今回はこのシリーズの続き。
ここまで「私釈三国志」風に「痩我慢の説」を意訳してきた。
今回は勝海舟への一連の論評について私が考えたことをまとめたい。
24 自己批判と隠棲の価値
福沢諭吉は「痩我慢」の美風を回復する手段として、
① 「自分の真似をしてはならない」という自己批判の言葉を遺すこと
② 爵位や禄の放棄した上での隠居
を挙げた。
しかし、この二つの手段、後世の役に立つだろうか?
憲法的な言葉に引き付けて書くならば、「合理的関連性」があるとしても「実質的関連性」はあるのだろうか?
あるいは、「相当性(利益の均衡)」があるのだろうか?
例えば、福沢諭吉の言う通りにして、勝海舟が「後世の者は私(勝海舟)の真似をしてはならない」と述べたとしよう。
しかし、それを受け取った後世の人は具体的に何をすべきなのか?
言葉を額面通り受け取れば、「降伏は絶対してはならない」・「徹底抗戦して『幕府・国家権力と一緒に討死に』しなければならない」ということになる。
これは太平洋戦争末期に叫ばれた「一億玉砕」に他ならない。
一億玉砕したら利益の均衡が保たれたとは到底言えないだろう。
もちろん、福沢諭吉がそんな極端なことを考えていたとは私は考えない。
しかし、具体的な比較考量が示されていない以上、この意見を真摯に受け取った者は二極化せざるを得ないことになる。
つまり、「せめて『ここまで』は抗戦せよ。」、「せめて『ここまで』の危険や損害を甘受せよ」という具体的なラインがなければ、「この言葉を無視する」か「言葉を受け入れて玉砕か」の二者択一にならざるを得ない。
この点、示された「ここまで」の基準に対して「恣意的である」という批判が生じうるとしても、「恣意的である」という批判が消えることは永久にない。
だったら、「未来永劫、妥当なラインを目指して永遠に悪戦苦闘し続けるしかない」と覚悟を決めて、未来永劫、具体的なラインを探し続けて悪戦苦闘し続けるよりほかないと考えられる。
なお、この極端な二分法に対しては、このように反論されるかもしれない。
「それは真摯に受け取りすぎである。勝海舟が『私の真似をすべきではない』という発言を遺す趣旨は、痩我慢の美風を尊重することにあるのだから、痩我慢を尊重した結果として和議や降伏したのであれば、この言葉を無視することにならない」と。
日本的に見た場合、想定される最初の反論である。
旧・司法試験の論文試験で使ったテクニックと同様の論法に見えなくもない。
しかし、この反論を許容したら、自己批判の発言は無視され、無益な空文と化すだろう。
前述の具体的なラインが引けなかったのに、今回の「痩我慢を尊重しての降伏・和議」と「痩我慢を尊重しなかった降伏・和議」の境界がどうして引けるのだろうか?
既成事実を積み上げてから、「今回のケースは『痩我慢を尊重しての降伏・和議』である」と堂々と言われたらどうするのか。
次に、「隠居する点」についても疑問符が付く。
もちろん、隠居することによって「裏切りやがって」と考える徳川家臣団や徳川家臣団の遺族の気分を晴れさせることはできるだろう。
その点は疑いはない。
しかし、「戦渦による民の苦しみを緩和させたい。そのためなら自分はどうなっても構わない」と思った人間には勝海舟の隠居はなんの抑制の手段にもならないだろう。
この点、勝海舟が自分の身を危険にさらした点は福沢諭吉自身が認めている。
さらに、勝海舟が自分の栄達のために無血開城をしたわけではないことも認めているではないか。
隠居によって明らかになる事実は「勝海舟に自己図利目的のなかったこと」であろう。
そのことが明らかになったからといって痩我慢の維持に影響があるのだろうか?
確かに、自己栄達目的の裏切りが減るかもしれない。
しかし、『痩我慢』の美風から見ればそれは論外かつ無関係のことであろう。
この話とオーバーラップするのがいわゆる「敗因21か条」の「反省」である。
山本七平の言葉をお借りするならこんな感じになるだろうか。
反省とは「自己批判」や「爵位や禄を返上した上での隠居」といった儀式をすることではない。
「過去の自分を未来の人に見せること」、基本的にそれで十分である。
ならば、必要なのは「情報公開と具体的な比較考量の過程」であり、その開示をもって十分ではないか。
勝海舟はどのような事実認定と評価を行って江戸城を明け渡したのか。
それに対して、福沢諭吉はどのような評価を行って江戸城を時期尚早と考えたのか。
それを示してしまえば、隠居や自己批判なぞどうでもよいのではないか?
もし、福沢諭吉の真の目的が「具体的な比較考量結果を明らかにすること」にあり、かつ、その意図でこの書簡を勝海舟に送ったのであれば、この目論見は失敗したことになる。
勝海舟が「知らんがな」と切って捨てたのは最初に意訳した部分の通りなのだから。
また、私は福沢諭吉が「痩我慢の絶対化」を考えていたとは思っていない。
しかし、歴史を見る限り、「痩せ我慢の絶対化」が残ってしまったように考えられる。
その原因は「『痩我慢』を考慮した計算式を作れ。その計算式(基準)の具体例はこうである」という点が福沢諭吉の文章に十分表示されなかったからではないか、と考える。
私には、江戸城の無血開城が早すぎたのか、適切なタイミングだったのかについては「分からない」以上の感想はない。
判断に必要な事実関係とそれを裏付ける資料・証拠がないからである。
ただ、一連のやりとりを見て返す返すも残念であると考えるだけである。
なお、私の感想はもう2点ある。
だが、文字数もある程度多くなっているので、それ以外は次回以降に。