今回はこのシリーズの続き。
以前、『痩せ我慢の説』を意訳したように、今回は『歎異抄』を意訳してみる。
なお、今回が最終回である。
25 歎異抄モデル
最初に、『歎異抄』がイメージしている世界について考えてみる。
以下、『歎異抄』がイメージしている世界を単純化したものを「歎異抄モデル」ということにする。
まず、「歎異抄モデル」にとって最も重要な概念が、「(修行等により)大いなる力を持った阿弥陀如来の『煩悩に塗れた凡人を救う』という誓い」の存在であろう。
このことは第1条で紹介されている親鸞聖人の言葉だけではなく、『歎異抄』の様々な場所に登場する。
これ抜きに「歎異抄モデル」は成立し得ない。
次に大事な視点が「人間は無力である」、「人間は自力で成仏(往生、救済)できない」という評価であろう。
この点は、人間の「業」について書かれた第13条にその趣旨が凝縮されているし、第4条、第5条、第6条に紹介されている親鸞聖人の言葉、第14条、第15条、第18条にある異説に対する反論からもわかる。
さらに、「修行・自力・作為の否定、信仰・他力・自然の重視」も重要かもしれない。
つまり、「人間は無力である」という事実の評価を超え、「人間の行為それ自体」をも否定しているように見える。
よりまとめてしまえば、「人間は無力だ。それでも、成仏・往生・救済のために修行すべきだ」ではなく、「人間は無力だ。だから、(信仰心を持つことと念仏を唱えること以外)成仏・往生・救済のために何もするべきではない」というべきか。
これを示しているのが、第2条で紹介されている親鸞聖人の信仰告白、第3条で紹介されているいわゆる「善人」に対して否定的に評価する親鸞聖人の言葉、第4条で紹介されている「慈悲」に関する親鸞聖人の言葉である。
あと、第12条、第13条、第16条で登場する異説に対する反論もそのことを裏付けている。
特に、第13条で登場するいわゆる「本願ぼこり」に対する反論も「余計なことはするな」に近い。
なお、「『念仏を唱える行為』は修行ではないのか?」と疑問を持つかもしれない。
しかし、第7条、第8条で紹介されている親鸞聖人の言葉、第14条、第15条、第16条に登場する異説に対する反論を見ると、『歎異抄』では念仏を唱える行為を修行とは評価していないようである。
念仏を唱えることに対してさえこのようでは、「修行・自力・作為の否定」はさらに強調されると考えられる。
この点、実際のモデルはもっと複雑になるだろう。
しかし、最単純モデルで考えるならば、この3点が重要になりそうである。
そこで、この3点からどのような世界が見えるのか、パウロの『ローマ人の手紙』等と比較しながら考えてみる。
まず、理念的に見れば、信者間の平等は存在しそうである。
阿弥陀如来の力と比較すれば、人間の力は無に等しいと考えているので。
このことは、第6条で紹介された「親鸞聖人の言葉」、第19条で紹介されている「法然聖人の言葉」によっても裏付けられる。
残念ながら、法然聖人の弟子同士でもこの平等性は共有されていなかったらしいが。
しかし、『ローマ人への手紙』が想定している世界とは異なる面もある。
つまり、『ローマ人への手紙』における救済者は「絶対神」であるのに対して、『歎異抄』における救済者は「阿弥陀如来」である。
両者は人間と比べて圧倒的な存在である点では共通する。
しかし、前者は絶対神であるのに対して後者にはそのような属性がない。
また、前者は「神前法後」を前提としているのに対して、後者は「法前仏後」を前提としている。
その結果、2つの違いが存在するように見える。
1つ目は、『ローマ人への手紙』における絶対神は世界の理をコントロールできるのに対して、『歎異抄』における阿弥陀如来は世界の理をコントロールできないこと。
2つ目は、『ローマ人への手紙』における絶対神は救済条件が存在するのに対して、『歎異抄』の世界における阿弥陀如来の誓いに救済条件がないこと。
まず、前者について見ると、絶対神は世界の理にアクセスできるため「悪の創造」が可能である。
言い換えれば、「法」、つまり、諸々の法則をコントロールすることにより特定の人間を堕落させることも可能である。
これに対して、阿弥陀如来には「人間を強引に堕落させること」ができない。
もちろん、「堕落させない方向に限り力を行使できる」可能性自体は十分にありうるが、そのような力の行使は阿弥陀如来の誓いに反してしまう。
その結果、絶対神の世界には救済しない人間がいても問題がないが、阿弥陀如来の誓いに従えば原則としてそのような人間は存在しないことになる。
さらに、作為の否定は、理性による行為の否定、革命の否定をもたらす。
例えば、『歎異抄』の第12条において「(いわゆる)革命を起こすな」と書いてある。
敵に対しては「放っておいてくれ」と言えばいい、と。
これも大きな違いのように見えてくる。
また、日本教社会で散見されるいくつかの行為に対してその背後に「歎異抄モデル」を置くことでそれらの行為に対する理解・納得が深まるように見える。
例えば、次の読書メモにある「平等に対する誤解」とか。
この点、「神が世界を作った」という事実等から「(神による)平等」について「原則として『チャンスの平等』まで」という縛りをかけることができる。
