薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す1 その4(最終回)

 今日はこのシリーズの続き。

 ただし、司法試験の過去問からは離れた話になる。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

10 日本で憲法を考える意味

 私が(旧)司法試験に合格して10年以上が経過した。

 10年以上経過した今、憲法に対する見方はかなり冷めている。

 メモの裏にプリントされていた過去問を見たこと、最高裁の判決がニュースに出たことでいくつか思ったことがあり、そのことを忘れないためにこのブログを書いているが(最高裁のニュースの件はこの次に書く)、そこに熱はない。

 

 この点、私の利害に直接かかわる事態が発生し、憲法を武器にして戦う必要が生じれば、当時学んだ憲法に関する知識等をフル活用して戦うだろう。

 しかし、幸運にもそのような状況は起きなかった。

 

 何故冷めたのか。

 それは「死んだ憲法についてあれこれ考えることに意味があるのか」と考えるからである。

 あと、「近代立憲主義の復活を国民の多数派は望むのか」というのもある。

 

11 日本国憲法は死んでいる

日本国憲法は死んでいる。」

 端的にこのことを教えてくれた書籍は次の書籍である。

 

 

 今はお亡くなりになった小室直樹先生の書籍。

憲法の前提」について書いてある本である。

 とても読みやすくて、かつ、非常に面白い。

 もし、誰かから「憲法について知りたいので、何かお勧めの本を教えてください。」といわれたら、私はこの本を勧める(現実にはこの本は入手しづらいので、別の本を勧めることになるが)。

 間違っても、条文解釈が羅列されているだけの憲法の基本書は勧めない。

 

 この本に何が書いてあるのか。

 憲法の成り立ちについて書いてある。

 具体的には、「立憲主義・民主主義・資本主義に関する歴史」が書かれている。

 

 立憲主義・民主主義・資本主義、これらはヨーロッパ社会で成熟した。

 となれば、その背景には当然キリスト教がある。

 だから、キリスト教の教義やキリスト教立憲主義・民主主義・資本主義との関係についても触れられている。

 

 また、この本は日本で出版された書籍であるため、日本の現状、明治憲法の制定経緯、日本国憲法の制定経緯なども書かれている。

 そして、この本の第1章のタイトルが日本国憲法は死んでいる」である。

 

日本国憲法が死んでいる」とは何か。

 近代における憲法は「権力に対する命令書」である。

 つまり、憲法が生きている状態とは「権力の暴走が制御できている」ことを意味する。

 だから、「日本国憲法が死んでいる」とは「権力の暴走がコントロールされてない」ことを意味する。

 

 これに対して、「そんなことはない」と反論するかもしれない。

 しかし、「権力が暴走がセーブされていない事実を列挙する」ことは私であっても可能だし、この本にも記載されている。

 だから、その反論は本を読むか、少し想像してからにしてほしい。

 あるいは、次の文章でも読んでみてから考えてほしい。

 

www.gosen-dojo.com

 

 さて。

 そんな状況で憲法をどうこう考えたりすることに意味があるのか。

 墓守をするようなものではないか。

 それが私が熱意を失った最初の理由である。

 

12 立憲主義の復活を国民は望むか

 私が憲法に対する熱を失ったもう一つの理由。

 それは、「日本国民(日本共同体)は立憲主義の復活を望むのか」と思うから。

 

 望むならそのためにアクションをするのはありだ。

 だが、望まないなら復活のためにあれこれ考え・動くことは不毛である。

 

 日本は明治維新の際に、ヨーロッパの思想・制度を必死で勉強した。

 それは国際社会で生き残るためという点もあるが、それは必死だっただろう。

 その結果、近代憲法としての明治憲法を作り帝国議会を作る。

 さらに、帝政ロシアに対して戦争を挑み、戦争目的を達成した。

 そして、不平等条約を改正させ、列強への仲間入りを果たす。

 

 さて、「国際社会で生き残るためにヨーロッパの思想・制度を勉強した」と述べたが、その一方で近代主義の思想を根付かせるための努力も身を結びつつあった。

 それが結晶化したのが大正デモクラシーであり、大正政変であり、護憲運動である。

 

 これは偉業である。

 そのために日本がやったことを見ると、奇跡としか思えない。

 

 ただ、残念ながら近代主義を根付かせるためには時間が少なすぎたのだろう。

 あるいは、急ぎすぎたと言ってもいいのかもしれない。

 昭和期、世界恐慌による混乱から日本は戦争に突っ込み、その結果敗北する。

 

 そして、戦後のGHQの改革により、日本を近代化させようとしたシステムが一掃される。

 残ったのは、日本古来の思想(習俗、伝統)と形ばかりの憲法である。

 

 最近、私は山本七平の書籍を読んでいる。

 これを読み、歴史などを参照した結果、私はこんな仮説を立てている。

 

 平和主義はマッチする(詳細は別の機会に譲る)。

 民主主義はマッチしそうな気がする。

 しかし、立憲主義自由主義個人主義)はマッチしない。

 

 この仮説はもう少し精査したいが、これを前提とするとある疑問が浮かぶ。

「日本は本当に立憲主義の復活を望むか」と。

立憲主義は日本の古来の伝統に沿うのか」と。

 

 自由主義立憲主義)・民主主義・資本主義、これらは総てキリスト教を背景に成立している。

 キリスト教があって、これらのシステムがあると言える。

 

 よって、キリスト教を背景にしない日本がこれらのシステムを採用する必然性はない。

「世界と付き合っていくため」ならば、そのシステムを採用している振りさえしておけば最低限は目的を達成できる。

 そう考えれば、「憲法なんか見かけだけ成立させておけば、死んでいようが生きていようがどうでもいい」という議論が成り立つ。

 果たしてどうなのか。

 

 正直分からない。

 日本の古来の思想と立憲主義がマッチしない場合、立憲主義やそれを支える自由主義個人主義が日本に住む個人の幸せに直結する保証はない。

 分からないが、分からなかったことは覚えてはおきたい。

 よって、このことをブログにメモに残しておく。

統計検定2級の申し込みをする

0 統計検2級にチャレンジする

 統計検定2級という資格がある。

 

統計検定 2級|統計検定:Japan Statistical Society Certificate

 

 今週の月曜日、この受験の申し込みを行った。

 CBT方式という受験方法で。

 

www.toukei-kentei.jp

 

 何かの資格を取るため受験の申込をしたのは去年のFP3級以来である。

 しかし、FP3級のときは何も勉強をせず、試験会場すら行かなかった。

 受験料が無駄になっただけである。

 

 統計検定2級では「全く勉強しなかったとしても試験会場に行き、自分の不勉強を試験時間の90分間後悔し続ける」ことはしたい。

 そうすれば、簿記2級のときのように「奇跡的に受かる」ことがあるかもしれないので。

 

 さて、CBT方式ということで受験日にかなりの自由度がある。

 そのため、ある程度早めに受験日を設定した。

 

 具体的な日時は3月31日。

 あと、14日しかない。

 

 この点、現時点で準備はしていない。

 後述する統計学の入門書を読み、例題と演習問題を解いただけ。

 統計検定2級の過去問(過去問集は2年前くらいに買った)は一問も解いていない。

 試験問題をスムーズに解くための問題演習もやっていない。

 

 ただ、試験の日時を後ろにずらしても、「あとで勉強すればいいや」ということで勉強しないだけ。

 また、2週間の間、演習をやりまくればなんとかなるだろう。

 というわけで、この2週間、頑張る。

 

1 統計学について最近読んだ本

 最近、統計学に関する書籍を2冊読んだ。

 一つは、『入門統計学(以下略)』という本。

  

 

 私は大学時代に、統計学の入門書として東大出版界の『統計学入門』を買った。

 そして、大学を出てから何度か目を通した。

 書いてある式・内容は分からないではないのだが、実践とリンクせず、ピンとこなかった。

 

 

 しかし、『入門統計学(以下略)』のおかげで統計学の活用方法が分かった。

 現在では、『入門統計学(以下略)』に書かれた本の仮説検定の知識をフル活用している。

 例えば、データを取っては「2群の平均の差の検定」を使いまくっている。

 もちろん、「使いまくる」関係で多重性の問題が生じるので、それに対するフォローを忘れない。

 

 もう読んだ本は『統計学は最強の学問である』(西内啓・2013・ダイヤモンド社)である。

 

 

