今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
20 第6章を読む_後編前半
前回は、(当時の)中国経済について、一物一価の法則の有無、破産の有無、資本金概念の有無、複式簿記の採否、小切手の流通の観点からみてきた。
今回は、この続きである。
本書は、(当時の)中国人が急激な経済成長に対してどのように振舞うのか、振舞ったのかについて述べている。
まず、大事な前提として、中国人はそもそも国家システムや銀行といった公的金融機関を信用していないという傾向がある。
この前提の下、高度成長の結果として中国人にお金が流れ込んだらどうするか。
国家も銀行も信用できないとなるとタンス預金になる。
もっとも、日本とは異なり、中国の場合、どの貨幣でタンス預金をするかという問題がある。
というのも、1994年1月1日までの中国には、人民元と外貨兌換券の2種類があったからである。
そして、経済成長によるインフレによって人民元の価値は急速に減少していた。
また、歴史的に見ても、中国の貨幣でタンス預金をすることに意味がない。
その意味で、中国においては、貨幣よりも金や外貨の方が安心する傾向があった。
もちろん、この傾向自体、金自体が一種の商品であることを見過ごしているし、為替相場においてはドル(米ドル)でさえその価値が一定とはいえないということを見落としているが。
さらに言えば、「金ならば大丈夫」、「ドルならば大丈夫」という発想自体が資本主義的には意味がなく、地金主義の発想なのだけれども。
本書では、日本円で大いに収益を得た中国人がその収益をドルにしたところ、その後の円高ドル安によって大損をしたというエピソードが紹介されている。
また、当時の中国人のドル信仰は旧ソビエト連邦以上だったことも。
確かに、ドルは世界経済を支配しているアメリカの通貨である。
また、その中国人は有能なビジネスマンだった旨本書では推測されている。
しかし、ドルであっても為替相場によってその価値が変動すること、つまり、ドルといえども商品であるという経済学の基礎について知らなかった。
そして、そのとき世界は円高ドル安に動いていた。
1990年4月のはじめにおいて1ドルは約157円だったが、5年後の1995年3月末には約80円となっていた。
5年間で円の価値は概ね2倍になっており、おそろしい円高(ドル安)である。
このような形で資産を減らした中国人は少なくなかったそうである。
しかし、政府はダメ、銀行はダメ、人民元はダメ、ドルはダメということで、中国人は消費に走ることになった。
この点、デフレは「モノよりカネ」であり、インフレは「カネよりモノ」である。
ある種当然の結果である。
そして、このときは耐久消費財の消費に動いたらしい。
ここで、話題は当時の中国の消費で見られたデモンストレーション効果について移る。
デモンストレーション効果については、次の読書メモで触れた通りである。
つまり、(当時の)中国人の持っていた「見栄っ張り」・「負けず嫌い」といった性格・傾向によりデモンストレーション効果が大きくなったとのことである。
この点、デモンストレーション効果は周囲の消費行動等によって発生する効果である。
また、上の読書メモで見てきた通り、アメリカや日本でも経済成長の折にデモンストレーション効果が発生している。
もっとも、本書によると、中国人の持っている「メンツを重んじる点」や「負けず嫌い」といった傾向が中国におけるデモンストレーション効果を大きくしていくようである。
そして、このデモンストレーション効果による消費の増加が、有効需要を激増させる。
有効需要が増価すれば、それに応じて投資・生産活動も増えGNPも増加する。
GNPが増えれば所得が増えるので消費が増える
あとは連鎖反応であり、経済は螺旋のようにうなぎ上りである。
このような連鎖反応は、経済学でいうところの「スパイラル現象」と言う。
また、スパイラル現象というと不景気になって経済が一気に冷え込むときに用いられることが多いらしい。
しかし、スパイラル現象は経済が成長する場合にも発生する。
ただ、このスパイラル現象は急激な変化を指すわけだから、「急激な上昇」が「急激な減少」に転化しうる。
つまり、「(借金してでも)買えば儲かる」から「買っても儲けられない」と人々が感じた瞬間、プラスのスパイラル現象はその勢いを維持したままマイナスのスパイラル現象になる(重要なのは「感じた」であって、客観的に儲けられなくなる必要はない点である)。
著者(故・小室直樹先生)はその心配はないのかと述べている。
なお、現時点’(2024年時点)で見る限り、経済成長率は下がっていてもマイナスにはなっていないので、大きな危機が具体化したわけではない、ようだが。
以上、市場経済の観点から見た当時の中国経済について見ると、いくつかの関門がある。