もちろん、「そのレベルの平等による『救い』が庶民にとって意味があるのか」という問題と「『神の下の平等』は神の事情によってなされるものだから、人間の事情など知ったこっちゃない」という反論がありうるとしても。
これに対して、「阿弥陀如来の誓い」が人間の救済に向けられる以上、ここでの「平等」は「結果の平等」まで及んでしまう。
このように見ると、「日本教の平等性の誤解」の背後には「歎異抄モデル」に起因する何かがあるようである。
また、次の読書メモにある「社会科学的実践」の欠如についても『歎異抄モデル』を背後に置くことで理解・納得ができそうである。
そりゃ人間の作為を否定してしまえば、社会科学的実践等を評価することはできない。
評価できないものを実践することはもっと不可能である。
さらに、「純真な動機と目的意識の不在」への肯定的評価とこれに反するものへの否定的評価も『歎異抄モデル』を置くことで理解・納得できるかもしれない。
ところで、日本において「念仏の教え」は仏教から戒(と律)を抜いてしまった。
そして、『歎異抄』には「念仏の教え」のエッセンスが詰まっている。
このことから、この「歎異抄モデル」は「日本教最単純モデル」と類似したものになると言えそうである。
まあ、この事情があったから「歎異抄モデル」について考えたわけだが。
以上、『歎異抄』から「歎異抄モデル」、そして、「日本教最単純モデル」について考えてみた。
これからもこのモデルに対する色々な修正が必要となるだろうが、基礎はできたのではないかと考えている。
26 『歎異抄』の感想
似たような言葉を繰り返しているが、『歎異抄』を読んだ感想はこれに尽きる。
『歎異抄』SUGEEEEE
親鸞SUGEEEEE
蓮如SUGEEEEE
またしても同じ感想になってしまったが、同じ感想を持った以上は同じことを記録しておく必要がある(でないと、殊更に虚偽の事実を書き残すことになってしまう)。
この点、『歎異抄』において親鸞聖人は「自らを無能である」という言葉を遺しているが、一般人と比較すれば、親鸞聖人は相当に優秀・有能な人である。
しかし、自らを無能性を認識し、さらには、その無能性を自分を慕って遠路はるばるやってきた人たちに堂々と告白する。
「浄土真宗の創始者」とか「戒律を守るべき僧侶」といった観点はさておくとしても、正直すごいな、と。
親鸞聖人の教えのエッセンスを詰め込んだ本を遺していくとは。
エッセンスを込めた以上は親鸞聖人との教えと異なる部分があったとしても「すごい」という感想以外の感想はない。
もっとも、『歎異抄』には「念仏の教え」に関するファンダメンタルな部分しか示されていないこと、浄土真宗が戒律を全廃してしまったこと等を考慮すれば、下手に「これが我々の教えのエッセンスである」などとして広く公開すれば、容易ならざる事態になったであろう。
その意味で、あの書付は組織を運営する者としてやむを得ないと感じなくもない。
最後に、「歎異抄モデル」と関係がない(乏しい)点で『歎異抄』を見ていて気になった点を部分についてみておく。
1つ目が、「僧の嘘を方便と言う」といった日本教においてよく見られる手法についてである。
『歎異抄』の後序には「親鸞聖人が参考にした経典、自著には『真実』を書いた部分もあるが、『方便』として例示を書いた部分があるからその見分けは重要である」という趣旨のことが書いてある。
なんかこの部分から「僧侶の嘘を方便、武士の嘘を武略という」という言葉が連想されないではない。
2つ目が、後序で登場する「親鸞聖人の述懐」である。
『歎異抄』の該当部分を意訳すると、「一見『阿弥陀如来の誓い』は万人の救済に向けられているため、万人のためになされているように見えるが、私一人に向けられたものでもある。なんと有難いことか」ということになるが、この点は、予定説を知って信仰に目覚めた宗教改革時代のキリスト教徒と同じような感じがしないではない。
以上、感想について書いてみた。
いずれにせよ、『歎異抄』を読むことで得られたものは大であった。
27 今回の意訳
最後に、今回の意訳作業について。
この点、私は各記事において最初に意訳という言葉を付ける際、「私釈三国志風」という言葉をつけている。
このことから分かる通り、私の意訳における理想形は「私釈三国志」に登場する意訳である。
もちろん、人によっては異論・違和感があるかもしれないとしても。
この点、『歎異抄』の著者は唯円であると言われている(このブログではその見解に沿っている)。
その結果、「私釈三国志」の意訳のようなある種はっちゃけた意訳をしてしまったら、唯円本人の性格に沿わないものになるのではないか、という疑問を感じなくはない。
ただ、その疑問にもかかわらず、意訳はそちらの方に引き付けてみた。
それがいいのか悪いのかは別として。
また、今回は、『昭和天皇の研究』や『痩せ我慢の説』よりも肩の力が抜けて意訳できたような気がしないでもない。
ただ、修行はもっともっと必要だと考えている。
以上で『歎異抄』の意訳を終了する。
次は、、、何にチャレンジしようか。
これまで「チャレンジ」と称して複数回の記事分けて実施したのは、①「旧司法試験の二次試験・論文式試験の憲法第1問」の再検討、②「犯罪収益移転防止法」の条文確認、③『痩せ我慢の説』の意訳、④『歎異抄』の意訳の4つ(資格取得関係除く)。
うーむー。