薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『痛快!憲法学』を読む 14

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

13 第13章 憲法はよみがえるか

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った

第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した

 

 そして、第13章、最終章。

 この章は、憲法の機能不全によって生じた弊害とその原因について述べられている。

 この章を一行でまとめれば、「日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する」になる。

 ちょっと長いかな。

 

 

 本章は、現代日本においてリヴァイアサンを操る官僚についての話から始まる。

 国家権力は絶対王政の時代と同等・同質の絶対権力である。

 そして、この権力に歯止めをかけるために用意した道具が憲法である。

 よって、この憲法が死ねばリヴァイアサンは自由気ままに国民の生命・自由・財産を蹂躙できることになる。

 

 戦前の日本でリヴァイアサンを操ったのは軍部である(この軍部を世論が支えたことは第12章で述べた通り)。

 そして、戦後の日本でリヴァイアサンを操ったのは(行政)官僚である。

 まあ、戦前の軍部と言っても実際のところ軍部の官僚であるから戦前も戦後も大差ないのだが。

 

 この点、憲法によってリヴァイアサンに鎖をかける方法は次のとおりである。

 まず、国民の代表者で構成される議会が「リヴァイアサンのしてよいこと」を法律にまとめ、リヴァイアサン(行政)に法律の通りに忠実に実行させ、不都合があれば法律を修正する。

 裁判所が、具体的に行ったリヴァイアサンの行為に対して、法律に基づいて事後的に監視・是正する。

 

 もっとも、第12章や現実を見ればわかる通り、日本には議員立法がほとんどない。

 その結果、行政官僚が法律の制定を代行することになる。

 そして、法律で「仔細は政令等に委任する」などと行政の裁量を大きく認めるようにしてしまえば、裁判所も行政の処分に容易に介入できない。

 その結果、裁判所も行政に口が出せなくなってしまった。

 このようにして、行政官僚に対するコントロールが効かなくなってしまったのである。

 

 もちろん、第8章で述べた通り憲法が殺されたからと言って必ずしも国民が不幸になるとは限らない。

 日本の高度経済成長を見ればそれは明らかである。

 しかし、平成不況のトリガーを引いた「総量規制」を見る限り、平成の官僚たちが近代(資本主義)の精神を欠片も知らなかったことは明らかなようである。

 

 

 以上、「日本は官僚がリヴァイアサンを操っている、それも無能な官僚に」ということで、話は官僚について移る。

(なお、官僚に対する評価については、本書と私とで評価が異なる、これは次回以降に回す)

 ここでマックス・ウェーバーの官僚制の研究が紹介される。

 その結果、「近代立憲主義において(行政)官僚は依法官僚、『法律マシーン』でなければならない」という日本人の直感とは真逆の結論が出る。

 

 もっとも、「官僚をどうにかしよう」と言ってもそれは簡単ではない。

 それは中国の官僚制を見れば明らかである。

 そこで、中国の官僚制の歴史をみていく。

 中国は領土が広大だから、官僚の存在は不可欠である。

 もっとも、官僚をそのままにしておけばその弊害が生じる。

 そこで、中国では官僚グループに対抗できる勢力を用意していた。

 まず、官僚が出来立ての頃は貴族たちの勢力。

 そして、10世紀ごろの宋の時代に貴族が消えた後は宦官たちの勢力。

 

 もちろん、これだけでは官僚の害悪は避けられない。

 そこで、御史台という罪に問われたら「推定有罪」のシステムを用意した。

 

 この点、「近代において国家権力はリヴァイアサンである」と述べた。

 ならば、行政官僚、しかも、高級官僚はこのリヴァイアサンをも食い殺す怪獣(寄生虫)である。

 だから、中国ではこの官僚を制御するために貴族や宦官などの対抗勢力を用意し、さらには、御史台という官僚にとって恐怖のシステムを作った。

 それでも、官僚の毒は防げずに王朝の交代が起き、王朝の交代によって官僚も入れ替わるわけだが。

 これを見れば、日本の(メディアなどが有する)官僚に対する信頼など、中国の皇帝が見れば鼻で笑うことだろう。

 

 ただ、現代日本のように複雑なシステムになれば、官僚の毒が大きいからと言っても、官僚システムをやめることもできない。

 そこで、政治家・議員によって官僚をコントロールするしかなくなる。

 もっとも、近代民主主義国家であれば政治家・議員の質は国民次第である。

 そして、その国民が憲法や民主主義を殺してしまえばどうしようもない。

 だから、「日本は終わった」と筆者(小室先生)は述べて、日本人が有している「自由」と「平等」に対する誤解について話が進んでいく。

 

 

 小室先生は言う。

 

 アメリカ人はデモクラシーや資本主義を自明のこととして思っているので、デモクラシー・資本主義のことを詳しく知らない。

 例えば、資本主義や官僚制の研究をしたマックス・ウェーバーや資本主義の矛盾に気付いて共産主義を考えついたマルクスはドイツ人だし、アメリカの民主主義について考察したトックヴィルはフランス人の貴族である。

 まあ、それはアメリカが新教徒たちによって作られた宗教国家であることを考慮すればしょうがないことではあるが。

 

 また、民主主義・資本主義を確立するための労力に対して極めて楽観的である。 

 もちろん、アメリカ自身、民主主義や憲法を定着させるために多大な労力を支払っているが。

 

 明治時代、日本は民主主義や憲法を成り立たせるために不可欠な前提を、具体的には、天皇教を作った。

 確かに、第11章で見た通りこの天皇教は立憲主義・民主主義から見て完全ではなかったし、昭和の初期において(世論に支えられた)軍部に悪用されることになるが。

 それがために、戦後日本の改革でアメリカはこの点を問題視し、天皇教システムを崩壊させた。

 もっとも、その結果、憲法と民主主義が支えてくれた権威まで崩壊し、自由・平等に関する誤解が生じると共に、権威の崩壊によってアノミーに陥った。

 

 例えば、立憲民主主義にとって「平等」とは「機会の平等」であった。

 もちろん、「この機会の平等だけでいいのか」という問題はある。

 しかし、この原則を取っ払ってしまえば、「平等」について空転してしまう。

 その結果、「結果の平等」や「均質化」が幅を利かせることになる。

 まあ、この背景には日本人の古来から持っている思想も大いに影響しているだろうが。

 

 また、「自由」や「権利」についても誤解されてしまう。

 自由権堅苦しい言葉で言い換えれば、「個人の国家に対する不作為請求権」である。

 つまり、生命・自由・財産は国家権力ができる前から個人が所有している。

「その生命・自由・財産に対して国家権力は手を出すな」というのが権利(自由権)の基本である。

 国家に対して積極的な作為を求めるものではない。

 資本主義がもたらす不公正の是正のため、憲法社会権生存権以下、25条)を規定したが、これは例外である。

 

 平等は「機会の平等」が原則、「結果の平等」は例外。

 自由は「不作為請求(手を出すな)」が原則、「作為請求(何かよこせ)」は例外。

 この原則と例外を規定していたのが天皇教(欧米ならキリスト教)であり、「権威」であった。

 しかし、天皇教を潰したことで、権威が崩壊し、自由と平等について混乱が生じ、アノミーが生じてしまった。

 

 

 以上が本章で書かれた内容である。

 ちなみに、「憲法を立て直すために必要な処方箋」は書かれていない。

 ただ、「現実を直視せよ」と言うだけである。

 この辺、例の敗因21か条の「実数と員数」に似たようなものを感じないではない。

 

 次回は、本章の記載に対して私が思ったことを書いていきたい。

 単に、内容をまとめるだけではもったいないからである。

2021年前半の総括

 6月も終わり7月になった。

 つまり、2021年も半分が終わったことになる。

 そこで、今年の前半を総括しておこう。

 もっとも、リアル関係のことなどここで書けないことは省略する。

 

1 達成できた目標について

(1)生活に関する記録の録取

 去年の終わりから今年の初めにかけて「とりあえず生活の記録を録ろう」と生活に関する記録を録り始めた。

 1月の段階では、「『これをやる』と自分で決めたものを実際に実行した時間」・「『金銭』の出し入れ」・「体重」・「『スマホの万歩計』の数値」の4つを記録していた。

 その後、2月26日から「睡眠時間」に関する記録を録り始めた。

 さらに、6月28日からは「食べたもの」に関する大雑把な記録を録り始めた。

 そして、7月5日からは「『食事』と『入浴』に関する時間」の記録も録り始めた。

 

 生活の記録を録取することで、自分について色々なことが分かった。

 ここ数年、現実を見ることによる精神的なダメージを考慮して、「計画」や「計画の実現の有無」に関する記録を作成しても、「計画を実践した時間」の記録は作らなかった。

 しかし、今回、目的を「実態の把握」だけに限定して(「自分が『やる』と決定したこと対する達成率の調査」などを加えると、負担・ストレス・ダメージが健康を害するレベルまで上昇する)、記録を録り始めた。

 その結果、健康を害することなく(この点が極めて重要)、生活に関する記録・数値が把握できた。

 

 この調査結果を、健康や現実性を無視することなく未来に反映させていきたい。

 

(2)読書

 2021年から「知識を広げる」という目的で読書を習慣に加えた。

 この際、ノルマを週1.5冊、3カ月で20冊、年間80冊を目標とした。

 結果、今年に入ってから49冊の本(文庫・新書・専門書)を読んだ。

 

 この調子で興味を持った分野に対する知識を深めていきたい。

 

(3)資格の取得

 令和に入ってから「1年に資格を2個ずつ取り続けるぞ」と決めた。

 そして、令和元年から令和3年6月までの間に、「簿記3級」・「簿記2級」・「統計検定2級」・「FP_3級」・「基本情報技術者」の資格を取った。

 ノルマは残り1つ、具体的には、「FP_2級」を目標にしている。

 また、来年は「数学検定1級」・「統計検定1級」・「英語検定1級」・「応用情報技術者」・RUBYやPYTHONに関する資格を取り、その際に、「資格周辺の勉強」をしようと考えている。

 

(4)メモブログの記事作成・公開

 今年の初めに「メモ帳ブログ」を作り、「月に10個、記事を公開する」ことを目標にした。

 現在、公開されている記事数は60であり、この目標は達成されている。

 できる限りこの目標を継続していきたい。

 

 

 以上、このブログで書けないことを除き、これだけの目標を達成できた。

 これだけ見れば「この半年間、何もしていない」ということはないと言える。

 

2 達成できなかった目標について

 他方、できなかった目標もある。

 

(1)プログラミング

 この半年間、あまりできなかったこととして「プログラミング」がある。

 この点、プログラミングを学ぶ目的は次の3点であった。

 

一、簡単なウェブアプリが作れるようになる

二、機械学習を用いたシミュレーション・調査ができるようになる

三、C++を用いたAIが作れるようになる

 

 一のために「RUBY」と「RAILS」、二のために「PYTHON」、三のために「C++」を学ぶ予定であり、また、付随する周辺知識も学ぶ予定であったが、これらの目標を達成できるレベルまで勉強できていない。

