0 基本書は無味乾燥!?
今回は、過去の思い出についてちょっと。
少し長いが引用する。
(以下、『痛快!憲法学』の4~5ページを引用、一文毎に改行、重要でない部分は中略、強調は私の手による)
現在の日本には、さまざまな問題があふれかえっています。(中略)
現代日本が一種の機能不全に陥って(中略)いるのは、つまり憲法がまともに作動していないからなのです。(中略)
では、なぜ日本の憲法がちゃんと作動しなくなったのか。
その理由は憲法学そのものにあると、私は考えます。
たしかに、大学の法学部に行けば、そこでは憲法の講義が行われています。しかし、その中身はといえば、要するに司法試験や国家公務員試験を受験・合格するためのもの。(中略)こんな無味乾燥な「憲法学」に誰が興味を持つでしょう。こんなことで、誰が憲法に関心や理解を示すでしょう。
その意味で憲法学者の責任は重大です。
「憲法を語る」とは、すなわち人類の歴史を語ることに他なりません。憲法の条文の中には、長年にわたる成功と失敗の経緯が刻み込まれているのです。その長い物語を解き明かすのが憲法学なのですから、本当の憲法研究はとても面白く、エキサイティングなものなのです。
(以下、引用終了)
私は、この意見に反対しない。
もっとも、実務家を育てるという観点から見れば、上に書いている「司法試験や国家公務員試験を受験・合格するための無味乾燥な」ものをやめるわけにもいかないだろう。
また、代案として「全学部の大学の教養課程において『痛快!憲法学』のようなものを活用した授業をリベラル・アーツとして行うべきである」というのは考えられなくもないが、まあ、実現不可能であろう。
以下、少し大学の授業と憲法から離れる。
かなり前、旧司法試験に合格した際、私も当時のメジャーな基本書を買って一通り読んだ。
具体的に列挙してけば次の基本書がそれである。
なお、新しい版があるものについては、それに差し替えている。
この点、行政法の基本書がここにない。
というのも、私が合格したのが旧司法試験であり、現在のシステムの司法試験に合格したわけではないからである。
確かに、これらの教科書の多くは、小室先生に評価がそのままあてはまるようなものであった。
そして、それはそれでやむを得ない、ということは言うまでもない。
しかし、このうち例外的なものが2つあったため、その2つを過去の思い出として紹介したいと考えている。
1 内田貴先生の民法の基本書
1つ目は、内田貴先生の民法(以下「内田民法」という。)である。
もちろん、この基本書は基本書としても優秀であり、基本書に書かれているべき「条文の文言の定義、趣旨、解釈、関連事案の判例」が丁寧に説明されている。
しかし、この基本書には、少なくない頻度でコミカルな表現がある。
そこで、今回はそれらの一部について紹介したい。
たとえ、私が「基本書という場」を加味した上で内田民法を評価しており、人によっては「それがなにか?」というレベルで終わる可能性はあるとしても。
1つ目は、家族法に関する説明の際にあった記載について紹介する。
最初に、基本書に書かれているべきことを内田民法の記載を通じて確認する。
(以下、『民法Ⅳ_補訂版_親族・相続』より引用、強調は私の手による)
家族法においては合理的・打算的な意思表示の前提となる行為能力が要求されず、意思能力があればその意志は尊重される。また、合理的・打算的意志を前提としている民法総則のルールは当然には妥当しない。
(引用終了)
普通のことを専門用語を用いて説明しているだけである。
これだけの説明であれば、私も特に取り上げないだろう。
しかし、内田民法のここからの説明が興味深い。
(以下、『民法Ⅳ_補訂版_親族・相続』より引用、一部中略、強調は私の手による)
たとえば、Aが結婚する意志もないのにBに結婚しようといい、Bがその気になった場合、もし、財産法上の意志と同視すると、心裡留保に関する民法93条本文が適用されて、Aの意思表示は有効ということになり、届出さえなされれば完全に有効な婚姻になってしまう。しかし、Aとしては法律上は有効だから仲良くやれといわれてもそうはいかないだろう。Bをだましたことの責任はさておき、やはり婚姻としては無効と言わざるを得ない。(中略)
また、ABが結婚する気もないのに婚姻届を出したとき、虚偽表示に関する民法94条2項を適用して、善意の第三者との関係では有効な婚姻だ、などというのも確かにおかしい。
(引用終了)
ここの有効、無効というのは、「裁判において有効・無効」と考えてほしい。
だから、「Aとしては法律上は有効だから仲良くやれ」というのは裁判所であり、具体的には、裁判所から次のような判断(判決・決定等)がなされることを意味する。
・AはBに対して離婚するまで婚姻費用を払う
・Aが死亡した場合、Bが配偶者にあたり、相続人として認められる
もちろん、民法総則の意思表示の一般原則が家族法のルールでは適用されないため、現実でこんなことになるわけではない。
しかし、この基本書では真面目に書いているわけである。
このように、内田民法にはある種コミカルな、茶目っ気のある表現がいくつか見られる。
例えば、「事務管理」についてはこのように書かれている。
まず、最初の小見出しは「いらぬお節介?」から始まっている。
そして、次の文章が続いている。
(以下、『内田民法Ⅱ_第三版_債権各論』から引用、各文毎に改行、一部中略、註釈・強調は私の手による)