 この本は「統計学を学ぶための本」ではない。

統計学の概略を知り、統計学を活用する方法」を知るための本である。

 この本のおかげで統計分析の力が伸びるということはないだろうが、「統計学の活用法が分かり、スタートラインに立てる」という意味で役に立った。

 

 以上の2冊のおかげで、私の統計学の知識は一気に伸びた。

 演習を繰り返して統計学の知識を自分の武器にし、将来に活かしていきたい。

 

2 2週間で勉強すべきこと

 これから2週間、統計検定2級のためにやることは次の3点である。

 

 まず、『統計学入門』の読み直しである。

 理論的背景・数式的な背景を再確認するためにも一度読み直す必要がある。

 もっとも、統計検定2級で問われるのは実践であるから、深入りはしない。

 ただ、数式に慣れるためにも章末演習問題は解く予定である。

 

 次は、過去問演習である。

 統計検定2級の公式問題集は買ってもっているのでそれを解く。

 また、直近(19年11月)の過去問もサイトにあったので、これも解く。

  

 

 ただ、過去問だけで演習量が足りるかどうかは分からない。

 7回分もあれば足りるような気もしないではないが、1問も見ていない現時点では何とも言えない。

 そこで、足らないことを想定し一冊問題集を買う予定である。

 

 そのことを考慮すると、24日までには『統計検定2級』の過去問を1周回し、『統計学入門』を読む必要があるようだ。

 頑張って進めないと。

 

3 おわりに

 このブログに「統計検定2級を受けるぞ」と書いたのは、「宣言することで自分を追い込むため」。

 よって、このブログの公開ボタンを押せば、その目的は達成される。

 

 ただ、「合格できるか」、「ちゃんと試験勉強をするのか」不安である。

 統計検定2級はハードルを上げすぎたか。

 簿記のときに2級だけではなく3級も併せて受けたように、統計検定も3級を受けてから2級を受ければよかったか。

 そもそもFP3級のときのように逃げやしないか。

 などなど。

 

 不安になることはしょうがないが、気にしてもしょうがない。

 今日から15日、勉強していきますか。

司法試験の過去問を見直す1 その3

 今回はこのシリーズの記事の続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

「後編」では表現の自由について気付いたことを書く。

 そして、「完結編」では視点をさらに広げて気づいたことを書く。

 

 なお、過去問の内容と答案の骨子をもう一度掲載する。

 

(以下、平成3年度司法試験(二次試験)・論文試験・憲法第1問)

「市の繁華街に国政に関する講演会の立看板を掲示した行為が、屋外広告物法及びそれに基づく条例に違反するとして有罪とされても、表現内容にかかわらないこの種の規制は、立法目的が正当で立法目的と規制手段との間に合理的な関連性があれば違憲ではないからやむを得ない。」との見解について論評せよ。

 なお、「小中学校の周辺では煽情的な広告物の掲示はできない」との規制の当否についても論ぜよ。 

(過去問再掲載終了)

 

 また、答案の骨子はこちら。

(ちょっと肉付けをした、あと、後半についても記す)

 

1 前段について

① 本問の「立看板を掲示する行為」は政治的表現の自由として憲法21条1項により保証されるので、その行為を刑事罰で制限する行為は(一般的に)憲法上の権利を制約する行為になる

② 表現の自由に対する制限が「公共の福祉」(憲法12条・13条)によって正当化されるか問題になるが、

  政治的表現の自由が民主主義を正常に機能させるための担保として機能していることを踏まえれば、

  正当化の判断する際の基準は原則として厳格な基準を用いるべきである。

③ 内容中立規制の場合、諸事情を考慮すれば、②の原則論を修正し、いわゆる内容規制に用いた厳格審査基準よりも緩やかな基準を使うことができるが、

  「手段と目的との間に合理的関連性があれば違憲ではない」というラインまで基準を緩やかにすることは、諸々の背景事情を考えれば妥当ではなく、

  「立法目的を達成するより緩やかな規制手段がない場合に合憲となる」という基準を採用すべきで、その点は見解に同意できない

④ 法律・条例が一律・例外なく掲載に対して刑事罰で臨んでいるならば、③で掲載した基準を満たさないので違憲となるので、その点も見解には同意できない。

2 後段について

① 広告物の掲示行為が21条1項で保障されるかが問題となるが、

  結論として保証されるので、これを規制すれば憲法上の権利の制限と言いうる

② ①を前提として、規制が「公共の福祉」によって正当化されるを検討すべきところ、

  政治的言論を制約する場合と異なり営利的言論を制約しても民主主義の価値の担保機能を害する危険性が(相対的に)低い点を考慮すれば、

  前述の原則論をそのまま適用する必要はない

③「煽情的な点」に着目して規制することから内容規制に該当しうるが、

  場所が限定されていること、言論の対象が営利的言論であることを考慮すれば、

  合理的関連性の基準で審査してもよい

④ 規制目的は青少年保護であり、(中略)、目的は正当である

  手段も小中学生の周辺を対象としており、(中略)、限定的であり、合理的関連性ある

  よって、規制は正当化されるため合憲である

⑤ もっとも、「周辺」という範囲が具体的に特定されている必要はある

  何故なら、規制の境界が不明確であれば、国民がどこまで離れれば可能なのか分からず、ペナルティを恐れて萎縮してしまい、その結果、事実上の制約が生じてしまうからである。

(「もっとも以下」の部分は書くかは微妙、些末なので余力がなければ切ってもいい)

 

 あてはめ(事実認定・事実の評価・規範適合に関する結論)は端折って書いた(現実の答案はもう少し厚く書く)いたがこんな感じである。

 これらの知識を理解し、記憶し、表現できれば、試験的には大丈夫であろう。

 

 いずれの立場にたつにせよ、この問題を真面目に考えるなら、背景知識としてここに書いたことくらいは前提にしていないとダメである。

 憲法に記載されている「表現の自由」も「公共の福祉」もそれだけで押し切れるワイルドカードではない。

 

 なお、設問後段と関連のある「営利的言論の自由」についても少し触れておく。

 詳細は、平成18年の過去問を見る際に触れることとなろうが。

 

8 営利的言論の自由憲法上の保障と違憲審査基準

 設問後段が規制しているものは「広告物の掲示」である。

 広告を掲載することはいわゆる「営利的言論」の一形態であると言われている。

 では、営利的言論の自由憲法21条1項の「表現の自由」として保障されるか。

 

 この点、営利的言論の目的が営業活動であることを考慮すると、営業の自由を保障する憲法22条1項で保障すれば足りるように思える。

 しかし、憲法21条1項は「その他一切の表現の自由」について保障されており、営利目的であろうが「その他一切の表現」には該当する。

 また、営利的言論も情報の伝達としての機能は果たされるところ、情報を得る国民側から見た場合、営利的言論によって国民は情報を「知る」ことができる。

 そして、この知る権利は憲法21条1項の解釈によって保障される。

 などなど考慮すれば、営利的言論は憲法21条1項で保障されることになる

 

 ただ、この自由も絶対無制限ではないため、「公共の福祉」による制約として許容されればこの制約は正当化され、合憲となる。

 そして、営利広告は政治的言論と異なり、民主制の過程との関連性が乏しい

 そのことから、厳格な基準を用いる必要はない、ということになる。

 もちろん、合理的関連性の基準まで緩やかにしていいか、または、実質的関連性を要求すべきかといった程度の問題はあるとしても。

 まあ、上では合理的関連性の基準を用いているが。

 

 

 以上、試験に関する前提知識を確認した。

 結構、たくさんあるものである。

 

 以下、試験から離れてから過去問を見て思ったことを書く。

 

9 LRAの基準について

 私が答案で用いた「立法目的を達成するより緩やかな規制手段がない場合に合憲となる」という基準は所謂「LRAの基準」と呼ばれ、文字を見るとかなり厳しい基準に見える。

 ただ、最高裁薬事法事件で「より緩やかな規制手段の有無」を違憲審査基準の要素の一部に掲げたげたことがあるため、(表現の自由で持ち出すことの当否はさておき)利用することが一切許されない性質のものではない。

 

 この基準については疑問があった(私も思ったし、書籍に記した人もいた)。

 疑問を要約すると次の3点になる。

 

① 「より緩やかな規制手段がない」ことを証明するのは悪魔の証明ではないか

② この基準を持ち出したらほぼ違憲になるが、それは結論先取りではないか

③ この基準を持ち出して合憲の見解を採った場合、その見解に説得力を持たせることができるのか、つまり、「より緩やかな規制手段がない」説明に説得力があるのか

 

