薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

「痩我慢の説」を意訳する その10

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も「私釈三国志」風に「痩我慢の説」を意訳していく。

 と言いながら「私釈三国志」さが全然出せていない。

 私の修行が足りないところであるが、修行中ということでご海容願いたい。

 

28 第二十四段落目を意訳する

 まずは、第二十四段落を意訳する。

 具体的には、「敵に降りてその敵に仕うるの事例は古来稀有にあらず。」から「顧みて往事を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。」の部分までである。

 

(以下、第二十四段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 降伏した相手に仕えることはレアでもないし、非難すべきでもない。

 それが生活のためであればなおさらである。

 だが、これは原則論に過ぎない。

 「痩せ我慢」に由来する武士の人情から見た場合、榎本武揚のケースは例外だ。

 しかも、榎本武揚は大臣にまで出世しており、生活のためといったレベルを完全に超えている。

 一見、青雲の志を遂げて「めでたしめでたし」と言えるかもしれない。

 しかし、彼の過去を見たら「めでたしめでたし」とは到底言えないだろう。

(意訳終了)

 

 これまでの私は榎本武揚の部分は真面目に読んでなかったが、こう見ると勝海舟のケースとは異なる論点が見えてくる。

 つまり、榎本武揚の論評における論点は「敗者はどこまでリターンマッチをしていいのか」という点になりそうだ。

 私個人としては「(罪を許された以上は、政治的な意味における)限界はないのではないか」と考えているが、その辺を意識しながら意訳を続けていく。

 

29 第二十五段落目を意訳する

 次に、第二十五段落を意訳する。

 具体的には、「当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、」から「その中には父子諸共に切死にしたる人もありしという。」の部分までである。

 

(以下、第二十五段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 戊辰戦争の時、死を覚悟した武士をまとめあげて東北・北海道で奮戦し、結果、武運拙く降伏したことはしょうがない。

 しかし、武士たちは榎本武揚を大将として信頼し、また、戦死したのである。

 その榎本武揚が降伏したとなれば、その降伏に同意しなかった武士たちはどれだけ落胆・失望したことか。

 また、戦死した者たちの気持ちはどうなる。

 死者の霊が存在するならば死の国から大いにブーイングをあげていることだろう。

 聞くところによると、五稜郭を開城の折、降伏に同意しない武士たちは「この戦いは徳川家の二百五十年の恩に報いるためのものだ。命が惜しい総督は勝手に降参しろ。我々は武士道に殉じる」と述べ、この言葉通りに切死にした親子もいるという。

(意訳終了)

 

 この段落は榎本武揚への非難を裏付ける具体的事情が述べられている。

 ただ、同意できるかと言われると微妙である。

 

 まず、彼らの抗戦目的が報恩にあるならば、榎本武揚が降伏しようがしまいが関係ないとも言える。

 それを示しているのが、「総督(榎本武揚)は勝手に降伏しろ」という言葉である。

 もちろん、「あいつは裏切りやがって」という感情は(生者にも死者にも)あって当然だが、それは報恩とは無関係である。

 次に、榎本武揚はリーダー(総督・大将)ではあるが、幕臣であって徳川家の一族に属する者ではない。

 つまり、徳川の権威を代行しているわけではない。

 ならば、榎本武揚に象徴的なものを求めるのは機能体に対する偶像崇拝に過ぎるのではないのか、という感じが否めない。

 そもそも、将軍だった徳川慶喜は生きているわけだし。

 

 当然だが、「個人的に許せん」という感情は自然だし、否定する気もないし、非難するつもりもない。

 ただ、それ以上の意味を付加するのは難しいのではないかと考えるだけである(個人的には、福沢諭吉がそのような感情を持つのはどうかという気がするが)。

 

30 第二十六段落目を意訳する

 続いて、第二十六段落を意訳する。

 具体的には、「烏江水浅騅能逝、一片義心不可東とは、」から「自尽したるその時の心情を詩句に写したるものなり。」の部分までである。

 

(以下、第二十六段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 中国に「烏江水浅騅能逝、一片義心不可東」という有名な言葉がある。

 これは項羽と劉邦の争いにおいて、項羽が敗走して烏江の畔まで来たとき、ある人が「川を渡ってお逃げください。そうすれば再挙できるかもしれません」と述べたところ、項羽が「昔、私は八千の若者を率いて戦ったが、今や一人もいない。そんな失敗をしながら、どのツラ下げて江東に戻って、死なせてしまった若者たちの親兄弟に会えばいいのか」と返答したものである。

(意訳終了)

 

 ここで、中国の項羽の話が持ち出される。

 総論の部分では南宋に殉じた遺臣たちが、勝海舟を論評した部分では敵に寝返って粛清された家臣たちが。

 そして、榎本武揚の章で登場したのは総大将の項羽である。

 

 この点、項羽は再起を拒否して自刃した。

 しかし、仮に、このような状況でとことん逃げて再起を図った中国の偉人を取り上げたらどうなるだろうか。

 福沢諭吉の時代には存在しないが、毛沢東はこの例にあたる。

 あるいは、三国志演義劉備もこれに近いところがある。

 

 さらに、進めていこう。

 

31 第二十七段落目を意訳する

 さらに、第二十七段落を意訳する。

 具体的には、「漢楚軍談のむかしと明治の今日とは世態固より同じからず。」から「或は死霊生霊無数の暗鬼を出現して眼中に分明なることもあるべし。」の部分までである。

 

(以下、第二十七段の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 項羽と明治では時代も社会も違うから、項羽榎本武揚を比較するのはバカげていると言うかもしれない。

 しかし、人情は今も昔も変わらない。

 この点、明治政府で立身出世の階段を登り、青雲の志を遂げて富と名誉を手にした榎本武揚本人はドヤ顔で得意げにいるかもしれない。

 もっとも、過去を振り返れば、戊辰戦争で死傷していった部下・武士たちの惨状、死傷した者の父母兄弟の悲嘆にくれて途方にくれているさまを思い出すこともあるだろう。

 また、そういった苦境を人から聴くことだってあるだろう。

 そのとき、彼は大いに苦悩しているだろう。

 ひょっとしたら、涼しくなった秋の雨が降った日の夜において、薄暗い灯りの中に一人でいたところ、死霊や生霊の幻影を見るといったこともあるかもしれない。

(意訳終了)

 

 ここで、福沢諭吉榎本武揚の心中を察している。

 立身出世の階段を登り栄達を極めた彼は表面上得意げかもしれないが、決してそれだけではない、と。

 

 

 今回はこの辺にして、続きは次回に。