 もちろん、この半年間は「結果に対して何も言わない」という縛りがあるので、気にしないようにはしている(するとストレスとダメージが健康を害するレベルまで跳ね上がる)。

 だから、結果は忘れることにしているが、半分くらいしか達成していないと思われる。

 

(2)体重の減量

 この半年間、体重はほとんど変わらなかった。

 増えなかった点は喜ぶべきことであるが、この半年間の私のBMIは約29であり、適正体重からは程遠い。

 できればBMI22(適正体重)に、最低でもBMI24のラインまでもっていきたいと思っている。

 

 

 実際はできなかったことはたくさんある。

 ただし、ここでは書けないのでその辺は省略。

 

3 残り半年間でやること

 残り半年でやるべきことを列挙していくと次のようになるかな。

 

一、金銭の出入れの記録

二、生活(活動・睡眠・食事・入浴時間)の記録

三、万歩計の記録

四、体重の記録

五、ブログの記事の作成・公開

六、読書の継続

七、FP2級の資格ゲット

八、(目標が達成になるレベルまでの)プログラミングの学習 

 (なお、リアルに関することはここには書かない)

 

 一から四までは「記録を録ること」だけを目標とする。

「今後の方針」が決まってない以上、適正な数値があるわけではないので。

 

 五と六はこれまでの継続をもって良しとする’。

 これ以上増やせばよそにしわ寄せがいくので。

 

 そして、従前よりも量を加えてやることが七と八である。

 この部分を少しずつ増やしていこう。

 

 

 ここで書けないことを除けば、こんな感じかな。

 ここで書けないことについてみると、「目標として決め、かつ、達成したこと」は少なく、逆に、「目標として決めたが、達成できなかったこと」は多い。

 もっとも、「全くできていない」わけではないので、その辺は気にしないようにしよう。

簿記2級の資格を取ったときのこと

1 はじめに

 少し前のことになるが、「会計に関する資格を取ろう」ということで簿記2級の資格を取った。

 そこで、記憶を掘り返してそのときのことをメモにしておく。

 

 なお、簿記3級の資格を取ったときのことは次の記事にメモしたとおり。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

2 一度目の簿記2級の試験を敵前逃亡するまで

 簿記2級の資格を取ろうと考えた時期は簿記3級の資格を取ろうと考えた時期と同じである。

 だから、簿記2級を受ける動機は簿記3級を受ける動機と同じである。

 端的に書けば次のとおり。

 

・勉強する習慣を取り戻したい、また、勉強の成果を資格という形で残したい

・経済・会計に関する勉強がしたい

 

 色々考えた結果、私は簿記3級と2級の試験を同日に受ける(3級と2級は同じ日に試験を受けることができる)ことにした。

 そして、試験日の約10週間前、簿記3級と2級の教科書・過去問集を買い込み、勉強を開始した。

 

 

 この10週間という期間、決して長いわけでも短くもない。

 私がちゃんと勉強する人間であったならば、勉強して試験を受け、両方とも合格していただろう。

 

 しかし、簿記3級の勉強をある程度までしたところで簿記の勉強の歩みは完全にストップした。

 そして、試験直前までほとんど進まなかった。

 

 この点、簿記3級については教科書を読み掲載されている問題を解いた。

 また、簿記3級については問題集を使って過去問を解いた。

 しかし、簿記2級については全く手が付かなかった。

 そこで、「今回は3級に合格できればとりあえず良いか」と2級の試験は敵前逃亡することになる。

 

 

 結果、簿記3級の試験は合格。

 しかも100点満点の合格、オーバーキルのような結果だった。

 これを見て、少しだけ「ダメもとでいいから受ければよかったか」と反省する。

 また、「次回の試験を受けて、その試験で必ず合格する」と決意するのである。

 

3 2回目の試験まで

 

 この点、一度試験から敵前逃亡すれば、「次は真面目に勉強しよう」と考えそうなものである。

 もっとも、私は懲りなかったのか、あまり勉強しなかった。

 

 この点、前回と異なり、全く勉強しなかったわけではない。

 例えば、私は次の教科書(リンクは最新版、私が持っている年度や版は当時のもの)を購入していた(簿記2級は商業簿記と工業簿記がある関係で教科書は2冊ある)。

 そして、簿記3級のときと同様、教科書を読み、教科書に掲載されていた問題を解いていった。

 

 

 

 ちなみに、工業簿記は計算がメインということもあり非常にやりやすかった。

 簿記3級のところでも少し触れたが、この資格は理系だから敬遠する必要はない。

 むしろ、有利な面もあるのではないかと考えている。

 理系の人が簿記2級を受ける際は、簿記3級の商業簿記の部分の知識を身に着けたら、先に工業簿記から始めるのもありかもしれない。

 

 また、上に掲げた教科書は私にとって分かりやすかった。

 簿記3級の時も述べたが、「この教科書があれば、それ以上の知識は必要ない」と考えている。

 相性の問題はあるとしても。

 

 しかし、先に述べたとおり、私はさほど勉強しなかった。

 その結果、教科書の最後の部分(商業簿記なら連結決算の部分、工業簿記なら分析する部分)が十分理解できなかった。

 工業簿記の最後の部分は理解よりも計算の方が大事なのでなんとかなりそうだったが、商業簿記(連結決算)については本当に「ちんぷんかんぷん」だった。

 

 さらに、過去問集(購入したのは次の本の過去のモノ)は全く手を付けなかった

 簿記3級のときは曲がりなりにも手をつけたのに比べれば雲泥の差である。

 

 

4 2回目の試験へ

 このように事前準備が極めて不十分だった私は、2回目の試験も敵前逃亡しようかと考える。

 実際、受験日の朝、私は直前まで試験を受けに行くかどうか決めかねていた。

 合格できる自信は全くなく、「100%不合格になる」と思っていた。

 

 しかし、前回と異なり、勉強を全くしていないわけでもない。

 また、実際に試験を受けてミゼラブルな結果を出せば、次こそ真面目に勉強するかもしれない。

 さらに、前回、「結果はどうであれ、受けておけばよかった」という考えが頭をよぎった。

 そこで、試験会場の私が受験する机の場所まで私の身体を持っていった。

 

 

 そして、試験。

 試験は大問が5つ。

 工業簿記の問題(設問4・5)は完全に問題を解ききる。

 商業簿記の仕訳の問題(設問1)はなんとか解く。

 さらに、知識問題(設問2)も自分の知識を総動員して回答欄を埋める。

 しかし、設問3の問題が連結決算の問題であり、全く分からなかった。

 もちろん分かりそうなところの答えは埋めたが、ちんぷんかんぷんだった。

 

 そんなこんなをしているうちに試験時間の2時間が過ぎ、終了した。

「手も足も出ず、途中退室する」と考えていたが、予想が外れる。

 また、ある程度善戦できたので、充実感もあった。

「試験を受けて良かったー」と思ったことは間違いない。

 

 

 試験後は自己採点。

 連結決算の設問3は壊滅的だったが、設問4・5は満点、設問1と2もある程度解けていた。

 もっとも、自己採点の結果から得た感触は「ギリギリ不合格」だった。

「ギリギリかよ~。効率悪りぃ」とも思ったが、「不合格自体は勉強を十分しなかった以上しょうがない」、と自分をハゲ増す、じゃない、励ます。

 

5 微妙な結果

 試験終了直後、ネットにおける簿記2級の反応を見たが、設問3(連結決算の問題)に対する反応はすごかった。

 今回、この文章を書くにあたり改めて当時のネットの反応を調べたが、ツイッターではトレンド入りしていたらしい。

 

 私は簿記3級・2級は完全に独学である。

 受験仲間はいない。

 また、「教科書と問題集しか見ない」という勉強方法を採用していたので、ネット上の話題はほとんど関心がなく、かつ、知らなかった。

 

 だから、試験後の反応は新鮮であった。

 もっとも、私は冷めた目で見ていたが。

(この点について私の感想を正直に言えば、「受験者側からすれば、問題を批判することは不毛である。批判することにエネルギーを注ぐなら勉強した方がマシ。事実、合格率は悪くなかったわけだし」になる)

 

 さて、「ギリギリ不合格」を予想していたこの試験。

 しかし、結果を開いたらギリギリ合格していた。

 私は解答用紙に書いた内容を問題用紙に書き写ししていたが、設問1のある問題について書き写しに間違いがあったらしく、不正解から正解になった問題が1問(4点分)あったらしい。

 その結果、ギリギリ不合格がギリギリ合格に変わった。

 

 奇跡の合格、というか、微妙な合格、と言うべきか。

 

6 感想

 私が資格を取ろうとする目的は総じて「勉強すること」・「勉強の成果を形にすること」である。

「資格を使って対外的に何かしよう」という予定は今のところなく(将来は分からない)、簿記2級もその意味で例外ではない。

 

 また、簿記1級を受ける予定はなかった。

 だから、簿記2級を合格出来て簿記について一区切りができた、と言える。

 

 さらに、この試験に受かったことで2019年に合格できた資格の試験が2つ(級が違うだけではあるが、2つであることに変わりはない)になり、2019年のノルマが果たせた。

 ノルマを果たした意味で、簿記について一区切りがついた意味で、ホッとしたのを覚えている。

 

  しかし、ホッとしすぎたのがいけなかったのか、次の年(2020年)は一切試験を受けなかった。

 2021年に慌てて資格を取りまくっているのは別の記事の内容から推察される通り。

 そう考えると、この試験の合格が私に良きものをもたらしたのかどうか。

 この点については正直分からない。

「基本情報技術者」の資格を得る

(7月30日追記、

 本文を起案したのは6月30日であり、合格発表前だった。

 そのため、「特段の事情のない限り合格」という書き方をしているが、7月30日、この試験に正式に合格した旨確認した。よって、その旨追記しておく)

 

0 はじめに

 先日、「基本情報技術者」という資格の試験をCBT方式で受けた。

 この点、合格発表は7月末、合否は未確定である。

 しかし、試験後に見ることのできるスコアレポートによると、私は2科目共に80%近い正答率を叩き出しており、特段の事情のない限り合格しているようである。

 そこで、今のうち、忘れぬうちにこの資格を得るためにしたことのあれこれをこのブログにメモっておく。

 

1 基本情報技術者の資格を取ろうと思ったきっかけ

 基本情報技術者の資格を取ろうと考えたきっかけは、あるプログラミング(データベース)の本を読んだときに取るべき資格の一つにこの資格がピックアップされていたからである。

 また、私自身も「情報科学に関する知識を一通り身に着けたい」と考えていた。

 そこで、情報系の資格に狙いを定め、最初の関門であるこの資格を取ろうとしたのである。

 

 

 もちろん、この背景には約2年前に「令和が始まったから1年に2個ずつ資格を取る」と決意したこともある。

 私は、去年(2020年)の春、この資格を取ろうと申し込みをした。

 しかし、2020年の春と言えば、コビット・ナインティーンによる自粛の嵐が吹き荒れ始めたころ。

 試験は中止、受検料は返金となった。

 

