薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す3 その5(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 過去問の検討に関することは前回で終わり。

 今回は過去問から離れて考えたことを書いていく。

 

10 過去の勉強を振り返って

 今回、改めて過去問を検討したが、違憲審査基準と結論は前回と今回で変わらない。

 ただ、改めて過去問を振り返ってみると、過去問は基本的なことを訊いているのであって、別に最先端の知識を知っていないといけないわけではないのだなあ、という感想を持った。

 もちろん、題材が最先端の事件・論点になることはあるとしても。

 

 司法試験の勉強をしていたころの答案において、私は「この過去問が問われていることは敵意ある聴衆の理論と集団暴徒化論である」という認識でいた。

 しかし、この2つの重要性はそれほどでもないように考えられる。

 改めてみた場合、「危険の程度を明白かつ具体的に予見していないが、それで不許可処分を出していいのか」・「『地方自治体の現政策に反対する目的と反対のデモを予定している』だけでを許可処分を出していいのか」ということが問われているように思える。

 

 もちろん、精密に考えるためには上の2つは貴重な材料になる。

 でも、それは細かい事情に過ぎない。

 

 こう考える理由は何か。

 その理由は判例の事案を丁寧に見るようになったからではないか」と考えている。

 言い換えれば、「昔の私は最高裁の事案を丁寧に見ていなかったのだなあ」との感想を持った。

 

11 日本における集会の自由の価値

 今回、結論として合憲と違憲の両方の答案を考えてみた。

 つまり、争いのない事実を前提にして(現実の訴訟は事実関係にも争いがある点は注意)、「団体側の訴訟代理人だったらどのように違憲・違法の主張を組み立てるか」、「自治体側の訴訟代理人だったらどのように合憲・合法を組み立てるか」を考えたことになる。

 そして、この二つのうち採用された方の主張が「裁判所の判決」である。

 

 

 この点、過去問を検討するなら違憲の答案を作成するだけでよかった。

 しかし、今回、合憲の答案を用意したのは理由がある。

 それは、「国民の憲法意思・憲法感情に適合する結論はどちらか?」ということが気になったからである。

 もちろん、「国民の憲法意思・憲法感情」なるものが究極的にはフィクションにすぎないことは分かっているが

 

 合憲と違憲の違いは審査基準の違いがもたらしているに過ぎない。

 つまり、「集会開催によって、『どのタイミング』で『どの程度の危険』の発生を『どのレベルの蓋然性(確率)』で予見したならば、市民会館の自由の利用を拒否していいか?」という問い(審査基準)に対する回答の違いが合憲と違憲の結論を分けていると言ってよい。

 

 この点、市民会館の施設利用拒否が問題になり、かつ、敵意ある聴衆に言及した最高裁判決に上尾市民会館事件という事件がある。

 この判決では、最高裁は次のように述べている。

 

(以下、上記事件の最高裁判決より引用、強調は私の手による)

 主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。ところが、前記の事実関係によっては、右のような特別な事情があるということはできない。なお、警察の警備等によりその他の施設の利用客に多少の不安が生ずることが会館の管理上支障が生ずるとの事態に当たるものでないことはいうまでもない。

(引用終了)

 

 ここで見ておくべきことは最後の部分である。

 要約すれば、「(警備によって生じる利用者・住民・職員の)不安は不許可処分の理由にならない」という点である。

 もちろん、「不安」はストレスとなって精神的健康にもかかわるため「生命・身体」に関連しないわけではないが、「不安」のレベルにとどまる限りは「危険」の範疇に入らないということらしい。

 つまり、「危険の程度(レベル)」に縛りをかけている。

 

 この点、近代立憲主義が持つ「多様性」・「熟議を通した意思形成」・「自由」を前提すれば、他人・他の団体の集会に反対する人間がいること、集会に反対するために合法的な抗議運動を行うことは当然ありうる。

 また、それがなければ近代立憲主義は作動しない。

 

 しかし、それには大小のリスクやコストが伴う。

 最高裁が「危険」から除外した「不安」だって健康、つまり、身体に関連するため、リスク・コストである。

 そして、結果的に講演会と抗議運動が合法的になされたとしても、何かのきっかけで事件になる可能性があり、かつ、将来は未確定である以上、「不安」が消えることは絶対にない。

 このリスクやコスト、それほど大きくはない場合に受忍できるのか

 

 ここで考慮するべきなのは、「コストを代価に得られる利益」、つまり、「他人の集会」に対して国民が考える価値であろう。

 しかし、他人の集会を自分の集会のように大事なものと思えないのであれば、「他人の集会」の価値は高まらず、集会の重要性は下がるだろう。

 いわゆるヴォルテールの名言と言われているものとして有名な「私はあなたの意見に反対だ。しかし、あなたの意見を述べる権利は生命をかけて守る」を前提に行動し、または、コストを受け入れることができるか。

 できないなら最初から賛成しない方がよろしかろう。

「『賛成』するだけで行動しない」という言動不一致を起こすくらいなら、最初から「反対し、かつ、そのように行動しない」という方がマシだろうし、また、この意見を貫くのはかなり大変なので。

 

12 敵意ある聴衆の理論について

 団体Aの不許可処分で前提となっている事実関係に「講演会に反対する団体が押し掛ける」というものがある。

 これを国民の憲法意思・憲法感情に照らしてどのように評価するのか、という点が気になった。

 