そして、著者が指摘する重要な関門が「金融システムの整備」だそうである。
ただ、この金融システムの整備は中国にとって困難なのだそうである。
というのも、「市場経済の作動を通じた金融政策」ができないのだから。
言い換えれば、ハイパワードマネー(現金と政府が民間・金融機関に預けている預金残高)、通貨・預金比率、預金準備率等を変動させることで貨幣量を調整し、市場経済の動きを変化させることとができないのだから。
そこで、金融政策が市場経済の作動によってではなく、政府の命令・指導によってなされることになる。
とすれば、これまでの伝統的計画経済によって動かざるを得なくなる。
本書では、当時の中国の経済成長の陰で経営不振に直面している国有企業について紹介されている。
なお、本書で紹介されている資料は20世紀末(1990年代)のものであり、かつ、その後、中国政府はその後の中国の経済成長率の推移を見ると隔世の感がある。
ただ、90年代に中国の国有企業の経営不振の問題があったこと、その一方で、そこからなんとか経済を立て直していったことは間違いない。
そこで、ここでは当時の事実関係を見ながら、中国にどういう悲劇が起こり得たのかを見ていくことにする。
というのも、この悲劇は現在(これまでの)日本に起きているような気がするからである。
当時、高度経済成長の背後で中国の国有企業は不振にあえいでいた。
生産性の伸びが低いだけではなく経営不振による赤字も露呈していた。
そこで、これらの国有企業をどうするかが問題となる。
この点、市場経済ならば破産させておしまい、となる。
しかし、次の読書メモで見てきた通り、旧ソビエト連邦はこの手法を採れずに破綻した。
つまり、国有企業の赤字を政府が補填しようとすると、企業全体が破産するか国家が破産するかの二者択一になってしまうところ、旧ソビエト連邦はそれによって破産してしまったわけである。
これが、本書で「スターリンの呪い」として紹介されているものである。
なお、本書では、国有企業の赤字を国家が補填することによる金融システムへの影響について言及されているため、その影響について確認する。
すなわち、国有企業の赤字を国家が補填するとしても当然限界がある。
その結果、経営不振にあえぐ国有企業は金融システムを頼ることになる。
この点、市場経済が完全に機能していれば、金融システムはこのような国有企業は相手にしない。
しかし、市場経済というのはある種の理想状態だから現実において100%機能するわけではない。
しかも、相手が国有企業の場合、背後には政府がいることになる。
とすれば、背後の国家権力を見て融資を実行する、ということもなくはないだろう。
当時の中国の銀行の多くは政策銀行であって商業銀行ではないのだから。
その結果どうなるかはお察しのとおりである。
市場経済の国々において、金融機関の融資は利潤をもたらす一方で不良債権化のリスクがあるため、貸し出しを増やしすぎないように自制する。
まあ、それでも前回紹介したようなモラル・ハザードが起き、金融危機が生じるわけだが。
しかし、国有企業が破産しなければ、過去に貸した債権が焦げ付くだけではすまず、焦げ付く可能性のある債権が増え続けることになる。
そして、この不良債権の増加が信用危機や貸し渋り等の信用不安をもたらす。
その次は金融恐慌となり、経済自体がストップしかねない。
日本のバブルがはじけたように。
というか、中国の話をしているのに、日本の話を聴いているような気分になるくらいである。
もちろん、著者は、このような状況で手荒な方法を採ればインフレを誘発することになるので厄介この上ない、と述べている。
まあ、日本を見れば簡単な問題ではないのは分からないではないのだが。
著者は述べる。
当時の中国経済の成長は疑う由もない。
しかし、よくよく見ていけば、健全な市場経済のプロセスにあるとは到底言えない、と。
話はここから「経済学の伝道による経済援助」へ移る。
つまり、「この問題をどうにかしたいなら経済援助をするのではなく、経済学について教えろ」という話である。
本書では、「産業連関論」という経済学の分野を用いて具体的に説明している。
この「産業連関論」とは各産業間の相互関係を明らかにするための学問である。
「『すべてがすべてに依存する経済』の姿を定量的に明らかにする」と言えばいいだろうか。
日本では60年代に産業連関論に基づいた「産業連関表」が作られていた。
しかし、中国では70年代に産業連関論が入ってきたが、あまり理解されていなかったようである。
つまり、「経済はすべてがすべてに依存する」ことが理解できていなかった。
本書では、「鉄を作ること」を通じて「経済はすべてがすべてに依存する」ことが理解していなかったがために起きたストーリーが語られている。
つまり、産業連関の基礎はわかっていないがそれでも鉄を作りたかった中国は、日本のメーカーの協力を仰いでやっとのことで製鉄所を作った。
