今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
26 第5章の第3節を読む(後編)
前回は数学において重要な概念を用いながら、最単純ケインズモデルについてみてきた。
今回はこの続きである。
サミュエルソンはシンプルなモデルの形で表現し、ケインズの主張が具体的に分かるようにしたのである。
とはいえ、サミュエルソンの説明の背後にはレオン・ワルラスの業績がある。
なお、レオン・ワルラスについては次のメモで参照している。
ワルラスの業績は「『一般均衡論の創立』による経済学の科学的自立」にある。
つまり、経済現象を含む社会現象は相互作用によるスパイラル(循環過程)がある。
とすれば、この循環過程を説明することが重要になる。
しかし、循環過程を説明する際に障害になるのが「循環論法」である。
以下、相互作用のある循環過程と相互作用のない因果関係についてみていく。
まず、単純な相互作用のない一方的な因果関係から。
「一方的な因果関係」というのは原因が存在することによって結果が生じる関係がある(実際に、因果関係の有無を見るときは、「あれなければ、これなし」の関係にあるかどうかを見るのだが、細かくなるので割愛)。
この場合、結果は原因に作用することはない。
だから、一方的な波及効果があるだけで、それほど複雑になるわけではない。
なお、この関係は仏教のいわゆる「因果律」と同様である。
つまり、釈迦は仏教を生み出す際に「すべての結果には原因がある」と述べたが、これは一方的な単純因果関係・線形因果関係であって、相互連関関係という発想はない。
というのも、釈迦の十二因縁は大変緻密であるものの、次の関係を見れば分かる通り、因果の経過は直線的となっているからである。
無明 → 行 → 識 → 名色 → 六入 → 触 →
受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死
もっとも、ナーガルジーナの縁起解釈により、仏教の単純な線形因果関係は相互存在関係に転換されており、相互作用の存在が認められるようになった。
ただ、仏教においても単純因果関係から相互連関関係への転換という出来事があり、その転換は容易ではなかった、ようである。
ここで話は仏教から経済学に移る。
この点、経済学の主要目的は「資本主義社会における価値法則の解明」である。
その解明の際に登場した主張に「労働価値説」がある。
この辺については次のメモで触れている。
この点、「労働価値説とは物の価格は労働の質と量によって決まる」というものである。
そして、労働の量は労働時間を用いることで容易に変換できる。
他方、労働の質の計量化は容易ではないため、労働の質の計量化、つまり、労働力の換算率が問題となった。
そして、マルクスは苦心惨憺して、「労働換算率は市場のメカニズムによって決まる」と結論した。
ところが、オーストリアの大経済学者ベーム・バヴェルクに「それでは循環論法になってしまう」と批判されてしまう。
また、当時は「循環論法は説明になっていない」と考えられており、「循環論法でも説明できることがある」とは考えられていなかった。
結果、マルクスは循環論法という批判を跳ね返せすことができなかったのである。
セイの法則に洗脳された古典経済学派は「失業はない」と唱え続けたが、当時、資本主義社会でも失業が生じうると述べたのはマルクスのみであった。
しかし、マルクスの助言は生かされず、時代はファシズムを選ぶことになる。
本書では、日本のマルキストのだらしなさに言及しているが、上の読書メモと重なるため、これ以上は割愛。
なお、この節の最後はマルキストに限らず日本の経済学者・エコノミストの大多数の怠慢さについて言及しているが、この点も割愛。
以上が本節のお話。
次節で、「数学の効用」が示されることになる。
なお、最単純ケインズモデルについて細かくみていた。
改めて読むことによって勉強になった。
その意味で「読書メモ作成」の効用を実感する次第である。
ところで、今回、数学コンプレックスに悩まされた生徒役の主張を振り返ってみる。
本書で登場する生徒役の数学コンプレックスに基づく発言は次の通りであった。
「モデルが非現実的すぎる」
「何故、『関数』という言葉を追加するのか」
「『変数』という概念を使うな」
「『変化しない』が『変化する』の一類型だなんて許せない」
正直なところ、生徒が数学コンプレックスに至ったプロセスに対して深く同情せざるを得ない、という感じがしないではない。
ただ、ここから見えてくるものがあるような気がするので、その点だけはメモに残しておこう。
なお、色々分析しているが、背後にどのような発想があるとしても、それに対して倫理的に非難をする予定はないし、する必要もなければ、すべきでもない。
目的は分析と理解にあり、非難にはないので、その点はご了承願う。
まず、「(説明のための)モデルが非現実的すぎる」について。
この点、単純なモデル・非現実的なモデルにした結果、物事の本質が理解できなくなれば論外である。
他方、単純なモデルで本質的な要素の説明・理解が可能であれば、これほどコスパのいい話もないはずである。
つまり、単純なモデルを作る際には「必要最小限度の要素」だけが考慮されたと言える。
にもかかわらず、このような批判が出てくるということを考慮すると、この背後には「本質的な説明が可能であってコスパがよくなるとしても、単純なモデルを使うべきではない」という発想があることになる。
あるいは、「本質的な要素の説明の前段階で雑なモデルが登場させると、その後になされる本質的な要素の説明の説得力が危ぶまれる」ということもあるかもしれない。
どうなのだろう。
次に、「何故、『関数』という言葉を追加するのか」についてみてみる。
この背後には「もっと文字数を減らせ」という発想があることに想像が難くないが、この発想は前に述べた「雑なモデルと両立しない」ように考えられる。
どうなのだろう。
さらに、「『変数』という概念を使うな」という点について。
この点、本書では「犬にかまれた人間が、その後、犬を見て反射的に跳びあがるのと同じではないか」と述べている。
ただ、この背後にある発想を抽出するならば、「私が気に入ったモデル・方法で本質を説明せよ」になりそうである。
これは「中国的な論理」から考えれば理解できなくはない。
もちろん、その結果、客観的な理解から遠のくということはありうる。
しかし、「客観的な理解に興味がない」・「完全な理解ではない以上五十歩百歩」・「正義よりも快楽が大事だ」と考えているなら差し支えないことになる。
最後に、「『変化しない』が『変化する』の一類型だなんて許せない」について。
本書では、「直線は曲線の特殊なケースである」という説明に対して、生徒役の人は「『まっすぐなこと(直)』と『曲がったこと(非)』を同視する(同じ類型に含めてしまう)なんて、なんと無法な」と述べており、数学的ルールに対して道義的・倫理的評価を加えている。
あるいは、「政府を無視する」という仮定に対して「そんな仮定を置いたら、犯罪者が犯罪をしまくる社会になってしまうではないか」とも言っている。
この背後にあるのは、、、なんだろう。
仮定・モデルを言葉にしただけに過ぎないのに、それを現実化して考えてしまっていることを考慮するならば、これは言霊思想であろうか。
あるいは、「道徳の法の未分離」とか?
以上、生徒役の反応の背後にある発想を切り抜いて見た。
当然だが、この発想も一種の極端化したものであるから、このような極端化した発想をした人間が実在するというつもりはない。
また、仮に、実在したところでこれに何らかの批判を加える必要はない。
もっとも、このような発想に対する手当が日本における数学力復活の具体的な対策になるような気がする。
次回はついに最終節について見ていく。