 確かに、反対者の実力行使を理由に安易な不許可処分を許せば、反対者は市民会館における集会の開催を安易に阻止できる(実力行使を予告するだけでよい)し、自治体が反対者の阻止行動に加担したことになりかねない。

 この点、反対者(国民)は憲法に束縛されないので、集会を阻止したところで憲法違反にはならないし、合法の範囲の主張・行動である限り法的責任は発生しない。

 一方、自治体は憲法に束縛されるので、それを口実に集会を阻止すれば反対者たちと異なって憲法違反となり、場合によっては国家賠償責任を負うことになってしまう。

 事実、上尾市のケースではそのような展開になった。

(もっとも、賠償したとしても集会を阻止できたなら十分という発想はありうるが、それはさておく)

 

 しかし、敵対者を存在させるような団体の集会(講演会)に重要な価値を見出せるのか、という問題はある。

 いわゆる日本古来から存在する「喧嘩両成敗」との関係である。

 この「喧嘩両成敗」は日本において利用されているところ、この背後には「他人に負の感情をもたらし、よって、紛争を惹起するおそれのある行為をしてはならない」という行動規範がある。

 そのため、反対者の行動を誘発するような集会・講演会は喧嘩両成敗が想定している行動規範に適合しない。

 とすれば、「敵対者が押し寄せるような講演会を(警備をつけたこと等によって生じる)不安感というコストを払ってまで開催させる価値があるのか」という感情があっても不思議ではないように考えられる。

 たとえ、この感情が近代憲法と適合しないとしても。

 そして、このような感情あるならば、近代憲法によってこの感情を押しつぶそうとしても、バッククラッシュをもたらすだけのように考えられる。

「空気」に対する対処がもたらした経過と同様に。

 

 敵意ある聴衆によって集会の開催に影響を及ぼした事件は複数ある。

 市民会館の利用に関しては最高裁の厳格な基準があるが、私人間同士ではこんな基準は適用できない。

 私人に憲法遵守の義務はなく、それどころか、私人の側にも様々な憲法上の権利があるからである。

 我々は、我々の伝統的規範は、敵対的聴衆の問題についてどう考えるのだろう、その結果と最高裁判所のそれとはどの程度一致するのだろう、そんなことを過去問を見て考えた。

 

13 集団暴徒化論について

 もう一つ考えたことに最高裁判所が述べた集団暴徒化論があるので、それについてもメモを残す。

 これが判決文に現れたのは、東京都公安条例事件である。

 判決文は次のとおりである。

 

東京都公安条例事件

昭和35年(あ)112号・ 昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反被告事件・昭和35年7月20日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/694/051694_hanrei.pdf

 

 関連する部分を引用する。

 

(以下、同事件の引用)

 ところでかような集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版等によるものとはことなつて、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によつて支持されていることを特徴とする。かような潜在的な力は、あるいは予定された計画に従い、あるいは突発的に内外からの刺激、せん動等によつてきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団であつても、時に昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によつて法と秩序を蹂躪し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである。

(引用終了)

 

 簡単に述べると、「集団が何らかの表現を行う場合、その集団がどんなに平穏な静粛な集団であっても、集団は内外のなんらかの刺激により暴徒と化して、当事者その他によって制御できなくなる」という経験則のことを指す。

 もちろん、「経験則」であって「暴徒と化す蓋然性が高い」といったような発生確率の極めて高いものではない。

 しかし、経験則として採用した瞬間、「表現を目的とする団体は総て暴徒と化す『おそれ』がある」という認定が可能になる。

 

 約15年以上前、司法試験の勉強をしていたころ、この経験則に対して「そんな大げさな」との感想を持っていた。

 ただ、昨今のネットの炎上その他を見ていると、それほど大げさではないなあと考えさせられた。

 もちろん、当時の最高裁が現実に見ていたものは安保闘争であり、実空間上の人間の衝突があり(実際、死傷者が出ている)、私が見たものよりもっと被害が大きいものであるが。

 

 この集団暴徒化論は、集団の表現の中身、例えば、自治体の政策に反対か賛成かということは関係ない。

 集団に「表現志向」の要素が伴った瞬間、「危険の発生するおそれが生じる」と考えるのだから。

 そして、この経験則を否定するのは現実に即して考えるなら難しいのかな、という気がする。

 

 もっとも、この経験則を肯定したところで、審査基準のレベルが厳しければ、集団暴徒化論を用いて直ちに平穏な集会の開催を阻止できるわけではない。

 ならば、この経験則を肯定しただけで大きな問題を引き起こすことはなく、「危険が発生するおそれさえば制限していい」というような緩やかな基準とこの経験則が競合した場合に問題になる、ということになるのだろう。

 

 

 以上、過去問を改めてみて考えたことをつらつら書いてみた。

 なお、私がメモに残したいことは今回の部分であり、過去問にどう答えるか、とか、基礎的な知識はただの前置きである(今回以外の部分は司法試験予備校のテキストを見れば書いてある内容である)。

 ただ、今回改めて考えたことは山本七平氏や小室直樹先生の書籍から学んだことを利用するという意味で価値があった。

 今後も過去問の検討は続けていこうと考える。