薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

「痩我慢の説」を意訳する その7

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も「私釈三国志」風に「痩我慢の説」を意訳していく。

 

20 第十八段落を意訳する

 今回は第十八段落から意訳する。

 第十八段落は、「すなわち東洋諸国専制流の慣手段にして、」から、「愉快に世を渡りて、かつて怪む者なきこそ古来未曾有の奇相なれ。」までの部分である。

 

(以下、第十八段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 今の日本が東洋の専制君主政治システムであれば、勝海舟など不忠の臣として見せしめになっていただろう。

 しかし、明治政府はヨーロッパの文明国に習って寛大であった。

 敵方の人物を一時的に利用して捨てることなく、将来の地位を保障した。

 つまり、裏切り者は爵位が与えられ、愉快に世の中を楽しんでいるわけだ。

 この様子を不思議に思う人がいないことが不思議である。

(意訳終了)

 

 ここで、福沢諭吉が不思議だと思っている対象が社会であることは確認したい。

 その点を押さえたうえで、次の段落に進もう。

 

21 第十九段落を意訳する

 次は第十九段落を意訳する。

 第十九段落というのは、「我輩はこの一段に至りて、勝氏の私の為には甚だ気の毒なる次第なれども、」から、「万世の士気を傷けたると、その功罪相償うべきや。」までの部分である。

 

(以下、第十九段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 こうなった以上、彼には気の毒だが、私からお願いがある。

 つまり、彼の戦渦を回避した功績は稀有、かつ、十分大きいものである。

 その代わりに、三河武士の精神や「痩我慢」の美風を破壊したこと、国造りのために重要不可欠な精神を緩めた罪は免れない。

 前者は一時の損害で済むもの、後者は長きに渡る損害。

 どうやって埋め合わせるのだ。

(意訳終了)

 

 ここで気になるのは、前者と後者の損害の比較の精度である。

 損害の要素も違う、タイムスパンも違う、それぞれの回復力も違う。

 この文章には二つを比較考量した形跡が見えない。

 そのことを記憶にとどめて次に進もう。

 

22 第二十段落を意訳する

 次は第二十段落を意訳する。

 第二十段落というのは、「天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為に謀れば、」から、「一方には世教万分の一を維持するに足るべし。」までの部分である。

 

(以下、第二十段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 勝海舟にお願いしたいことは「痩我慢」の美風を傷つけた罪を引き受けることである。

 つまり、「戦渦の災いから民を守るために私は江戸城を明け渡したが、後世の人間は決して私の真似をしてはならない。外国から同じようなことがあった場合はなおさらである。そして、『痩我慢』の精神を損なってはならない」と自己批判し、爵位を返還して隠居することである。

 そうすれば、戦渦から民を守った功績も輝き、「痩我慢」の美風も維持されるだろう。

(意訳終了)

 

 福沢諭吉勝海舟へのお願いは「フォロー」ということになる。

 当然だが、時計の巻き戻しはできない。

 だから、「痩我慢」を回復するために動いてくれ、と。

 

 勝海舟に関する論評はもう一段落あるので、そこまで進めてしまおう。

 

23 第二十一段落を意訳する

 最後に第二十一段落である。

 第二十一段落というのは、「すなわち我輩の所望なれども、」から、「士人社会風教の為に深く悲しむべきところのものなり。」までの部分である。

 

(以下、第二十一段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 ということを、私は勝海舟にお願いしたいのだが、彼は明治政府の功臣としてふんぞり返っている。

 これは徳川家臣団から見たらとんでもないことである。

 しかし、「国造り」の観点から見ても非常に残念なことである。

(意訳終了)

 

 ここまでで勝海舟の論評は終わりである。

 うーん、うまく訳せた感じがしない。

 訳については今後の課題、といったところか。

 

 

 さて。

 私の「痩我慢の説」に対する最初の感想は次のようなものであった。

 

『痩我慢』の美風は美しい。

 国造りにおいても重要であることに異議はない。

 しかし、政治や外交・戦争においては「相対化」せざるを得ないので、結果的に勝海舟のような振る舞いになったからといってしょうがないではないか。

 

 その後、山本七平小室直樹の書籍を読んで、「痩我慢の説」に対して違和感を持った。

 そこで、「意訳する」という行為を通じて見直そうと考えたこと、これがメモを作った私の動機である。

 

 

 福沢諭吉は言う。

 幕府は徹底抗戦して城を枕に討死にすべきであった、と(第十段落)。

 これは将来、日本で再現されることになる。

 そう、太平洋戦争である。

 

 太平洋戦争に対する解釈は無数にあり、ここから述べること以外に解釈があるのは当然であるが、福沢がここで述べたことをそのまま実行したのが日華事変から続く太平洋戦争である。

 聖断によって本土決戦が回避された(そして、それが多くの生命を救った)が、それまでの間に本土にはアメリカの爆撃機が大量の焼夷弾を落とし、日本の主要都市は壊滅した。

 

 無論、「福沢諭吉の意見は間違っていた」と主張するつもりはない。

 また、偉人でも間違えることはあるのだから、「間違っていた」としてもそれを理由に福沢諭吉を非難したいわけでもない。

 ただ、「何かが足らなかったのではないか」とは考えている。

 その「足らない何か」はなんだろうか?

 

 

 次回は、意訳から離れて「足らない何か」についてメモを残していきたい。