この製鉄所、設備は当時の最新の技術で固めていたが、うまくいかなかった。
というのも、鉄を作るための電力が足らなかったからである。
そこで、周り節電を強いてなんとか電力を供給していたが、今度は鉄鉱石の供給が追い付かなくなった。
なお、中国にはたくさんの鉄鉱石があったが、その中国の鉄鉱石が作った製鉄所にあわないため、オーストラリアから輸入していた。
しかし、輸入しようにも船がなく、船を用意しても港(桟橋)がなく、港を用意したら今度は製鉄所に運ぶための鉄道がない、ということになってしまった。
つまり、この製鉄所、電力、鉄鉱石、船、桟橋、鉄道の関係(経済上の依存関係)を調べるのが産業連関論であり、その結果が産業連関表である。
ちなみに、大躍進運動が無意味化した最大の原因も産業連関論の無理解にあった。
なお、旧ソビエト連邦も産業連関論についての理解が遅かったらしい。
この点、産業連関論の創始者たるワシリー・ワシーリエヴィチ・レオンチェフはロシア人(アメリカに居住していたが、帰化はしていなかった)であり、このロシア人にはノーベル経済学賞が受賞されている。
しかし、当時のソビエト連邦は、この素晴らしい経済学者がロシア人であることを強調することはあっても、この経済学者が作った理論を理解しなかったらしい。
閑話休題。
ところで、1970年代、産業連関論の重要性に気付いた中国はレオンチェフ大先生を中国に招へいした。
また、彼の理論を学んだ中国人の経済学者らによって中国における「産業連関表」が作られた。
この表がおそろしく早くできたのは、毛沢東と周恩来の命令によるところが大きかった。
しかし、産業連関表に必要なレベルのデータが十分に集まらなかった。
特に、(学者はさておくとして)周辺にいる人々の産業連関表に関する基礎知識が乏しかったため、集められたデータ自体の精度もよくなかった。
例えば、「所得」や「利益」といってもお金の出入りだけを見て決めるわけにはいかない。
というわけで、レオンチェフ大先生を招き、「産業連関表」らしきものを作りはしたが、それを活用することができなかった。
結局、理論を理解しなければ、あるいは、理論を理解していても統計学が未熟であれば、信頼できる産業連関表は作れないし、信頼できる産業連関表の活用など夢のまた夢ということになる。
ここの話は今の日本を見ているような気がしないではない。
気のせいであろうか。
この産業連関表の例はもちろん一例。
経済学の理解が不十分な例は他にもある。
だから、著者は「(当時の)中国に必要なのは経済援助ではなく、経済学援助である」と結論付けることになる。
では、経済学の中で特に重要と考えていた分野はどこか。
本書では取り上げているのは「複式簿記」と「一般均衡論」の2点である。
つまり、市場経済が成立するためには、企業経営が利潤という目的に対して合理的である必要がある。
言い換えれば、利潤を上げるための手段が計算によって明らかになっている必要がある。
この計算に必要な道具こそ複式簿記である。
なお、複式簿記は個々の企業に関する話に過ぎない。
しかし、複式簿記の発想はミクロ経済だけではなく、マクロ経済にとっても重要である。
事実、ヒックス(読書メモは次のリンクのとおり)は、複式簿記の考え方を国民経済全体に適用して社会会計学を作り上げたのだから。
また、国際収支表も複式簿記の原理によって構成されている。
したがって、複式簿記の発想は経済学における重要な道具の1つである。
それから、著者が重要と考えているのが、「経済はすべてがすべてに依存する」という発想・構造であり、相互依存関係を数式化したワルラスの「一般均衡理論」である。
つまり、景気が悪いから消費が少ないのか、消費が少ないから景気が悪いのかはさておき、消費と景気の関係は相互連環関係の中で同時に決まる。
この相互連環関係を分析するための理論を作り上げたのがワルラスである。
そして、この一般均衡理論を後の経済学者(ヒックス、サミュエルソン、アロー、ノイマン等)が精密化していった。
この一般均衡理論こそ経済学を科学なら占めているゆえんである。
なお、レオンチェフ自身が「産業連関論は一般均衡理論の実証化である」旨述べているらしい。
とすれば、産業連関論の背後にある一般均衡理論を理解しなければ産業連関表を使いこなすのは困難であろう。
というわけで、一般均衡理論の理解も経済学における重要なポイントになると言える。
以上、本書を通じて当時の中国についてみてきた。
約25年前の書籍であるためか、隔世の感がある。
また、現実においては、中国は苦労をしながらも態勢を立て直して世界第二位の経済大国になっている。
さらに、「この点は今の日本にあてはまるのではないか」という感じがするところも少なくない。
そう考えると、本書は別の意味で役に立っているような気もする。