 ①は文字を見たら当然浮かぶ批判であり、論理的に免れられない批判である。

 ②は事実上生じる結果に対する批判である。

 事実、私も「LRAを持ち出してかつ合憲にする答案」を準備したことは1回しかないし、答案練習会・試験本番において現実に書いたことは一度もない。

「1問1時間で2000字程度の答案を手で書く」という状況でおそらくそれだけの準備をするだけの時間はない。

 ③は②を回避するために結論をひっくり返した場合に生じる批判である。

 事実、「LRAを持ち出し、かつ、合憲にする答案」を準備した際、代替手段を複数検討した上で「他に手段はない」という結論を出した。

 

 以上の疑問から、私は薬事法と類似のケース以外ではこの基準を用いることは少なくなった。

 もちろん、「勉強の初期段階で答案のロジックを学ぶ」という意味でLRAの基準を用いるのは勉強効率としては非常に有益だと思うが、その立場に安住するのはよくない。

 

 その一方で思う。

 当然だが、この基準は別に私個人が作った基準ではない。

 複数の憲法学者たちが提案している(た)基準である。

 では、何故、憲法学者たちはこの基準を持ち出したのか。

 

 この点、本気で「悪魔の証明をしなければならない。できなければ、表現規制違憲だ」と言いたいわけではないだろう(中にはいるかもしれない)。

 しかし、このメッセージの趣旨は、「現実問題、結論として表現の自由を規制するのはやむを得ない。しかし、表現の自由が民主主義を機能させる担保として機能することを踏まえれば、制限の際には具体的事情を考慮してできるだけ表現の自由に配慮すべきであり、裁判所は『そこ』を判断しろ」ではないか。

 これは、選挙権の平等に関して言われる「判断過程統制」に近いものがある。

経済的自由権等と異なり、表現の自由の制約について国会に立法裁量はないと考えられているので、判断過程統制と同列に論じることは不適切かもしれないが)。

 

 また、結論の前提(規範の部分)を構成する具体的な基準の設定は必要不可欠である。

 しかし、重要なのは具体的な基準それ自体ではなく、私が思ったメッセージの方ではないか。

 さらに、踏み込んでいえば、このメッセージさえ反映していれば、基準なんかなんでもいいのではないか。

 

 私が気付いたことはこの点であった。

 この正誤はなんとも分からないし、また、私オリジナルということもない。

 ただ、漠然と「LRAって何だったのだろう?」ということを発端にして、試験から離れて気づいたことを忘れないためにこのブログに保存しておく。

 

 それから、私が過去問(あるいは過去問たち)を見て考えたことは別にあり、実際はこちらの方が大事である。

 ただ、きりがいいのと文字数が多くなってきたので、それは「完結編」に回す。

司法試験の過去問を見直す1 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 前回は表現の自由の一般論に触れた。

 今回はその次。

 

5 内容中立規制とは

 過去問の該当部分を再び転記する。

 

(再び転記)

「市の繁華街に国政に関する講演会の立看板を掲示した行為が、屋外広告物法及びそれに基づく条例に違反するとして有罪とされても、表現内容にかかわらないこの種の規制は、立法目的が正当で立法目的と規制手段との間に合理的な関連性があれば違憲ではないからやむを得ない。」との見解について論評せよ。

(中略)

(終了)

 

表現の自由の規制について裁判所が判断する際には厳しい基準で臨まれるべきである」という一般論とその背景については前回説明した。

 しかし、これはただの一般論である。

 

 そこから具体的な基準が一律に導かれるわけではない。

 さらに言えば、この一般論自体一切の例外を認めないものではない。

 

 よって、この過去問が指定する「内容中立規制」においてどう考えるのか。

 原則で押し切るのか、例外を考えるべきなのか。

 それに答えなければならない。

 

 その前に、内容中立規制とは何かということを説明する。

 内容中立規制とは、過去問に書いてあるような「表現内容にかかわらないこの種の規制」である。

 ただ、これではピンとこないと思うので、例を挙げる。

 

 前回のブログで書いた「マルクス思想に関する発表を規制(禁止)する」これはまさに表現の内容に着目した規制しており、「内容規制」である。

 

 他方、表現の自由を規制する理由は他にもある。

 例えば、深夜に住宅街で大声で政治的な意見(正当な意見)を述べるとしよう。

 仮に、その内容が政府・議会にとって都合が良いものとする。

 しかし、これを放置すれば住民の安眠が害され、健康被害が生じかねない。

 とすれば、これを防止するために「地域を限定して、一定の音量以上の発表を規制する」ことがありうるだろう。

 

 この場合の規制は、政治的意見の内容は関係ない。

 どんな内容であれ、健康被害が発生しうるので規制するのである。

 

 このような規制を「内容中立規制」という。

 簡単に言えば、内容中立規制とは「今はやるな」・「他所でやれ」規制と言ってもよい。

 

6 内容中立規制による表現の自由の制限

 少し考えればわかるが、この規制は言論の内容は関係ないので、発表者は別の手段を考えることができる。

 例えば、前述の例でいえば、「夜・この地域」について規制しても、朝とか夕方にやる等の代替手段があるし、「繁華街でやる」という手段もあるし、インターネットで同じことを書いてもよい。

 だから、一般に、内容中立規制は表現の自由に対する制限の程度が(内容規制と比べて)強くない。

 

 それから、内容中立規制は現実に規制する必要があるケースが内容規制に比べて多い。

  上の例では健康被害を出したが、他にも例がたくさん挙げられる。

 例えば、道路上の規制とか考えてみればよい。

 

 さらに、権力者側が内容中立規制を使って言論を規制しようとしても必ずしも実効性があるとは限らない(もっとも、実効性を持たせる手段はあり、それについては後で述べる)。

 そして、裁判所が違憲と判断することは、多数派の決定を覆すことになるのだから民主主義にとっては例外である。

 ならば、裁判所がしゃしゃり出る必要があるのか、という問題がある。

 

 などなどいろんなことを考えていくと、「内容中立規制に対しては内容規制程厳格に判断する必要はないではないか」という考えが出てくる。

 過去問に掲載された見解はまさにこのような見解である。

 

 また、最高裁判所も「内容中立規制に対しては内容規制程厳格に判断する必要はないではない」という見解を採用しているようで、その根拠を以下の事件の補足意見(補足意見とは判決の根拠を補足するために書いた最高裁判所裁判官の意見のことであり、判決の背景を知るために重要なものである)

 

屋外広告物条例違反事件

昭和59年(あ)1090号・大分県屋外広告物条例違反被告事件・昭和62年3月3日最高裁判所第三小法廷

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/312/050312_hanrei.pdf

 

 該当部分を引用する。

 

(以下、補足意見の引用)

 本条例の目的とするところは、美観風致の維持と公衆への危害の防止であつて、表現の内容はその関知するところではなく、広告物が政治的表現であると、営利的表現であると、その他いかなる表現であるとを問わず、その目的からみて規制を必要とする場合に、一定の抑制を加えるものである。

 もし本条例が思想や政治的な意見情報の伝達にかかる表現の内容を主たる規制対象とするものであれば、憲法上厳格な基準によつて審査され、すでにあげた疑問を解消することができないが、本条例は、表現の内容と全くかかわりなしに、美観風致の維持等の目的から屋外広告物の掲出の場所や方法について一般的に規制しているものである。

 この場合に右と同じ厳格な基準を適用することは必ずしも相当ではない。

 そしてわが国の実情、とくに都市において著しく乱雑な広告物の掲出のおそれのあることからみて、表現の内容を顧慮することなく、美観風致の維持という観点から一定限度の規制を行うことは、これを容認せざるをえないと思われる。

 もとより、表現の内容と無関係に一律に表現の場所、方法、態様などを規制することが、たとえ思想や意見の表現の抑制を目的としなくても、実際上主としてそれらの表現の抑制の効果をもつこともありうる。

 そこで、これらの法令は思想や政治的意見の表示に適用されるときには違憲となるという部分違憲の考え方や、もともとそれはこのような表示を含む広告物には適用されないと解釈した上でそれを合憲と判断する限定解釈の考え方も主張されえよう。

 しかし、美観風致の維持を目的とする本条例について、右のような広告物の内容によつて区別をして合憲性を判断することは必ずしも適切ではないし、具体的にその区別が困難であることも少なくない。

 以上のように考えると、本条例は、その規制の範囲がやや広きに失するうらみはあるが、違憲を理由にそれを無効の法令と断定することは相当ではないと思われる。

(引用終了)