 その後、時は流れて2021年。

 2019年は2個の資格(簿記3級と簿記2級)を取ったが、2020年にとった資格はゼロ基本情報技術者試験は中止、FPの3級は敵前逃亡したため)。

「これではいかん」ということで、3月に統計検定の2級、5月にFPの3級の資格を取った(後者の合格発表は6月30日であり確定していないが、自己採点を見る限りほぼ合格している)。

「これで2020年分のノルマは果たした。2021年分のノルマは7月以降に『FPの2級』と『基本情報技術者』の試験を受けることで果たそう。」と考える。

 

2 6月にこの資格を取ろうと決めたきっかけ

 ただ、6月12日の夜に基本情報技術者について調べているうちに考えが変わった。

 

 この点、2021年春の基本情報技術者の試験はCBT方式で行われているところ、試験期間のリミットは6月末である。

 そのため、今から勉強しても間に合わない可能性が高い。

 そこで、試験のタイミングを秋にした。

 しかし、統計検定2級やFP3級の勉強を見る限り、私はぎりぎりまで勉強しない。

 ならば、6月(いま)に試験を受けたとしても時間的に大差ない。

 そこで、試験日程を後ろまでぎりぎりまでずらして6月に試験が受けられないか、と考えた。

 

 色々と調べた結果、午前科目(従前の試験なら「午前」に受ける科目)は18日に、午後科目(従前の試験なら「午後」に受ける科目)は25日に受けられることが分かった。

 もちろん、1・2週間後という事情もあって、受験可能な試験会場(「CBT方式で受ける」と言っても会場があり、予約が必要である)は少なく、受験可能な会場を探すのに少々苦労したが。

 

 そこで、「受験できるならさっさと試験を受けてしまえ」ということで、即座に試験の予約をネットで行い、費用も支払った。

 もっとも、申込の流れが、「午前科目の予約の申し込み」→「受験料の支払」→「午前科目の予約の確定」→「午後科目の予約の申し込み」という流れとなっていて、午前科目の予約と午後科目の予約にタイムラグが生じる。

 そのため、「午前科目の予約が確定するまで午後科目の予約の申し込みができないが、受験料を支払って午前科目の予約が確定するまでに午後科目の試験会場が埋まってしまい、別の会場を探しなおさなければならなくなるのではないか」と気が気ではなかったが。

 

 このようにして、この試験に挑むことが決まった。

 午後科目も含めて試験の予約が確定したのは12日の土曜日の深夜。

 最初の科目(午前科目)の試験まで残り5日である。

 

3 午前科目の勉強

 勉強方法は座学と過去問演習のみ。

 時間がないこともあり、他には手を出さなかった。

 

 まず、知識を得るために次の教科書を利用した。

 

  

 

 とりあえず全体を通して2周した。

 もちろん、掲載されている問題(過去問)も解く。

 

 次に、次の本の令和2年・春版を過去問の解説書として利用した。

 もっとも、過去問を解く際にはサイトにある過去問をプリンターで打ち出して解いた。

 この本に掲載されている過去問は4回分であるところ、この本はかなり分厚くて「見ながら過去問を解く」のは大変だったからである

 それから、「午前科目については同じページに問題と答えが記載されている」のも問題用紙をプリントした理由であった。

 

 

 解いた過去問は19年の春と秋、18年の春と秋の4回分。

 4回しか解かなったが、間違えた問題は全体の2割程度。

 そこで、「これ以上過去問をさかのぼる必要はない」と判断し、ミスした問題の復習に時間をあてた。

 勉強期間の短さを考えれば、過去問4回分が限界だっただろうが。

 

4 午前科目の試験を受ける

 6月18日、自宅を出て試験会場まで出かける。

 試験会場付近には集合時間の1時間以上前に着く。

 昼時だったため、昼食を食べながら知識の最終チェックを行う。

 

 そして、試験。

 試験時間は150分間、問題は80問。

 自信をもって正解を選べた問題は半分程度だったが、試験終了後に見ることのできるスコアレポートによると、80%近く正解していた。

 ならば、「午前科目はクリア」といってもよいだろう。

 目標を午後科目に切り替える。

 

5 午後科目の勉強

 知識を中心に問われる午前科目とは異なり、午後科目ではアルゴリズムや具体的なプログラムの問題が出てくる。

 そこで、アルゴリズム対策と(個別の)プログラミング対策が必要となった。

 

 私はプログラミングの選択問題は「表計算」を選んだ。

 PYTHONにしようかとも考えたが、「せっかくなら表計算について一度勉強しよう」と考えたのである。

 

 試験に用いた教科書は次の2冊(年度は2020年版のもの)。

 

  

 

 アルゴリズムの教科書は正直は分かりにくかった。

 もっとも、疑似言語で分からなかったときは自分の知っている言語(C++、PERL)に置き換えてどんどん進めていく。

 

 もっとも、この2冊を「問題を解きながら読み切る」のは大変だった。

 事実、この2冊を読み終えたのは試験前日であり、過去問は2回分(19年の春と秋)しかできなかった。

「もう少し日程に余裕があればなあ」と考えた次第である(もっとも、余裕があったとしてもちゃんと有効に時間が活用できたかは分からない)。

 

 次に、過去問を時間を測って解く。

 過去問演習の出来は悪くなく、「これならなんとかなる」という感触を得る。

 当日の体調が悪くなく、試験中に集中力が切れなければ。

 

6 午後科目の試験

 25日、午後科目の試験を受けに自宅を出る。

 会場は18日とは違う場所(最寄り駅も異なる)。

 まあ、試験を受けようと決めたのがかなりぎりぎりだったのでしょうがない。

 

 電車が止まることを想定して、約1時間早く会場付近に着く。

 近くに喫茶店などが見つからず、また、雨が降り出した関係でさっさと会場に入る。

 受付に行くと、早く試験が受けられるとのこと。

 そこで、さっさと受付を済ませて試験を受けることにした。

 

 そして、試験開始。

 この点、試験前の時点では、「過去問演習の出来が悪くなかったとはいえ、午後科目は大変だろう」と身構えていた。

 しかし、フタを開けてみればそれほど大変ではなかった。

 時間に余裕はなかったけれども。

 また、とんでもない勘違いをしていた関係で、大問の半分くらいの正解が全部間違っていて、試験終了直前にそれに気付くなど、結構ひやひやしたが。

 

 試験終了後、スコアレポートを見たが、こちらも正答率80%以上を確保していた。

 まあ、午後科目もクリア、おそらく合格したとみてよいだろう。

 

7 感想

 冷静に振り返ってみれば、試験自体はそれほど大変ではなかった。

 確かに、この試験のために費やした時間(勉強時間だけではなく試験に費やした時間も含む)は約70時間であり、統計検定2級やFP3級にかけた時間(30時間未満)より多い。

 しかし、プログラミングの経験がないわけではないから、午後科目などはとっつきやすかったとも言える。

 

 次に、周辺知識が一通り得られたのは大きかった。

 特に、ハードウェア・インターネット・セキュリティ・マネジメントについてはほとんど知らなかった

 そこで、その辺の知識が得られたのは非常に大きかった。

 その分だけでも勉強した甲斐があったと言える。

 これらの知識は今後、自作のアプリを公開する際にどんどん利用していきたい。

 

 それから、今後、こういう資格を含む勉強は今回のように短期間で一気にやってしまった方がよさそうである。

 もちろん、次に受ける予定の資格「FPの2級」は相当量の勉強が必要であるものと想定されている。

 だから、「1週間前から一夜漬けの如くやる」では間に合わないだろう。

 しかし、「長期に少しずつ」という戦略はどうやら私にはあってない気がする。

 今回のように、「1~2週間で一気にやり切ってしまう」という発想を軸に色々と計画を練っていった方がいいのかもしれない。

 仮に、秋(冬)に基本情報技術者の試験を受けたとして、今回と同様の展開にならず、しかも、うまくいったかは微妙である(多分、今回と似たり寄ったりの経緯をたどるだろう、最終的に受かるかは別として)。

 

 

 以上が今回の試験の感想である。

 これで令和の時代に私の取った資格は5つ(合格がほぼ確定しているもの含む)。

 今年は3年目だから、残りのノルマは1つ。

 今のところ、「FPの2級」の予定でいる。

 ただ、技術系の勉強は続けたいし、勉強のアウトプットとして資格を取りたいので、来年には別の資格を取ろうと考えている。

『痛快!憲法学』を読む 13

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

12 第12章 角栄死して、憲法も死んだ

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために『天皇教』という宗教を作った

 

 そして、第12章。

 この章を1行にまとめると、「日本における『空気』の支配が憲法を殺した」になる。

 

 

 前章、天皇の権限が政府によって事実上制限されていたこと、帝国議会藩閥の作った内閣を言論によって叩き潰したことについて話した。

 特に、後者の大正政変の後、大正デモクラシーが進み、平民宰相が出現し、普通選挙制度も実現する。

 さらに、「憲政の常道」(議会の多数派が内閣を作る)というシステムも出来る。

 このまま進めていけば、日本も立派なデモクラシー国家・資本主義国家になると思われていた。

  

 ところが、世界恐慌がこれらの前提を吹き飛ばす。

 ヒトラーもなく、ケインズもいない日本では不況に対する効果的な経済対策が打てなかった。

 まあ、列強に追いつくことで必死だった日本に革新的なアイデアを出せと言っても無理じゃないかと思うが。

 

 そんななか、次のように考える人間が現れた。

 民主主義と資本主義は不可分である以上、議員は選挙のために資本家の顔色を見る。

 となれば、議員と議員の集合体たる議会は資本家や企業のためにしか動かない。

 だから、議会では、労働者や農民の窮状は救えない、と。

 

 そう考えること自体は問題ない。

 また、議会が衆愚に陥るリスクはあるのは事実だから。

 

 もっとも、それを民衆が信じることによって問題は顕在化した。

 前回述べた通り、立憲民主主義システムを破壊するのは独裁者ではなく、民主主義それ自身である。

 昭和の戦前日本でもそれが起こったのである。

 

憲政の常道」という政党政治システムが崩壊したのは、5・15事件で当時の首相犬養毅が暗殺したとき。

 この犬養毅暗殺に対しては実行犯たる将校に同情する声が少なくなかった。

 そして、5・15事件後、首相は政党関係者でなく、軍人か華族がなるようになる。

 

 

 これに対して、議会・政党は一瞬で瓦解したわけではない。

 例えば、浜田国松は2・26事件直後に軍部の政治介入を批判、寺田陸相に腹切り問答を仕掛け、広田内閣を閣内不一致に持ち込んで総辞職させた。

 広田内閣の次にできた林銑十郎内閣は「議会を懲罰する」と言って衆議院を解散させたものの、議員は自らの主張を貫いて選挙に勝利した。

 結果、選挙後の顔ぶれは選挙前の全く変わらず、林内閣は思惑が外れて(面目を失い)総辞職することになる。

 

