は予見している。

 そして、「実力で阻止」というのであれば、一定の有形・無形の圧力をかけることになる。

 ならば、「なんらかの乱闘事件(暴行・傷害事件)が発生することを予見した」とは言えないか。

 仮に、乱闘事件を予見したのであれば、「敵対する団体や講演会を主宰する団体の参加者・市民会館の職員・付近の住民の生命・身体・財産に対する危険が予見された」ことになり、これまた予見された危険の内容のレベルは一気に泉佐野市民会館事件と同程度になる。

 

 この点、問題文に書かれていない事情を勝手に追加することは積極ミスである。

 ただ、このレベルの推測ならば極めて容易である。

 ならば、「勝手な追加」と切って捨てていいのか。

 

 もっとも、これらの事情を追加しても結論は変わらない。

 何故なら、推測した分を追加して危険のレベルが上がっても、推測という作業が加わった関係で発生確率は減少し、「危険の発生が明らかである」と予見したことにはならないからである。

 つまり、問題点の検討の実益はほとんどない。

 

 また、「もしも、レベルの高い危険を予見していれば、その危険の予見を主張するだろう」ということを前提とすれば(予見したのに主張しなかったのであれば、それは職務怠慢である)、その対偶をとって「主張していないことは予見していない」という帰結を導くことができる。

 ならば、「書かれていないことを予見していると想定する必要はない」とは言える。

 

 

 次に、団体Bのケースにおいて気になることがあった。

 それは「実力」の法的評価である。

 

「実力を行使」と言うからには、「一同、頭を下げて平穏に中止を請願する」といった態様は採用しないだろう(「集団が一同頭を下げて中止を請願する」という行為は異様であり、その態様が極めて平穏だったとしても相手に与えるプレッシャーは大きくなり、それが「危険」に結びつくことはあるかもしれないが、それはさておく)。

 通常はデモ活動を行い、集団が行進する。

 あるいは、集団で声を出す。

 もちろん、これだけならば合法的な行為である。

 ただ、「実力」という言葉を「合法的なデモに限定して考えていいのか」ということが気になった。

 極端な場合、例えば、「実力」の定義が「違法な行為」だとする(あくまで仮定である)と、危険の評価と発生確率は大きく変わり、これまでの前提も大きく変わってしまう(なお、「実力」の定義は団体Aのケースでも問題になる)。

 

 この点、泉佐野市民会館事件の最高裁の判決文を見ていたところ「違法な実力行使を繰り返し」という言葉があった。

 つまり、実力の前に「違法な」という言葉を用いて使っていた。

 ならば、単に「実力」としか書かれていない場合に、その実力を「『違法な』有形無形の力の行使」と評価することは積極ミスになりそうだ。

 ならば、この点について神経質に悩む必要はなさそうである。

 実力を「合法オンリー」と限定しないとしても。

 

9 合憲の答案構成_広島県暴走族追放条例事件を参考に

 司法試験の場合、原則として、結論のみによって点数が大きく変わることはないと言われている。

 つまり、前提たる法的知識に誤りがなく、法的三段論法の骨格がしっかりしており、事実認定に誤りがなく、事実の評価が著しく不当でなければければ、結論がいずれであっても十分に評価されることになる。

 

 ただ、今回の場合、「泉佐野市民会館事件」という過去問と極めて類似する裁判例がある。

 そして、この規範を前提にして通常通りの事実認定をした場合、合憲にもっていくことが難しいことは前回述べた。

 さらに、前セッションで検討した結果を考慮すれば、実力を違法なものと認定したり、敵対する団体が押し寄せることで交通事故や乱闘事件が起きると評価するのは難しい。

 そのため、事実認定・事実の評価を妥当な範囲で合憲の側に引っ張ることも難しそうである。

 とすれば、もし、合憲の答案を書くためには、泉佐野市民会館事件における最高裁判決の基準を用いないことが前提となる。

 

 もっとも、違憲審査基準は用意しなければならない。

 また、全くゼロから規範を作るのもあれである。

 そこで、使えそうな判例を探してみた。

 そして、使えるかなと考えたのは、広島市暴走族追放条例事件の最高裁判決である。

 

