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『小室直樹の中国原論』を読む 19

 今日はこのシリーズの続き。

 

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小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

19 第6章を読む_前編後半

 前回は、当時の中国と台湾の状況を確認しながら、「中国が資本主義経済に向かっているのかどうか」について、資本主義経済に向かっているのかどうかを判断するための重要な要素として「定価の存否」があることをみてきた。

 今回は、前回の続きである。

 

 

 今回は、世界における「定価の存否」に関する話から始まる

 つまり、中国のみならず、世界各地における「定価の存否」をみていくことになる。

 

 著者(故・小室直樹先生)が本書で最初に採り上げているのは中近東である。

 つまり、湾岸戦争のころ、アラビアを訪れた日本人がその体験談を紹介していたところ、その内容に「中近東には価格などあってないようなものである」という趣旨のものがあったところ、「この『定価の不在』はアラビアの特徴である」とまで述べているものがあった。

 だが、本書や経済学に関する読書メモを見ればわかる通り、定価の不在は資本主義社会以外の社会の特徴であって、アラビア社会固有の特徴ではない

 以下、当時の世界各地の例を取り上げてそのことを述べている。

 

 例えば、当時のインドには定価はなかったそうである。

 また、アメリカやヨーロッパを見ても、アメリカ合衆国やドイツでは定価がしっかりしているが、相対的に見れば定価がいい加減な国もある。

 著者はその例としてイタリアを取り上げている。

 著者は、当時のイタリアの定価の(相対的な)不安定性を理由に、イタリアは才能ある人たちを輩出していること、イタリア国民の天才的な才能を肯定しつつも、経済ではアメリカやドイツに劣後していること、資本主義としては不完全である旨述べている。

 さらに、(当時の)トルコを例に取り上げて、「トルコについては『定価がない』と評価した方がいい。しかし、『定価がない』ことに文句を言うことは間違いである」旨述べている。

 というのも、彼らは「価格は相手との人間関係、相手の購入意欲や資産状況によって決めるべきものである」と考えているからであり、値段を吹っ掛けられることもある一方、場合によってはこちらが値切ることも可能なのだから。

 本書では、著者がトルコのレストランでトルコ共和国建国の父(ケマル・アタチュルク)を褒めちぎって飲み物を無料にしてくれた例を取りあげている。

 もちろん、このような値切りが可能だったのも「定価がない」ことの効果に他ならない。

 

 本書は、アラビア、インド、イタリア、トルコの例を掲げて本題(中国における定価の有無)に進む。

 著者は、(当時の)中国の国立工芸美術館や上海における日本資本のデパートにおける体験談(値下げ交渉)を取り上げ、(当時の)中国において定価が機能していると考えられる部分でさえ「一物一価の法則」が成立していない旨結論付けている。

 さらに、著者が中国で講演を頼まれた際、一物一価の重要性を述べた著者の話に対して、中国の経済学者は非常に納得した一方、経済学者以外の中国人は非常に憮然たる面持ちだった旨述べている。

 まあ、こんなところなのかもしれない。

 

 

 ところで、何故、「一物一価の法則」が成り立たないといけないのか。

 それは、「一物一価の法則」が成り立たないと生産、消費といった経済活動において合理的な計画を立て、あるいは遂行することができなくなるからである。

 つまり、個々の具体的な状況や取引相手との交渉・駆け引きによって定価がころころ変わるようでは、合理的な計画は立てられず、結果的に、効率が下がって大量生産といったことができなくなるからである。

 このように、資本主義社会にとって「一物一価の法則」は重要な前提ということになる。

 

 ただし、資本主義社会にとって重要なものは「一物一価の法則」だけではない。

 資本主義社会にとって重要なものとして「破産」である。

 この「破産」がないと、資本主義社会が前提とする自由競争の長所が全く発揮できなくなってしまうからである。

 これは、競争がない状況で成長や発展が見込めるかどうかを想像すれば理解できるであろう。

 本書では、具体例として(当時の)日本の大学教授や日本の銀行を取り上げている。

 

 また、破産の重要性を示す具体例として、アメリカの不良債権問題からの立ち直りの例を挙げている。

 この話は次の読書メモで触れた通りである。

 

