薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す3 その2

 今回は次のシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 前回は原則部分(憲法上の権利の制限)についてみてきた。

 ここからは例外についてみていく。

 

3 「公共の福祉」について

 前回、原則論として不許可処分が憲法21条1項で保障されるそれぞれの団体の集会の自由を制約しうることになることは示した。

 しかし、あらゆる不許可処分が違憲になるわけではない。

 いわゆる「集会の自由も無制限ではない」ということである。

 

 この点、権力(政府・自治体)が個人の人権を制約する以上、憲法上の根拠が必要であるところ、その根拠となるのが「公共の福祉」(憲法12条、13条)である

 しかし、集会の自由も無制限ではないように、「公共の福祉」に基づく制約も無制限ではない。

 そこで、「集会の自由」と「公共の福祉」の調整が問題となる。

 

 

 そもそも「公共の福祉」とは何か。

 通説による「公共の福祉」の定義は「人権相互の矛盾・衝突を回避するための実質的公平の原理」である。

 言い換えれば、「公共の福祉」とは「問題となっている憲法上の権利が行使されることによって制限される他の人権」である。

 本件ならば、団体の集会によって制限される他者の人権(生命・自由・財産)になる。

 

 具体例を出そう。

 例えば、同じ日、同じ時間に同時に2つの団体が市民会館の施設(その施設は1つだけとする)の利用の申請をしたとしよう。

 施設は1個しかないので2つの団体のうち一方しか施設を使うことができず、もう一方の団体には必ず不許可処分を出すことになる。

 とすれば、施設が使えない団体から見れば、不許可処分によって集会の自由が制約されるわけだが、この不許可処分の背後には(使う予定の団体の)集会の自由という憲法上の人権が背後にあり、これが「公共の福祉」の具体的な内容になる。

 

 または、ある地元の神社が付近の住民と一緒に「車道において神輿を担いで歩く」というイベント(祭り)を行うことを考えよう。

 神社と付近の住民(氏子)が「神輿を担ぐ」という行事を行うことは宗教的儀式を行うことであり、信仰の自由を定めた20条1項で保障される。

 また、住民が「一緒になって神輿を担ぐというイベントを行うこと」は集会の自由(憲法21条1項)によっても保障される。

 もっとも、車道で無制限に神輿を担いで歩き回れば、車道を通る車と住民が接触事故を起こし、住民や運転手の生命・身体・財産(憲法13条・18条・29条などで保障されている)などが害される可能性がある。

 そこで、地方自治体は無許可に行うことを禁止したり、あるいは、条件を付けて許可を付けることもできる。

 もちろん、市民会館の使用が競合した場合と異なり、無許可で行うことで必ず事故が発生するわけではない。

 ただ、事故の可能性が高いため無許可で行うことを禁止したりするのである。

 

 後者の例を見れば分かるように、不許可処分によって団体の集会を阻止した場合、集会の自由は確実に制限される。

 他方、集会の自由を行使させた場合、「誰かの人権が100%害される」かどうかは未定である。

 そこで、公共の福祉による制限の是非を問う際は、不許可処分によって制限される「集会の自由」の価値や制限の程度を評価する必要があると共に、公共の利益(福祉)の具体化された内容として「誰の人権がどの程度の可能性・蓋然性(確率)で害されるのか」を検討することが必要になる。

 つまり、危険の内容だけではなく、危険発生の確率の程度も問題になるのである。

 

 

 この点について、最高裁判所泉佐野市民会館事件で次のように述べている。

 

(以下、泉佐野市民会館事件の判決から引用)

 右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。

(引用終了)

 

 このように考えれば分かる通り、「公共の福祉」による制約が認められるかどうかは実質的に判断することになる。

 このことからも「公共の福祉」を持ち出せばなんでも制限できるわけではないことが裏付けられる。

 

4 「『公共の福祉』による制約」として正当化されるための具体的な違憲審査基準

 以上を前提にして、「市民会館の不許可処分」に事例を戻す。

 違憲審査基準の設定で座標になるものは、

 

① 一般市民が市民会館で集会を開くことの価値

② 不許可処分による集会の自由が制限される程度

③ 市民会館で集会を開く場合に危害が加わるであろう他の人権

④ 人権が害される可能性(確率の大小)

 

 この4つを見ながら、「どんな危険をどんな確率で発生する」と予見した場合に不許可処分が正当化されるのかを考える。

 そして、基準の設定にあたっては①と②が重要になる。

 何故ならば、①が重要であればあるほど、また、②の強度の制約になればなるほど、③と④のハードルが高くなるからである。

 

 

 まず、①についてみてみよう。

 最高裁が触れていることに基礎知識を追加して書くと次のようになる。

 

 集会の自由は精神的自由に属する権利であり、経済的自由等に対する制限のときに存在する政府(国会・政府・自治体)の裁量はないので、「厳格な基準」によって判断する。

 

 これは簡単に言えば、「二重の基準論」それ自体を、少なくても、「二重の基準論」の精神を最高裁判所は採用するぞ、ということである。

 要は、表現の自由と同様に考える、ということである。

 

 

 次に、②についてみてみよう。

 市民会館は「公の施設」であり、自治体の所有であって、参加者や団体の所有ではない。

 また、市民会館で集会を開けなかったとしても、別の場所で集会を開くことは自由である。

 この2点から集会の自由に対する制限の程度は弱く、逆に、不許可基準のハードルは緩やかにしてもよいと考えることができそうである。

 

