薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

東日本大震災から10年

1 10年前の思い出

 今日は3月11日。

 東日本大震災の日である。

 そして、今年は2021年。

 東日本大震災から10年経過したことになる。

 

 あの日、私は東京の霞が関で研修を受けていた。

 そのため、震度5強と言われる揺れが私たちを襲った。

 しかし、別に部屋(会議室?)の何かが落下したわけではない。

 また、感じる揺れも大きくなかった。

 そのため、机の下に避難することはなかった。

 揺れの影響と言えば、講師が話すのを中断した程度である。

 もっとも、あの地震の直後に研修は中止、直ちに帰宅するように言われる。

 

 この点、地震により地下鉄・電車等が止まったため、一人道端に取り残されてしまう。

 いわゆる帰宅困難者である。

 もっとも、最初は「ネカフェに泊まればいいや」などと気楽に考えていた。

 

 その後、街中を歩いているうちに、楽観的な気分は吹っ飛ぶ。

 例えば、コンビニに入る。

 食べ物・飲み物が品薄なのである。

 飲み物は買えたものの、食べ物として購入できたのはお菓子であった。

 

 また、店も閉まっているところがちらほら見え、「ネカフェに泊まれそうにない」ことに気付く。

 そこで、私は思案する。

 すぐ側には、日比谷公園という大きい公園があった。

 そのため、日比谷公園に避難し、公園で夜を明かすという手段はある。

 しかし、季節は3月、寒いのでできれば避けたい。

 よって、手段としては「歩いて帰る」しかない。

 

 しかし、ルートが分からない。

 スマホのバッテリーは十分ではなく、使い続けられる状況にはない。

 また、地震直後の混乱からネットにつながる状況でもなかった。

 そのため、現在の平時なら使える「グーグルマップを見ながら帰る」という手段は採れなかった。

 

 もっとも、霞が関と自宅のほぼ中間地点にあるとある駅まで行ければ、そこから家までの道筋は分かっていた。

 以前、「その駅から自宅までの電車が止まったときに歩いて帰れるようにしておこう」と考え、かつ、実際に歩いたことがあったからである。

 しかし、霞が関からその駅までのルートが分からない。

 そんな状況で帰れるのか。

 

 漠然とした方角は分かる。

 霞が関から見て、自宅は北西の方角にある。

 また、歩行時間も大雑把に予測できる。

 霞が関から自宅まで地下鉄で16区間

 1区間あたりの移動時間を30分とすれば、自宅まで歩いて8時間となる。

 

 私は8時間も歩いた経験はない。

 長くて3時間半である。

 

 ただ、歩いて帰ることが現実的に無理である、というわけではないようだ。

 そこで、歩いて帰ることに決定し、北西の方角に向かって歩き出す。

 

 その後、道が分からなくなり、見当違いな方向に行ってしまった。

 しかし、約4時間歩き続けた結果、中間地点に到着した。

 その結果、帰宅までのルートが明確になり、安心して歩き続けることができた。

 もっとも、最後の最後で力尽き、最後の1区間分については通りかかったタクシーを拾って自宅まで帰ることになるのだが。

 

 部屋には棚などに置いてあったもののいくつかが落下し、床に散乱していた。

 しかし、何かが壊れた、みたいなことはなし。

 深夜ではあったものの、私が無事に自宅に戻れたことを姉に連絡し、ゆっくりと眠る。

 

 次の日が休日でよかった。

 約8時間歩き続けて疲れ果てていたので。

 

2 亡き父をリスペクトする

 東日本大震災の当時、私の父は仙台に単身赴任していた。

 そして、その日の父は出張で東京に来ていた。

 また、母は仙台の父の家にいた。

 

 両親の安否確認は、東日本に住んでいない私の姉の活躍によってなされた(地震直後の混乱もあり、私は両親と連絡が取れなかった、姉がいなければ、その日の深夜、私が帰宅するまで安否は分からなかったことだろう)。

 しかし、地震は父が住んでいた家のインフラを機能停止に追いやる。

 電気・ガス・水道、全部止まったらしい。

 そのため、母はそんな中一人孤立することになる。

 

 一方、東京にいる私の父。

 直ちに仙台に戻ろうとしたものの、交通網はズタズタ、その手段がない。

 私と姉はスカイプ・メールで意見交換し、「父には無理をさせずに私の家に一時避難させよう」ということで一致する。

 そして、その旨を父にメールで連絡した。

 

 ところが、父は一人孤立した母が心配でしょうがなかったのだろう。

 地震から3日後の日曜日、山形空港まで移動できることを見つけ、実際に山形空港まで飛行機で飛び、山形空港からタクシーを使って仙台まで帰ってしまった。

 そして、仙台の家に戻るや否や、私に無事に帰った旨、電話で連絡してきた。

 

 東日本大震災は東日本の交通網をズタズタにした。

 また、情報も錯そうしていた。

 その中で、父は母の安否を危惧し、仙台に急行した。

 父のこの行為はすごいと思っている。

 

 なお、父は東日本大震災の1カ月後、東京に転勤になる。

 そして、東日本大震災の約2年後に61歳で亡くなり、今は亡き人の数に入る。

 別に、この死が震災と関係があるわけではない。

 だが、父のこの行為を記録しておく。

 

3 最後に

 ところで、この震災の死者・行方不明者は約20000人とのこと。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。