 もっとも、軍部側が満州事変や日華事変(日中戦争)の初期段階で一定の成果を挙げたことがあるのだろう。

 民意は議会から軍部に移っていく。

 そして、昭和15年の斎藤隆夫の反軍演説(「反軍」というが平和主義的演説ではない)に対して帝国議会斎藤隆夫の発言を議事録から抹消して斎藤議員を除名してしまう。

 

 大日本帝国憲法であっても議会には強い武器を持っていた。

 例えば、発言に対する免責特権。

 腹切り問答の際、浜田国松議員は議場の軍部を批判する発言に対して院外で責任を問われなかった。

 議会もまた責任を追及することをしなかった。

 これによって、議会は政府のやり方を十分に批判することができた。

 

 あるいは、予算承認権。

 政府の予算案を否決してしまえば、金のかかる新しいことが基本的にできない。

 当然、戦争も継続できない。

 明治時代の議員はそれを熟知しており、議会と藩閥はその点で散々もめていた。

 

 もっとも、これらの武器を使わず、あるいは、武器を捨ててしまえば、議会の自殺行為と言われて抗弁できない。

 事実、斎藤隆夫の反軍演説に対する議会の対応は議会の自殺と言ってよく、これにて日本のデモクラシーは「死ぬ」ことになる。

 民意によって。

 あるいは、「戦勝報道」によって作られた「空気」によって。

 

 

 さて。

 戦争が終わり、新しい憲法のもと、民主主義がリスタートするかに見えた。

 田中角栄は日本のあるべき姿を国民に問うた。

 また、官僚を使いこなし、国会の議論を通じてたくさんの議員立法を行っていく。

 結果に対する評価はさておき、田中角栄の手続きがデモクラシーの手続きに則っていることは明らかである。

 しかし、そのようなことができたのは田中角栄だけであり、他の政治家にはできなかった。

 

 また、戦後の日本は、いや、「日本の空気」は「ロッキード事件」においてこの田中角栄憲法諸共葬り去ってしまう。

 この点、田中角栄を罰することの妥当性について、つまり、真実がなんであるかは究極的には分からない。

 しかし、この葬り方が憲法を蹂躙していたことは明らかである。

 まあ、日本の司法においてこれに似たことは散々なされているので、私にとっては「何をいまさら」感があるが。

 

 

 立憲主義が個人との関係でもっとも力を発揮する場所はどこか。

 それは刑事手続である。

 それが証拠に、憲法は刑事手続きに関する条文が10個もある。

 

 適正手続きの保障(31条)、裁判を受ける権利(32条)、逮捕における令状主義(33条)、逮捕・勾留時における弁護人依頼権など(34条)、侵入・捜索・押収時における令状主義(35条)、残虐な刑罰の禁止(36条)、裁判における公開主義・反対尋問権(伝聞法則)と証人喚問権・弁護人依頼権(37条)、黙秘権・自白法則・補強法則(38条)、事後法の禁止・一事不再理(39条)、刑事補償(40条)・・・

 

 これだけのことが憲法に書かれているのである。

 どれも大事であるが、今回、蹂躙されたのが「反対尋問権」である。

 つまり、有罪を立証するためになされた証人の証言に対して反対尋問を加える権利である。

 これを具体化した法則が伝聞法則であり、司法試験の刑事訴訟法において最も重要な論点の1つとなっている。

 

 反対尋問権がないとどうなるか。

 証人がウソをついた場合、あるいは、勘違いによって真実と異なる事実を証言をした場合に弁護人・被告人サイドからそのチェックができない。

 いや、裁判官がチェックするではないか、と思うかもしれない。

 しかし、裁判官は中立の第三者であるし、事件に関する事情を詳細に知る人間ではない(むしろ、事件の事情を詳細に知っている人は近代裁判のシステム上裁判官にはなれない)ので、効果的な反対尋問ができるのは弁護人・被告人だけである。  

 この反対尋問権を封殺してなされた裁判がロッキード裁判である。

 

 ロッキード裁判では、外国にいる証人(外国人)を日本に呼んで証言してもらおうと考えた。

 しかし、有罪通りの事実認定がなされた場合、被告人と証人は共犯関係にある。

 とすれば、日本に来れば逮捕・起訴・有罪になる危険がある。

(実務において、共犯者の証言を使って被告人を有罪にする場合、共犯者はたいがい有罪判決が確定済みだったりする、共犯者の証言の信用性は原則として低く見られており、その疑問を突破するためのハードルをクリアする必要があるからである) 

 だから、証人は「証言はするが、自分の刑事責任は追及しない旨の特権をよこせ」と要求した。

 アメリカには司法取引のシステムがあるので、アメリカ人がこの要求をすること自体は問題ない。

 しかし、日本の刑事訴訟法にはそのような規定はない。

 だから、日本でこれをやれば日本の適正手続の原則に反してしまう。

 それをやってしまったのがロッキード事件である。

 

 さらに、問題なのはこの証人に対して法廷で証言させなかった事にある。

 通常、供述調書の類は被告人・弁護人が同意をしなければ原則として証拠にできない。

 だから、否認事件では証人が呼ばれて証言がなされ、被告人・弁護人は反対尋問をして証言を崩そうとする。

 反対尋問で証言の信用性が木っ端みじんにされて信用できなくなると、検察官は改めて「以前はこのようなことを検察官の前で述べました。その内容は検面調書の内容のとおりです」と言ってその調書を出し、大概、裁判官は証言よりも調書の内容を信用して有罪判決を出すのだが。

 ロッキード裁判の一審・控訴審では、この反対尋問の機会さえ与えず、調書を証拠と認めて、有罪判決を出してしまった。

 この点、最高裁はさすがにやばいと思ったのか、田中角栄の死後に控訴棄却の判決を出し、「免責特権を与えて得た調書は手段に違法があるので証拠にできない」とは認めたが(さすがに、この判決が有罪で確定すれば、判例によって免責特権を与えることを認めることになる、さすがにこれはまずいと思ったのだろう)。

 

 ここで問題にするべきなのは、これに対する社会の反応である。

 戦前と同様、「空気」ができてこの手続きを許容してしまった。

「空気(世論)次第では憲法憲法が保障する個人の権利を蹂躙しても許される」のであれば、憲法の意味はない。

 つまり、戦後も憲法は死んでいるということになる。

 

 

 以上が本章のお話。

 最終章は、「憲法が死んだのは何故か」・「憲法が死んだことによって何が起きたか」についてみていく。

 また、既にこのブログの記事の文字数も3700字を超えているので、私の思ったことは次以降に回す。

『痛快!憲法学』を読む 12

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

11 第11章 天皇教の原理_大日本帝国憲法を研究する

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

 

 これまで、「憲法とは何か」という話から、「憲法が必要となった経緯」・「憲法と民主主義による統治システムの考え方」・「憲法と民主主義と資本主義の背景にある考え方(キリスト教)」について触れ、最後に「国家と戦争・平和」と「国家と経済」について述べてきた。

 これにより憲法・民主主義に関する知識は揃った。

 ここから日本の憲法について話題が移る。

 本書のメインテーマは「日本の憲法は何故死んでいるのか」なのだから。

 

 そして、第11章。

 この章を1行にまとめると、「日本は民主主義・資本主義を根付かせるために『天皇教』という宗教を作った」になる。

 宗教を手段として考えるあたり、日本らしいな、というか。

 

 

 ここまで見れば分かる通り、(立憲)民主主義も資本主義もキリスト教、しかも、予定説の影響なくして発生しなかった。

 つまり、民主主義・資本主義の精神なくして、システムとしての民主主義・資本主義も実質的に機能しないことになる。

 それは、世界を見てみれば分かる。

 民主主義が実質的に(形式的ではない)機能している国が世界にどれだけあることか。

 

 そこで疑問になるのが、「『日本は憲法が死んでいる』という。しかし、『そもそも日本で憲法が生きていた時期があるのか』」だろう。

 つまり、「日本にデモクラシーが根付いた時期があったのか」。

 これからその点を検証するために日本の近代史を見ていく。

 

 

 時は幕末。

 ヨーロッパの市民革命は一段落し、ヨーロッパの列強は再び世界に進出していた。

 そして、その矛先はアジアに向かう。

 

 ムガル帝国(インド)はセポイの反乱があったものの、反乱は鎮圧、ムガル帝国はイギリスの植民地になる。

 また、清国(中国)はアヘン戦争とアロー戦争でイギリスに惨敗する。

 

 日本もラクスマン・レザノフの来航、フェートン号事件など、列強の影はちらついていた。

 そして、マシュー・ペリー浦賀に来航し、交渉の結果、和親条約・修好通商要約を結ぶ。

 ここで問題なのは後者の条約。

 この条約には「治外法権を認めない(居住外国人の裁判権が日本にはない)」・「関税自主権が認められない」という日本を対等と認めない、日本を主権国家として認めないものであった。

 もちろん、条約締結の背景には列強の世界進出の実績・列強の持つ技術力の高さがあるのだが。

 

 そこで、明治政府に突き付けられていた喫緊の課題は、「世界において対等な国家として認められること」・「近代的軍隊を持つこと」だった。

 皮肉なことを言えば、「民主主義国家・資本主義国家になること」は手段でしかなかった、ということになる。

 明治政府は二つの課題を達成するために、明治維新直後に岩倉使節団を派遣する。

 しかし、前者の目的、条約改訂に関する交渉はアメリカで最初から相手にされなかった。

 そこで、使節団の目的を後者に集中させ、使節団は欧米で歓迎されることになる。

 使節団のこの見切りはさすがと言うべきか。

 

 

 さて、「資本主義(民主主義)国家になる(近代的軍隊を持つために必要な前提を整える)」と言っても、言えばすぐになれるものではない。

 何故なら、資本主義を実質的に機能させるためには資本主義の精神を国民に埋め込まなければならないのだから。

 そのためには、民業が重要になるのだから。

 そこで、政府は官営の事業をどんどん民間に払い下げていく。

 

 しかし、資本主義の精神を持つためには、「労働は救済である」・「目的合理性」・「神の前の平等」といった思想を国民に植え付ける必要がある。

 また、キリスト教に改宗させるということはできない。

 そこで、日本で類似の教えがないか、その教えを実践した人間がいないか探すことになる。

 

 まず、「労働は救済である」・「目的合理性」の精神を持つ日本人は見つかった。

 江戸時代後期の二宮金次郎である。

 彼は農民だったが、「労働は救済である」という教えを実践して資産を蓄えた。

 その後、小田原藩などの財政立て直しに活躍する。

 財政立て直しの際に彼が広めた教えが、「労働は救済である」・「目的合理性精神」である。

 後者については知られていないが、後者についてもかなり説きまわっている。

 そこで、明治政府は彼の銅像を小学校に立てて彼の教えを子供たちに教え込もうとした。

 

 ただし、これだけでは足らない。

 何故なら、資本主義には「人間は平等」・「平等だから、『人間』には生命・自由・財産に関する権利(人権)がある」という大前提があるからである。

 二宮金次郎の考えにはこれはない。

「所与の前提(身分制)の下で、目的合理的に、かつ、勤勉に振舞え」にしかならない。

 つまり、日本の伝統主義が資本主義の実現の前に立ちはだかったのである。

 

