薫のメモ帳

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『小室直樹の中国原論』を読む 21

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

21 第6章を読む_後編後半

 前回は、市場経済から見た場合の当時の中国経済、及び、経済学の援助の必要性についてみてきた。

 今回は前回の続きである。

 

 

 以上、当時の中国市場について資本主義の観点から見てきた。

 そして、その結果、著者(故・小室直樹先生)は、「当時の中国の経済は資本主義市場から見て異質であり、そのことを知らずに(資本主義市場だと誤認して)中国に進出しようものならトラブルが頻発するのは当然の結果である」と結論付ける。

 本書では、「安い労働力を求めて中国に生産工場を作ろう」と考えたとある企業の事件を通じて、その異質さを具体的に示している。

 

 本件事例の概要は次のとおりである。

 アメリカやカナダで工業用電池を販売する企業(以下「本件企業」という。)は、人件費の安い中国で生産工場を作ることにした。

 そこで、この本件企業は子会社と中国の企業とで契約を締結し、この中国の会社に電池を製造させて、子会社に販売させることにした。

 また、契約書には3年間は価格を固定して変更しない旨の条項があった。

 

 さて、工場の設備などが整い、中国の会社の製造する品質が一定の基準に達したため、本格的に製造発注を行った。

 ところが、製造発注の1か月後、中国の企業は労働コストを理由に販売価格の5割の値上げを要求してくることになる。

 5割とはすごい要求であるであるが、それほど珍しい話ではないらしい。

 そして、この要求こそ第1章以降に登場した「事情変更の抗弁」である。

 

 ところで、このような要求に対して日本なら交渉しながら折り合いを、というところかもしれないが、この企業は契約書の文言を盾に1年半近く戦った。

 しかし、中国は一歩も引かなかった。

 

 本書では、ここで「中国に契約なし」という重要な事実を取り上げる。

 正確には「中国に資本主義的近代契約なし」・「資本主義的契約違反に対するペナルティは必ずしもない」と言うべきであろうが、「幇会」と「情誼」の世界を確認した第1章や第2章を思い出せば、これ自体も不思議ではないことがわかる。

 

 

 この点、このようなことを見ていくと、「じゃあなんで『契約』を締結するのか?」という疑問が浮かぶかもしれない。

 しかし、キリスト教社会のヨーロッパやアメリカは「契約」が目的になるのに対して、中国人にとって「『契約』は人間関係=情誼を深める手段」と考えるので、契約を締結すること自体に意味がなくなるわけではない

 やや単純化していうのであれば、近代社会では「契約とはゴール」(履行内容を決定する)であるのに対して、中国社会では「契約はスタート」(履行内容の交渉を開始する)である。

 対比のためにややデフォルメしているが、考え方が両極端に違うことになる。

 

 考えてみれば、これは当然である。

 アメリカ・ヨーロッパはキリスト教が前提となっている。

 さらに、近代社会は、キリスト教における神と人間の間の「タテの契約」を「ヨコの契約」に転化させることによって発展させたのだから。

 これに対して、儒教・法家の思想には、さらに言えば、仏教にもこのような発想がないのだから。

 

 これらのことから「契約が守られるか否かは契約の背後にある人間関係による」と言える。

 当然だが、「幇→情誼→関係→知人→・・・」という幇モデルから見た場合、「関係」くらいにあれば、簡単に契約は破られないらしい。

 このことから、本件企業は中国の企業から見て「関係」の関係すらなかったことがわかる。

 

 また、このような観点から、中国社会では「契約締結時に細かいところは気にしない」という発想が出てくる

 この辺は日本の方が考えが近いのかもしれない。

 

 

 さらに、「情誼」や「幇」を基礎づけるのは人間関係であって契約関係ではない。

 だから、情誼や幇に近い人間関係を築けば資本主義的契約は不要になる一方、幇・情誼の上になされた約束は必ず守られることになる。

 というのも、情誼や幇に基づく人間関係を裏切れば、恐るべきサンクションが待っており、かつ、そのレベルは契約違反や契約書に書かれる制裁レベルでは済まされないから。

 結局、この違いは両者のエートス(近代の背後にあるキリスト教と中国社会の背後にある儒教等)によることになる。

 

 ところで、情誼の理想形は「管鮑の交わり」であり、相手を知ることや相手の真価を認めることである。

 ここまでいくことはなかなかないとしても、これらが中国社会のエッセンスであることは間違いない。

 だから、共同体のごとく外においては利害を共有することになるし、約束は守られることになる。

 なお、この情誼の関係が深まれば幇に近づくことは第2章で見てきた通りである。

 

 このことから著者は次のように結論付ける。

 資本主義社会と異なり、「中国には人間関係から独立した『契約』は存在しない」と。

 

 

 ここまでは、(当時の)中国市場における「情誼」と「幇」の現れについてみてきた。

 では、「法家の思想」についてはどうか

 本書では、それについても触れられている。

 

 この点、このようなトラブルが多発したことを受けて、中国に外国の法律事務所が設立されたようである。

 まあ、お互いのエートスの中身を誤解していれば誤解していれば、トラブルは頻発し、トラブルを解決するための弁護士事務所も作られるであろう。

 

 しかし、回答はお察しのとおりである。

 その理由は「法家の思想」、つまり、中国の法律は資本主義のトラブルを解決できるようにできていないからである。

 

 本書では、このことを理解するために、本件企業が値上げ交渉を突き付けられたその後についても紹介されている。

 つまり、本件企業は国際仲裁裁判所に訴え、勝訴判決を得た。

 しかし、この勝訴判決を用いて強制執行をしようとしたところで、中国の裁判所にはねられてしまった

 

 もちろん、このようなケースは一例ではないし、この裁判所等の行為が国際条約上問題がないわけでもない。

 しかし、このような状況を見れば、中国の法律が近代法としての役割を果たしていないとはいえよう。

 それに対する評価はさておいて。

 

 

 以上、第6章を見てきた。

 こうやって見ると、中国人のエートス市場経済をどのように変容させるのかを見ることができたような気がする。

 そして、エートスは重要でなあ、と。

 

 次回、全体をまとめてこの読書メモを終えることにする。