0 はじめに
これまで、私は山本七平の『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読み、学んだことをメモにした。
この一連の作業、結構大変だった。
しかし、色々なことを学び、考えることができた。
よって、この作業、このブログを通じてしばらく続けてみようと思う。
そして、次にメモにしたい本が『痛快!憲法学』である。
これはお亡くなりになった小室直樹先生の書籍である。
もっとも、かなり昔の本であり、今は図書館でしか入手できない。
また、小室先生の略歴は次のとおり。
さらに、小室直樹先生は、私が約16年間欠かさず視聴していたインターネットニュース番組「丸激トークオンデマンド」に登場したこともあった。
その時の番組は次のとおりである。
ちなみに、司会者の1人である宮台先生は小室先生のお弟子さんである。
この『痛快!憲法学』の目次は次のようになっている。
(以下、目次の部分抜き出し)
ようこそ『憲法学』の世界へ!
第1章 日本国憲法は死んでいる
第2章 誰のために憲法はある
第3章 すべては議会から始まった
第4章 民主主義は神様が作った!?
第5章 民主主義と資本主義は双子だった
第6章 はじめに契約ありき
第7章 「民主主義のルール」とは何か
第8章 「憲法の敵」は、ここにいる
第9章 平和主義者が戦争を作る
第13章 憲法はよみがえるか
(抜き出し終了)
この本は「憲法」について書かれた本であるが、通常の法律の本とは内容が異なる。
つまり、通常の法律の本であれば、「法律の規定はこうであり、法律の趣旨はこうであり、法解釈はこうなっており、現実に適用するとこうであり、判例はこうであり(以下略)」みたいな感じになっている。
確かに、法律・実務を知るならばこのようなことを知ることは不可欠である。
しかし、この本はそんなことではなく、憲法の成り立ちについて書かれている。
ここで、前書きに相当する「ようこそ『憲法学』の世界へ!」の一部を引用したい。
枝葉の部分は削ったが非常に大事なことが書かれているので、引用は長めにする。
(以下、『痛快!憲法学』の4ページ・5ページを引用、具体例・枝はは中略する)
現在の日本には、さまざまな問題があふれかえっています。(中略)
現代日本が一種の機能不全に陥って、何もかもうまく行かなくなっているのは、つまり憲法がまともに作動していないからなのです。(中略)
憲法という市民社会の柱が失われたために、政治も経済も教育も、そしてモラルまでが総崩れになっている。それが現在の日本なのです。
では、なぜ日本の憲法がちゃんと作動しなくなったのか。
その理由は憲法学そのものにあると、私は考えます。
たしかに、大学の法学部に行けば、そこでは憲法の講義が行われています。しかし、その中身はといえば、要するに司法試験や国家公務員試験を受験・合格するためのもの。(中略)こんな無味乾燥な「憲法学」に誰が興味を持つでしょう。こんなことで、誰が憲法に関心や理解を示すでしょう。
その意味で憲法学者の責任は重大です。
「憲法を語る」とは、すなわち人類の歴史を語ることに他なりません。憲法の条文の中には、長年にわたる成功と失敗の経緯が刻み込まれているのです。その長い物語を解き明かすのが憲法学なのですから、本当の憲法研究はとても面白く、エキサイティングなものなのです。
私は本書において、その「憲法の物語」の一端を披露し、憲法学のおもしろさ、大切さを少しでも皆さんに伝えたいと考えました。
読者の中には、「法律の本なのに、どうしてこんなに西洋史の話が多いのだろう」とびっくりされる方も少なくないでしょう。それどころかキリスト教や旧約聖書の講義まで出てくるのですから、ますます仰天するに違いありません。
しかし、(中略)憲法も民主主義も、けっして「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)などではありません。これら2つは近代欧米社会という特殊な環境があって、はじめて誕生したものですから、憲法を知るには、欧米社会の歴史と、その根本にあるキリスト教の理解が不可欠なのです。
憲法がどのように成長していったかを知ることによって、おのずと今の日本の問題点も課題も見えてくる。私はそう信じています。
憲法とは何か、民主主義とは何かという原点に立ち返ることこそが「日本復活」への唯一の方法だと思うのです。(後略)
(以下、引用終了)
この指摘のうち、私が感じたことを書くなら次の2点かな、と思う。
一つ目。
「憲法(の規定と運用)に問題がある」という指摘は間違いないが、逆に「憲法(の規定と運用)を改めるだけで問題が解決する」わけではない。
「憲法を変えればなんとかなる」と嘯いている方は少なくなかった(ここ15年くらい何度も耳にした)。
この前書きはその説を後押ししているように見える。
しかし、「近代立憲主義(現代立憲主義)を支えるプラットホーム」がない状況で、形式的に立憲主義の憲法を作ったところでどうなるかは目に見えている(歴史が証明している、と言ってもいい)。
とすれば、「憲法の規定・運用を改める」という作業は「立憲主義を支えるプラットフォームを治療する」という作業とセットになる。
後者の作業を怠って前者だけをどうにかするのはおそらく無理と言ってよい。
二つ目。
「歴史を知ることが重要だ」ということである。
例えば、憲法では表現の自由(憲法21条1項)と不逮捕特権(憲法51条)について次の規定が存在する。
日本国憲法21条1項
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
日本国憲法51条
両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。
大日本帝国憲法ではこれらの規定は次のようになっていた。
大日本帝国憲法第二九条
日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス
大日本帝国憲法第五二条
両議院ノ議員ハ議院ニ於テ発言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ
但シ議員自ラ其ノ言論ヲ演説刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ処分セラルヘシ
大日本帝国憲法では表現の自由には「法律の留保」が付されていた。
つまり、「法律がなければ、(表現行為に対して)法的な不利益処分を科せない」という意味と「法律(内容は問わない)があれば、法的不利益処分を科せる」という意味がある。
だが、日本国憲法にはその「法律の留保」がない。
言い換えれば、「憲法に適合しない法律を用いて法的な不利益処分を科すことはできない」ということになる。
もちろん、憲法は「公共の福祉」(憲法12条・13条)による個人の自由の制約を許容しているから、表現行為が一切自由・無制限になるわけではないが。
では、日本国憲法は法律の留保を除外したのか。
それには歴史的な背景がある(その点は省略)。
議員の免責特権も同じである。
大日本帝国憲法が議員に免責特権を与えたのはヨーロッパの歴史的背景などがある。
さらに、日本国憲法では「但書き」の部分を排除した。
これにも歴史的経緯がある。
これらの歴史的経緯を踏まえずに、単に「51条は免責特権は云々」、「表現の自由は保障されるけど、絶対無制限ではなく公共の福祉により云々、具体的な違憲審査基準については云々」などと言われても、まあつまらんだろう。
確かに、その辺を学ぶとなると学ぶ範囲が増加する。
「司法試験や(国家)公務員試験に合格すること」が目的ならその範囲を増やすことは手段として合理的ではない。
また、裁判官・検察官(司法試験の場合)・行政公務員・地方公務員(公務員試験の場合)として職務を執行するのであれば、歴史を学ぶ必要性はそれほど高くないかもしれない(正直に言えば、この辺は不明)。
しかし、主権者として、立法権を行使する政治家であれば背景を知ることは必要であろう。
何故なら、主権者・政治家は法律を作る(憲法を作る)側なのだから。
以上、今回から『痛快!憲法学』を読み、学んだことをメモにしていく。
1回1章で約13回を目標にしているので、約1カ月半の作業になると思われるが、なんとかメモを完成させたい。