 

7 「合理的関連性」という言葉

 確かに、内容中立規制は別の手段で発表することができる。

 また、規制のニーズもある。

 さらに、言論弾圧のおそれも弱い。

 というわけで、一般論として「内容中立規制に対して内容規制と同レベルの基準で判断すべき」というという人は少ないし、私もそう思っているわけではない。

 これで話が終わりならば、「見解に同意して終了」となるし、私の答案もそうなるだろう。

 

 しかし、私が過去に見解に同意しなかった理由は、「合理的関連性」では緩やかすぎる、と判断したためである。

 

 合理的関連性とは何か。

 ぶっちゃけて言えば、「『全く関係がない』とは言えない程の関係」のことを指す。

 これを端的に説明している最高裁判決として猿払事件という最高裁判決があるので、それを紹介する。

 

猿払事件

昭和44年(あ)1501号・ 国家公務員法違反被告事件・昭和49年11月6日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/800/051800_hanrei.pdf

 

(以下、猿払事件最高裁判決より引用、強調は私の手による)

 また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。

(引用終了)

 

 この事件は「行政の中立的運営を確保し、中立的運営に対する国民の信頼を確保するために、(休日・勤務時間外で、かつ、勤務とは無関係で、かつ、私服姿で行われた)公務員の政治活動を刑事罰によって規制できるか」ということが問題になった判決である。

 ここで書いてあることをまとめると、

 

・害悪が具体的に発生しない行為を規制しても(抽象的に発生するなら)合理的

・公共の利益を直接的に損なう行為でなくても(間接的に損なう行為であれば)合理的

 

ということになる(「合理的関連性」がある)。

 さすがに、「それは広すぎるわ」ということになる。

 

 昭和58年憲法第1問のブログで書いた通り、当時の私は憲法的価値観に忠実だった。

 というわけで、「ここまで緩やかにしちゃダメだろ」と考えて、答案を作った。

 

 この点、「内容中立規制なら緩やかでよい」という見解に対しては次の批判にさらされている。

 

・内容中立規制を複数作って実効性のある代替チャンネルをつぶしてしまえば、事実上言論封鎖できてしまう。そうなれば、内容規制と変わらない。

・単一の内容中立規制では実効性がないからと言って、権力者の誘惑それ自体がなくなるわけではない。

・内容中立規制に見せかけて内容規制をすることができるではないか

 

 だから、この辺のことを踏まえて「緩やかにするにも限度があるよ」ということは理論上可能であるし、説得力ある答案を作ることもできる。

 だから、今この問題を見返しても、たぶん、同じようなことを書くだろう。

 この点は税関検査を題材とした過去問とは違う。

 

 なお、この点について最高裁判所はどう考えているのだろうか。

 前述の補足意見では次のように述べている。

 

(以下、上の事件の補足意見より引用、強調は私の手による)

 しかしながら、すでにのべたいくつかの疑問点のあることは、当然に、本条例の適用にあたつては憲法の趣旨に即して慎重な態度をとるべきことを要求するものであり、場合によつては適用違憲の事態を生ずることをみのがしてはならない。

 本条例三六条(屋外広告物法一五条も同じである。)は、「この条例の適用にあたつては、国民の政治活動の自由その他国民の基本的人権を不当に侵害しないように留意しなければならない。」と規定している。

 この規定は、運用面における注意規定であつて、論旨のように、この規定にもとづいて公訴棄却又は免訴を主張することは失当であるが、本条例も適用違憲とされる場合のあることを示唆しているものといつてよい。

 したがつて、それぞれの事案の具体的な事情に照らし、広告物の貼付されている場所がどのような性質をもつものであるか、周囲がどのような状況であるか、貼付された広告物の数量・形状や、掲出のしかた等を総合的に考慮し、その地域の美観風致の侵害の程度と掲出された広告物にあらわれた表現のもつ価値とを比較衡量した結果、表現の価値の有する利益が美観風致の維持の利益に優越すると判断されるときに、本条例の定める刑事罰を科することは、適用において違憲となるのを免れないというべきである。

(引用終了)

 

 まあ、補足意見でこのように述べたところで、現実問題としてこの意見に従って比較考量をし、結論として適用違憲判決を最高裁が出すことはないだろうが。

 

 

 さて。

「私が書きたいこと」はこの続きにある。

 ただ、ここまでの前提を書かないと、私が言いたいことが単純化されてしまう。

 だから、ちょっとだけマニアックなことを書いた。

 

 そして、私が書きたいことにつなげたいのだが、分量が2000字になってしまったので、ここからは次回に。

司法試験の過去問を見直す1 その1

1 はじめに

 少し前、メモにしていた裏紙の裏側に私が勉強していた旧司法試験の過去問がプリントされており、それを見た私は過去を思い出し、かつ、色々考えた。

 そのことは前回のブログに書いた通り。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今日はその続き。

 ただ、1回のブログにまとめる内容としてはちょっと長いので分けて書く。

 あと、憲法学に関する前提知識がないとピンとこないと思うので、前提知識の説明も行う。

 

2 旧司法試験・論文試験・憲法・平成3年第1問

 前回は昭和58年度の旧司法試験の論文試験の憲法第1問について言及した。

 今回は平成3年度の旧司法試験の論文試験の憲法第1問について言及する。

 具体的な問題は次のとおり。

 なお、過去問は昔使っていた『司法試験対策講座5・憲法・第2版』(伊藤真著・弘文堂・1998)から転記する。

 

(以下、司法試験の過去問を転記)

「市の繁華街に国政に関する講演会の立看板を掲示した行為が、屋外広告物法及びそれに基づく条例に違反するとして有罪とされても、表現内容にかかわらないこの種の規制は、立法目的が正当で立法目的と規制手段との間に合理的な関連性があれば違憲ではないからやむを得ない。」との見解について論評せよ。

 なお、「小中学校の周辺では煽情的な広告物の掲示はできない」との規制の当否についても論ぜよ。 

 (引用終了)

 

 前回と同じ見解論評問題である。

 テーマを専門用語で書くならば「表現の自由に対する内容中立規制」について。

 

 試験勉強当時に作った私の答案の骨子はこんな感じである。

 

① 講演会の立看板を掲示する行為は憲法21条1項前段の「表現の自由」によって保障されるところ、この行為を有罪にすることは「表現の自由」に対する制限にあたる。

② (①を前提に)内容中立規制は「立法目的が正当であり、かつ、規制手段がそれ以外のより緩やかな規制手段では立法目的が達成できない場合に限り合憲になる」と考えるべきであり、「立法目的が正当で立法目的と規制手段との間に合理的な関連性があれば違憲ではない」との見解には同意できない。

③ ②を前提に立つので、法律・条例がもし具体的な事情を一切考慮せず有罪にしているならば、結論には同意できない。

(「なお、~」以下の答案骨子は省略)

 

 この問題について考える前に、前提知識について説明する。

 以下は、所謂教科書的な説明である。

 

3 表現の自由の重要性について

 最高裁判所でさえ言及しているが、民主主義において表現の自由は極めて重要である。

 何故なら、政府・議会が間違ったことをした場合、それを修正する方法として「その間違いを指摘し、周囲にそれの意見を伝えて説得し、投票・議会での議論(立法)・議会による行政(政府)の監視によって是正する」という方法があるが、これが民主主義における正当な方法だからである。

 そして、この正当な方法は「表現の自由」がなければ到底機能しえない。

 つまり、表現の自由は「個人の(人格的)利益」を確保する手段だけではなく、民主主義を正当に機能するための手段でもある。

 

4 表現の自由の限界について、表現はどこまで規制できるかについて

 とはいえ、表現の自由にも限界はある。

 例えば、虚偽の事実(でたらめ)を並べ立てて他人を貶める発言をすれば、その人の名誉(名誉権、憲法13条の解釈により保証)は害されるだろうし、言論活動によって営業活動を妨害すれば、妨害された人の経済活動の自由(憲法22条により保証)が害される。

 こういうことも考えればわかる通り、あらゆる表現を無制限に許すわけにはいかない。

 よって、そのような事態を防止するための手段として法律の制定・執行、条例の制定等があり、それらに基づく制限は「公共の福祉」による調整として憲法上正当化される。

 

 問題は具体的にどこまで許されるかである。

「規制は一切許されない」というのは当たり前だが、「憲法上の根拠があるので、いかなる規制も許される」ということもないのは当然である。

 