広島市暴走族追放条例事件

平成17年(あ)1819号広島市暴走族追放条例違反被告事件・平成19年9月18日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/114/035114_hanrei.pdf

 

 上告審の主要な争点は「条例の文言の明確性」であり、集会の自由に対る制限の当否それ自体ではない。

 しかし、この事件は集会の自由を制限する条例の適用が問題となったものであり、また、条例の憲法適合性が問われた。

 そして、その制限を正当化する規範として引用された判例泉佐野市民会館事件の最高裁判決ではなく、猿払事件や成田新法事件の最高裁判決であった。

 とすれば、集会の自由を制限する際の違憲審査基準を泉佐野市民会館事件の「明白かつ現在の危険の基準」に固定しなければならないことはない、と言える。

 つまり、集会の自由の制限において泉佐野市民会館事件で用いられた規範(厳格な規範)ではなく、猿払事件の規範(緩やかな基準)を用いることも差し支えないということになる。

 

猿払事件

昭和44年(あ)1501号・国家公務員法違反被告事件・昭和49年11月6日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/800/051800_hanrei.pdf

 

 この点、猿払事件とは公務員の政治的表現の自由の制限が問題になった事件である。

 集会の自由と表現の自由は精神的自由という点、条文が憲法21条1項という点で共通する。

 そして、この事件で用いられた違憲審査基準はいわゆる「合理的関連性の基準」と呼ばれており、次の3つの要件を満たせば憲法上の権利の制限が正当化されると考えるものである。

 

① 規制目的が「正当」であること

(「必要不可欠」や「重要」である必要はない)

② 規制手段が規制目的との間で「合理的関連性」を有すること

(明白な関連性や実質的な関連性を有する必要はない)

③ 規制されることによって失う利益と得られる利益の均衡がとれていること

 

 なお、②の合理的関連性という言葉の定義を箇条書きにまとめると次のとおりになることは、以前の過去問で猿払事件に言及したときのとおりである。

 

・制限される行為によって危険・害悪が発生する「おそれ」があれば合理的関連性がある

・害悪が具体的に発生しない行為を規制しても(抽象的に発生するなら)合理的

・公共の利益を直接的に損なう行為でなくても(間接的に損なう行為であれば)合理的

・具体的な代替手段があるかどうかを検討しなくても合理的

 

 この点は重要なので、猿払事件の該当部分をもう一度掲載する。

 

(以下、猿払事件の「合理的関連性」に関連する部分を引用)

 また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない

(引用終わり)

 

 以下、合理的関連性の基準を用いて、団体Aや団体Bに対する不許可処分の憲法適合性を考えてみる。

 まず、団体Aについて。

 

 第一に、不許可処分の目的は「周辺の交通が混乱すること」と「市民生活の平穏が害されること」の防止である。

 この点、平穏な交通状況や市民生活の平穏は住民の生活・幸福追求の前提となる。

 そして、幸福を追求する権利は憲法13条の解釈によって保障される憲法上の権利である。

 とすれば、不許可処分の目的は住民の幸福追求という憲法的利益の前提の確保することにある。

 したがって、目的は正当である。

 次に、集会の開催により講演会に反対する者が押し掛ければ、市民会館の周辺に多くの人が集まることになる。

 そうなれば、付近の交通が渋滞・混乱し、また、市民生活の平穏が害されるするおそれが発生することは否定できない。

 よって、不許可処分によって集会の開催を中止させることは目的との間で合理的な関連性があると言える。

 猿払事件最高裁の言葉を援用するならば、「たとえ、集会の開催に際して警備を行うことで交通の混乱、市民生活の平穏が害されるおそれがなくなる(危険がなくなる)としても、または、集会の実行によって具体的な危険が発生しないとしても、(危険が発生するおそれがある以上は)合理的な関連性が失われることはない」ということになるだろう。

 これで、①目的の正当性・②手段と目的との合理的関連性の要件が満たされた。

 最後に、③利益の均衡について問題になるところ、不許可処分が出されても市民会館で集会が開けなくなるだけで他の場所の集会の開催が可能であるから、不許可処分による集会の自由に対する制限が付随的・間接的な制限に過ぎないこと、その一方で集会のその制限によって市民会館周辺に住む多数の住民の利益が確保されることを強調する。