 そこで、明治政府は日本に「予定説」に似たものがないかと探し出し、それを見つけ出す。

 それがこの本で書かれている「天皇教」である。

 このドグマ(教義)は「天皇は絶対である」・「日本は神の国である(神国思想)」である。

 この教義は江戸時代の学者山崎安齋とその一門が作り上げ、後に尊王思想の原点となった。

 この点、尊王思想は徳川幕府最後の将軍、一橋慶喜の実家である水戸藩で大流行していた(尊王思想を打ち立てたのは水戸藩の二代藩主、例の水戸黄門である)。

 また、三代将軍徳川家光の弟で会津藩主になった保科正之もこの尊王思想の影響を大いに受けていた(その子孫が孝明天皇の信任が厚く、また、戊辰戦争で江戸の身代わりとして叩かれた会津藩の藩主・松平容保である)。

 このように尊王思想は江戸時代にある程度浸透していた。

 

 もちろん、倒幕側の人間にも影響を受けていた。

 明治維新薩長土肥という関ケ原で勝者になれなかった外様大名たちが徳川に連なる武士たちを倒した革命である。

 しかし、尊王論の影響は勝者となった武士たちにも大変な影響を与えた。

 それが武士の特権の廃止、大名たちの領地の返上である。

 資本主義を根付かせ、外国と渡り合える軍隊を作り、日本を列強と対等にする、という目的があったとはいえ、すごいことである。

 

 これがいかにすごいかは諸外国と比較すればいい。

 イギリスはまだ貴族制度が残っている。

 フランスはフランス革命などで貴族階級が消えたがそのために血の代償をかなり払わされた。

 しかし、日本では版籍奉還廃藩置県は無血であったし、その後に起きた士族の反乱(佐賀の乱萩の乱西南戦争)でも日本全体が戦争状態になったわけでもない。

 

「これを使えば、平等の思想を根付かせることができる」と思った明治政府は、これを新たな宗教として活用しようとする。

 だから、従来の神道天皇教は同じではない。

 古来の神道において天皇(みかど)は御門であり、神々を祭る斎主であり、神それ自体とはされていなかったのだから。

 

 

 二宮金次郎の「労働は救済なり」・「目的合理性」の精神、それから、尊王思想、これらを日本全国(日本国民・帝国臣民)に普及させて日本を資本主義国家にしよう、これが明治政府、具体的には、大日本帝国憲法を起草した伊藤博文のプランであった。

 この目論見が(50年のスパンにおいて)成功したかどうかは言うまでもないだろう。

 日本は近代化を成し遂げ、日露戦争では列強のロシアを敵に回して戦争目的を達成し、不平等条約を改正して列強の仲間入りを果たす。

 当初の目的を果たしたと言ってもよいだろう。

 

 

 では、その手段であった立憲主義や民主主義は日本に根付いたか。

 

 君主国における立憲主義国、つまり、立憲君主制が成立しているか否かのメルクマールは天皇陛下に拒否権が発動できたか、である。

 日清戦争において明治戦争は戦争回避策を打診したが、政府は戦争に邁進する。

 その結果、明治天皇は政府の開戦決定に対して拒否権を発動しなかった。

 

 事実、明治から戦前までで天皇が政府に対して拒否権を含む政治的権限を行使したのは2・26事件と終戦の聖断であろう(内々にということはあったかもしれないが)。

 さらに、追加するとしても、満州某重大事件における田中義一首相に対する昭和天皇の叱責くらいか。

 とすれば、戦前の三代の天皇陛下立憲君主として振舞っており、天皇陛下(君主)に対して憲法は十分機能していたことになる。

 

 

 他方、民主主義についてはどうか。

 明治時代、藩閥政府と議会はしょっちゅうやりあっていた。

 そりゃ、当時の政府関係者は戊辰戦争で活躍していた薩長藩閥の出身なのでそれなりのプライドがある。

「議会何するものぞ」の気概があったとして不思議ではない。

 

 出来立ての政府(君主側)と議会の関係はそんなものである。

 イギリスだってそうだった。

 チャールズ一世が自分に反対する、または、批判する議員を逮捕するべく、議会の議場に軍隊を入れたことによってピューリタン革命が始まった。

 つまり、議会側が国王に対して妥協しなかったので、イギリスに議会政治が根付いたのだから。

 

 では、日本ではどうか。

 ここで、大正政変における尾崎咢堂の演説を見てみよう。

 時の首相、桂太郎日露戦争を主導した首相であった。

 また、長州閥に属する一人であった。

 この長州閥は、その直前に、軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を倒閣していた。

 この桂太郎に対して噛みついたのが帝国議会であり、尾崎咢堂の弾劾演説である。

 尾崎咢堂の断崖演説に対して議場は拍手喝采、議場外では倒閣運動が起こり、結局、第三次桂内閣は約60日で倒閣することになる。

 そして、この5年後、平民宰相である原敬が総理大臣になり、本格的な政党内閣が出来上がるのである(政党内閣自体は明治時代に隈板内閣ができている、だが、この内閣は長続きしなかった)。

 日本における議会優位の原則は大正時代にこうやってできてきたと言ってもよい。

 

 

 こう見れば、「日本に憲法や民主主義が全く出現しなかった」とみるのは妥当でないだろう。

 もちろん、欠点はあった。

 例えば、大日本帝国憲法天皇陛下の神々に対する誓約という形式をとったこと。

 これがために、「人民によって権力を縛る」という立憲主義の核心が浸透しなかったこと。

 また、宗教的誓約という形式をとったがために、天皇陛下自身が憲法に縛られてしまい、時局に応じた改正できなかったこと。

 もっとも、数十年スパンで見れば仕方がないのかな、という気がする。

 

 

 さて、明治時代・大正時代に根付きかけた憲法、今では死んでいることになる。

 そこで、次の章では何が憲法を殺したのか、を見ていく。

 

 今回のブログもメモ書きだけで4000字を超えてしまった。

 よって、私の思ったことを書くのは次回以降に回し、本書の内容をみていく。

『痛快!憲法学』を読む 11

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

10 第10章  ヒトラーケインズが20世紀を変えた

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

 

 そして、第10章。

 この章を1行にまとめると、「経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった」になる。

 ただ、この1行の出来はあまりよくないので、将来変えるかもしれない。

 

 

 本章のテーマは民主主義国家と経済の関係について。

 ジョン・ロックが社会契約説という発想を作り、この社会契約説が民主主義国家の統治システムの基礎となったことは前章で述べた。

 

 ここで、ロックの社会契約説の背景を今一度見直してみる。

  すると、「政府ができる前の時代、人(自然人)は平等であり、自由であった。そして、彼らは労働によって財産を増やし、豊かさや幸福を追求していた」という前提があることが分かる。

 

 この前提から、所有権絶対の原則」というルールが生まれる。

 個人の財産権(具体的な財産)は政府ができる前から存在していたのだから、原則としてそれを奪うことは許されない、ということである。

 また、財産が政府ができる前から存在したということは、その財産を増やす行為・交換する行為・消費する行為などの経済活動も政府が存在する前からあったことになる。

 そこで、「経済は国家と関係がない」・「民主主義と経済は無関係」という重要な結論が出てくる。

 よって、「国家は経済のことに口を出すべきではない。」という考えが生まれることになる。

 

 

 ロックがこの主張をしたのは17世紀。

 また、ロックが主張した段階では、この主張も社会契約説と同様、「仮説」にすぎなかった。

 だから、この考えに対する批判は絶えなかった。

 経済活動は利己的な行為であることを考慮すれば、その批判は当然である。

 

 ところが、アダム・スミスという経済学の元祖がロックの考えを「科学」的観点から正当化する。

 アダム・スミスがその著書『国富論』で述べたキーワードは「自由放任」であり、主張の要旨を書くと次のとおりとなる。

 

 経済活動においては国家が干渉せず、個人や企業の自由放任に任せておけばよい。

 そうすれば、「神の見えざる手」に導かれ、社会全体においては「最大多数の最大幸福」が実現される。

 

 このアダム・スミスの経済学は古典派経済学と呼ばれ、経済に関する主流の考えとして20世紀まで続く。

 古典派経済学の考えは、①規制はできる限りなし・②政府の市場への介入禁止、つまり、「マーケットのことはマーケットに任せておけ」という発想である。

 この発想において、経済に対しては国家権力は小さくなければならない。

 そして、この発想で考えられた国家のあり方を「夜警国家」と言われている。

 

 

 この夜警国家による国家運営でヨーロッパ経済はどんどん発展していった。

 ところが、20世紀の大恐慌という事件がこれまでの常識を揺るがすことになる。

 

 大恐慌

 1929年10月24日、ニューヨーク株式市場の大暴落に始まった大不況は世界を席巻、世界は大不況に陥った。

 当時のアメリカの失業率は約25%、今の日本の失業率がせいぜい数%であることを考慮すれば、これがとんでもない数値であることが分かる。

 また、大恐慌により銀行がばたばた倒れた。

 この時代には失業保険も預金者保護制度もない。

 よって、大恐慌による失業がどれだけ危機的状況かがわかる。

 もちろん、世界中が不況になったので、移民として別の国に行くという手段も採用できない。

 

 大恐慌によって、国民は政府に対して失業対策を要求した。

 もちろん、民意によって自分の地位が支えられている政治家もなんとかしようと考えた。

 しかし、恐慌の研究をしていないので手の打ちようがない。

 古典派経済学から見れば「時間が経過すれば大恐慌もマーケットの自動調整機能によってどうにかなる。そうなれば失業者もいなくなる」というものだから手の打ちようがなかった。

 

 この恐慌に対して立ち上がった若手経済学者がいる。

 それがジョン・メイナード・ケインズ

 彼は古典派経済学に挑戦し、ケインズ革命ケインズ経済学)が始まるのである。

 

 ケインズは言う。

「古典派経済学の考えが成立するためには、『神の見えざる手』が働くためには、『セイの法則』という『需要が供給を作る』という条件が成立していなければならない。ところが、大恐慌ではその法則は成立しないので、古典派経済学の考えが成立せず、『神の見えざる手』も働かない。」

 この点、アダム・スミスの時代から大恐慌までヨーロッパの経済は常に上向きであったため、古典派経済学は成り立っていた。

 そのため、古典派経済学の欠点も分からなかったのである。

 

 では、どうするのか。

 ケインズは「有効需要」という「国民総需要」の概念を用いて説明する。

 景気がいいとき(セイの法則が成り立つとき)は有効需要が大きいので問題ない。

 しかし、大恐慌においては有効需要が小さいので、神の見えざる手が働かない。

 ならば、有効需要を増やす必要がある。

 そして、政府は有効需要を増やすための政策を打つべきである、と。

 

