今回はこのシリーズの続き。
以前、『痩せ我慢の説』を意訳したように、今回は『歎異抄』を意訳してみる。
15 第十三条を意訳する
まずは、冒頭部分から。
(以下、『歎異抄』の第十三条の意訳、意訳であって直訳ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
「阿弥陀仏の誓いに甘えて、自らの悪を誇るようになったら、救済(往生)されない」という主張があるらしい。
このような主張をしていては、「この者は『悪人こそ救うという阿弥陀仏の誓い』を心の底から信じていない」と言われても抗弁できないだろう。
また、このような主張をする者たちは『念仏の教え』の前提にある「善悪をなす人々に宿る業」というものを理解していない。
本条では「宿業」について説明したい。
(意訳終了)
本条では、阿弥陀仏の誓いを知って、自分の煩悩を誇るいわゆる①「本願ぼこり」について、人々のなす善行・悪行の背後にある②宿業についてみていくことになる。
まず、②の「宿業」についてみていく。
意訳を進めよう。
(以下、『歎異抄』の第十三条の意訳、なお、強調は私の手による)
善行をしよう考えるのは宿業があるからである。
また、悪行をしようと考えるのも悪業という宿業があるからである。
この点、親鸞聖人は次のようなことが仰っていた。
「毛先にあるような小さな罪だって、宿業によらないものはない」と。
ここで、親鸞聖人から重要なことを教わった際の、そのときの私と親鸞聖人とのやり取りを紹介したい。
唯円「はい、信じます」
親鸞聖人「では、私がこれから言うことを『絶対やります』と誓えるか」
唯円「はい、『先生の仰ったことを絶対やる』と誓います」
親鸞聖人「じゃあ、外へ出て1000人ほど人をぶっ殺してこい。そうすれば、必ず極楽浄土に行けるぞ」
唯円「確かに、私は『先生の仰ったことを絶対やる』と申しましたが、私には一人すら殺せそうにありません」
親鸞聖人「じゃあ、なんで『先生の仰ったことを絶対やる』と誓ったのだ」
唯円「・・・」
親鸞聖人「これでわかっただろう。『1000人ほど人をぶっ殺せば、確実に往生できる』と言われたら、信仰に篤い唯円なら1000人でも殺そうするだろう。しかし、『1人も殺せない』という宿業があれば、殺すことはできない。つまり、その者の意志で人を殺したり、殺さなかったりするわけではないのだ。逆に、その者がどんなに殺したくないと思っていても、状況如何によっては100人、あるいは、1000人を殺すことだってあるだろう」
唯円「・・・」
親鸞聖人「結局、我々が善の心を持っているから善行をなし、悪の心を持っているから悪行をなすというわけではない。『阿弥陀仏の誓い』も『我々の善行・悪行は宿業による』ことが前提となっている」
(意訳終了)
ここでは、「人間の無能さ」を言っているように見える。
この辺は次の読書メモで触れていたこととも共通しているかもしれない。
もっとも、社会科学の方は「人間は無能である。しかし、それでも社会は変えられる」と考えており、その点が「念仏の教え」と異なるようではあるが。
しかし、すごいたとえ話である。
では、悪行を誇る点についてはどうであろうか。
以下、意訳を進めてみよう。
(以下、『歎異抄』の第十三条の意訳、なお、強調は私の手による)
かつて、阿弥陀仏の誓いを曲解した者がいた。
つまり、その者は、「阿弥陀仏は『悪人こそ救う』と誓った。だったら、悪行に励むとよい。そうすれば、より早く往生できる(救済される)だろう」と主張していた。
その発言は炎上して、世論による非難の集中砲火を浴びることになった。
それを聴いた親鸞聖人はその者をたしなめるために手紙を賜ったらしい。
曰く、「薬があるからといって、わざわざ毒を好む必要はない」と。
この点について、親鸞聖人は次のようなことを仰っていた。
「『悪行をしたから往生できない』ということはない。
もしも、『戒律を守らなければ往生できない(救済されない)』というのであれば凡人の我々は永遠に往生できないことになるが、この結果は阿弥陀如来の誓いに真っ向から反し、矛盾するではないか。