 この点について、教科書に書かれていることをまとめると次のようになる。

 

 表現の自由によって保障される表現活動(その裏返しとしての情報受領活動)は個人の利益(人格)の向上に役に立つだけではなく、前述のとおり民主政治を正当に機能させるための手段としても働いている。

 また、多数派を代表する議会・議会の信任を受けて構成している政府からすれば、自分たちが間違っていることが少数者から指摘されれば、自分たちの正当性や権益がおびやかされるため、少数者の口をふさぐという誘惑にかかられやすい(現実に規制するか否かはさておき、誘惑にかられることは否定できないだろう、事実、歴史を見れば誘惑にかられてために様々な事件が起きている)。

 という事情を踏まえ、表現の自由に対する規制に対して、裁判所は慎重に考えなければならない、そのための違憲審査基準は厳格に判断されなければならないとされている。

 例えば、憲法21条2項は「検閲」を禁止しているが、この条文は以上の考えが結晶化されたものと言ってもよい(つまり、ここまで書いた内容は単なる私の妄想ではない)。

 

 そのため、内容に着目した規制(内容規制)、例えば、「マルクス思想に関する発表やマルクス思想に関する書籍の輸入を禁止する」という規制(現実にこんな規制はあり得ないが、例として出した)に対しては、最高裁でさえ一般論としては厳しい基準で臨んでいることが多い(その基準ですら生ぬるいという批判があるとしても)。

 

 問題は、「内容に着目していない規制」(これを「内容中立規制」という)に対してはどう考えればいいか、という問題である。

 

 これについて考えよ、というのがこの過去問なのである。

 ただ、時間と文字数が来てしまったので、この話題は次回で。

司法試験の過去問を見直す 0

1 久しぶりに司法試験の過去問を見る

 私は、過去使ったコピーの裏側をメモ用紙として利用している。

 最近、そのメモ用紙の裏側を見たところ、以前勉強していた司法試験の過去問がコピーされていた。

 具体的には、昭和58年度の司法試験・二次試験の論文式試験憲法の第1問。

 昭和58年の司法試験、つまり、法科大学院ができる前の司法試験である。

(昔の司法試験のことを「旧司法試験」というので、以下、そう書く)。

 

 私が受験し、合格した旧司法試験(の二次試験)は3つの試験から成り立っていた。

 短答試験・論文試験・口述試験である。

 

 短答式試験は選択式の試験(全部で60問・3時間半・3科目)で、いわゆる予選。

 論文試験は6科目(1科目2問・2時間)の論述試験で、これが本戦。

 最後の口述試験は確認の意味合いが強く、ほぼ合格できる試験である

(それでも約1割は不合格になっていた)。

 この点、当時の試験のシステムが分かる資料がないかと思って探していたら、ネット上に資料が残っていたので、これを紹介しておく。

 

 https://www.soumu.go.jp/main_content/000082032.pdf

 

 さて。

 旧司法試験の天王山は論文試験である。

 口述試験はほとんど合格する(私が合格した年は9割合格した)うえ、落ちても翌年口述試験からスタートでき、短答式試験と論文試験をスキップすることができる。

 他方、論文試験に落ちると(多くの人間がここで落ちて涙を飲む)、短答式試験からやり直さなければならない。

 よって、論文試験は重く、論文試験対策が極めて重要になる。

 

 さて、メモにコピーされていた過去問、この過去問は思い入れがあった。

 何故なら、旧司法試験の勉強を開始してはじめての答案練習会(論文試験の時間と同じ配分、1問1時間で論文式の答案を書く演習)で始めて過去問に挑み、初めて書いた答案だったからである。

 だから、この問題を振り返ってみる

 

2 昭和58年度・司法試験・論文試験・憲法第1問

 過去問の問題は次のとおりである。

 以下、当時使っていた司法試験の教科書であった『司法試験対策講座5・憲法・第二版』(伊藤真著・弘文堂・1998)から転記した。

 

(以下、同書籍より引用)

 出版物に関するいわゆる税関検査について、「表現の自由も絶対無制限なものではない。国は公共の福祉を維持し、社会の健全性を防衛する任務を有している。外国の表現物が我が国に無制限に流入するときは、我が国の健全な風俗を害することがあり得る。したがって、国が一定の要件の下で輸入を禁止するのは当然であり、公共の福祉にかなう」という見解がある、この見解に含まれる憲法上の問題点を指摘して論評せよ。 

 (引用終了)

 

 憲法第1問、「人権」分野からの出題である。

 当時、私が書いた答案(現在押し入れの中に眠っている)は滅茶苦茶であった。

 答案の書き方(形式)は守れたが、中身がスカスカであった。

 まあ、右も左もわからない状況だったのでしょうがないけど。

 

 この過去問に書かれている見解、下敷きとなる判例がある。

 いわゆる税関検査に関する最高裁判決(昭和57(行ツ)156・ 最大判・昭和59年12月12日・第38巻12号1308頁)である。

 

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/690/052690_hanrei.pdf

 

 関係する部分を引用しておく。

 

(以下、上述の最高裁判決から引用、一部省略)

 思うに、表現の自由は、憲法の保障する基本的人権の中でも特に重要視されるべきものであるが、さりとて絶対無制限なものではなく、公共の福祉による制限の下にあることは、いうまでもない。また、性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持することは公共の福祉の内容をなすものであつて、(中略)。そして、わが国内における健全な性的風俗を維持確保する見地からするときは、猥褻表現物がみだりに国外から流入することを阻止することは、公共の福祉に合致するものであり、(以下略)

(引用終了)

 

 この過去問、その後の復習等により「再び書く機会があったらこのように書く」と決めていた内容の骨子は次の3点だった。

 

1、税関検査が国民の閲覧の自由を制限しうる性質を有すること、その前提として、閲覧の自由が憲法上の権利、具体的には、知る権利として憲法21条1項により保証されること

2、税関検査が「公共の福祉」(憲法12条・13条)に基づく制約として正当化されないこと(見解に反対)

3、税関検査が憲法21条2項前段の「検閲」に該当するかが憲法上問題となること、そして、税関検査は「検閲」にあたる(見解に反対)

 

 この点、1は書かれていない前提部分、しかも、当然の前提であり、「不要ではないか」とも思える。

 しかし、条文上自明ではない(21条には「知る権利」とは書かれていない、書かれているのは「表現の自由」、つまり、発表の自由である)こと、ロジックを書く上で前提を省略するのは得策ではないことを考慮すると、書きすぎは避けるとしても触れないわけにはいかないのだろう。

 

 本問の核心は2と3である。

 見解に反対するなら、見解の根拠を引っ張り出した上で叩いて潰さなければならない。

 他方、賛成するとしても、その実質的な根拠が必要だろう。

最高裁が言った(判決で書いた)から賛成する」というのはさすがにリスクである(無論、実務では「判例である」は最強のカードであるとしても)。

 

 ところで。

 勉強していた当時、私は骨子2と骨子3の部分に賛成する方針の答案は準備していなかった。

 骨子3に同意するのは難しくないので(最悪、最高裁の定義を使って一蹴すればいい)ので、当時でも「骨子3の部分は賛成、骨子2の部分は反対」という答案は書けただろうが、両方賛成という答案は用意していなかった。

 というか、その方針で書くことそれ自体を考えたことすらなかった。

 

 今、この過去問とその時準備していた答案の骨子を見て、考えた。

「これって反対で書くのか?」と。

 論評対象は過去問に書かれた見解であって、「税関検査の最高裁判例そのもの」ではない。

 最高裁判例と過去問の見解を混同していないか、と。

 

 そこで、もう少し過去問と過去作った答案骨子を見直してみる。

 

3 いま改めて過去問を見直す

 過去問に書かれた見解を再び整理してみる。

 

(以下、再び過去問を引用、ただし、文ごとに改行し、かつ、番号をつける)

1、表現の自由も絶対無制限なものではない。

2、国は公共の福祉を維持し、社会の健全性を防衛する任務を有している。

3、外国の表現物が我が国に無制限に流入するときは、我が国の健全な風俗を害することがあり得る。

4、したがって、国が一定の要件の下で輸入を禁止するのは当然であり、公共の福祉にかなう 

 (引用終了)

 

 1は当然すぎる(知る権利が21条1項により保証されることよりも当然である)。

 よって、ここを争点にするのは無謀である。

 

 2はどうだろう。

「公共の福祉」という条文の文言が一義的に明らかではなく、条文解釈をする必要があることを踏まえれば、ここがメインの一つになることは間違いない。

 