 この点、有効需要は消費と投資の合計である。

 とすれば、有効需要を増やすためには、消費を増やすか投資を増やす必要がある。

 しかし、恐慌の時代、将来に不安を抱えている時代に国民が消費や投資をするとは考えにくい。

 借金の利率を下げたところで効果はたかが知れていよう。

 そこで、政府が自ら公共投資(公共事業)を行い有効需要を増やす必要がある、と。

 なお、政府が借金して公共投資を行うと政府の財政が破綻すると思うかもしれないが、(公共事業による)経済の波及効果を考慮すれば問題ない、と。

 また、公共投資による経済の波及効果が目的なので、公共事業自体は何でも問題ない。

 

 

 このように、ケインズ大恐慌に対する不況対策を示したわけだが、これを実現するのは大変だった。

 何故なら、夜警国家的発想から見れば、国家の市場への介入は経済活動の自由を定めた憲法に抵触してしまうからである。

 事実、アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトケインズの考えを実行に移そうとした。

 しかし、それらの政策は憲法違反だという批判が野党である共和党から沸き起こり、ケインズ政策を実行しようとした法律は片っ端から訴訟沙汰になった。

 そして、ニューディール政策の柱となる法律は連邦最高裁違憲判決が出てしまう。

 そのため、第二次世界大戦が始まり、途方もない軍需が発生して有効需要が高まるまで、アメリカ経済は停滞したままだったのである。

 

 このように、普通の民主主義国家であれば、ケインズの考えを政策に反映させるのは大変難しいことであった。

 そのため、ケインズ経済学は当時の大恐慌からの立て直しには役に立たなかった。

 ただ一つの例外、ヒトラー率いるドイツを除いて。

 ヒトラーアウトバーン建設などの公共工事を行い、また、軍拡を行うことで有効需要を増大させ、失業者を減らし、ドイツ経済を立て直した。

 彼は独裁者であり、古典派経済学に従って文句を言う学者・官僚・政治家を片っ端から排除できたので、すんなり政策が実行できたのである。

 また、ケインズ政策の欠点であるインフレについても、シャハト博士の金融政策のおかげで発生しなかった。

 

 第二次世界大戦によってケインズの考えの正しさが証明されたことから、このように言われる。

「戦前はヒトラーの時代、戦後はケインズの時代」と。

 そして、大恐慌ケインズ経済学によって夜警国家は積極国家・福祉国家へと変貌し、「政府による経済介入の禁止」という大原則も大きく修正されたのである。

 

 

 ところで、ケインズ景気対策に示した公共事業。

 現代の日本でも景気をよくするために公共事業をやっている。

 しかし、ケインズ本人が見たら、怒りのあまり墓から蘇りかねない程のミスをしている。

 日本がやらかしているミスは次の3つである。

 

 1つ目は、利率を下げすぎた結果、「流動性の罠」に陥っている。

 2つ目は、慢性的に公共事業をやりすぎて、社会主義化している。

 3つ目は、「ハーベイ・ロード」の前提が成り立っていない。

 

 このため政府の経済政策(公共投資)に実効性がなくなっている。

 よって、本書では「日本に資本主義の精神をみなぎらせねばならない」と言う。

 そして、「日本に資本主義の精神をみなぎらせるためには、民主主義の精神ををもみなぎらせなければならない」ということになり、「憲法を立て直すこと」と「経済を立て直すこと」がリンクすることになる。

  となると、次の問題は「何故、日本の憲法は死んだのか」になる。

 そこで、日本の近代史に話が移る、ということで本章が終わる。

 

 

 憲法・民主主義それ自体、また、それらの背景に関する知識は第10章まででほとんどが出そろった。

 次の章からはに日本に憲法や民主主義を根付かせようとした日本人の努力と成功と失敗の話に移る。

 ただ、本章のメモだけで既に約4000字を超えてしまったので、私の感想などは本書のメモを作り切った後でまとめることとしたい。

『痛快!憲法学』を読む 10

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

9 第9章 平和主義者が戦争を作る

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

 

 そして、第9章。

 この章を1行をまとめると平和憲法では平和を守れない」になる。

 

 中学校の公民で習う内容によると、日本国憲法の三大原則は国民主権基本的人権の尊重と平和主義らしい。

 人権の尊重は憲法立憲主義)とリンクしているところで書かれているし、国民主権は民主主義とリンクしているところで書かれている。

 そして、この章はまだ触れられていなかった平和主義に関するお話。

 

 

 本章では、「平和条項を憲法に持つ国はたくさんあること」・「日本国憲法憲法9条第1項には元ネタがある」という話から始まる。

 国家が戦争を行うと費用がかかるところ、その戦費は国民の負担になる。

 また、戦地になった領土で被る国民の損害は計り知れない。

 そのため、立憲主義から見て、国家の軍事行動に歯止めをかける発想は出てきて当然である。

 それが証拠に、フランス革命直後にフランスで作られた1791年の憲法には平和に関する条項がある。

 

 また、1998年の段階で世界の約3分の2の国の憲法に平和に関する条項が書かれている。

 その中には、「核兵器の禁止」というような日本以上に厳しい規定を持つ国もある。

 

 さらに、憲法9条1項にある「『国際紛争解決の手段としての戦争』を放棄する」という条項を有する国は日本だけではない。

 何故なら、これは元ネタがあるからである。

 その元ネタは1928年に締結されたケロッグ=ブリアン条約である。

 

 

 そして、この条約が作られた経緯に話が進む。

 第一次世界大戦まで「戦争」それ自体は主権国家の当然の権利とされており、悪ではなかった(これをどう評価するかはさておき、これは事実である)。

「戦争に制限をかけよう」という発想は歴史的経緯のなかで生まれてきたものである。

 

 時代は中世ヨーロッパ。

 中世ヨーロッパでは「正義を実現するための戦争」は肯定されていた。

 逆に、「不正義を実現するための戦争」は「悪い戦争」とされていた。

 しかし、正義は相対的概念であること、大義名分(正義)はいくらでも作れることを考慮すれば、「良い戦争」と「悪い戦争」の区別は本質的には意味はない。

 また、「正義のための戦争」と銘打って行われた戦争は「手打ち」ができない。

 例えば、正義の名の下で行われて最悪の被害を出した戦争として宗教戦争がある。

 この場合、カトリック側とプロテスタント側、いずれが見ても相手は悪魔の手先になってしまうため、相手側のせん滅が戦争目的となってしまった。

 その目的で戦争が行われた結果、ヨーロッパは焦土と化してしまった。

 特に、30年戦争が行われたドイツの被害は甚大であった。

  

 これに懲りたヨーロッパ人は別の軸で戦争を考えようとする。

 この考えがもっとも端的に表れたのプロイセンの軍人、クラウゼヴィッツの「戦争は他の手段による政治の継続である」という考え方である。

 つまり、戦争は「正義を実現する手段」から「国益を追求するための手段」に考え方がシフトするようになるのである。

 いわば、「感情の戦争」から「損得の戦争」へのシフトである。

 この考え方を前提とすれば、「戦争は悪い」という発想は出てこない。

 その代わり、「損する戦争をしなければ、戦争の被害は最低限になるだろう」と考えられていたわけである。

 

 その後、技術革新が進み、戦争が総力戦(経済力の戦い)となった第一次世界大戦の惨劇(大損害)を見て、この考えにも疑問符が付きだした。

 戦争自体が国家経済を痛めつけてしまい、当事者は共に満身創痍になってしまったのだから。

 このとき、戦争による負債を回収すべく勝った側(イギリス・フランス)は負けた側(ドイツ)に天文学的な賠償額を押し付けたが、負けた側も経済的に破産寸前であり、この賠償金が支払われるはずもない。

 結局、第一次世界大戦で戦争の直接当事者はことごとく大損害を被って終わった。

 そして、イギリスは覇権をアメリカに譲ることになるのである。

 

 感情の戦争はダメ、損得の戦争もダメ。

 この結果、「手段としての戦争を否定する」という平和主義が生まれた。

 そして、平和主義を確保する国際協調システムとして国際連盟が生まれ、不戦条約が締結されたのである。

 もっとも、この条約をめぐっては「『手段としての戦争を否定する』というが、『侵略者に対する戦争(自衛戦争)まで否定するのか』」という疑問が生じ、大騒ぎになった。

 例えば、アメリカでは条約を批准する権限を有する議会の上院がこの点を問題とし、ケロッグ国務長官を証人として喚問してその真意をただした。

 長官は「この条約において自衛戦争は対象外です」と明確に答えたので、アメリカはこの条約を批准したのである。

 

 話がそれるが、ここで重要なのは「用語が同じならば意味は同じにしなければならない」ということ。

 そうでなければ、コミュニケーションが成り立たないから。

 そして、憲法9条1項はこの不戦条約が元ネタである。

 とすれば、「憲法9条1項は自衛戦争を禁じていない」ということになる。

 少なくても、「用語が同じならば意味は同じ」・「憲法9条1項は不戦条約が元ネタ」ということを前提とするならば。

 ところが、憲法の基本書を開けば分かるところ、「憲法9条1項は自衛戦争を肯定するのか」という論点があり、肯定説と否定説があった(政府見解は肯定説である)。

 つまり、憲法学界隈ではこの2つのいずれかが共有されていなかったのだろう。

 本書では「後者の共有がなかった」と述べているが、個人的には前者が共有されているかも微妙だと思っている。

 まあ、この辺はいいや。

 

 

 さて。

 大戦の悲劇を回避するために作られた国際連盟というシステムとケロッグ=ブリアン条約

「手段としての戦争の否定」という平和主義。

 これで戦争の惨事は否定されると考えられていた。

 ところが、さにあらず。

 今度は第二次世界大戦を生んでしまうのである。

 

 第一次世界大戦後、ドイツに独裁者アドルフ・ヒトラーが誕生する。

 このヒトラーが1933年にワイマール憲法を殺して独裁者になったのはこれまでに述べた通り。

 ヒトラーカエサル同様、演説の天才であった。

 また、人民投票を繰り返して、ナチスの支持基盤を確保した。

 さらに、「ドイツ経済を立て直す」という公約をアウトバーン建設などの公共事業によって達成する。

 また、ヒトラーは贅沢三昧をしなかった。

 

 このように独裁者としての支持基盤を確保したヒトラーはもう一つの公約である「ドイツ帝国の再現」に突き進む。

 ヴェルサイユ体制によってドイツ軍に対する制約は極めて厳しいものであったが、ヒトラー再軍備を宣言し、体制への挑戦をした。

 ヴェルサイユ体制は講和条約たるヴェルサイユ条約を前提としているところ、その約束たるヴェルサイユ条約を反故にするとなれば、戦争を再開したとみなされてもしょうがない。

 そのため、戦勝国かつ隣国のフランスが雪崩れ込んでくることも十分あり得た。

 しかし、平和主義の鎖がフランス・イギリスの動きを封じ、ドイツの再軍備計画を容認した。

 この結果、ドイツは再軍備をし、ラインラント進駐・オーストリア併合を成し遂げていく。

 さらに、スデーテンラントの要求、ミュンヘン会談による要求の実現、と続いていくのである。

 その後、ヨーロッパがどのような戦渦に遭うかは歴史が教えてくれるとおりである。

 

