今回はこのシリーズの続き。
今回も「私釈三国志」風に「痩我慢の説」を意訳していく。
9 第七段落を意訳する
今回は第七段落から意訳する。
具体的には、「左れば瘠我慢の一主義は固より人の私情に出いずることにして、」から、「さらに眼界を広くして文明世界に独立の体面を張らんとするもこの主義に由らざるべからず。」までの部分である。
(以下、第七段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
このように見た場合、「『痩我慢』はエゴに過ぎず、冷静に行われた合理性計算から見たら子供の戯れに過ぎない」と言われるかもしれない。
でも、歴史や世界を見れば、国造りには『痩我慢』が不可欠であることが分かる。
藩を維持・発展させるためにも、日本を維持・発展させるためにも。
(意訳終了)
「国造り」における「痩我慢」の重要性を述べている。
気になったのは、「損得計算(冷淡な数理計算)から見たら、『痩せ我慢』は児戯に等しいと言われても抗弁できないかもしれない」という部分である。
当然だが、この主張に対して「『痩我慢』は計算じゃねー」という反論はできる。
「痩我慢」が目的化していれば当然の反論である。
しかし、「あんたの計算式は間違っている」という反論もできるはずである。
これは「痩我慢」を相対化した上での反論である。
この段落の文章、これを見るだけだと前者の形式による反論に見え、後者の形式による反論に見えない。
しかし、勝海舟の論評を部分は後者の形式で反論している。
それを考えると、「うーむ」と考えざるを得ない。
もちろん、福沢諭吉が後者の形式で反論していると考えているが。
10 第八段落を意訳する
次の段落に進もう。
具体的な部分は第八段落の「故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、」から「これすなわち両者が今に至るまで臭芳の名を殊にする所以なるべし。」までである。
(以下、第八段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
よって、時代の経過に伴う見栄えの変遷はあるとしても、国造りにおいて「痩我慢」を重視し、「痩我慢」を称揚し、「痩我慢」を維持していくことが社会の重要な課題である。
例えば、南宋の末期、モンゴル帝国の侵略に対して主戦派と講和派に分かれた。
そして、主戦派の人々は退けられ、あるいは、殺されてしまった。
しかし、後世の人々で講和派の不義を非難し、主戦派の忠義を憐れまない人はいない。
もちろん、南宋の国力を冷静に計算すれば、明らかに南宋に勝ち目はなかった。
ならば、恥を忍んでさっさと降伏し、南宋の趙氏の存続を図った方がいいとも言える。
しかし、「痩我慢」を重視するならば、講和論者を排して主戦論者の「痩我慢」を選択せざるを得ない。
それゆえ、主戦論者は称えられ、講和論者が非難されるのである。
(意訳終了)
第六段落以前では、「痩我慢」によって成功・繁栄した例が示されていた。
例えば、徳川家や皇室。
他方、ここでは「痩我慢」を貫いて敗れ、滅亡したものについて触れられている。
具体例は南宋のケース。
主戦論者として日本で著名な人物を挙げれば、「文天祥」になるだろうか。
その意味で秀才である。
しかも、ただの受験秀才ではない。
モンゴル軍の侵攻に対してゲリラ活動などによる抗戦を行うのである。
しかし、武運拙く元に捕らわれる。
捕らわれた文天祥は元の皇帝フビライから「自分に仕えよ。厚遇する」などと言われるが、文天祥は固辞する。
そして、文天祥は「正気の詩」を遺して刑死した。
この文天祥を日本的朱子学の聖人として取り上げたのが浅見絅斎であり、それを書いた書物が『靖献遺言』である。
この『靖献遺言』は尊王論者たる幕末志士のバイブルになる。
ならば、福沢諭吉も知っていたであろう。
ただ、気になることがある。
この背後にあるのは彼のこの言葉である。
(以下、文天祥の『零丁洋を過ぐ』の最後の部分より)
「人生古自り 誰か死無からん 丹心を留取して 汗青を照らさん」
(引用終了)
意訳するならこんな感じか。
(以下、意訳)
人はいずれ死ぬ、死ぬなら我が真心を歴史に残してやろうぜっ
(意訳終了)
小室直樹先生によると(詳しくは後にメモにする『日本人のためのイスラム原論』で触れる)、文天祥のいた南宋は儒教。
そして、中国は儒教であるとともに歴史教の国であり、「時代によって真理は普遍(不変)」と考える。
そのため、「真理がずっと続くことを前提にその歴史に名を遺す」ことが個人の救済になる。
文天祥はこの救済に殉じたのである。
その後、文天祥の名は800年経っても輝き続け、処刑したフビライですら彼への賞賛を隠さなかった。
殉じたとおりの救済が得られたと言ってもよい。
これに対し、この文天祥の生き方をキリスト教を前提とする欧米から見たらどうなるだろう。
絶対神はなんでもできる。
ならば、神が真理をねじまげることくらいお茶の子さいさい。
その関係で「時代によって真理は変遷する」と考える。
例えば、マルクスは「社会は奴隷制、封建制、資本主義、共産主義」という形で進化すると考えた。
もちろん、それぞれの制度毎に法則は変わると考えていたわけである。
この価値観で見れば、南宋は滅亡寸前であり、時代の変遷に取り残され、滅亡したことになる。
そして、文天祥はその時代の変遷を理解していなかった。
あるいは、時代の変遷を理解しつつも、変遷に適応できずに死んだ。
以上、となりかねない。
ちょうど、古代ローマにおいてシーザーを暗殺したブルータスのように。
私は、別にキリスト教がよいとか儒教がよいとか言いたいわけではない。
単に、文天祥が賞賛される理由が一定の価値感によることを示したに過ぎない。
私は称賛する側の人間であるが、称賛しない側の人間がいることを示しただけである。
もう一つ気になったことがある。
それは「痩我慢を称賛するなら主戦論者を称揚するしかない」という部分。
戦略的判断として分からないではないが、「それを露骨に言うか」という。
これだと文天祥ら主戦論者を称揚するのが手段になってしまうではないか。
「それはひどくね?」と考えるのだが、どうなんだろう。
まあ、「正直者でよろしい」とも言え、この辺は何とも言い難いが。
以上が総論部分である。
次の段落から勝海舟の江戸城の無血開城などについて論評していく。
ただ、丁寧に読んでいくといろいろ「あれ?」と考えさせられることがあるのだなあ。
それが分かっただけでもこのブログを書いた意味があった。