 その結果、③利益の均衡はとれているということができる。

 もちろん、市民会館で集会を開くことの重要性を強調することで「利益の均衡が取れてない」と主張するは十分可能であり、結論を違憲に持っていくことは可能であるが、それについては割愛する。

 以上のように考えることで、団体Aに対する不許可処分は「合理的関連性の基準」を満たし、合憲とすることができる。

 

 次に、団体Bの場合を考える。

 この点、団体Bの集会の目的が判明したことにより不許可処分にしている。

 つまり、集会の内容自体に着目した不許可処分になっており、危険の発生とは関係ないように見える。

 また、発表の内容に注目して行政権が事前にその発表を禁止する行為として「検閲」があり、憲法21条2項前段が検閲を禁止しているところ、集会の目的をもって集会を規制する行為はこの検閲に準じる事前抑制になるとも言える。

 そのため、そもそも「目的の正当性」の要件が満たされないようにも見える。

 しかし、集団暴徒化論と集会の目的を組み合わせることで、不許可処分の目的を「付近の交通秩序の維持、付近の住民の平穏な生活環境の保護」というようにもっともらしい目的に認定してしまうこと不可能ではない。

 そして、不許可処分の目的をそのように認定してしまえば、目的の正当性・手段の合理的関連性・利益の均衡は団体Aのケースと同様に認められるので、同様に合憲に持っていける。

 もちろん、目的の要件や利益の均衡の要件で違憲にしてしまうことは可能であるが、それについては割愛。

 以上で合憲の答案は完成である。

 

 

 ここで、「合理的関連性の基準」を使ったあてはめを具体的に見てみた。

 具体的に見ることで、以前の過去問検討の際に、私が「表現の自由に関する内容中立規制において、規制目的が正当であり、規制手段が規制目的との間に合理的関連性があれば刑事罰を科してもよい」という見解に反対した理由もみえるだろう。

「合理的関連性がない」と判断される事は基本的にない(目的と手段が無関係というような、よっぽど頓珍漢な規制手段でも用いない限り)。

 また、「目的が正当でない」と判断される事もない(もっともらしい目的さえあれば「目的は正当」と判断される)。

 猿払事件の基準の場合は「利益の均衡」という要件が追加されているため、そこをてこに結論をひっくり返すことが可能だが、平成3年度の過去問の見解には「利益の均衡」という要件はなかったので、そのようなことも不可能である。

 まあ、「利益の均衡」という要件があっても、マイノリティの精神的自由が問題になる場合、「多数者の権利によって得られる利益VS少数者の権利を制限することによって得られる利益」という形になってしまい、多くの場合は前者が勝ってしまうのだが。

 

 

 あと、試験の場合、書いた答案が試験の合否のために評価されても、その内容が漏れることはほとんどない。

 しかし、リアルでこの主張した場合、猿払事件に対する批判と同様の批判を浴びることになるだろう。

 具体的に列挙すれば次のような感じである。

 

・精神的自由の一内容たる集会の自由を軽視するものである

・付随的な制限・間接的な制限だというが、別の場所で同様の集会が開ける可能性が現実的に存在するのか

・広島の条例が規制することを想定している団体と団体A・団体Bは性質が全然違うのにそれを同一視していいのか

・(団体Aの場合)講演会は平穏を害する態様で開催する予定はなく、平穏を害するのは別の団体なのに、その責任(不利益)を団体Aに押し付けて良いのか

・(団体Bの場合)自治体の政策に反対していることが理由になっているようにも見えるのに合憲としていいのか

 

 などなどなど。

 まあ、これらの批判については次回に言及するし、また、私自身、猿払事件の規範を使うことはないので、これらの批判を覚悟する必要はないけどね。

 

 

 以上、過去問について回答とは別で気になったことを書いてみた。

 ここからは試験問題という点から離れて考えたことについて書く。

 ただ、既に分量がかなりの量になったので、これ以降は次回。