今回はこのシリーズの記事の続き。
「後編」では表現の自由について気付いたことを書く。
そして、「完結編」では視点をさらに広げて気づいたことを書く。
なお、過去問の内容と答案の骨子をもう一度掲載する。
(以下、平成3年度司法試験(二次試験)・論文試験・憲法第1問)
「市の繁華街に国政に関する講演会の立看板を掲示した行為が、屋外広告物法及びそれに基づく条例に違反するとして有罪とされても、表現内容にかかわらないこの種の規制は、立法目的が正当で立法目的と規制手段との間に合理的な関連性があれば違憲ではないからやむを得ない。」との見解について論評せよ。
なお、「小中学校の周辺では煽情的な広告物の掲示はできない」との規制の当否についても論ぜよ。
(過去問再掲載終了)
また、答案の骨子はこちら。
(ちょっと肉付けをした、あと、後半についても記す)
1 前段について
① 本問の「立看板を掲示する行為」は政治的表現の自由として憲法21条1項により保証されるので、その行為を刑事罰で制限する行為は(一般的に)憲法上の権利を制約する行為になる
② 表現の自由に対する制限が「公共の福祉」(憲法12条・13条)によって正当化されるか問題になるが、
政治的表現の自由が民主主義を正常に機能させるための担保として機能していることを踏まえれば、
正当化の判断する際の基準は原則として厳格な基準を用いるべきである。
③ 内容中立規制の場合、諸事情を考慮すれば、②の原則論を修正し、いわゆる内容規制に用いた厳格審査基準よりも緩やかな基準を使うことができるが、
「手段と目的との間に合理的関連性があれば違憲ではない」というラインまで基準を緩やかにすることは、諸々の背景事情を考えれば妥当ではなく、
「立法目的を達成するより緩やかな規制手段がない場合に合憲となる」という基準を採用すべきで、その点は見解に同意できない
④ 法律・条例が一律・例外なく掲載に対して刑事罰で臨んでいるならば、③で掲載した基準を満たさないので違憲となるので、その点も見解には同意できない。
2 後段について
① 広告物の掲示行為が21条1項で保障されるかが問題となるが、
結論として保証されるので、これを規制すれば憲法上の権利の制限と言いうる
② ①を前提として、規制が「公共の福祉」によって正当化されるを検討すべきところ、
政治的言論を制約する場合と異なり営利的言論を制約しても民主主義の価値の担保機能を害する危険性が(相対的に)低い点を考慮すれば、
前述の原則論をそのまま適用する必要はない
③「煽情的な点」に着目して規制することから内容規制に該当しうるが、
場所が限定されていること、言論の対象が営利的言論であることを考慮すれば、
合理的関連性の基準で審査してもよい
④ 規制目的は青少年保護であり、(中略)、目的は正当である
手段も小中学生の周辺を対象としており、(中略)、限定的であり、合理的関連性ある
よって、規制は正当化されるため合憲である
⑤ もっとも、「周辺」という範囲が具体的に特定されている必要はある
何故なら、規制の境界が不明確であれば、国民がどこまで離れれば可能なのか分からず、ペナルティを恐れて萎縮してしまい、その結果、事実上の制約が生じてしまうからである。
(「もっとも以下」の部分は書くかは微妙、些末なので余力がなければ切ってもいい)
あてはめ(事実認定・事実の評価・規範適合に関する結論)は端折って書いた(現実の答案はもう少し厚く書く)いたがこんな感じである。
これらの知識を理解し、記憶し、表現できれば、試験的には大丈夫であろう。
いずれの立場にたつにせよ、この問題を真面目に考えるなら、背景知識としてここに書いたことくらいは前提にしていないとダメである。
憲法に記載されている「表現の自由」も「公共の福祉」もそれだけで押し切れるワイルドカードではない。
なお、設問後段と関連のある「営利的言論の自由」についても少し触れておく。
詳細は、平成18年の過去問を見る際に触れることとなろうが。
8 営利的言論の自由の憲法上の保障と違憲審査基準
設問後段が規制しているものは「広告物の掲示」である。
広告を掲載することはいわゆる「営利的言論」の一形態であると言われている。
では、営利的言論の自由は憲法21条1項の「表現の自由」として保障されるか。
この点、営利的言論の目的が営業活動であることを考慮すると、営業の自由を保障する憲法22条1項で保障すれば足りるように思える。
しかし、憲法21条1項は「その他一切の表現の自由」について保障されており、営利目的であろうが「その他一切の表現」には該当する。