 3は事実に関する部分である。

 この部分の反対するということは、「外国の表現物が我が国に無制限に流入しても、我が国の健全な風俗を害することはない」ということを主張することになるが、害されうることそれ自体を否定するのは無理がありそうである。

 とすれば、この部分を答案に利用することはあっても、反対するのはまずい。

 

 4は規制手段についての言及である。

 ここでは、「一定の要件」としか書いておらず、具体的な言及がない。

 そうすると、「例外なく制限できない」という結論を採用しない限り、「一定の要件」について具体的に論じる必要がある。

 

 以上がこの問題を改めて見て思った感想である。

 では、当時準備した答案骨子(「答案構成」と呼ばれている)を見てみよう。

 内容をまとめると次のようになっていた。

 

(骨子1は省略)

骨子2・「一定の要件」という抽象的な文言で制約するのは基準が不明確であり、表現の自由に対する制約として正当化されない、よって、見解の結論には賛成できない。

骨子3・判例の検閲の定義は狭すぎて妥当ではない。「検閲」の定義は広く解釈すべきである。その定義において税関検査は憲法上禁止する「検閲」に該当するので、その意味でも見解の結論には同意できない。

 

・・・

 

 まず、「公共の福祉」の解釈の部分、具体的には見解2の部分はスルーか?

 十分時間をかけて準備しておいて、その部分にフォーカスできないのはまずくねーか。

 

 あと、「一定の要件」だから抽象的で基準が不明確というのもどうなの?

「一定の要件の基準が明確であること、具体的には、一般人から見て基準の境界が理解できるようになっているものでなければ賛成できない」と書くのは全然ありだが、一方的に「見解の基準では不明確」というのは・・・。

 

 この点、下敷きになった判例の事案では基準の明確性が争点になっている。

 そのため、判例に引きずられたのだろうか。

 それでも、昔作った答案骨子ではいわゆる「論点主義」になっていて、「問いに答えていない」と判断されかねないが。

 

 検閲については、、、まあどっちでもいいや。

 判例の検閲の定義を叩いて見解に反対する側に回ってもよいが、「検閲にあたる」として切ってしまうとそれで議論が終了するので、これまた答案制作上は得策ではなさそうだが、骨子2の部分で見解に反対するなら書き方次第でどうにかなるだろう。

 

4 昔と今

 改めて過去問を見て答案を作るなら、「税関検査は閲覧の自由の制限たりうる、この閲覧の自由は知る権利として憲法21条1項により保証される。以上の前提のもと、①検閲(定義は判例のものを使う)にはあたらない、②「一定の要件」の基準が明確であり、●●であれば賛成」という答案を作るような気がする。

 では、昔と今とで何が変わったのだろう。

 

 この点、知識自体は昔と今とで差があるわけではない(忘れたこともある分、昔の方がたくさんあったとさえいえる)。

 違うのは憲法的価値に対する関心の違い、判例に対する態度の違いだろうか。

 

 私が司法試験の勉強を始めたきっかけは憲法だった。

 そのため、憲法的価値に対して昔は忠実だった。

 もっとも、今は憲法に対して明らかに冷めた目で見ている(詳細はある本のレビューで触れたい)。

 だから、「制約を認める見解に無理に反対しなくてもいい」というのはある。

 

 あと、判例に対する態度も変わった。

 学習環境のせいにしてはいけないだろうが、司法試験の学習をしていたころは、憲法刑事訴訟法判例に対してかなり批判的であった。

 しかし、合格して実務に出て、その辺の意識が変化した。

 視野が広がったというか、判例の権威にやられたというか。

 

 妙な言い方をすれば、当時は若かったのだろう(事実、若かった)。

 そして、今は年を取った、と。

 そういうことなのかもしれない。

 

 司法試験の過去問を見て、そんなことを思い出した。

 せっかくなので、メモを書き留めておく。

心理検査「WAIS-Ⅳ」を受ける

1 何もかも信じられなくなる

 少し前、私は「何もかも信じられない状況」になっていた。

 

 原因は分からない。

 健康状態が悪化したせいか。

 精神的な不調のせいか。

 コロナ等による社会情勢の変化のせいか。

 

 この点、「自分が信じられない」という状況は恒常的に存在していた。

 そのため、「不信が一時的に極端に悪化した」とも言える。

 

 さて、「何もかも信じられない状況」を放置することはできない。

 そこで、立て直しのために「記録を録る」ことにした。

 

 結果を評価せず、「機械的・形式的」に事実だけを淡々と書く。

機械的・形式的」の点を守って記録すれば、その記録(事実)は真実になる。

 そうすれば、(他が信じられないとしても)その記録は信じられるから。

 

 そのことについて書いたのが、少し前のブログである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 記録を録ることで、「事実認定に対する不信」は改善した。

 事実が客観化・定量化された結果、事実に関する勘違いが修正され、不明確な部分が明確化されたのだから。

 

 もっとも、「事実の評価に対する不信」が残る。

 そこで、「事実の自分による評価」(主観的評価)と「事実の客観的評価」をぶつけてみることにした。

 それが整合すれば「自分が行った事実の評価は正しい」ことになり「事実の評価に対する不信」は改善するだろうし、逆に整合しなければ従前の自分の評価を訂正することにより「事実の評価に対する不信」は改善するだろうから。

 

 そして、「WAISーⅣ」という知能検査を受けてみることにした。

 

 WAIS™-IV知能検査 | 検査詳細 | 心理検査 | 日本文化科学社

 

 当然だが、私は「自分に対する評価」を持っている。

 一方、上述の知能検査は「一定の基準」による自分に対する評価が出てくる。

 これをぶつければ、主観と客観の比較にはなるだろう。

 

 というわけで、知能検査を受けてみることにした。

 ただ、付け加えるならば、「一度、自分の能力を確認したい」というもあったが。

 

2 検査を受ける

 私は自分の通っている心療内科医に検査について相談した。

 主治医はあっさり了承し、検査の方法の説明・検査日程の確認・検査の予約手続に移った。

 

 その相談の約1か月後、知能検査を受ける。

 検査は1時間から1時間半くらいだった。

 具体的な検査内容は省略(というか、具体的なことは忘れてしまった)。

 

3 結果を受け取る

 検査から1か月後、検査結果を受け取り、かつ、説明を受ける。

 検査結果は数枚のレポートの形で渡され、また、レポートについて補足的な説明を受けるというものであった。

 

 具体的な数値についてはこんな感じだった。

 この点、データの分布は平均100、標準偏差15の正規分布を想定している。

 

・全検査IQ 118

・言語理解(VCL) 106

・知覚推理(PRI) 116

・ワーキングメモリ(WMI) 134

・処理速度(PSI) 108

 

 この際、詳細な説明を受けているが、それについては省略(公開できない)。

 イメージのためにどんな説明を受けたか抽象的に書くと、「こんなことが得意です・苦手です」とか「ほにゃららについてはこのように対応していきましょう」というようなことである。

 

4 検査を受けた影響

 まず、自分の能力に関する恣意的な思い込みが払しょくされた。

 この点、この数値結果は私の過去の特徴をそのまま反映していた。

 だから、数値化された結果を見たためなのか、過去の特徴と検査による数値が私の長所・短所を含めて整合していたからかは分からない。

 しかし、ストレートに言ってしまえば、「自分に対して持っている妄念」が吹き飛んだ。

 

 次に、何かに取り組むときの自分の方針を定めることができた。

 検査結果が得られるため、私の得意・苦手についてあまり分かっていなかった。

 もちろん、「この分野は得意・苦手」というのはあったが、分野に共通する得意な点・苦手な点は分からなかった。

 しかし、今回の結果を得ることで、未知の分野に挑戦する際にどうすれば自分の適性を活かせるのかが分かった。

 

 また、自分の過去の各状況において、うまくいったときのその理由・うまくいかなかったときのその理由について言語化し、能力による裏付けを行うことができた。

 過去の成功・失敗の原因について自分の知能からの分析ができたのは大きかった。

 それと同時に、この状態が続くことを前提にした場合、この道を選べばどうなるかということも予測がつけられるようになった。

 

  というわけで、この検査を受けたことにより「不信」の状況は相当程度改善した。

 将来、再びこうなったら、今回と同様のことを行う予定である。

 