(前略)以上の原則(私による註、私的自治の原則のこと)は、人は自らの意志に拠らずに義務づけられることはないという思想(中略)の法的表現であり、他者の専制からの自由を守るために重要な役割を果たしている。
しかし、同時にこの原則は、他者が善意で本人のために何らかの行為をしようとする場合にも、これを阻止する機能を果たす。
もちろん、隣人が空腹でいるからといって鰻重を注文してやるのは、いらぬお節介というものであろう。
しかし、場合によってはいらぬお節介ではない場合もある。
(引用終了)
事務管理はよく言えば「人助け」、悪く言えば「いらぬお節介」である。
しかし、具体例として「隣人が空腹でいるからといって鰻重を注文してやるのは、いらぬお節介というものであろう」というのは・・・。
さらに、次の例を。
民法の不法行為の論点に「慰謝料請求権の相続」という論点がある。
この論点に対する当初の判例の結論は意思表明相続説と呼ばれるもので、その概要は「慰謝料というのは個人の主観的な感情を根拠とするため、その人に属する権利であるから、相続の対象とならないのが原則である(民法896条但書)が、本人が慰謝料を請求する意思表示をすれば具体的権利となって相続の対象となる」というものであった。
その後、最高裁判所は批判を受けて判例変更することになるのだが、その際の内田先生の解説が興味深い。
(以下、『内田民法Ⅱ_第三版_債権各論』から引用、各文毎に改行、註釈・強調は私の手による)
事故の被害者が「残念残念」と叫びつつ即日死亡したという事例で、慰謝料請求権は意思表示なくして当然相続されるとした原審を破棄差戻し、意思表示を要求したうえで、「残念残念」という言葉は、自己の過失を悔やんでいるといった特段の事情がない限り、慰謝料請求の意思表示であるとした(残念事件)。(中略)
しかし、このあと、相次いで次のような判決が現われた。
①(中略)「助けてくれ」と言っただけでは、慰謝料請求の意思表示とはいえない。
②(中略)「くやしい」と言ったのは慰謝料請求の意思表示である。
③(中略)「向こうが悪い」と言うのは、慰謝料請求の意思表示である。
しかし、死に際に何と叫ぶかによって請求出来たりできなかったりするのは、どう考えてもおかしい。こうして意思表示相続説の欠陥が明らかになった。
(引用終了)
もちろん、言っていることに間違いはないわけだが。
さらに、不法行為上の責任能力に関する2つの事件に関する内田民法の説明が興味深い。
(以下、『内田民法Ⅱ_第三版_債権各論』から引用、各文毎に改行、一部中略、註釈・強調は私の手による)
この事件(私による註、少年店員豊太郎事件のこと)の2年後に下された「光清撃つぞ事件」判決の基準をあてはめれば、豊太郎少年には責任能力がないはずである。
確かに、射的中で「光清撃つぞ」と言って遊んでいる12歳の少年より、11歳の勤労少年豊太郎の方が責任能力が高いというのはありそうなことだが、判例は、必ずしもそのような個別的能力を問題としたわけではない。
(引用終了)
本件で結論が異なったのは実効的な被害者救済のためという観点が多分にある。
つまり、「光清撃つぞ事件」において少年に民法上の責任能力があると監督者の責任を認められない一方、「勤労少年豊太郎事件」において少年に責任能力がないと使用者責任の要件(被用者が不法行為の要件を満たすこと)が認められない観点から、両者の結論が分かれている。
判例は事例判断の中で確立されるのであって、事例判断において紛争の解決・救済の実効性は法解釈の範囲内であれば考慮されうるから、こういったことは珍しくない。
つまり、「判例は、必ずしもそのような個別的能力を問題としたわけではない」というのはその通りであり、私が補足したことも内田民法においてちゃんと書かれている。
なのに、二人の責任能力を比較する旨の記載を挿入するのは・・・。
最後に、2005年3月までの民法の時代がかった文言に関する言及についても掲載しておこう。
私も以前書いたが、このことを教えてくれたのは内田民法である。
(以下、『内田民法Ⅱ_第三版_債権各論』から引用、各文毎に改行、一部中略、註釈・強調は私の手による)
なお、先取特権に関しては、時代がかった規定が少なくなかった(中略)。
旧310条の「僕婢ノ生活」は(中略)、「薪炭油ノ供給」は(中略)。
規定(317条)はもと、「旅客、其従者及ヒ牛馬ノ宿泊料並ニ飲食料ニ付キ其旅店ニ存スル手荷物ノ上ニ存在ス」となっていた。
時代劇の街道の宿場町を彷彿とさせる。
2005年3月までこの規定が現行法であったことが驚きである。
(引用終了)
私がこれを知ったのは改正直前だったと記憶しているが、まさに驚きである。
以上、いくつか例を出したが、このように内田民法にはこのようなコミカルな表現があった。
その意味で、小室先生がいうところの「無味乾燥さ」が緩和されていたような気がするので、そのことを回想として残しておこうと考えた次第である。
2 浦部憲法の思い出
それから、その無味乾燥さを吹き飛ばすかのような基本書がある。
それが、浦部先生の「憲法学教室_第3版」である。
もちろん、小室先生から見て、浦部先生の主張自体に対して同意することはほとんどないと考えられる。
しかしながら、上で批判されている「無味乾燥さ」は皆無であると言ってよい。
なぜなら、この基本書は、一種の政治的文章に近い面があるからである。
もちろん、そのことは本書が司法試験の勉強から見て役に立つものとは言えないことを意味するが、そもそもこの本にそんな意図がないだろう。
この本は一度読書メモにしようかな、と真剣に考えている次第である。
では、今回はこの辺で。