また、営利的言論も情報の伝達としての機能は果たされるところ、情報を得る国民側から見た場合、営利的言論によって国民は情報を「知る」ことができる。
そして、この知る権利は憲法21条1項の解釈によって保障される。
などなど考慮すれば、営利的言論は憲法21条1項で保障されることになる。
ただ、この自由も絶対無制限ではないため、「公共の福祉」による制約として許容されればこの制約は正当化され、合憲となる。
そして、営利広告は政治的言論と異なり、民主制の過程との関連性が乏しい。
そのことから、厳格な基準を用いる必要はない、ということになる。
もちろん、合理的関連性の基準まで緩やかにしていいか、または、実質的関連性を要求すべきかといった程度の問題はあるとしても。
まあ、上では合理的関連性の基準を用いているが。
以上、試験に関する前提知識を確認した。
結構、たくさんあるものである。
以下、試験から離れてから過去問を見て思ったことを書く。
9 LRAの基準について
私が答案で用いた「立法目的を達成するより緩やかな規制手段がない場合に合憲となる」という基準は所謂「LRAの基準」と呼ばれ、文字を見るとかなり厳しい基準に見える。
ただ、最高裁も薬事法事件で「より緩やかな規制手段の有無」を違憲審査基準の要素の一部に掲げたげたことがあるため、(表現の自由で持ち出すことの当否はさておき)利用することが一切許されない性質のものではない。
この基準については疑問があった(私も思ったし、書籍に記した人もいた)。
疑問を要約すると次の3点になる。
① 「より緩やかな規制手段がない」ことを証明するのは悪魔の証明ではないか
② この基準を持ち出したらほぼ違憲になるが、それは結論先取りではないか
③ この基準を持ち出して合憲の見解を採った場合、その見解に説得力を持たせることができるのか、つまり、「より緩やかな規制手段がない」説明に説得力があるのか
①は文字を見たら当然浮かぶ批判であり、論理的に免れられない批判である。
②は事実上生じる結果に対する批判である。
事実、私も「LRAを持ち出してかつ合憲にする答案」を準備したことは1回しかないし、答案練習会・試験本番において現実に書いたことは一度もない。
「1問1時間で2000字程度の答案を手で書く」という状況でおそらくそれだけの準備をするだけの時間はない。
③は②を回避するために結論をひっくり返した場合に生じる批判である。
事実、「LRAを持ち出し、かつ、合憲にする答案」を準備した際、代替手段を複数検討した上で「他に手段はない」という結論を出した。
以上の疑問から、私は薬事法と類似のケース以外ではこの基準を用いることは少なくなった。
もちろん、「勉強の初期段階で答案のロジックを学ぶ」という意味でLRAの基準を用いるのは勉強効率としては非常に有益だと思うが、その立場に安住するのはよくない。
その一方で思う。
当然だが、この基準は別に私個人が作った基準ではない。
複数の憲法学者たちが提案している(た)基準である。
では、何故、憲法学者たちはこの基準を持ち出したのか。
この点、本気で「悪魔の証明をしなければならない。できなければ、表現規制は違憲だ」と言いたいわけではないだろう(中にはいるかもしれない)。
しかし、このメッセージの趣旨は、「現実問題、結論として表現の自由を規制するのはやむを得ない。しかし、表現の自由が民主主義を機能させる担保として機能することを踏まえれば、制限の際には具体的事情を考慮してできるだけ表現の自由に配慮すべきであり、裁判所は『そこ』を判断しろ」ではないか。
これは、選挙権の平等に関して言われる「判断過程統制」に近いものがある。
(経済的自由権等と異なり、表現の自由の制約について国会に立法裁量はないと考えられているので、判断過程統制と同列に論じることは不適切かもしれないが)。
また、結論の前提(規範の部分)を構成する具体的な基準の設定は必要不可欠である。
しかし、重要なのは具体的な基準それ自体ではなく、私が思ったメッセージの方ではないか。
さらに、踏み込んでいえば、このメッセージさえ反映していれば、基準なんかなんでもいいのではないか。
私が気付いたことはこの点であった。
この正誤はなんとも分からないし、また、私オリジナルということもない。
ただ、漠然と「LRAって何だったのだろう?」ということを発端にして、試験から離れて気づいたことを忘れないためにこのブログに保存しておく。
それから、私が過去問(あるいは過去問たち)を見て考えたことは別にあり、実際はこちらの方が大事である。
ただ、きりがいいのと文字数が多くなってきたので、それは「完結編」に回す。