5 雑感

 最後に。

「後知恵」ではあるが、今回の不信の原因は「(山本七平氏が言う)情況倫理に振り回されてしまった結果、収拾がつかなくなったから」だと推測している。

 だから、「(これも山本七平氏の言うところ)固定倫理」で私を掃除したことでその状況を脱却できたのではないか。

 

 形式的・機械的な録取はまさに「固定倫理による事実の認定」である。

 外部機関による評価も「固定倫理による事実の評価」である。

 固定倫理による事実認定・事実の評価を自分認識による事実認定・事実評価と照合し、ずれていたものを一掃することで不信の状況から抜け出せたようだ。

 

 以上の原因分析のヒントになったのは、山本七平氏の著作である『「空気」の研究』や『日本はなぜ敗れるのか ー敗因21か条ー』である。

 この点は、自分の認識・理解を深め、まとめるためにも、このブログをアウトプットしたい。

東日本大震災から10年

1 10年前の思い出

 今日は3月11日。

 東日本大震災の日である。

 そして、今年は2021年。

 東日本大震災から10年経過したことになる。

 

 あの日、私は東京の霞が関で研修を受けていた。

 そのため、震度5強と言われる揺れが私たちを襲った。

 しかし、別に部屋(会議室?)の何かが落下したわけではない。

 また、感じる揺れも大きくなかった。

 そのため、机の下に避難することはなかった。

 揺れの影響と言えば、講師が話すのを中断した程度である。

 もっとも、あの地震の直後に研修は中止、直ちに帰宅するように言われる。

 

 この点、地震により地下鉄・電車等が止まったため、一人道端に取り残されてしまう。

 いわゆる帰宅困難者である。

 もっとも、最初は「ネカフェに泊まればいいや」などと気楽に考えていた。

 

 その後、街中を歩いているうちに、楽観的な気分は吹っ飛ぶ。

 例えば、コンビニに入る。

 食べ物・飲み物が品薄なのである。

 飲み物は買えたものの、食べ物として購入できたのはお菓子であった。

 

 また、店も閉まっているところがちらほら見え、「ネカフェに泊まれそうにない」ことに気付く。

 そこで、私は思案する。

 すぐ側には、日比谷公園という大きい公園があった。

 そのため、日比谷公園に避難し、公園で夜を明かすという手段はある。

 しかし、季節は3月、寒いのでできれば避けたい。

 よって、手段としては「歩いて帰る」しかない。

 

 しかし、ルートが分からない。

 スマホのバッテリーは十分ではなく、使い続けられる状況にはない。

 また、地震直後の混乱からネットにつながる状況でもなかった。

 そのため、現在の平時なら使える「グーグルマップを見ながら帰る」という手段は採れなかった。

 

 もっとも、霞が関と自宅のほぼ中間地点にあるとある駅まで行ければ、そこから家までの道筋は分かっていた。

 以前、「その駅から自宅までの電車が止まったときに歩いて帰れるようにしておこう」と考え、かつ、実際に歩いたことがあったからである。

 しかし、霞が関からその駅までのルートが分からない。

 そんな状況で帰れるのか。

 

 漠然とした方角は分かる。

 霞が関から見て、自宅は北西の方角にある。

 また、歩行時間も大雑把に予測できる。

 霞が関から自宅まで地下鉄で16区間

 1区間あたりの移動時間を30分とすれば、自宅まで歩いて8時間となる。

 

 私は8時間も歩いた経験はない。

 長くて3時間半である。

 

 ただ、歩いて帰ることが現実的に無理である、というわけではないようだ。

 そこで、歩いて帰ることに決定し、北西の方角に向かって歩き出す。

 

 その後、道が分からなくなり、見当違いな方向に行ってしまった。

 しかし、約4時間歩き続けた結果、中間地点に到着した。

 その結果、帰宅までのルートが明確になり、安心して歩き続けることができた。

 もっとも、最後の最後で力尽き、最後の1区間分については通りかかったタクシーを拾って自宅まで帰ることになるのだが。

 

 部屋には棚などに置いてあったもののいくつかが落下し、床に散乱していた。

 しかし、何かが壊れた、みたいなことはなし。

 深夜ではあったものの、私が無事に自宅に戻れたことを姉に連絡し、ゆっくりと眠る。

 

 次の日が休日でよかった。

 約8時間歩き続けて疲れ果てていたので。

 

2 亡き父をリスペクトする

 東日本大震災の当時、私の父は仙台に単身赴任していた。

 そして、その日の父は出張で東京に来ていた。

 また、母は仙台の父の家にいた。

 

 両親の安否確認は、東日本に住んでいない私の姉の活躍によってなされた(地震直後の混乱もあり、私は両親と連絡が取れなかった、姉がいなければ、その日の深夜、私が帰宅するまで安否は分からなかったことだろう)。

 しかし、地震は父が住んでいた家のインフラを機能停止に追いやる。

 電気・ガス・水道、全部止まったらしい。

 そのため、母はそんな中一人孤立することになる。

 

 一方、東京にいる私の父。

 直ちに仙台に戻ろうとしたものの、交通網はズタズタ、その手段がない。

 私と姉はスカイプ・メールで意見交換し、「父には無理をさせずに私の家に一時避難させよう」ということで一致する。

 そして、その旨を父にメールで連絡した。

 

 ところが、父は一人孤立した母が心配でしょうがなかったのだろう。

 地震から3日後の日曜日、山形空港まで移動できることを見つけ、実際に山形空港まで飛行機で飛び、山形空港からタクシーを使って仙台まで帰ってしまった。

 そして、仙台の家に戻るや否や、私に無事に帰った旨、電話で連絡してきた。

 

 東日本大震災は東日本の交通網をズタズタにした。

 また、情報も錯そうしていた。

 その中で、父は母の安否を危惧し、仙台に急行した。

 父のこの行為はすごいと思っている。

 

 なお、父は東日本大震災の1カ月後、東京に転勤になる。

 そして、東日本大震災の約2年後に61歳で亡くなり、今は亡き人の数に入る。

 別に、この死が震災と関係があるわけではない。

 だが、父のこの行為を記録しておく。

 

3 最後に

 ところで、この震災の死者・行方不明者は約20000人とのこと。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

翻訳にチャレンジ

0 翻訳にチャレンジ

 ブログ(「私を引き付けた翻訳 - Hiroringo’s blog」)に書いたとおり、サイト「私釈三国志」の詩などの訳は実によい。

 

www5f.biglobe.ne.jp

 

 私もこういう訳ができるようになりたい。

 だから、練習する。

 

 この点、前回のブログでは『孫子』の文章を引っ張って訳してみた。

 しかし、その結果はいまいち、いまじゅう、いや、いまひゃくであった。

 

 そこで、今回は原文を詩(歌)から引っ張ることにする。

 また、日本由来のものにする。

 さらに、他のものと比較参照するため、ある程度有名なものを選ぶ。

 

 なお、これは「意訳」である。

 正確に訳することが重要なのは当然だが、今練習したいことはそれではない。

 その点はご了解を。

 

1 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

 これは戦国時代のクリスチャン、細川ガラシャの辞世の句である。

 これを意訳する。

 

「散り際を知り、その通りに散る花や人こそ美しい」

 

2 今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代わる 我が身と思えば

 次は、播磨の戦国時代の大名、別所長治の辞世の句である。

 別所長治は織田信長の部下(当時)であった羽柴秀吉と戦うが、武運拙く敗れ、城兵の命と引き換えに開城・自刃する。

 その際の辞世の句がこれである。

 これを訳す。

 

「オレの命で城兵たちの命が救えるのだ、特に恨みはない」

 

3 浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して

 これは備中高松の武将、清水宗治の辞世の句。

 清水宗治は秀吉と毛利家の絆を自身の命をかけて作った人である。

(歴史的経緯の説明は省略、知りたい人はググれ)

 これも訳してみる。

 

「我が名を高松の苔に遺し、今こそわが命を活かそうぞ」

 

 なんか内田真礼さん(アイドルマスターシンデレラガールズの「神崎蘭子」の中の人)のCVがピタリとはまったのだが・・・まあいいや。

 次いこう。

4 若殿に 兜とられて 負け戦

 気分転換に別の時代に移る(安土桃山時代にはまた戻る)。

 これは二・二六事件の首魁として刑死した北一輝の辞世の句である。

 これを訳してみる。

 

「若殿が自ら動いたので負けました」

 

