今回はこのシリーズの続き。
今回も「私釈三国志」風に「痩我慢の説」を意訳していく。
32 第二十八段落目を意訳する
最初は、第二十八段落を意訳する。
具体的には、「蓋氏の本心は、今日に至るまでもこの種の脱走士人を見捨てたるに非ず、」から「欽慕の余遂に右の文字をも石に刻したることならん。」の部分までである。
(以下、第二十八段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
榎本武揚は決して過去を忘れて立身出世を楽しんでいるわけではない。
また、自分と共に戦い死んだ武士たちの武勇を忘れ、彼らの死を哀しまないでいるわけでもない。
それを疑う者は、駿河の清見寺内に立てられている彼の石碑を見てくればいい。
この石碑は戊辰戦争で咸臨丸が清水港で沈没した際に戦没した者たちのために建てたものである。
そして、この石碑の背面には「食人之食者死人之事 榎本武揚」と刻印され、公衆の目にさらされている。
とすれば、彼の心情は察することはできよう。
つまり、彼は「徳川家に禄をもらい徳川家のために死すべき」と考えていたが、できなかった。
他方、それを実行した者たちがいる。
それを見ると、怒り・悲しみ・嘆き・後悔といった感情が押し寄せるのであろう。
その感情が石碑にあの九文字を刻み込んだと考えられる。
(意訳終了)
前段落で推察されている榎本武揚の心中について具体的に述べられている。
この辺を踏まえて、次の段落に進もう。
33 第二十九段落目を意訳する
次に、第二十九段落を意訳する。
具体的には、「すでに他人の忠勇を嘉みするときは、」から「人情の一点より他に対して常に遠慮するところなきを得ず。」の部分までである。
(以下、第二十九段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
他人の忠義・武勇を褒めるとき、それができなかった自分を不愉快に思うものである。
そのため、榎本武揚がどれだけ立身出世の階段を登り、栄達・昇進を重ねたところで、彼の過去が彼を苦しめ続け、彼の心に安らぎをもたらすことはないだろう。
だから、私は彼にお勧めしたい。
徳川家のために今から死ねとは言わないが、世間に対して常に遠慮の心を持つべきだと。
(意訳終了)
続きがあるようなので、次の段落を見てみよう。
34 第三十段落目を意訳する
さらに、第三十段落を意訳する。
具体的には、「古来の習慣に従えば、凡そこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、」から「一切万事控目にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ。」の部分までである。
(以下、第三十段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
日本の伝統・習慣に従えば、榎本武揚のような人間は出家して死者の菩提を弔ってきた。
明治時代にそのような出家落飾が時代錯誤・大袈裟だとしても、社会の表舞台に出ることをやめ、生活を質素にして、世間から忘れられた人になるべきであろう。
(意訳終了)
一言でまとめると、「社会の表舞台から降りて、隠棲せよ」になる。
このようにまとめてしまった方が「私釈三国志」風なのかもしれない。
榎本武揚についてはもう1個段落があるので、次に進もう。
35 第三十一段落目を意訳する
続いて、第三十一段落を意訳する。
具体的には、「これを要するに維新の際、脱走の一挙に失敗したるは、」から「国家百年の謀において士風消長の為めに軽々看過すべからざるところのものなり。」の部分までである。
(以下、第三十一段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
要は、榎本武揚は明治維新の戊辰戦争の折に死んだようなものだ。
少なくても、政治的には死んだ。
ならば、政治的な言動は一切謹んで、戦死者の霊を弔うことと遺族への配慮に専念すべきである。
そもそも、大将は敗戦という結果責任から逃れるべきではない。
また、この「大将が敗戦の責任を取る」という考えは社会の存立に極めて重要なものだ。
私が榎本武揚氏に隠棲を希望するのは、単に、彼のためだけではない。
国家百年の計の観点から見過ごせないから述べているのである。
(意訳終了)
福沢諭吉の榎本武揚への要望をまとめると、「『敗北・降伏した大将は敗戦責任から逃げるべきではない』といった考えは国家百年の計から見て極めて重要だ。戊辰戦争で負けて降伏した大将榎本武揚は敗戦責任をとって引っ込め。」ということになる。
そして、榎本武揚の例を抽象化して規範にすると、政治的なリターンマッチが許されない意味での隠棲の条件を次のような形でまとめられそうである。
1、総大将またはこれに準じた地位にいること
2、敗北して降伏したこと
この点、単なる大敗・逃亡を要件にすることは、勝敗が兵家の常である観点から妥当性を欠くように思われる。
そこで、大敗に加えて「降伏」を要件にした。
また、本文の記載から見ると、総大将という地位も重要に見えるので、これも要件に加える。
通常、敗戦の大将が勝った側で重用されるというケースというのはレアである。
それは、勝った側(今回なら明治政府)がそこまで重用しないからであろう。
例えば、降伏した大将をて処刑すれば実現しない。
追放しても、隠居させても実現しない。
文天祥は南宋の再興を目指してゲリラ戦を展開して抗戦するが、最終的に捕らえられる。
これに対して文天祥は「正気の歌」を詠んで断り、結果、刑死する。
他に似た例を他に探すと、永楽帝と方孝儒の関係もこれに近いかもしれない。
さらに、重要な例を挙げると昭和天皇のケースがある。
昭和天皇は太平洋戦争の後、約40年間ものあいだ在位した。
一般に、敗戦を耐え抜けた皇帝(国王)は存在しないことを考慮すれば昭和天皇のケースは奇跡とも言いうる。
このことは、第一次世界大戦の敗戦とともに消えたオーストリア帝国のハプスブルク家、オスマン帝国、ドイツ帝国などを見ればわかる。
もちろん、私は昭和天皇が責任を取らなかったとは考えていない。
陛下は陛下なりの責任をおとりになったと考えている。
「痩我慢の説」の表現を借りれば、専ら「戦死者の霊を弔してまたその遺族の人々の不幸不平を慰め」られていたと考えている。
また、明治政府において天皇陛下が立憲君主として振る舞っていたという話は依然述べた通りである。
その意味で他の帝国とは違うということもできる。
ただ、「痩我慢の説」をストレートに適用すると「うーん」となるだけで。
正直、私には「わかりかねる」以上の結論が出ない。
また、これ以上踏み込むと意訳からどんどん離れてしまうので、この辺にしておこう。
では、今回はこの辺で。
次回は、まとめの部分を意訳して、全体的な私の感想を書いて一区切りとしたい。