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 つまり、アメリカでは大恐慌の教訓から、銀行が破綻した場合であっても預金者の預金を保護するために、銀行保険基金がその銀行の預金を保障するという制度を作った。

 ところが、この制度によって、銀行のモラル低下を招き、過大な融資を行った結果、不良債権の山を作り、アメリカ経済の危機を招いてしまった。

 そこで、この制度を変更して、銀行が破産するような制度に変更した。

 その結果、3分の1近い銀行が破産したが、アメリカ経済は回復することになる。

 この結果は日本の例とは対照的である。

 

 このように、「競争に追いつけなければ破産して市場から退出させられること」、これが自由競争のメリットである。

 

 では、この観点から中国を見たらどうであろうか。

 この点、中国には破産法がある

 この点について、著者は「驚くべきことに」という感想を付け加えているが。

 しかし、外国企業については、破産の要件が非常に厳しくなっている(企業責任者の全員一致による決議+当局の許可)。

 

 著者は2点の問題点を指摘している。

 第一に、全員一致を要求することで破産に対する効率的な意思決定を阻害しており、破産の決定をさせないようになっていること。

 第二に、中国における外国企業のほとんどは中国との合弁会社であることから、企業責任者の一部には中国人がいるところ、その中国人の反対により破産ができなくなること。

 これらのことから、中国では破産法はあれども外国企業は破産できない、ということになっている。

 その結果、経営改善の見込みのない赤字経営の企業は損失を出し続けなければならないことになる。

 これではその企業は大変であろう。

 

 なお、著者は、破産の他に資本金についても言及している。

 つまり、資本金の増資の許可は簡単に出るが、減資についてはなかなか許可が下りない、と。

 資本金の減資は、経営規模の縮小化を意味するから、部分的な破産と言ってもよい。

 しかし、この減資がなかなかできないとなると、これもまた近代資本主義のルールに反しているということになる

 

 

 ここで、著者が(当時の)中国の銀行の専門家から話を訊いた際のエピソードが紹介されている。

 つまり、話を色々訊いて判明した事実が、(当時の)中国人には「資本金」という概念がないということだった。

 

 なお、ここでは、著者が旧ソビエト連邦エコノミストと話をした際、英語が大変流暢であったにもかかわらず、「減価償却」という言葉がどうしても伝わらなかったエピソードを紹介している。

 そして、伝わらなかったのは、旧ソビエト連邦には「利子」という概念がなく、会計監査もなかった関係で、「減価償却」という概念をそもそも持ち得なかったから、と述べている。

 このように、考え方そのものを持ちえない人間(国の人)に対して、考え方やその考え方から発生する概念を伝えるのは難しい

 これは別に経済学に限った話ではない。

 

 ところで、「資本金」という概念がないとしても、現に中国で株式会社といった企業を設立するためには、資本金を払い込む必要がある。

 この点は、日本やアメリカ・ヨーロッパと同様である。

 しかし、この「資本金」というのは単なる元手のことではない

 というか、単なる元手でいいなら、シンドバッドの時代からあるわけで、それこそ資本主義以外の国にもある。

 つまり、資本主義国(日本もそうである)では資本金を払い込むことによって法人が発足し、法人の権利を確立することができる。

 このように、資本金の払い込みは法人の権利関係について重要な影響を及ぼすものであり、だからこそ、この払い込みを仮装するような預合いや見せ金が会社法上の問題となるわけである(前者については刑罰が規定されている)。

 

 この点、著者は、とある日本の企業が中国で会社を作る際に日本円で資本金を振り込んで会社を作った事例を取り上げて、「資本金を日本円で支払うことが中国の法令に反しないのか」と質問したところ、要領が得られなかったとのことである。

 もちろん、中国の法家の思想に従えば、「中国の役人の胸先三寸で合法・違法が決まる」ということになりそうな気がしないではないが。

 

 

 本書では、著者のエピソード紹介が続く。

 1980年頃、著者が中国を訪れた際、中国で受けた相談を通じて、著者は「(当時)の中国では複式簿記会計をつけていない」という事実に気付くことになる。

 その相談というのは、「破産した企業の儲けた分を元の企業に残すべきか、中央政府が吸い上げるべきか」という趣旨のものだったらしい。

 問題は、この「儲けた分」が何かということ。

 相談の際の資料はいわゆる「大福帳」であり、「複式簿記」ではなかった。

 そのため、相談にある「儲けた分」は「売上」と評価できたとしても、「利潤」と言えるかどうかは明らかではなかった。

 そこで、著者は「あんたらは利潤でないものを利潤と錯覚している」と返答することになる。

 その上で、複式簿記を採用すること」をアドバイスしたらしい。

 

