薫のメモ帳

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『日本人と組織』を読む 1

0 はじめに

 ここまで山本七平小室直樹の書籍をメモにしてきた。

 

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 次に、メモにしたい本はこちらである。

 

 

 この点、いわゆる「敗因21か条」(『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』)は太平洋戦争に関する事実関係と事実の評価の比重が大きかった。

 また、『「空気」の研究』は「日本人を拘束する『空気』と『水』」の比重が大きかった。

 その場合、『日本人と組織』は「日本の組織」の比重が大きいとみている。

 今から読み込むのが楽しみである。

 

1 第1章「日本の家族型組織観」を読む

 本章は、ゲーテの『ファウスト』と鬼神学の話からスタートする。

 そこから、「民間伝承のような空想の産物は、その時点・その民族の想像・空想の限界を示している」ことに話がつながる。

 

 例えば、欧米(西欧)では、ゲーテの『ファウスト』のような「悪魔と『契約』を結ぶ」といった民間伝承が存在するが、近代化以前の日本にはこのような伝承は存在しない。

 つまり、欧米にも日本にも人や社会に危害を加え、破滅に追いやる悪魔・悪霊・鬼神のようなものは存在するが、日本にはその悪魔などを相手に契約を結ぶ、契約書にサインをするといった話が存在しない。

 このことから、近代化以前の日本には欧米・西欧には存在した「悪魔のようなものに対して契約を締結する」という発想がなかったことになる。

 

 この「その時点・その民族の空想の限界」を知るために重要な手掛かりになる学問があり、「鬼神学」というらしい。

 なにやら面白そうな学問である。

 

 

 欧米と近代以前の日本の違いを確認したところで、本章はその背景に進む。

「悪魔と契約を結ぶ」という伝承の背後にはどんな文化的背景があるのか。

 山本七平の書物を見ていれば想像がつくが、その背景にあるのが「契約宗教」になる。

 この「契約宗教」という発想は近代以前の日本にはないので、この発想は日本人にとって違和感を感じさせる。

 さらに、契約宗教が前面に出てくると、我々は拒否反応を示すこともある。

 

 例えば、『十戒』という映画でモーセシナイ山で神から「十戒」を戴くシーンがある。

 あれを見て、「モーセが神から何かを授けられた」と受け取る人は多いだろう。

 しかし、学者はあの一件を「シナイ契約」と呼び、石板を入れた箱は「契約の箱」と呼ぶ。

 つまり、十戒」は神と人間の契約である。

 そして、ここから「悪魔といえども契約は守る」という伝承に繋がっていく。

 

 これに対して、「古い伝承と現代の間に関連などないのでは?」と疑問に考えるかもしれない。

 しかし、キリスト教社会においてこの「シナイ契約」は今でも読み続けられている。

 そして、「読む」という行為は「現在の行為」であるから、関連性がないということにならない。

 この辺は、欧米における聖書、中華圏における四書五経イスラム教圏におけるクルアーン、仏教圏における経典も追加して考えていくと、日本だけ例外とも言える。

 

 もちろん、伝承通りの事実の存在や悪魔との契約の存在を信じる人は少ないかもしれない。

 しかし、伝承の実在の否定は、伝承の背景(欧米ならば「契約」)となる伝統の消失を意味しない。

 そして、社会科学では宗教・伝統はその社会の現実生活を反映していると言われており、一面においてそれは否定できない。

 ならば、契約を軸とした背景(宗教)は現在の欧米において政治・経済・組織・社会に反映していると考えてもおかしくない。

 

 

 では、ここから欧米型組織について何が言えるか。

 それは、欧米型組織とは「『契約』に基づいて『一定の目標』を達成するために、その契約の『遵守』を約束した人間の集団」ということになる。

 このように見れば、「組織への忠誠」とは「契約への忠誠」ということになり、その結果として「個人への忠誠」が排除されることになる。

 この形は契約宗教における「神への忠誠」とオーバーラップする。

 

 なお、この発想は「誓いの禁止」へと発展する。

 つまり、面従腹背の集団では組織はもたない。

 そこで、「宣誓」、つまり、「神への断言」以外の内心の存在を禁止し、仮に、それが存在してこの断言に虚偽があったら処罰する、ということになった。

 ここでも、ロッキード事件における「宣誓」に関する日米の違いを比較すると興味深いものが見られる。 

 例えば、アメリカでは宣誓すれば応答義務があるが、正当防衛は認められるし、また、契約外のことに関する応答義務はないと考える。

 他方、日本では国会における宣誓の他に「内心における誓約」があり、その誓約が最優先・判断の基準になっている。

 

 

 ここから話は「日本型誓約」に移る。

 まず、この「日本型誓約」と契約・契約から派生する組織との関係はどうなっているか?