 

「手段としての戦争の否定」(平和主義)では戦争は防げなかった。

 むしろ侵略者(ナチスヒトラー)に利用されるだけで終わってしまった。

 結局、「戦争はゼロにできないという諦念・戦争による被害を最小化させる意思・結果的に生じる最小限の被害を甘受する覚悟、これらによって戦争を防げる」という身もふたもない結論になってしまったのである。

 

 例えば、冷戦時にソ連キューバに核ミサイルを設置した(キューバ危機)際、アメリカの大統領だったジョン・F・ケネディは政府として「ミサイル基地が撤去されない場合、ミサイル基地の設置それ自体をソ連の攻撃とみなして、アメリカは直ちに攻撃する」との声明を出した。

 ソ連キューバのミサイル基地設置は第二次世界大戦前夜で喩えれば「ラインラント進駐」ないし「ミュンヘン会談」であろう。

 アメリカがミサイル基地設置を容認すれば、ソ連はさらなる冒険に出たかもしれない。

 しかし、キューバ危機ではアメリカは妥協せず、ソ連が折れた結果、核戦争への道は免れた。

 

 この点、冷戦体制は局地的な戦争はあったものの、東と西の全面戦争にはならなかった。

 全面戦争になれば核の打ち合いで東西両側が滅ぶからというのもあっただろう。

 しかし、大戦争まで発展しなかったのは上で述べた意志と覚悟があったからとも言える。

 

 

 また、平和主義とは離れるが、この章では「憲法から見て独裁政治は何故危険なのか」という疑問に対する回答もここで紹介されている。

 ローマの民主制を殺したカエサルフランス共和国を乗っ取ったナポレオン、そして、ワイマール共和国の独裁者となった今回のヒトラー

 これらは大衆の歓呼を経て登場したものである。

 また、これらの時代の景気が決して悪くなかったことは前章で見た通りである。

 

 では、なぜ立憲主義は独裁者を嫌うのか。

 立憲主義の目的は個人の権利・自由の擁護にあるところ、独裁者はその権利・自由の核心を侵害する傾向が強いからである。

 その核心は思想・良心の自由、つまり、内心の自由である。

 例えば、旧ソ連では様々な抵抗運動が生じたが、これは国家(共産党)が人間の思想に干渉したから、具体的には、マルクス・レーニン主義ソ連共産党に対して批判精神を持つことを禁止・強制したからである。

 

 思想・信仰という内心の強制、それは旧ソ連以外でも行われた。

 例えば、宗教の強制と言う形で。

 その結果、ヨーロッパで悲惨な戦争が生じたのは従前に述べた通りである。

内心の自由の不可侵」、これは悲惨な戦争の経験に基づいて確立されたのである。

 そして、立憲主義において独裁政治が忌避されるのも、歴史的に見て独裁者が内心の自由に踏み込むからである。

 本章の余談として書かれたこのことも当然の前提として把握しておくべきだろう。

 

 

 さて、平和主義の話に話題を戻して、現代日本を見る。

 日本を見ると、「『平和、平和』と唱えていれば平和になると思っている」と言われても抗弁できない状況にある。

 文明国家ならば「呪術」の段階を卒業して、科学的態度・学問的態度で平和にアプローチすべきでではないか。

 さらに、本書が書かれた段階において、日本の大学には軍事学の専門コースがない(今は知らない、ただし、一度ちゃんと調べてみたい)。

 もちろん防衛大学があるが、これは自衛隊・軍人のための学校である。

 職業軍人のための専門コースしかないとなると、国民は職業軍人の言いなりにならざるを得なくなるが、それでいいのか。

 あるいは、「シビリアン・コントロール文民統制)」と言うが、シビリアンが軍事的な専門知識を持たずにコントロールできるのか。

 

 

 以上が本章のメモである。

 本章、メモだけで既に4000字を超えてしまった。

 だから、私が思ったことを書くのは次回以降にし、次章のメモに移りたい。

 なお、次章は国家と経済の関係に関する話である。

『痛快!憲法学』を読む 9

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

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 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

8 第8章 「憲法の敵」は、ここにいる

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

 

 そして、第8章。

 この章を1行にまとめると、「民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する」になる。

 

 この点、第3章の内容を次の1行でまとめた。

憲法と民主主義は本質的には無関係である」と。

 私が司法試験の勉強のための講義を受けていた際、非常に印象的だったことの一つに「自由と平等は対立する」とものがあった(他には「『事実認定』も『べき論』である」があるが、関係ないのでそれ以上は省略)。

 近代憲法の目的は国民の権利や自由を守ることである。

 つまり、主眼は「自由」にある。

 その守り方に不合理な差別があってはならないという縛りはあるだろうが、目的は自由であり、平等(差別の禁止)は手段の部分で出てくるに過ぎない。

 他方、民主主義は「国民は平等である。よって、国民は皆等しいレベルで政治に参加できる」となる。

 ここでは「平等」という言葉が前に出てくる。

 

 この自由と平等、憲法立憲主義)と民主主義。

 近代における憲法と民主主義の緊張関係についてまとめられているのがこの章である。

 

 

 本章は「民主主義」という言葉の評価に関する話から始まる。

 そして、「識者の間では、第一次大戦のころまで『民主主義』という言葉の評価は悪いものであった」という事実を教えられる。

 例えば、アメリカは民主主義の国と評価するよりほかはないが、アメリカ人は当時の自分たちの国のことを「共和国」(リパブリカン)と呼んでいた。

 

 この民主主義の評判の悪い背景には、古代ギリシャ・ローマにおける民主制の失敗の歴史、プラトンアリストテレスなどのギリシャの哲学者の主張もあった。

 ただ、その原因の一つには近代革命として名高いフランス革命にあった。

 

 

 フランス革命

 アメリカ独立戦争直後におきたヨーロッパの一大革命。

 ピューリタン革命と名誉革命はイギリス・スコットランドアイルランドで生じたもので、他国への政治的影響は(フランス革命に比較すれば)小さかった。

 他方、フランス革命は国内の内乱からヨーロッパ全土を巻き込む大事件にまで発展する。

 

 前に述べたが、ピューリタン革命が起こって国王チャールズ一世が処刑された後、国の運営の方針をめぐって保守(独立派・オリバー・クロムウェルの陣営)と革新(所謂「水平派」)が争い、保守が革新を制した。

 だが、もし革新が勝利していたらどうなったか。

 時代条件(三十年戦争直後で他国は疲弊していた・ロックの思想はまだない)や地政学的条件(イギリスはヨーロッパのはずれにある島国である)が異なるため、同じ展開になる保証はどこにもないが、一つのヒントになるのがフランス革命である。

 

 

 フランス革命前夜。

 フランスでは国王アンリ四世が「ナントの勅令」を発し、カトリックユグノー(フランスにおける新教徒)の和解が「一応」行われた。

 その結果、ユグノーを中心とする商工業者たちが活躍し、フランスは経済的発展を遂げ、太陽王ルイ十四世の時代にフランスは絶頂期を迎える。

 しかし、絶対王政の象徴でもあったルイ十四世はユグノーに対して迫害を行い、最終的には「ナントの勅令」を廃止してしまう。

 その結果、ユグノーたちは国禁を犯して亡命する(当時、亡命自体も法で禁止されていた、絶対王権において国民は国王の財産であるからこの発想はなくはない)。

 他方、戦争その他が国民に対する負担を増大させた。

 

 その後、ルイ16世の時代。

 政府は財政悪化の状況を改善するためにあれこれ手を打つが、抜本的な改革はできなかった。

 そして、不満を爆発させた国民はバスティーユ監獄を襲撃し、革命を起こす。

 ところが、ピューリタン革命のときと同様、革命を主導する側には2種類の派閥があった。

 一つは、イギリスのように王家を存続させ、議会の優位を認める保守。

 これはブルジョワ中心、ピューリタン革命ならばオリバー・クロムウェル側。

 もう一方は、「それではぬるい」と完全な民主主義を実現しようとする革新。

 こっちは庶民中心、ピューリタン革命の場合の水平派側。

 

 さらに、国王ルイ16世は亡命しようとするわ、他国を使って革命を壊そうとするわ、と混乱に拍車をかけた。

 その結果、マクシミリアン・ロベスピエールを中心とする山岳派が、つまり、革新勢力が政権を取る。

 しかし、このロベスピエール、やったことは反対派の粛清(処刑)であり、恐怖政治であった。

 この「恐怖政治」という言葉、ロベスピエールの行った政治を指す言葉でもあり、固有名詞としての性質を持っている。

  

 このロベスピーエルの主張と行動が民主主義の評価を引き下げた。

 ロベスピエールの主張は今の時代の言葉で述べれば「共産主義」になる。

 しかし、当時は「民主主義」という言葉で使われていた。

 事実、共産党宣言カール・マルクスなども「民主主義」という言葉を使っている。

 まあ、当時の身分制を打破し、財産的差別の撤廃を掲げればそうなるのは必然のような気がするが。

 

 

 また、民主主義に悪いイメージが付きまとう理由の一つ、過去の民主制の失敗。

 古代ギリシャアテネでは試行錯誤の結果として自由民による民主制が行われていた。

 意思決定は「民会」という自由民全員の集まる集会によって決していた。

 また、行政をつかさどる役人も抽選で選び、戦争においては自由民が自ら兵隊として戦うという意味で行政・軍事の専門職を作らない徹底ぶりであった。

 この民主制時代のアテネでは様々な芸術・学問が発展した。

 

 しかし、これを批判したのが哲学者のプラトンである。

 アテネがスパルタに敗北したペロポネソス戦争、また、アテネの市民による自分の師であるソクラテスの処刑を見せつけられたプラトンは「民主制は貧乏人の政治だ」と言い切る。

 そして、その考えは弟子であるアリストテレスに継承された。

 プラトンアリストテレスの考えは後にスコラ哲学になるのだから、ヨーロッパの教養人ならば当然抑えているべきことになる。

 だから、民主制にいいイメージがないのは教養人なら当然のことであった。

 

 さらに、古代ローマ

 古代ローマアテネほど徹底していないが、民主制のシステムが採られていた。

 自由民の代表によって構成される「民会」が政治的な決定を行っていた。

 しかし、軍事的に大活躍したユリウス・カエサルは自由民の期待を背にして独裁者になり、共和制を殺してしまう。

 その後、カエサルの甥であるオクタウィアヌスがローマを共和国から帝国に変えてしまうことは周知のとおりである。

 

 カエサルは軍事的な遠征を行って、これを成功させた。

 また、貧しい平民(自由民)に国有地を分配した。

 さらに、雄弁家であった。

 こうして平民の支持と業績を取り付け、共和国を殺してしまったのである。

 

 

 この現象はフランス革命でも、そして、フランス革命以後も起きる。

 軍事的業績を上げ、大衆の支持を得たナポレオンがフランス共和国の皇帝、つまり、独裁者になってしまう。

 市民革命の方向が一気に反転してしまったのである。

 また、フランス革命以後も、民主主義システムを採用しているフランス・ドイツでナポレオン三世アドルフ・ヒトラーが独裁者になった。

 民主主義というシステムは独裁者の温床になり、悪い独裁者を選んでしまえば憲法も民主主義も殺されてしまうのである。

 