だから、『戒律を守らなければ往生できない(救済されない)わけではない』のだ。
ところで、凡人で煩悩に塗れた私も、阿弥陀仏の誓いによって、本当に悩むことが減った。
だからといって、その者に宿業として備わっていない悪行をわざわざやる必要はない。
なお、宿業は善行や悪行に限った話ではない。
例えば、魚を捕るために海や河に網を引き、釣りをする者、野山にいる猪や鳥を狩る者、商売をする者、田畑を耕す者、みなその者たちが持っている宿業によるものである。
だから、宿業如何によっては人はいかなる振舞をもするのである」と。
(意訳終了)
まあ、「薬があるからと言って、努力して毒を飲む必要はない」というのはその通りである。
ただ、やや悪意的な見方をするならば、「無能で非力な人間ごときが努力して悪行をしたところで、救済に関する結果が変わるわけなかろう」という突き放した感じがしないではない。
ただ、『歎異抄』のこの条項は「浄土真宗の仏教から独立宣言」であるという感じがしないではない。
その感じは「パウロによるキリスト教のユダヤ教からの独立」に似たものである。
キリスト教のユダヤ教からの独立は次の読書メモにある通りである。
つまり、「人は律法を遵守することで救済されるわけではない。信仰によって救済される」という価値観により、キリスト教はユダヤ教から独立した。
これを浄土真宗に置き換えれば、「人は戒律(仏教で往生するための規範)によって救済されるわけではない。阿弥陀尿来の慈悲にすがることによって救済される」と言うべきか。
この辺については、次の読書メモが参考になるかもしれない。
こうやって見ると、蓮如が『歎異抄』を重く見た理由がわかるような気がする。
あとは残りの部分である。
サクッと意訳してしまおう。
(以下、『歎異抄』の第十三条の意訳、なお、強調は私の手による)
ところで、世の中を見てみると、道場主といった者が「善人こそ念仏を唱えるべきか」と考えたためだろうか、道場に「これこれの行為をした者は以後道場に入るな」と張り紙をし、行動としての善行を奨励している例があるらしい。
ただ、このような例は、「念仏の教え」から見れば空しいものというしかない。
阿弥陀仏の誓いを誤解して悪を重ねるいわゆる「本願ぼこり」は宿業ゆえのことなのだから。
それならば、善行も悪行も自分のもっている宿業に任せ、自分はひたすら阿弥陀仏の誓いにすがることこそが他力を旨とする「念仏の思想」に沿った行為なのである。
また、『唯信抄』という素晴らしい本には、「阿弥陀仏の偉大な力が信じられるのであれば、自分の愚かさが阿弥陀仏の救いの妨げになるとは思うはずがない」と書かれている。
結局、「本願ぼこり」が全くない人間には、阿弥陀仏の誓いにすがる他力の信仰もないと考えてよいのだろう。
ところで、従来の仏教、つまり、自力に頼る聖道門の思想に帰依する人々は、「自分が自分の悪業や煩悩を消し飛ばすことで往生される(救済される)」と考える。
つまり、これらの人々には「阿弥陀仏の誓い」は特に必要ないと考えているのである。
この阿弥陀仏の誓いのために、阿弥陀仏が苦労した努力も、人々を救おうとする慈悲の心も。
「本願ぼこり」といって悪行をなす人々を非難する人々も結局、煩悩塗れの凡人ではないか。
また、「阿弥陀仏の誓い」を信じているのであれば、その信仰自体一種の「本願ぼこり」ではないか。
両者の違いを愚かで煩悩に塗れた愚かな人間が見分けられるだろうか。
あまり細かいことをいうのはやめましょうや。
(意訳終了)
『歎異抄』の背後に流れる思想から見れば、普通のことが書かれている。
本文に出てくる道場主への批判は「カトリック教会」的なものへの批判と同型なのだろうか。
少々気になる。
もっとも、蓮如以降の戦国時代の浄土真宗の発展を見ると、『歎異抄』から見て違和感を感じないではない。
「ある種の組織を否定する『歎異抄』を聖典の一つにしてよく一時代にあれだけの政治的勢力を築けたな」と。
まあ、仏教においてはある経典を全面適用しなければならないわけではないし、蓮如も『歎異抄』を全面適用したわけではないだろうから、全然不思議ではないということは十分可能なのだが。
以上、『歎異抄』の意訳をしてみた。
続きは次回に。