薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

「痩我慢の説」を意訳する その3

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も「私釈三国志」風に「痩我慢の説」を意訳していく。

 

6 第四段落を意訳する

 今回は第四段落から意訳する。

 具体的には、「左れば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、」から「我慢能く国の栄誉を保つものというべし。」までの部分である。

 

(以下、第四段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 したがって、自国が滅亡寸前のヤバい状態で明らかに敵に滅ぼされると考えていても、結果が明らかになるまではあらゆる手を尽くすべきだ。

 和議という名の降伏や滅亡などは結果が明らかになってから考えればいい。

 これこそ、国造りの基礎で国民の義務である。

 そして、この「痩我慢」、弱者が強者に立ち向かうなら必要不可欠である。

 また、戦争のときだけ必要というわけではない。

 外交においても「痩我慢」を忘れてはならない。

 例えば、ヨーロッパではフランスとドイツという大国があるが、その間にオランダやベルギーといった小国が頑張っている。

 小国で頑張るよりも大国に吸収された方が楽かもしれねえ。

 でも、彼らは「痩我慢」をして小国を維持している。

 そして、この「痩我慢」が小国の名誉を維持しているのだ。

(意訳終了)

 

 この段落では「国造り」(立国)における「痩我慢」の重要性について述べている。

 このことは理解できた。

 

 ただ、気になったのは、「大国に吸収された方が安楽かもしれない」という部分である。

 リバイアサンに厳重な鎖をかけた近代主義から見れば、ある程度妥当かもしれない。

 しかし、現実はどうなのだろう?

「大国に吸収された方が利益がある」というのはそれほど正しくないのではないか?

 

7 第五段落を意訳する

 どんどん意訳していこう。

 次は第五段落、具体的には、「我が封建の時代、」から「その瘠我慢こそ帝室の重きを成したる由縁なれ。」の部分を意訳する。

 

(以下、第五段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 江戸時代、一万石の小大名が百万石の大大名に対して大名として譲るところがなかったのは「痩我慢」である。

 また、武士の世となった鎌倉時代以降、皇室は何百年もの長い間あってないような存在だった。

 ならば、公武合体といった手段で皇室を何かに吸収させるという便宜もあっただろう。

 しかし、皇室は困難にめげずにその権威を維持しようとした。

 例えば、皇室の忠臣、中山大納言は江戸に行った折、徳川将軍家を「吾妻の代官」と放言したらしい。

 こんなことを言えば、どんな後難があるかわからない。

 だが、この背後には「痩我慢」がある。

 そして、この「痩我慢」こそ皇室の権威を作っているのだ。

(意訳終了)

 

 この段落では「痩我慢」がもたらしたものについて書いてある。

 小大名が大大名に屈しなかったこと、承久の乱以降の逼塞されていた皇室がその状態を盛り返したこと、などなどである。

 ちなみに、ここで中山大納言(中山愛親)の話が出てくるが、これは光格天皇松平定信がもめた「尊号一件」のときのこと。

 中山愛親尊号一件の結果、閉門処分を受ける。

 ただ、結果的に見た場合、「尊号一件」を含む光格天皇の時代、天皇の権威を大きく世に知らしめることになる。

 

8 第六段落を意訳する

 次は第六段落を意訳する。

 具体的には、「また古来士風の美をいえば三河武士の右に出る者はあるべからず、」から「その家の開運は瘠我慢の賜というべし。」の部分である。

 

(以下、第六段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 三河武士は古来武士の美風を持つ集団として素晴らしかった。

 もちろん、それぞれの武士が持っていた長所はバラバラ。

 しかし、戦国時代、徳川の旗に集い、ひたすら徳川家に尽くして他家のことを見ず、不運や苦しい状況にもめげず、徳川のためには明らかに負ける状況でも突進していったこと、これは三河武士の特徴にして、徳川家の家風であった。

 そして、この家風があればこそ、家康公は天下を取れたのであり、これは「痩我慢」のおかげである。

(意訳終了)

 

 この段落では徳川家について言及している。

 徳川家臣団の「ひたすら徳川家に尽くす」という「痩我慢」、これこそ徳川家の天下を作ったのだ、と。

 

 ここまで、オランダ・ベルギー・小大名・皇室・徳川家とみてきた。

「痩我慢」がそれらの維持・繁栄の前提となっていることは分かる。

 

 私がメモを作っていて気になったのは、「『痩我慢』は手段か目的か」ということである。

「手段としての『痩我慢』の有用性」は理解できた。

 しかし、「利益を確保できるから『痩我慢』を採用しているのではないか」とも言える。

 

 その点が最も現れているのが徳川家の例である。

 徳川家康の少年時代、三河武士はあらゆる艱難辛苦がもたらされているような状況であった。

 それが緩和されたのは、武田勝頼織田信長が死んだ天正十年以降のことだろう。

 そして、そのような状況で一家離散を防び、自分たちの利益を維持するためには「痩我慢」という手段しかない。

「痩我慢が気に入ったから」痩我慢を選んだわけではないだろう。

 

 無論、「手段としての『痩我慢』に過ぎない」いったところで、「痩我慢」の重要性を否定するつもりはない。

 絶対化を否定し、相対化しているだけである。

 また、福沢諭吉勝海舟に対する論評を見る限り、福沢諭吉も「痩我慢」を目的化していないと考えられる。

 だから、私の考えたことはそれほど外れてないとは言えそうだ。

 

 

 そろそろ2000字を超えたので、今回は次回。

(変なところでぶつぎりすることはしないし、2000文字のボーダーは維持するが、去年よりも1記事の分量を減らしたいとは考えているので)。