今日はこのシリーズの続き。
ただし、司法試験の過去問からは離れた話になる。
10 日本で憲法を考える意味
私が(旧)司法試験に合格して10年以上が経過した。
10年以上経過した今、憲法に対する見方はかなり冷めている。
メモの裏にプリントされていた過去問を見たこと、最高裁の判決がニュースに出たことでいくつか思ったことがあり、そのことを忘れないためにこのブログを書いているが(最高裁のニュースの件はこの次に書く)、そこに熱はない。
この点、私の利害に直接かかわる事態が発生し、憲法を武器にして戦う必要が生じれば、当時学んだ憲法に関する知識等をフル活用して戦うだろう。
しかし、幸運にもそのような状況は起きなかった。
何故冷めたのか。
それは「死んだ憲法についてあれこれ考えることに意味があるのか」と考えるからである。
あと、「近代立憲主義の復活を国民の多数派は望むのか」というのもある。
11 日本国憲法は死んでいる
「日本国憲法は死んでいる。」
端的にこのことを教えてくれた書籍は次の書籍である。
今はお亡くなりになった小室直樹先生の書籍。
「憲法の前提」について書いてある本である。
とても読みやすくて、かつ、非常に面白い。
もし、誰かから「憲法について知りたいので、何かお勧めの本を教えてください。」といわれたら、私はこの本を勧める(現実にはこの本は入手しづらいので、別の本を勧めることになるが)。
間違っても、条文解釈が羅列されているだけの憲法の基本書は勧めない。
この本に何が書いてあるのか。
憲法の成り立ちについて書いてある。
具体的には、「立憲主義・民主主義・資本主義に関する歴史」が書かれている。
立憲主義・民主主義・資本主義、これらはヨーロッパ社会で成熟した。
となれば、その背景には当然キリスト教がある。
だから、キリスト教の教義やキリスト教と立憲主義・民主主義・資本主義との関係についても触れられている。
また、この本は日本で出版された書籍であるため、日本の現状、明治憲法の制定経緯、日本国憲法の制定経緯なども書かれている。
そして、この本の第1章のタイトルが「日本国憲法は死んでいる」である。
「日本国憲法が死んでいる」とは何か。
近代における憲法は「権力に対する命令書」である。
つまり、憲法が生きている状態とは「権力の暴走が制御できている」ことを意味する。
だから、「日本国憲法が死んでいる」とは「権力の暴走がコントロールされてない」ことを意味する。
これに対して、「そんなことはない」と反論するかもしれない。
しかし、「権力が暴走がセーブされていない事実を列挙する」ことは私であっても可能だし、この本にも記載されている。
だから、その反論は本を読むか、少し想像してからにしてほしい。
あるいは、次の文章でも読んでみてから考えてほしい。
さて。
そんな状況で憲法をどうこう考えたりすることに意味があるのか。
墓守をするようなものではないか。
それが私が熱意を失った最初の理由である。
12 立憲主義の復活を国民は望むか
私が憲法に対する熱を失ったもう一つの理由。
それは、「日本国民(日本共同体)は立憲主義の復活を望むのか」と思うから。
望むならそのためにアクションをするのはありだ。
だが、望まないなら復活のためにあれこれ考え・動くことは不毛である。
日本は明治維新の際に、ヨーロッパの思想・制度を必死で勉強した。
それは国際社会で生き残るためという点もあるが、それは必死だっただろう。
さらに、帝政ロシアに対して戦争を挑み、戦争目的を達成した。
そして、不平等条約を改正させ、列強への仲間入りを果たす。
さて、「国際社会で生き残るためにヨーロッパの思想・制度を勉強した」と述べたが、その一方で近代主義の思想を根付かせるための努力も身を結びつつあった。
それが結晶化したのが大正デモクラシーであり、大正政変であり、護憲運動である。
これは偉業である。
そのために日本がやったことを見ると、奇跡としか思えない。
ただ、残念ながら近代主義を根付かせるためには時間が少なすぎたのだろう。
あるいは、急ぎすぎたと言ってもいいのかもしれない。
昭和期、世界恐慌による混乱から日本は戦争に突っ込み、その結果敗北する。
そして、戦後のGHQの改革により、日本を近代化させようとしたシステムが一掃される。
残ったのは、日本古来の思想(習俗、伝統)と形ばかりの憲法である。
最近、私は山本七平の書籍を読んでいる。
これを読み、歴史などを参照した結果、私はこんな仮説を立てている。
平和主義はマッチする(詳細は別の機会に譲る)。
民主主義はマッチしそうな気がする。
この仮説はもう少し精査したいが、これを前提とするとある疑問が浮かぶ。
「日本は本当に立憲主義の復活を望むか」と。
「立憲主義は日本の古来の伝統に沿うのか」と。
自由主義(立憲主義)・民主主義・資本主義、これらは総てキリスト教を背景に成立している。
キリスト教があって、これらのシステムがあると言える。
よって、キリスト教を背景にしない日本がこれらのシステムを採用する必然性はない。
「世界と付き合っていくため」ならば、そのシステムを採用している振りさえしておけば最低限は目的を達成できる。
そう考えれば、「憲法なんか見かけだけ成立させておけば、死んでいようが生きていようがどうでもいい」という議論が成り立つ。
果たしてどうなのか。
正直分からない。
日本の古来の思想と立憲主義がマッチしない場合、立憲主義やそれを支える自由主義・個人主義が日本に住む個人の幸せに直結する保証はない。
分からないが、分からなかったことは覚えてはおきたい。
よって、このことをブログにメモに残しておく。