 聖書の言葉を借りれば、「誓約」には次の性質がある。

 

① 誓約は自分を処罰する者に対して行う

② 自分の行為が誓約に反した場合、自分が処罰される

(これによって、誓約の履行を担保する)

 

 欧米では「誓約」時の処罰する者が「神」になるわけである。

 これは欧米における結婚の誓約の相手が配偶者ではなく神であることからも明らかである。

 

 このように誓約の構造を見ると、日本の誓約の構造もこれと同じである。

 しかし、構造は同じであっても、欧米と異なり、日本では「絶対」ではない。

 というのは、「処罰する者」が固定されていない関係で、自分の処罰する対象が恣意的に選択できてしまうからである。

 具体的に言えば、日本でよく見られる「我が身に誓う」という形を考えればいい。

 この「我が身に対して誓約した」場合、履行を破れば自分で自分を罰することになる。

 つまり、これは切腹という形になり、日本で「責任を取れ」とは「自裁せよ」ということになり、切腹(自殺)に関連することになる。

 この発想はキリスト教圏にはない。

 

 この「我が身に誓う」は、一種の絶対化である。

 このことは欧米における「神と人の契約」を見ると分かる。

 つまり、神は人に対して履行を約束した。

 しかし、「神は全能者であること」と「神が契約に拘束されること」は両立しない。

 この矛盾を解消するためのロジックが「神は自分に対して契約に拘束されることを誓った」というものであり、これが自己絶対化である。

 そして、「誓いの禁止」とは「人の自己絶対化の禁止」とも言える。

 このことは、神(絶対者)から見て、人は相対化された存在であることを意味していることからも明らかである(この辺の話は『「空気」の研究』でも見てきた)。

 そのため、「我が身に誓う」という発想は欧米の社会にはない。

 

 では、欧米にない「我が身に誓う」の結果招来する悲劇は何か。

 まず、堕落して「自罰」の意識がなくなれば、自罰は他罰へ転化する。

 また、「反省」という言葉が「自虐」に転ずる。

 この点を考慮すると、戦前と戦後はコインの表裏の関係に過ぎないのかもしれない。

 そして、このような違いがある以上、日本では欧米型の組織を作ることは難しいとも言える。

 

 

 以上、日本文化的背景から西欧の組織を作ることが難しいことを確認した。

 しかし、日本にも「組織」は存在する。

 では、この「組織」を支えているもの(欧米型組織における「契約」)は何か。

 また、この日本型組織の長所と短所は何か。

 ここが我々の知るべきこと・課題である。

 

 ここで指針になるのが、日本の想像力の限界になる。

 

 まず、日本人が現代社会に通じる組織を作り出した段階を考える。

 それは江戸時代である。

 というのも、江戸時代の前段階の宗教勢力・既得権益は江戸時代の一個前の戦国時代・安土桃山時代にほとんど一掃されたからである。

 そして、江戸時代において、皇室と寺社の権力を縮小したこと、精神的・間接的には文化として影響が残ったことは欧米の脱宗教化と共通している。

 そして、この脱宗教体制が確立された場合、①その体制を支える哲学ができること、②この哲学の限界が民族の空想力にあること、③この哲学が組織を支えることも同じである。

 

 この点、欧米は「プロテスタンティズムと資本主義」という形で示されている。

 しかし、日本にはそれが分からない。

 分からない理由は、「『空気』と『水』の相互循環にいるから」とも言えるが、もっと具体的に言えば、「過去を水に流して消してしまったから」ということになる。

 

 では、とっかかりはないか。

 この点、現代において聖書が読まれていることを考慮すれば、江戸時代に「聖書」のように読まれた書物を探せばいいことになる。

 そして、それは存在し、それが貝原益軒の『大和俗訓』になる。

 これは後に『教育勅語』に要約されることになる。

 

 この『大和俗訓』を読むと、当時の思想が分かる。

 それだけではなく、日常生活への細かい規定があり、かつ、それと現代の共通性に気付く。

 つまり、『大和俗訓』の規定と現代の銀行・大会社の規定と類似する点が多いと言える。

 ならば、日本人は知らず知らずのうち、江戸時代以降の伝統的思考に従っていることになる。

 

 

 日本型組織を研究する際に、最初に見るべきは『大和俗訓』になる。

 そして、これによると、欧米の聖書が神と人の関係を「契約関係」と考えたのに対して、日本の『大和俗訓』は自然・宇宙と人の関係を親子関係と考える。

 

 もちろん、「天を父、大地を母」と考える発想はどんな民族にもあった。

 ただ、出発点が同じことはそこから向かった先まで同じことは意味しない。

 

『大和俗訓』の発想は、「天と地は父母、人間はその子である。よって、人間は天地に仕えることが人間の役目である」となる。

 つまり、家族関係を宇宙・自然まで広めた考えであり、かつ、総てを家族関係で規律することになる。

 

 そして、明治の近代化の過程において契約的組織と家族的組織の考え方は一体化した。

 このことは幕藩体制の経営が『大和俗訓』の発想で運営されていたことの裏付けともいえよう。

 また、明治の近代化がスムーズにできたのは、欧米の契約的組織を『大和俗訓』の発想が経営できたからとも言える。

 

 明治時代、日本型組織が軍事面で整備され、それによって、日本は列強の仲間入りを果たした。

 逆に、昭和の時代はその整備された組織が破綻した。

 その後、戦後の高度経済成長がある。

 ならば、この急成長と破綻の軌跡をたどれば、日本型組織の長所と短所が見られることになる。

 

 

 以上が本章のお話。

 なんか参考になる点が多そうである。

 あと、なんとかして『大和俗訓』を読みたいものである。

 図書館で借りられないかなあ。