今回はこのシリーズの続き。
今回も「私釈三国志」風に「痩我慢の説」を意訳していく。
前回までが総論部分、今回から各論に入る。
11 第九段落を意訳する
今回は第九段落から意訳する。
第九段落というのは、「然に爰に遺憾なるは、我日本国において今を去ること二十余年、」から、「得を以て損を償うに足らざるものというべし。」までの部分である。
この段落から各論、つまり、勝海舟の江戸城の無血明け渡しについてみていくことになる。
(以下、第九段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
しかし、残念ながら、日本では20年前の王政復古の際、「痩我慢」を軽視し、「痩我慢」の美風に泥を塗る人間たちが現れた。
つまり、徳川家の家臣の中に、早々と徳川幕府の将来に見切りをつけ、敵対する朝廷に対して戦争することなく和睦し、幕府を解散させてしまった輩どもがおる。
もちろん、これによって戦渦から庶民の生命・財産が守られた。
しかし、「痩我慢」の美風を汚した損害は、その代わりに得られた一時的利益で補えるものではない。
(意訳終了)
ここで見ておくべきことは次の点。
江戸城の無血開城は戦渦による庶民の生命・財産を浪費という損害を回避した一方で、痩せ我慢の美風に傷がつくという損害を発生させた。
そして、後者の損害は前者の免れた損害を上回っている。
つまり、「計算をしている」という点である。
このことを忘れず、次を意訳していく。
12 第十段落を意訳する
次に、第十段落を意訳する。
具体的には、「そもそも維新の事は帝室の名義ありといえども、」から、「かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。」までの部分である。
(以下、第十段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
そもそも戊辰戦争は、錦の御旗があったとはいえ、薩摩・長州が徳川家に敵対したに過ぎない。
ならば、三河武士の末裔たる徳川家臣団としては、鳥羽と伏見で負けて江戸に逃げ帰った後であっても、幕府を支持する藩に命令して再起を図り、いざとなったら江戸城に籠城して戦い、万策尽きたら江戸城を枕に討死にすべきであった。
要は、死病にかかった父母に対して叶わぬ奇跡を祈りつつ看病するようなものである。
これを実行してこそ「痩我慢」の美風も維持されるのである。
(意訳終了)
この段落では、事実関係と「痩我慢」に殉じる立場の者がすべきことが書かれており、特に見るべきことは書いていない。
また、「痩我慢」に殉じた具体的な人物として南宋の文天祥などがいたこと、文天祥などの人間を称揚した『靖献遺言』が幕末志士のバイブルとなっていたことは前回述べた通りである。
さて、次に進もう。
13 第十一段落を意訳する
次に、第十一段落を意訳する。
具体的には、「然るに彼の講和論者たる勝安房氏の輩は、」から、「竊に冷笑したるも謂れなきにあらず。」までの部分である。
(以下、第十一段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
しかし、勝海舟は「幕府の兵は使えない」、「薩長を敵にすべきではない」、「治安を守らなければならない」、「将軍慶喜公の命が危ない」、「外交上、戦うのは得策ではない」と周りに説いて回り、場合によっては、自分の身を危険にさらしてまで和議を主張した。
そして、江戸城は戦うことなく明け渡され、徳川家は70万石の大名への降格で終わった。
当時、この事件を見たある外国人が、「殺される前に抵抗しない人はいない。小さな昆虫だって、その小さな足を使って1トンものの鉄槌から身を守ろうとするもんだ。それに比べて、徳川家はなんだ。二百七十年間もの長い間、国を治め、金も兵も武器もあるであろう政府が、2つの地方の同盟軍に対して、敵対もせずひたすら和睦や慈悲を乞うとは。こんなプライドのない主君は他に例がない。」と冷笑したという。
この冷笑、単なる誹謗中傷ではない。
(意訳終了)
ここも事実関係が書いてある。
あと、外国人の冷笑に関しては「普通はそうだよね。」という話。
ただ、あくまでも「通常」のお話。
どのような場合、例外的な振る舞いをすべきなのかは知らない。
次に進もう。
14 第十二段落を意訳する
次は第十二段落である。
具体的には、「蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の労費と認め、」から、「具眼卓識の君子は終に欺くべからず惘うべからざるなり。」までの部分である。
(以下、第十二段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
勝海舟が和議に走ったのは、算盤をはじいてみたら「内乱の戦争は無意味な災害・無益な浪費である。また、勝算がないならばさっさと講和して内乱を終息させるべし」という結果になったからだろう。
もちろん、口では「慶喜公の安否」や「外交上の利害」などと言っているが。
さて、この計算、背景を突き詰めてしまえば、「国造りに『痩我慢』は不要であり、無益である」という思想に基づく。
よって、古くから日本の上流社会で重視されていた「痩我慢の維持」をうやむやにしたと言われても、抗弁できまい。
確かに、一時の豪気は凡人を驚かせ、詭弁は凡人を篭絡することはできる。
しかし、立派な人間はこんなのに騙されん。
(意訳終了)
ここで、福沢諭吉は勝海舟の行動の背景にあった計算とその計算を支える思想について考察する。
その結果が、「国造りに『痩我慢』は不要であり、無益である」という思想だ、と。
この点、このような思想を持っていれば、無血開城に走ってもおかしくはない。
しかし、このような思想を持っていなければ、無血開城に走らないわけでもない。
この文章だけを見ると、この二つが混同されているように見える(単に見えるだけであり、当人が混同しているとは思えないが)。
どうなのだろう。
15 第十三段落を意訳する
今度は第十三段落である。
具体的には、「左れば当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといえども、」から、「その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題にあらざるなり。」までの部分である。
(以下、第十三段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
ちなみに、私も「幕府に勝算がない」という勝海舟の見込みには賛成する。
しかし、「痩我慢」の維持から見たら、「勝算がない、イコール、戦わない」とはならない。
まして、「勝算」が外れることなんかいくらでもあるんだから、「勝算がないが、それでも戦う」という選択だって十分ありうる。
このような状況で、勝海舟は「確実な負け」を予見し、負ける前に大権を放棄して、穏便に済ませようとしたわけである。
つまり、「戦渦による損害を減らした代わりに、『痩我慢』の美風を害した」ことになる。
この責を勝海舟は免れられない。
そして、戦渦の被害は一時のものだが、「痩我慢」の美風が消えればその損害は未来永劫続く。
戦渦の被害は痩我慢を失うことと釣り合いがとれるのか。
これは簡単な問題ではない。
(意訳終了)
ここまでをまとめるとこんな感じになる。
① 無血開城に及んだ人たちの背景と思想
『痩我慢』は国造りにおいて無用・無益
勝算なき場合はさっさと戦火を交えず、和議を結ぶべき
② 事実認定(規範に関係ないもの含む)
薩長は強い
幕府軍は弱い
戦争になれば、慶喜公は守れない
内乱になれば治安が乱れ、民は塗炭の苦しみを味わう
内乱になれば諸外国がこれに付けこんでくる
③ ①と②に基づいた方針
幕府方に勝算はない
④ ③の結果
国造りに重要・不可欠な「痩せ我慢」の精神は損なわれた
⑤ 福沢諭吉の結果に対する評価
少なくても、前者によって回避した損害は後者の損害を上回るものではない
気になるのは、福沢諭吉が「彼らは『痩我慢』を不要・無益と考えた」と言い切った理由である。
というのも、「痩我慢の重要性は認識しているが、今回は内乱の戦渦を回避する方が大事」という戦略判断から江戸城を明け渡すこともありうるからである。
福沢諭吉は何故そうは思わなかったのか。
次回以降、この辺を見ながら意訳していく。