 そうなれば、「民主主義はろくでもない。非エリートが政治に参加すればろくなことにならない」というイメージなるのも無理もないと思う。

 まあ、ピューリタン革命以後・王政復古前もオリバー・クロムウェルもとが護国卿として独裁者のようにふるまっていたし(正直に言えば、やむを得ない面もあるが)。

 

 

 何故こんなことになるのか。

 

 ナポレオンは独裁者として権限を行使し、フランスの混乱を鎮めた。

 その結果、フランスの景気は良くなった。

 この点、ナポレオンはナポレオン法典民法)を作ったが、これは近代資本主義における民法近代主義における基本法である。

 これを制定することで資本主義の作動条件である契約遵守が実効性を持つようになり、資本主義が発展した。

 また、ヒトラー世界恐慌第一次世界大戦後で混乱していたドイツを公共投資によって立て直した。

 これによりドイツ経済は一気に復興した。

 もちろん、その一方でナポレオンは革命を他国に輸出しようと対外戦争を仕掛けたし、ヒトラーユダヤ人を迫害して、第一次世界大戦のリベンジを巻き起こすのだが。

 

 

 結局、民主主義は個人にとって必ずしも楽なものではない。

 もっと言えば、政治的意思決定プロセスにもコストもかかる。

 良い独裁官をあてれば民主主義よりも幸せになれることは十分ありうるだろう。

 

 つまり、「民主主義を適切に維持するためには、その覚悟と代償が必要になる」ということになるのだろう。

 例えば、アメリカの大統領制度。

 あれは複雑だし、期間も長く、コストもばかにならない。

 でも、独裁者を出さないためには有効である。

 特に、ピューリタンによって建国されたアメリカ合衆国において、独裁者ほど新教徒の活動に対して危険なものはないと考える人は少なくないのだろうから、コストをかける覚悟もあるのだろう。

 移民が増えた現代においてその発想が継承されるかどうかは別として。

 

  また、「『平等』とは何かという回答・回答に対する確信度」も重要である。

 ピューリタンによって建国されたアメリカ合衆国の「平等」は「チャンス(機会)の平等」であり、形式的平等である。

 キリスト教・聖書の影響を強く受けているのだから、この傾向はかなり強く、かつ、はっきりしている。

 しかし、現実では「形式的平等だけでいいのか。それでは、貧乏人は空腹の自由と貧乏の自由しかないではないか」という問題が生じる。

 つまり、「結果の平等・実質的平等も必要ではないか」という考えも生じる。

 これに対して、「神は『結果の平等』を実現するように取り計らってない。よって、『機会の平等』を確保さえすれば、結果において生じる不平等は気にする必要はない。逆に、それを実現しようとすれば大いなる災いを招く」と言い切ることができればそれは強いだろう。

 

 

 本章の最後でこんな問いが読者に投げかけられる。

「あなたは民主主義と独裁制のどちらを選びますか」と。

 本書は思考の土台を提供することが目的であり、意思決定の内容までは射程に入ってない。

 この問いを突き付けるのは当然である。

 さて、この問いにどうこたえるのか。

 

 

 ここまで、本書は、憲法にある権利の由来・統治システムとしての民主主義についてその背景にあるキリスト教・聖書からひも解いてきた。

 次の章と次の次の章では、国民生活について重要な影響をもたらす経済と平和(戦争)について語られることになる。

『痛快!憲法学』を読む 8

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

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 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

 

7 第7章 「民主主義のルール」とは何か

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

 

 そして、第7章。

 この章を1行にまとめれば憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている」になる。

 また、この章は「契約」について触れる関係で、キリスト教ユダヤ教、そして、聖書(バイブル)についても触れられている。

 

 

 本章はイギリスの名宰相、ベンジャミン・ディズレーリについて紹介されるところから始まる。

 ベンジャミン・ディズレーリはイギリスのヴィクトリア朝時代の首相であり、数々の業績を残している。

 例えば、スエズ運河の買収によるフランスの東洋進出の阻止、ベルリン会議におけるロシアの南下政策の阻止など。

 ただ、憲法や民主主義との関係で重要な業績は「イギリス議会政治の基本ルールを確立したこと」になる。

 

 19世紀、馬鈴薯病によるアイルランド(当時、アイルランドはイギリスの支配下にあった)の大飢饉の結果、イギリスの穀物(小麦)の価格が急騰した。

 そこで、穀物法存続の主張を背景に地主から支持を受けていた保守党のピール内閣は穀物法の廃止、つまり、穀物の輸入を解禁することにした。

 つまり、穀物法を存続するという党の公約を撤回・変更しようとしたのである。

 

 それを批判したのが同じ保守党員だったディズレーリである。

 そして、ディズレーリとピールの論戦を聴いた保守党代議士たちはディズレーリの批判が妥当であると判断し、ピール内閣から離れていく。

 その結果、ピール内閣は崩壊してしまう。

 

 

 この論戦を通じてディズレーリの確立した議会のルールは次の3つである。

 

① 選挙公約は必ず守るべし

② 他人の公約を盗んではいけない

③ 議会における論争によって決する

 

 このように見てみると、民主主義の背景にはキリスト教の「契約遵守」と「契約を構成する言葉に対するリスペクト」が見て取れる。

 つまり、民主主義の精神(契約遵守)を支えているのはキリスト教ということになる。

 そこで、契約遵守の精神について知るために、話はキリスト教の「聖書における契約」に移る。

 また、「聖書」はユダヤ教と関係があるためユダヤ教の成立経緯まで話が遡る。

 

 

 むかしむかし、イスラエルユダヤ)の民はエジプトのファラオによって奴隷扱いされていた。

 そのとき、神が預言者モーゼに対して託宣を与え、イスラエルの民をエジプトから脱出させる。

 脱出させた後、神がモーゼに与えたのが十戒を含む「モーゼ契約」である。

 

 神との約束を簡単に述べれば、「イスラエルの民は(十戒を含む)契約を守り、神を崇める。その代わり、神はイスラエルの民に対して慈しみを与える」というもの。

 この契約を見ると、ユダヤ教キリスト教の前提としている予定説を前提としてはいないようである。 

 ところが、イスラエルの人たち、具体的には、古代イスラエル王国の繁栄時代を築いた国王ソロモンはこの約束を守らず、異教の神を拝むようになってしまう。

 そのため、神から契約を破棄され、王国は分裂して国力は衰えてしまう。

 そして、最終的にイスラエルの人たちはバビロニアに連行されることになる。

 所謂「バビロン捕囚」である。

 

「バビロン捕囚」の憂き目にあった(元)イスラエルの民は、一連の経緯を通じて「神との契約を守ること」の重要性を悟る。

 そして、このことを反省をして、その経緯を「旧約聖書」にまとめた。

 また、「神との契約」を遵守するようになった。

 これによって現在のユダヤ人におけるエートスの基本が作られた。

「神との契約を遵守すれば、神は再び我々に約束の地を与えるかもしれない」と信じて。

 イスラエルの民が国家を建設するのは20世紀になってからになるが。

 

 以上がユダヤ教の起こりである。

 そして、キリスト教ユダヤ教をベースとし、かつ、神の子であるイエス・キリストが神との契約を改訂することによって興った宗教である。

 この点、ユダヤ教民族宗教であったが、キリスト教は民族という制約を撤廃した。

 また、ユダヤ教の場合、契約を守ればユダヤ民族が繁栄するというものであったが、キリスト教の場合、契約を守れば守った個人が救済されるものとした。

 さらに、ユダヤ教の戒律(律法)は細かいものであったが、キリスト教では①神を敬うこと、②神を愛し、隣人を愛すること(いわゆる「隣人愛」)、という形で条件を簡素化した。

 

 このようにユダヤ教キリスト教は「神との契約の遵守」を旨とする。

 そのため、①契約を守ること、②契約は言葉によって示されること、③契約遵守・破棄の判定基準は明確にすること、という習慣が出来上がった。

 他方で、④契約に書かれていないことは自由であるという特性もあった。

 

 そして、ヨーロッパの人々は神と人間の契約関係を人間相互の関係にも応用した。

 だから、人間関係においても契約という概念が幅をきかせ、国家・共同体・社会を作る際にも契約の概念が利用されるのである。

 中世の国王と諸侯の契約や新大陸に渡った新教徒のメイフラワー協約(ピルグリム・コンパクト)も契約を応用した例と言ってもいいかもしれない。

 

 

 もちろん、これはキリスト教ユダヤ教がたまたま持っていた前提である。

 この点、イスラム教はキリスト教ユダヤ教と同じく契約教である。

 つまり、預言者ムハンマドであり、神との契約を書き留めたものがコーランクルアーン)である。

 しかし、イスラム教における神・アッラーは寛大な神であり、契約違反に対しても酌量の余地があるとされている(もちろん破った戒律のレベルにもよるが)。

 そのため、他人(特に、異教徒)との契約を死ぬ気で守ろうという動機に乏しくなってしまう。

 

 また、中国や日本にはユダヤ教キリスト教にある契約遵守の伝統がそもそもない。

 そのため、ビジネスならばさておき、生活レベルで契約を結ぶ、結んだ契約を守る、契約が順守されているかチェックするなどといった発想がない。

 

 というわけで、民主主義・憲法を支える「契約遵守」の発想はキリスト教ユダヤ教にしかないとも言える。

 

 

 さらに、本書には書かれていないことを追加すると、中国(儒教文化圏)では言葉や論理に力がある。

 それに対して日本にそれがあるかどうか。

 誰かの言葉ではないが、「僧の嘘を方便、武士の嘘を武略と言う」というくらいである。

 また、「和を以て貴しとなし(以下略)」という言葉もある。

「(契約を示す)言葉に重みをもたせる」という発想が日本にあるや否や。

 

 

 ところで、「日本には契約を守る前提がない。事実、政治家は公約を守らないし、それに対して国民も文句を言わない」などと言ったことを言うと、「立派な政治家(志があり、行動力のある政治家)が現れないものか」という一種の待望論が出てくる。

 しかし、この人格者待望論は憲法や民主主義システムから見た場合、非常に危険である。

「この待望論が何故憲法等に対して危険なのか」という問題提起を投げて、この章は終わる。

 

 

 以上、立憲主義・民主主義の背景にある「契約重視」の発想について本章の記述をメモにしてきた。

 私は思う。

「日本には立憲主義も民主主義も根付かせられない。それどころか日本の伝統に対して民主主義や立憲主義は逆行している可能性まである」と。

 後に考察する予定だが、山本七平のいう「日本教」や「空気の支配」から見た場合、日本は「契約遵守」や「言葉の重み」というキリスト教的発想からは対極にあるように見える。

 もっとも、この辺の考えたことは細かく詰めてないし、書き出すときりがなくなるので、当分(次回以降)は本書の内容について見ていく。