 しかし、この2点に対しては次のように反論できる。

 まず、「自治体の所有」とは言うものの、それは「自治体の多数派の所有」や「自治体を構成する政治家(市長・地方議会議員・地方公務員)の所有」を意味するものではない。

 むしろ、「住民の共有物」と考えれば、「参加する住民のもの」とみることもできる。

 ならば、共有物の使用規制に準じて考えるべきであって、権力者や多数派の恣意が入りやすい緩やかな基準によるのは妥当ではないということができる。

 

 さらに、「他所で開けるから制限のレベルは低い」という点も、現実的に考えた場合に一般の市民(金持ちではない庶民)がそう簡単に市民会館以外の場所で集会を開ける場所が用意できるかという容易ではない。

 そもそも、簡単に別の場所で開けるならば市民会館のような公の施設は必要ないだろう。

 

 以上を考慮すると、「不許可処分による集会の自由に対する制限の程度は弱い」という主張は少し苦しいと言える(後で述べるが、最高裁はかなり厳格な基準を設定している)。

 最高裁判所はこの辺りについて地方自治法を踏まえながらも次のように言及している。

 

(以下、泉佐野市民会館事件を引用、強調は私の手による)





 地方自治法二四四条にいう普通地方公共団体の公の施設(私の注、市民会館は地方自治法にいう「公の施設」にあたる)として、本件会館のように集会の用に供する施設が設けられている場合、住民は、その施設の設置目的に反しない限りその利用を原則的に認められることになるので、管理者が正当な理由なくその利用を拒否するときは、憲法の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれが生ずることになる。したがって、本件条例七条一号及び三号を解釈適用するに当たっては、本件会館の使用を拒否することによって憲法の保障する集会の自由を実質的に否定することにならないかどうかを検討すべきである。

(引用終了)

 

 

 もちろん、そのような重要な権利行使(集会の開催)であっても、集会によって害される人権とその可能性(確率)によっては、不許可処分が許される場合もありうる。

 極端な例を掲げれば、「その団体を憎む組織が送り込んだテロリストによって原発が占拠され、12時間以内に集会を不許可にしなければ原発を爆発させる(もちろん放射能が汚染し、原発付近の住民の生命・身体・財産が害される)」と自治体が脅迫された場合を考えればいい。

 不許可処分を出さなければ、原発付近の住民の生命・身体・財産がほぼ明らかに(ほぼ100%の確率で)害される」ということになれば、「やむを得ない」という結論は十分ありうるだろう。

 

 逆に、危険の生じる可能性が低い場合もある。

 例えば、最高裁判所が東京都公安条例事件で持ち出した「集団暴徒化論」についてみてみよう。

 これは「人は群れると暴徒と化す」ということを経験則化したものである。

 この経験則は100%成立するものではない。

 ただし、絶対生じないと言えるものでもない。

 

 そして、集会とは人が集合するものであるものであるから、この理論を採用すれば、「集会によって集合した人々は暴徒と化す可能性」があることになる。

 そして、暴徒と化せば暴徒の暴力によって市民会館周辺の住民の身体・財産(家の塀、家それ自体、庭の設置物その他、駐車している車両等)が害される可能性がある。

「可能性」の程度をどうするかはさておき、「可能性がゼロ」と言えるものでもない。

 だから、審査基準のハードルが低ければこれを持ち出しても合憲・適法ということになる。

 

 以上、イメージのために両極端な例を出してみた。

 実際に起きる問題はこんな簡単ではないだろう。

 

 

 では、最高裁判所はどのように述べたか。

 結論から言えば、最高裁判所はかなり厳格な基準を示した。

 具体的な基準を見てみよう。

 

(以下、泉佐野市民会館事件より)

 その危険性の程度としては、(中略)単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解する(中略)。

 そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。

(引用終了)

 

 最高裁判所は、市民会館で集会を開くことの価値が大きいこと等を理由に上のように述べた。

 これを箇条書きにすると次のようになる。

 

①、危険の発生が確実(明らか)でなければならない(蓋然性がある、イメージするなら約60%の確率で生じるというレベルでは足りない)

②、差し迫った危険が生じなければならない(事後的な悪影響などは「危険」に入らない)

③、客観的な事実(証拠)によって予見されなければならない(主観による推測は許されない)

 

 その危険(集会によって害される人権)は集会を開くことによって直ちに生じるものであり、また、危険の発生の可能性は明白(発生確率はほぼ100%)でなければならず、さらに、一般論による推測ではなく客観的な事実から具体的に予見されたものでなければならない。

 

 今見返せば、おそろしく厳格である。

 ちなみに、この基準の元ネタは「明白かつ現在の基準」と呼ばれ、英訳すると「Clear_and_Present_Danger」となり、これは今そこにある危機と訳されている映画のタイトルである。

 

ja.wikipedia.org

 

 最高裁判所がこのように考える背後には、集会の自由、つまり、人が会ってコミュニケートし、それぞれの意見を洗練させ、あるいは、その意見を発表することにによって民主制に寄与するという自己統治の価値がある、と思われる。

 

 

 以上、違憲審査基準まできた。

 次回は、事例へのあてはめにおいて最高裁判所が述べたことを確認し、本問はどう考えるかについてみていく。