今回はこのシリーズの続き。
今回も「私釈三国志」風に「痩我慢の説」を意訳していく。
これにより「痩我慢」の美風がどうなったか、そして、美風をどう回復させるか、という話に移っていく。
16 第十四段落を意訳する
今回は第十四段落から意訳する。
第十四段落というのは、「或はいう、王政維新の成敗は内国の事にして、」から、「自から一例を作りたるものというべし。」までの部分である。
(以下、第十四段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
こんな意見をする奴がいる。
王政復古は日本国内のこと、徳川家と薩長は兄弟のようなもので、敵ではない。
つまり、戊辰戦争は兄弟げんかのようなものであって、外国との戦争ではない。
だから、兄弟げんかを骨肉の争いになる前にうまく終わらせたのは素晴らしいことである、と。
この意見、もっともらしく聴こえるが、一時逃れの詭弁にしかならないぞ。
考えて見よ。
国民同士であろうが友人同士であろうが、敵味方に分かれて争えば、敵は敵でしかない。
その敵に対して「戦うのは無益だ、無謀だ。戦えば確実に負ける」などと言って平和裏に収めようとする輩どもが、外国から戦争を挑まれたときに「痩我慢」をして日本のための臥薪嘗胆に耐えられるはずがあるものか。
対内的に「痩我慢」が発揮できない人間がどうして外国に対してのみ「痩我慢」が発揮できると思えるんだ、甘いわ。
言葉にするのもはばかられるが、外国からの侵略があったとき、今回の件を先例として日本国を解散して、外国に吸収されることを選択したらどうするのだ。
(意訳終了)
薩長(島津家・毛利家)と幕府(徳川家)は兄弟のようなもの、か。
篤姫は近衛忠煕の養女として家定の正室になるが、篤姫自身は薩摩藩第九代藩主である島津斉宣の孫である。
一方、長州藩の第十二代藩主の毛利斉広は正妻が第十一代将軍徳川家斉の娘である(なお、次の第十三代藩主が村田清風に藩政改革を委ね、また、幕末において長州藩を仕切った毛利敬親である)。
親戚、兄弟、まあ分からなくもない。
さて、次の段落にいこう。
17 第十五段落を意訳する
次は第十五段落である。
具体的には、「然りといえども勝氏も亦人傑なり、」から、「当時の実際より立論すれば敵の字を用いざるべからず)。」までの部分である。
(以下、第十五段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
今まで色々とケチをつけているが、勝海舟は偉人である。
抗戦しようと考えていた旗本たちを説得した。
また、身を犠牲に幕府を解散させ、その結果、明治政府への政権交代を容易にした。
さらに、江戸城下での戦争を回避して、庶民の生命や財産を守った。
これらは素晴らしい功徳である。
信じてもらえる分からないが、私もこの点に異論はない。
ただ、気になるのは、この勝海舟が薩長の功臣と一緒に並んで明治政府の重臣になっている点である。
(なお、「敵」という言葉を使うことについて付け加える。
明治維新とは、幕末、薩摩藩・長州藩という雄藩が帝室を奉じて徳川幕府を相手に挙兵し、徳川幕府から帝室に政権を戻したことを指す。
そして、帝室を仰ぐ立場・帝室の恩恵を受ける立場から見れば、我々は同じ立場になるが、その立場を離れて互いに争うときは敵・味方とならざるを得ないのである。
現実、敵と味方に分かれて争うのだから。
だから、「同胞の日本人を指して『敵』とは何事だ」と名分・形式しか見ない輩がいるが、現実を見れば「敵」という文字を使うしかない。
つーか、事実を見ないと実態を見誤るぞ。
(意訳終了)
勝海舟の命がけの行為の結果、日本に少なからぬ利益をもたらした。
しかし、徳川を裏切った者が明治維新の功臣と肩を並べてていいのか。
その行為が「痩我慢」の美風をぶっ壊すことが分からないのか。
そういうお話である。
次の段落に進もう。
18 第十六段落を意訳する
どんどん意訳しよう。
次は第十六段落、具体的には「東洋和漢の旧筆法に従えば、氏のごときは到底終を全うすべき人にあらず。」から、「是等の事例は実に枚挙に遑あらず。」までの部分である。
(以下、第十六段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
日本や中国の歴史を見た場合、勝海舟のようなことをした人間の末路は悲惨だった。
例えば、漢の高祖劉邦は、自分を見逃した敵方の武将の丁公を誅殺した。
清の四代目の皇帝・康煕帝は、清に協力して藩王となっていた明の遺臣たちを滅亡させた。
日本でも、織田信長の武田勝頼を征伐した際、土壇場で裏切った小山田信茂は処刑された。
こんな例は山ほどある。
(意訳終了)
裏切り者の末路、というやつである。
前回示した文天祥と反対の生き方をした人間たちとも言える。
この点、丁公という武将は項羽の家臣である。
劉邦と項羽が争っていた際、丁公はある戦いで大敗して逃亡する劉邦を追撃したが、意図的に劉邦を逃がす。
これにより劉邦は九死に一生を得、その後、項羽は劉邦に滅ぼされることになる。
そして、項羽の死後、劉邦は「項羽が敗れたのはこいつのせいだ。我が家臣はこいつを見習ってはならない」と言い、見せしめに丁公を誅殺することになる。
また、清の康煕帝が明の遺臣を排斥した事件はいわゆる「三藩の乱」と呼ばれている事件である。
明の滅亡の際、清に協力した明の遺臣たち三人は領土(藩)を与えられ、一種の独立政権ができていた。
それを疎ましく思った康煕帝は三藩を廃止することを決め、それにより藩王たちの反乱がおきる。
そして、反乱は鎮圧され、彼らは滅亡することになる。
小山田信茂の話はまあいいだろう。
ところで、以前出てきた文天祥。
彼が刑死を選ばず、フビライに仕えたらどうなっただろう。
どこかのタイミングで不忠の臣として誅されただろうか。
あるいは、耶律楚材のようになっただろうか?
19 第十七段落を意訳する
今回は第十七段落まで意訳しよう。
第十七段落は、「騒擾の際に敵味方相対し、その敵の中に謀臣ありて平和の説を唱となえ、」から、「自から経世の一法として忍んでこれを断行することなるべし。」までの部分である。
(以下、第十七段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)
戦争のとき、敵方に戦争の無益を主張し、裏切るつもりなく自分に降伏してくる敵方の家臣がいる。
このような人物は自分にとって都合がよいのは明らかである。
だから、この時点では厚遇する。
しかし、戦争が終わったらその者はどうなるだろう。
不忠の輩と罵倒され、排斥されるだけで済めばまだマシ、見せしめとして誅殺されることも少なくない。
「こんなバカな」と考えるかもしれないが、新時代の秩序のためやむなく行われてきた面もあるのだろう。
(意訳終了)
今回はこの辺までとしよう。
私が考えさせられたことなどについては勝海舟に対する部分を意訳し終えてからにしたい。