 これは多少事実の説明が必要か。

 二・二六事件とは、「昭和維新」の達成を目論んだ皇道派の陸軍将校らが部下を率いて政府首脳を襲撃・殺傷したクーデター未遂事件である。

 政府首脳の襲撃等により内閣は一時機能停止に陥るが、昭和天皇がこの襲撃に激怒し、自ら鎮圧を命じることなどによりこのクーデターは失敗に終わる。

 辞世の句の「若殿」は昭和天皇のことである。

 

5  あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

 今度は忠臣蔵で有名な大石内蔵助の辞世の句から。

 

「オレは死ぬけど望みを叶えてマジ嬉しい、夜の月がくっきり見えるような嬉しさだ」

 

6 つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

 これは平安貴族でる在原業平の辞世の句。

 

「私もいつか死ぬ、それは分かっていた。だが、それが今になるとは。」

 

7 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

 これは幕末・安政の大獄で刑死した吉田松陰の辞世の句。

 

「我が肉体は処刑場で朽ちる、だが、我が魂をこの世に残すっ!!!」

 

8 五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで

 再び戦国時代に戻る。

 これは室町十三代将軍・足利義輝の辞世の句である。

 

「この五月雨は私の涙だろうか、ほととぎすよ、私の名を広く伝えてくれ」

 

「伝えてくれ」のところを「伝えよ」にすべきか悩んだがどうなんだろう。

 

9 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢

 ご存じ豊臣秀吉の辞世の句。

 

「我が身も露のようなモンだ。天下は取ったけどこれも夢のさらに夢だし」

 

 さて、次で10個。

 これで区切りにしよう。

 

10 討つ者も 討たるる者も 土器よ くだけて後は もとの土くれ

 これは戦国時代の相模の武将、三浦同寸の辞世の句。

 

「勝者も敗者も所詮は土器よ。どっちも死ねば土に還る」

 

11 感想

 以上、10個の和歌を「私釈三国志」の翻訳方法に準じて訳してみた。

 

 この点、「辞世を選ぼう」と思って並べたわけではない

 記憶の中から思いついたものをグーグルなどで確認して決めただけである。

 しかし、普通の和歌が入らなくてビビった。

 

 ただ、そろそろ記憶にある詩のストックが消える。

 だから、次は「百人一首から選ぶ」とかにするか。

 

 あと、10個の詩を訳していて感じたが、私には思いっきりのよさがない。

 例えば、「私釈三国志」のサイトでは次のような訳がなされている。

 

(以下、私釈三国志のサイトより原文と訳文を引用)

 対酒当歌 ――さぁ、酒だ

(中略)

 唯有杜康 ――酒だ、酒しかないっ!

 

力抜山兮気蓋世 ――この天下はオレのモンだったのに
(以下略)

(引用終了)

 

「酒に対してはまさに歌うべし」を「さぁ、酒だ」に訳する。

 本来なら(以下、私の訳、超適当)「酒があるなら当然歌うべきだ」とかになるのだろう。

 それを「さぁ、酒だ」にまとめ上げるのはすごい。

 

 また、「力は世を抜き、気は世を覆う」を「この天下はオレのモンだったのに」に訳している。

 本来なら、「私の力は山を抜くくらい強く、私の気は世界を及ぶほど強大だった。」などになるのだろう(この訳は私が即興で訳したもの、適当である)。

 しかし、原文7文字の趣旨は私釈三国志の訳のとおりである。

 

 私の訳を見ると、何か心理的なロックがかかっている感じがする。

 ためらい?なのかな。

 その辺が開錠できたらもっといいものができるのだろうか。

 よくわからない。

 

 ただ、なんだかんだで面白かった。

 機会があれば、百人一首で同じような翻訳をやってみよう。

 具体的な何かを作る予定はないけど、この能力何かに応用できるかもしれないので。

 

記録から見えてくるもの

1 ひたすら記録を取る

 令和3年に入り、私は生活に関する記録を録りだした。

 

 例えば、自分の活動記録。

「自分が『やる』と決めたこと」を実行した場合、その時間を15分単位で記録している。

 

 次に、自分の体重。

 この点、私は過去に自分の体重を記録していた。

 しかし、途中で途切れたりしていたし、記録の管理が不十分だった。

 そこで、記録を録って整理することにした。

 

 さらに、自分の睡眠時間。

 この点、私は過去に自分の睡眠時間を記録していた。

 しかし、これもいつの間にかやめていた。

 そして、最近、自分の睡眠の傾向を把握する必要が生じてきた。

 そこで、自分の睡眠時間について記録を取って整理することにした。

 

 また、自分の運動量。

 先日、「万歩計を買おう」と思って活動量計を購入した。

 しかし、スマートフォンに万歩計のアプリをインストールしていた関係で、外出時の歩数の記録は既にあった。

 そこで、この記録をちゃんと整理し、今後は記録を録ることにした。

 

 最後に、私の収支。

 これも一時期記録がない時期があるが、2016年以降は記録が途切れていない。

 まあ、100円単位でしか記録をとってないけど。

 

 以上、現在、私は体重・活動・睡眠・運動・収支についての記録を取っている。

 

2 記録を収集・整理し始めた理由

 この点、私は記録を全く録らない人ではない。

 例えば、10年以上前、私は体重と食事について精密な記録を取った。

 そして、それを活用すること等により体重を約15キロ減らした。

 また、金銭の記録は幼い時からつけていた。

 

 しかし、何かのきっかけで記録を録らなくなっていた。

 やめた原因はよくわからない。

「めんどくさい」、それもあるだろう。

 また、「可視化するのが嫌になった」、これもあるだろう。

 現実や事実が人を不快にさせるということはよくあることである。

 

 しかし、「目的が不明確だから」というのも小さくないのではないか。

 この点、私は「知ること」それ自体から大きい利益(快楽)を得ることができる。

 そこで、目的が不在でも記録を取ることに利益があった。

 しかし、それはなんとなく辞めてしまう温床にもなる。

 現実を直視させるという意味で、「知ること」は不快をもたらすことはあり、それが自分の快楽を上回ることは普通にあるだろうから。

 

 そこで、今回は「手段として記録を録ること」を意識するようにした。

 また、「死ぬまで記録を録ること」を旨とすることにした。

 

「手段として記録を録る」とは何か。

「目的を設定して記録を録る」ことである。

「記録を録ること自体を目的にしない」と言ってもよい。

 

 そして、最初の具体的な目標は「現状を把握すること」にした。

 そもそも、私は活動時間や睡眠に関する現状が分からなかった。

 だから、記録を録って可視化する。

 そして、「現状の傾向を把握」したら、「変更可能で改善を要する点を改善する」という目的も加える。

 

 ところで、この発想はビジネスにおいては当然の発想である。

 こういう発想が意識的に行えなかった(無意識的には行っていたとしても)というのはアレなんだろうなあ。

 まあ、これから意識的に行えばいいか。

 

3 記録から得られたもの

 こうして、記録を集めるようになった。

 そして、夏休みの宿題によくある「毎日の天気の記録」のように「単に数値を記載する」のではなく、数値を把握するようにしている。

 そのような過程を経て得られたことが「認識と事実のずれ」である。

 

 私の認知能力がダメなのでこうなったのかは分からない。

 しかし、私の認識と事実にはギャップがあった。

 そして、その数値を見ることでギャップを認識することができた。

 

 また、昔の記録と今の記録を比較・参照することで、「昔も今も大差ない」ことが分かった。

 例えば、私は過去の一時期に自分の活動記録・活動時間を記録していた。

 その結果と今の結果を比較すると、活動時間に大きな差はなかった。

 また、過去に録った睡眠時間の記録と現在の記録とを比較してみた。

 その結果、両者に大きな差はなかった。

 

 この点、過去と現在で意識的に何かを改善しようとしたわけではない。

 よって、結果が同じになるのは当然である。

 しかし、このような事実が認識できたのは大きかった。

「今の自分にある問題は昔の自分にもあった」ことになるが、これは言い換えれば、「今の自分の問題は自分が堕落したから生じたわけではない」ということになるので。

 

 現状の把握としてはこれで十分か。

「サンプル数が足りているのか」も気になるが、「有意差があるか」には興味がないし、漠然と「この辺」と分かればいいので。

 

 では、次の段階、つまり、改善の段階に進もう。

 この点、改善するためには「改善すべき目標」が具体化しなければならない。

 また、その目標は現実的に可能なレベルでなければならない。

 そして、それは記録とは別個の作業である。

 だから、めんどくさくはある。

 しかし、やらなければ記録を録っている目的が達成できないのでちゃんとやろう。