約1年前のことだっただろうか、「アマゾン・アンリミテッドで『聖書』が読める」ことを知った私はいわゆる「聖書」を読むことにした。
これまで具体的に読んだ「聖書」、現在読んでいる「聖書」は次のとおりである。
現時点で読み終えているのは、『旧約聖書』と『新約聖書』の2点である。
そして、『旧約聖書続編』は現在読んでいるところである。
まあ、読むといってもざっと見ているだけで、精読からは程遠い状況にある。
ところで、私は啓典宗教のカノン(正典)に触れるために、イスラム教のクルアーンの解説書(イスラム教ではアラビア語で書かれていないものはクルアーンではない)を読んだことがあった。
また、故・山本七平氏や故・小室直樹氏などの書籍を通じて、啓典宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)についてみてきた。
さらに、近代数学・近代科学・資本主義・民主主義の背景にキリスト教があることもみてきた。
これらの過程で読んだ書籍を挙げていくとざっと次のようになる。
なお、読んだ書籍が旧版であっても、リンク先は新版のものになっている。
(以下、故・小室直樹氏によるもの)
(以下、故・山本七平氏によるもの)
(その他)
このように、私はこれまで近代(資本主義・立憲主義・民主主義)を知るために様々な書籍を読んだ。
しかし、「聖書」を直接見たことはなかった。
そこで、一度、原典を見ようと考え、読み始めたのである。
クルアーンと異なり「『聖書』は日本語訳だからダメ」ということがないので。
以下、全部を読み終えたわけではないが、「聖書」を読んだ感想をメモに残す。
最初は『旧約聖書』から。
まず、『旧約聖書』の『レビ記』において「わたしは主である」や「わたしはあなたたちの神、主である」という部分が目についた。
正直、この強調はすごいと感じた。
それくらい強調しなければならなかったということなのだろうか。
次に、『旧約聖書』の『レビ記』などを見ることで律法の細かさを直接見ることができた。
その意味で、律法は神(主)との契約なのだな、ということも。
この点、律法の細かい点は小室先生の書籍を読んでいたため知っていた。
しかし、『レビ記』などを見て、その具体的な細かさを知ることができたのは大きな収穫であった。
日本教徒がこの細かさを見てどのような感想を抱くか、それは推して知るべしである。
さらに、『士師記』・『列王記(上下)』・『歴代誌(上下)』において「主の目から見て悪とされる行為を(行い)」という表現がたくさん目についた。
この「主の目から見て悪とされる行為」というのは「異教の神を拝む行為」を指す。
その結果、古代イスラエルの民がバビロン捕囚の憂き目にあったという点はこれまでの書籍で見てきた通りである。
しかし、バビロニアのネブカドネザル大王を「我が僕」というのは・・・。
次に、『新約聖書』を見て目についたことなどを。
まず、イエス・キリストの生涯について4人の著者による記録があることを初めて知った。
当然だが、具体的にその4つを読んだのも初めてである。
それから、パウロの書簡(例えば、『ローマ人への手紙』など)についても初めて見ることができた。
小室先生の書籍で述べていたことの意味をより理解することができ、これは大きな収穫になった。
なお、私は旧約聖書の続編を読んでいる。
ここには、アレクサンダー大王以後の歴史について書かれた『マカバイ記』などが掲載されており、歴史を知るうえで非常に参考になった。
あと、漠然とした言い方になってしまうが、「聖書」の力というのを感じることができた。
以上、「聖書」に触れた感想についてメモを残してみた。
ただ、相当の分量があり、最初に読んだ部分は結構忘れてしまっている。
そのため、定期的に読み直そうかな、と考える次第である。
もちろん、分量が膨大であり、簡単に読み直せるわけではないとしても。