 この点、レーニン複式簿記こそ、人類が発明した最大の発明である」旨述べている。

 確かに、個人的にも複式簿記は美しいと感じるし、また、複式簿記による様々な計算・分析も可能である。

 

 ところが、80年代の中国において複式簿記が十分に定着していなかったらしい。

 というのも、1993年7月1日に中国で複式簿記を採用すべしという法律ができたくらいなのだから。

 まさか、レーニンによって絶賛されていた複式簿記を旧ソビエト連邦中国共産党に教えなかったのだろうか。

 まあ、これは冗談としても。

 

 

 ここまで、定価、破産、資本金、複式簿記についてみてきた。

 次は、小切手に関するエピソードが紹介されている

 著者が中国へ行き、前述の複式簿記の相談を受けた際、著者は中国の銀行で当座預金の口座を作ったとのことである。

 この点、当座預金口座となると小切手等の振出しをすることが前提となるため、小切手帳も渡され、それを今も持っているらしい。

 ところが、そのころの小切手は相手の氏名を書かなければならず、また、その相手にしか通用しないらしい

 これでは、中国の小切手はトラベラーズ・チェックと同様になってしまう。

 また、小切手が現金と同視されている資本主義社会の現状とも大きく異なることになってしまう

 

 つまり、手形と異なり、小切手は換金率100%で現金として流通する

 この点は、証券としての性質を有する手形とは異なる。

 また、貨幣の流通性は貨幣それ自体でなされるというよりは小切手の流通によってなされる

 とすれば、小切手の流通性の制限は、貨幣の流通の制限となってしまい、市場経済の流通に重大な支障を生じさせかねないことになる。

 なぜなら、「小切手が書いた相手しか通用しない」のであれば、小切手の自由な流通など到底不可能なのだから。

 

 著者は、この(当時の)中国において小切手が自由に流通しない事実をもって「中国市場経済の実態は、貨幣がほとんどない市場経済と結論付けている。

 そして、貨幣がほとんどないことから、貨幣政策の実効性が認められないことも述べている。

 というのも、貨幣政策の基礎は「信用の創造」であるところ、その前提には貨幣がスムーズに流通するという大前提があるからである。

 

 さて、貨幣政策ができないなら、中国政府はどのように金融緩和や引き締めを行うのだろうか。

 当時の中国は銀行から企業への指導によって金融緩和や引き締めを実施していたらしい。

 しかし、このような銀行は頼母子講・無尽講といった金融組合や相互扶助組織に近くなってしまう。

 つまり、信用の創造を任務とする近代資本主義の銀行からは程遠くなってしまう。

 なお、この銀行による信用の創造については、次の読書メモで少し触れている。

 

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 ところで、当時の中国は外国企業には人民元を扱わせなかったらしい。

 まあ、信用創造における競争をしようものなら、外国企業が中国企業を蹴散らしてしまう可能性が高い。

 ならば、それもしょうがないとも言えようか。

 

 ところで、当時の中国の統計を見ると、中国の銀行の多くは政策銀行、つまり、政府の政策に沿って金融枠を設定し、政府の指導に沿って融資をする銀行であって、商業銀行は少数である。

 他方、中国の商業銀行に預金をするのは農民で、政策銀行から融資を受けるのは国有企業や(中国の)地方公共団体だそうである。

 とすると、中国の目覚ましい経済成長がインフレを招くことから、農民の預貯金は目減りする。

 また、国有企業や地方公共団体に融資をしても、返済しない場合に競売にかけることはできない。

 その結果、政策銀行の融資は焦げ付き、不良債権が増えることになる。

 

 

 以上、著者による中国のエピソードを見てきた。

 当時の中国のエピソードに触れられ、勉強になった。

 ただ、できれば、現時点で中国の「定価」、「破産」、「資本金の振込」、「会計」、「小切手」等がどうなっているのかは調べてみたいと考えている。

 

 続きは次回に。